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第七話 帰還兵は笑わない

明治二十九年、四月。


戦争が終わっても、傷口は終戦を知らない。


篠塚宗一郎がそのことを思い知ったのは、春の雨が降る午後だった。


陸軍軍医として戦地から帰還して一年。

二十九歳になった宗一郎は、軍の仕事の傍ら、傷痍兵の診療にも携わっていた。


戦争は勝ったのだという。


街には凱旋の記憶が残り、新聞には賠償金や新しい国の未来が踊っている。

だが診療所を訪れる男たちの身体には、そんな華々しい言葉など一文字も刻まれていなかった。


あるのは、切断された指、癒着した傷、夜ごと繰り返す悪夢。


そして、誰にも見せようとしない後悔だった。


「次の方を」


宗一郎が声をかけると、看護を手伝う白石澄が困ったように眉を寄せた。


「先生、少々手強い方です」


「患者に手強いも何もありませんよ」


「先ほどから三人ほど追い返されています」


「……誰が?」


「患者さんが、先生方を」


宗一郎が顔を上げたとき、診察室の扉が開いた。


「帰る」


低い声とともに現れた青年は、杖をついていた。


痩せた身体に古びた洋装。

右脚を庇うような不自然な歩き方をしている。

整った顔立ちだったが、目つきの悪さがそれを台無しにしていた。


宗一郎は息を止めた。


「……藤堂君?」


青年の足が止まる。


「その呼び方、やめろ」


藤堂朔、二十五歳。


かつて戦地の野戦病院で、宗一郎が診察した兵士だった。


「久しぶりですね」


「俺は会いたくなかった」


「それは残念です」


宗一郎が微笑むと、朔は露骨に顔をしかめた。


「相変わらず気味の悪い笑い方だな、軍医殿」


「君も相変わらず口が悪い」


「お互い様だ」


澄が二人を見比べ、そっと扉を閉めた。


*


「脚を診せてください」


「断る」


「痛むのでしょう」


「痛まない」


「では、なぜ杖を?」


「洒落だ」


宗一郎は一度だけ瞬きをした。


「……ずいぶん不便な洒落ですね」


朔が鼻で笑う。

その笑い方を、宗一郎は覚えていた。


戦地でもそうだった。痛みに耐えきれなくなるほど、この男は人を馬鹿にしたように笑った。


宗一郎は机上の診療記録を閉じた。


「今日は診察しません」


朔が訝しげに顔を上げる。


「何だ、諦めたのか」


「君が望まないなら、無理には触れません。ただ、ここまで来た理由は聞かせてください」


沈黙が落ちた。

窓を叩く雨音だけが、二人の間を埋める。


やがて朔は、杖の握りを強く掴んだ。


「……夜になると、痛む」


「脚が?」


「ないはずの場所まで」


宗一郎の表情が変わった。


「幻肢痛のような症状かもしれません」


「名前がつけば、治るのか」


「いいえ」


宗一郎は静かに答えた。


「ですが、痛みを和らげる方法は一緒に考えられます」


朔はしばらく彼を見つめた。


「……あんた、本当に嫌な医者だな」


「よく言われます」


「嘘つけ」


「今、初めて言われました」


思わず朔の口元が緩みかけた。

しかし、その表情はすぐに消えた。


*


診察を終えた頃には、雨脚が強くなっていた。


朔は右脚に残る古傷の痛みを隠そうとしたが、立ち上がった瞬間、膝が折れた。


宗一郎が咄嗟に腕を伸ばす。


「藤堂君!」


「触るな!」


鋭い声が響いた。

宗一郎の手が止まる。


朔は壁に肩を預け、荒い息を整えた。


「……悪い」


「謝らなくて結構です」


「そういう言い方が嫌いなんだよ」


朔は顔を伏せた。


「戦地でも、あんたはそうだった。誰にでも優しくして、誰が死んでも同じ顔をしていた」


宗一郎の胸に、鈍い痛みが走った。


「……そう見えましたか」


「違うのか」


答えられなかった。


あの冬、宗一郎は幾人もの兵士を診た。


助けられた者もいた。

助けられなかった者は、それ以上にいた。


そして、久世千景という少尉について、今も説明できない記録を抱えている。


「先生」


朔が低く呼んだ。


「医者ってのは、患者が死ななきゃ満足なのか」


宗一郎はゆっくり首を振った。


「生きていてほしいと思っています」


「生き残った後のことは?」


「……」


「ほらな」


朔は笑った。

今度は、少しも楽しそうではなかった。


*


帰り際、宗一郎は傘を差し出した。


「持っていってください」


「いらない」


「濡れますよ」


「雨くらいで死なない」


「君は、どうしてそういうことばかり言うんです」


思いがけず、声が強くなった。


朔が目を見開く。

宗一郎自身も驚いていた。


患者に感情をぶつけるなど、軍医としてあるまじきことだった。


「……失礼しました」


宗一郎が頭を下げると、朔はしばらく黙っていた。

そして、傘を受け取った。


「返しに来るとは言ってないぞ」


「構いません」


「高そうだな」


「給金から引かれるわけではありませんよ」


「……馬鹿な医者」


朔は小さく呟き、雨の中へ歩き出した。

宗一郎はその背中を見送った。


杖をつくたび、右肩がわずかに沈む。

痛みを隠そうとする歩き方だった。


かつて戦地で見たときと、何も変わっていない。


*


その夜、宗一郎は古い軍医記録を開いた。


明治二十八年、二月。

久世千景少尉。

死亡報告に関する照会記録。


宗一郎は、その名前を見つめた。


一年以上前、榊原清継という将校が自分に向けた目を思い出す。


――遺体は。


あの問いに、自分は答えられなかった。

確認していないものを、確認したとは言えなかったからだ。


机の引き出しには、別の診療記録がある。


藤堂朔。

右下肢重傷。生存。


その余白に、当時の自分が書き残した一文。


『患者、搬送経路について証言を拒否』


宗一郎は指先で文字をなぞった。


あの日、朔はひどい熱に浮かされながら、何度も誰かの名前を呼んでいた。


久世少尉。


そして、もうひとつ。


「……置いていくな」


宗一郎は目を閉じた。

それが誰に向けられた言葉だったのか、今もわからない。


ただ今日の朔を見て、ひとつだけ確信したことがある。


あの青年の傷は、脚だけではない。

そして自分もまた、傷のない場所など持っていなかった。


窓の外では、春の雨が降り続いている。

宗一郎は朔に渡した傘を思い浮かべ、苦く微笑んだ。


返しに来なくてもいい。

けれど、もう一度会いたい。


その願いが医師としての責任から生まれたものではないと気づくまで、彼にはまだ、少し時間が必要だった。


――第二部、開幕。

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