第九話 死者の名前を知っている
明治二十九年、六月。
死んだ人間の名前には、不思議な重さがある。
生きているうちは何度でも呼べた名が、死んだ途端、口にするだけで誰かを傷つけるものになる。
藤堂朔にとって、久世千景という名前がそうだった。
「……また来たのか」
雨上がりの午後、朔が戸を開けると、篠塚宗一郎が立っていた。
片手には薬包、もう片方には小さな風呂敷。
「診察の約束をしたでしょう」
「酒を持ってこいとは言ったが、薬を持ってこいとは言ってない」
「酒は治療に適しませんので」
「融通の利かない男だな」
宗一郎は微笑んだ。
「代わりに菓子を買ってきました」
「……子供扱いするな」
そう言いながら、朔は風呂敷を受け取った。
宗一郎は見逃さなかった。
朔が、ほんの少し嬉しそうな顔をしたことを。
*
診察を終えると、宗一郎は朔の脚に新しい包帯を巻いた。
以前より腫れは引いている。けれど、古傷の周囲に触れると、朔の呼吸がわずかに乱れた。
「痛みますか」
「……少し」
「正直になりましたね」
「うるさい」
宗一郎が包帯を留めると、朔はその手を見つめた。
白く、長い指。
戦場では何人もの兵士の傷に触れ、血に濡れていた手だ。
「……あんたは、覚えてるか」
「何をです?」
「俺が運び込まれた夜」
宗一郎の指が止まった。
「覚えています」
「俺、何か言ってたか」
「久世少尉の名前を」
朔は目を伏せた。
「……そうか」
「何度も呼んでいました」
宗一郎は静かに続けた。
「そして、置いていくな、と」
沈黙が落ちた。
窓の外では、梅雨の雲が低く垂れ込めている。
朔はしばらく黙っていたが、やがて低く笑った。
「……情けねえな」
「そうは思いません」
「俺が思うんだよ」
その声には、いつもの棘がなかった。
*
夕刻、宗一郎は朔を《花霞》へ誘った。
女将の八重は二人を見るなり、意味ありげに微笑んだ。
「まあ、篠塚先生。今日は藤堂さんとご一緒で」
「ええ。診察の帰りです」
「診察ねえ」
「何か?」
「いいえ、何も」
朔が眉をひそめる。
「……ここの女将、何でも見透かしてそうで嫌だな」
「よく言われますよ」
八重は笑い、二人の前に茶と菓子を置いた。
「今日は酒じゃないのか」
朔が不満げに呟くと、宗一郎は穏やかに答えた。
「脚の具合が落ち着いたら、少しだけ」
「約束だぞ」
「ええ」
八重は二人を眺め、ふと表情を和らげた。
「……久世さんも、そういう方でした」
朔の手が止まった。
宗一郎も顔を上げる。
「何がですか」
「約束をするのが、お上手で」
八重は窓の外へ視線を向けた。
「また来ます、って。いつも笑っておっしゃるんです」
朔は湯呑みを置いた。
「……あの人らしいな」
八重は静かに頷いた。
「ええ。本当に」
その場に、しばらく誰も言葉を落とさなかった。
*
店を出る頃には、雨が降り始めていた。
宗一郎が傘を開くと、朔は当然のように隣へ入った。
「今日は逃げないんですね」
「濡れるのが嫌なだけだ」
「そうですか」
「嬉しそうにするな」
宗一郎は笑った。
その横顔を見て、朔は胸の奥が落ち着かなくなるのを感じた。
この男は、何も知らない。
自分が戦地で何を見たのか。
誰の手を離したのか。
そして、なぜ生き残ったことを後悔しているのか。
知らないくせに、隣を歩いている。
「……篠塚」
「はい」
「久世少尉は、いい人だった」
宗一郎は歩調を緩めた。
「ええ」
「でも、いい人間から死ぬってのは、嘘だ」
朔は雨の向こうを見つめた。
「いい人間が死ぬんじゃない。いい人間に、死ぬ役目を押しつける奴がいるんだ」
宗一郎は息を呑んだ。
「……それは、どういう意味ですか」
朔は答えなかった。
代わりに、宗一郎の袖を掴んだ。
「……今は、聞くな」
指先が震えていた。
宗一郎は問いを飲み込んだ。
「わかりました」
朔が顔を上げる。
「……聞かないのか」
「君が話したくなるまで」
「医者のくせに」
「医者だからです」
朔は困ったように笑った。
「……本当に、嫌な男だな」
*
その夜、宗一郎は軍医時代の記録を開いた。
久世千景少尉。
死亡報告。
遺体未確認。
そして、当時の自分が残した覚え書き。
『二月十八日、身元不詳の負傷者一名、後送記録に記載なし』
宗一郎は、その日付を見つめた。
久世千景の戦死報告が出された翌日。
かつて清継に「確認していない」と答えた理由が、そこにあった。
記録のない負傷者。
誰が運び、どこへ送ったのか。
宗一郎は一度だけ目を閉じた。
戦地では、記録の不備など珍しくなかった。
だが、あの夜だけは違った。
診療所の外で、軍靴の音が止んだこと。
運ばれてきた担架に、血の染みた外套が掛けられていたこと。
そして、顔を確認する前に、その負傷者が別の場所へ移されたこと。
宗一郎は机に肘をつき、額を押さえた。
「……まさか」
そのとき、戸を叩く音がした。
訪ねてきたのは、白石澄だった。
「先生。先日の搬送記録について、思い出したことがあります」
宗一郎が顔を上げる。
澄は濡れた傘を畳み、静かに告げた。
「あの夜、運ばれてきた方の外套に、名前が縫い付けられていました」
「……誰の」
澄は一瞬、躊躇った。
「久世千景少尉です」
宗一郎の胸が冷えた。
「本人だったのですか」
「わかりません。お顔は見ていませんから」
澄は首を振った。
「ただ……」
「ただ?」
「その外套を着た方は、意識があったそうです」
宗一郎は立ち上がった。
「誰が確認したのです」
「担架を運んだ兵士です。その方は、何度も同じ言葉を繰り返していたと」
「……何と」
澄は目を伏せた。
「『手紙を、届けないでくれ』と」
*
同じ頃、朔は自室で眠れずにいた。
右脚が疼いている。
けれど、それ以上に胸が痛んだ。
枕元の引き出しから、古い布切れを取り出す。
血の染みた、軍服の袖章。
あの日、千景が朔の手に押しつけたものだった。
『藤堂。お前は生きろ』
その声を、今も覚えている。
『俺のことは、誰にも言うな』
朔は布を握り締めた。
「……久世少尉」
窓の外で、雨が強くなる。
「俺は、もう……」
言葉が途切れた。
生き残ることは、命令だった。
黙っていることも、命令だった。
けれど今、朔は初めて、その命令に背こうとしていた。
宗一郎の手の温もりを、思い出してしまったから。
――死者の名前を知っていることと、その死の真実を知っていることは、同じではない。




