第八話 治せない傷
人間の身体には、失ったものを忘れられない場所がある。
明治二十九年、五月。
篠塚宗一郎は、診察台の上に置かれた一本の杖を見つめていた。
持ち主は藤堂朔。二十五歳。元陸軍兵士。
そして、宗一郎が戦地から持ち帰った、数少ない後悔のひとつだった。
「……で、いつまで眺めてる」
窓際に腰掛けた朔が、不機嫌そうに尋ねた。
「君が返しに来てくれた傘より、ずいぶん傷んでいると思いまして」
「傘を返すついでだ。診察に来たわけじゃない」
「そうでしたか。では、脚を診せてください」
「人の話を聞け」
宗一郎は穏やかに微笑んだ。
朔は舌打ちしたが、帰ろうとはしなかった。
先月の雨の日から、二人は三度顔を合わせている。
一度目は傘を返しに。
二度目は「近くを通ったから」。
三度目の今日は、宗一郎が頼んでもいないのに、診療所の壊れた戸棚を直していた。
「藤堂君は器用ですね」
「兵隊は何でも自分で直すんだよ」
「では、私の寝不足も直せますか」
「一生寝てろ」
「それは困ります」
朔は呆れたように息を吐いた。
その横顔を見ながら、宗一郎は気づいていた。
この男は、優しくされることを嫌う。
けれど、誰かの役に立つことだけは拒まない。
*
診察が始まると、朔の表情から冗談が消えた。
右脚には、膝から脛にかけて深い傷痕が残っている。
骨折は癒合していたが、筋肉の拘縮と神経の損傷が、歩くたびに痛みを生んでいた。
「触れますよ」
「……勝手にしろ」
宗一郎は返事を待ってから、慎重に指を添えた。
朔の肩が強張る。
「痛みますか」
「別に」
「藤堂君」
「……少しだ」
「少し、ですね」
「その顔やめろ」
「どんな顔でしょう」
「俺が可哀想で仕方ないって顔」
宗一郎の指が止まった。
「そんなつもりはありません」
「医者は皆そう言う」
朔は窓の外へ目を逸らした。
「歩けるだけ幸運だ。生きて帰れただけありがたい。もっと酷い奴もいる。……聞き飽きた」
宗一郎はしばらく黙り、傷口から手を離した。
「私は、君の痛みを他人と比べるつもりはありません」
朔が振り向く。
「君が痛いなら、それだけで診る理由になります」
あまりにも静かな言葉だった。
朔は何か言い返そうとして、結局、口を閉じた。
*
昼過ぎ、白石澄が診療所へ顔を出した。
「先生、先日の書類ですが……あら、藤堂さん」
「どうも」
「今日は逃げずに診察を受けられたんですね」
「ここの連中、患者への敬意がないな」
澄は笑い、宗一郎に書類を渡した。
その中に、戦地から取り寄せた古い搬送記録が混じっていた。
朔の視線が一瞬だけ止まる。
宗一郎はそれを見逃さなかった。
「藤堂君?」
「……何でもない」
しかし、朔の指先は杖の握りを強く掴んでいた。
書類の端には、見慣れた地名が記されていた。
明治二十八年二月。
千景の所属していた輸送隊が、最後に確認された地域だった。
宗一郎は静かに書類を伏せた。
今ここで問い詰めるべきではない。
そう判断した自分が、医師として正しいのか、それとも臆病なだけなのか、わからなかった。
*
夕方、朔は宗一郎に誘われ、《花霞》を訪れた。
「医者が患者を酒場に連れてくるのか」
「今日はお茶です」
「つまらん男だな」
「よく言われます」
「絶対に嘘だろ」
女将の八重が笑いながら茶を運んできた。
「篠塚先生が誰かを連れていらっしゃるなんて、珍しいですね」
「そうでしょうか」
「ええ。いつもお一人で、難しい顔をしていらっしゃるから」
朔が宗一郎を見る。
「……あんたも、そんな顔するんだな」
「私だって人間ですから」
「怪しいもんだ」
八重が去ると、朔は湯呑みを両手で包んだ。
しばらくして、ぽつりと尋ねる。
「……あんたは、救えなかった奴のこと、覚えてるか」
宗一郎は答えるまでに時間がかかった。
「全員の顔を、とは言えません」
「正直だな」
「ですが、忘れられない人はいます」
朔の指が止まった。
「……久世少尉か」
宗一郎は顔を上げた。
初めて、朔の方からその名を口にした。
「なぜ、彼を?」
「戦地で一緒だった」
「それは知っています」
「じゃあ、聞くな」
朔は茶を飲み干した。
「……あの人は、馬鹿だった」
その声には、奇妙なほどの親しみがあった。
「自分が傷だらけなのに、他人の荷物ばっかり背負う。笑ってりゃ何とかなると思ってる。……本当に、馬鹿だった」
宗一郎は、黙って聞いていた。
「でもな」
朔の声が掠れた。
「あの人がいなきゃ、俺はここにいない」
窓の外で、風が暖簾を揺らした。
宗一郎はようやく理解した。
朔が生き残ったことを喜べない理由の一端を。
*
帰り道、朔の脚が突然止まった。
「……くそ」
宗一郎が振り返る。
「休みましょう」
「平気だ」
「藤堂君」
「平気だって言ってるだろ!」
朔は杖を石畳に叩きつけた。
通行人が振り向く。
朔は唇を噛み、顔を伏せた。
「……何で、俺なんだよ」
宗一郎は動かなかった。
「何で、俺だけ生きてる」
雨の匂いがした。
宗一郎はゆっくり近づき、手を差し出した。
「肩を貸しても?」
朔は答えなかった。
ただ、長い沈黙のあと、小さく頷いた。
宗一郎は彼の腕を自分の肩に回した。
思っていたより軽い身体だった。
朔の額が、宗一郎の首筋に触れる。
「……あんた、あったかいな」
「生きていますから」
「……嫌味か」
「いいえ」
宗一郎は静かに答えた。
「君もです」
朔は何も言わなかった。
けれど、その手は宗一郎の肩を強く掴んでいた。
*
その夜、宗一郎は朔を自宅まで送り届けた。
狭い部屋には、生活に必要なものだけが置かれている。
宗一郎が帰ろうとすると、朔が呼び止めた。
「……篠塚」
初めて、名前を呼ばれた。
「はい」
「俺の脚は、治るのか」
宗一郎は嘘をつかなかった。
「以前と同じには戻らないでしょう」
朔は目を伏せた。
「……そうか」
「ですが、痛みを減らすことはできます。歩き方も、少しずつ」
「慰めはいらねえ」
「慰めではありません」
宗一郎は膝をつき、朔と目線を合わせた。
「君が望むなら、私は何度でもここへ来ます」
朔の瞳が揺れた。
「……何で、そこまでする」
宗一郎は答えられなかった。
医師だから。
そう言えば簡単だった。
けれど、それだけではもう説明がつかない。
朔は小さく笑った。
「……あんたも、馬鹿だな」
宗一郎は微笑んだ。
「どうやら、そのようです」
帰り際、朔がぽつりと言った。
「……次は、茶じゃなくて酒にしろ」
宗一郎は振り返った。
「それは、お誘いですか」
「調子に乗るな」
扉が閉まる直前、朔の口元がほんの少し緩んだ。
宗一郎はその表情を、なぜか忘れられなかった。
傷は治らない。
過去も消えない。
それでも、あの男が笑うところを、もう一度見たいと思った。
それが恋の始まりだったのか、あるいは贖罪の形を変えただけなのか、宗一郎にはまだわからなかった。
ただ、ひとつだけ確かなことがある。
救いたいと思った相手に、自分の方が救われてしまうこともあるのだ。




