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第百階層ノ異邦人  作者: 詩風音
第一章 ー底からの旅立ちー

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3/5

第零話 ―第百階層ノ異邦人 ―後編

 翌日の夜。


 食事を終えたレンは、再びナイフを眺めていた。


 炉の火はすっかり小さくなり、時折、薪の爆ぜる音だけが静かな部屋に響く。


 魔石灯も、とっくに夜を告げる赤い光へと変わっていた。


 部屋の隅が暗い。


 見たところで何も分からない。それでも、どこかに答えが隠れているような気がして、レンは金属札を何度も表に、裏に返した。


 何度繰り返しても分かることはない。


 ナイフを鞘へ戻す。


 鞘もここでは見たことがないほど上等なものに見える。


 丁寧になめされた革。


 細かな装飾が施された縫製。


 第百階層では、これを売るだけでかなりの稼ぎになるだろう。


 母は、こんな高価なものを一度も見せたことはなかった。


 病に伏したときでさえ。


 売れば、薬代にはなったはずだ。

 それどころか、滋養のつく食べ物だって買えたかもしれない。


 それでも母はこれを手放さず、最後までその存在を隠した。


 ――なぜ?


「何なんだよ」


 ぶつける相手のいない怒りを噛み殺しながら、レンは小さく呟いた。


 胸の中で、何かが少しずつ形を持ちはじめていた。


 七歳の頃に母から聞いた「空」。


 母ははっきりと見たことがないと言った。


 見たことがないはずなのに、あまりにも具体的な情景。


 そして、なぜか病に伏しても上層へ行くことを拒んだ。


 そして今、手元には、見たことも聞いたこともないナイフ、見知らぬ印。


 答えを探すように、レンは立ち上がり、棚の一番上にある古い箱を下ろした。


 母が読んでいた本が入っていた。


 薬草、茸、簡単な算術、交易記録、子供向けの物語。

 手に取るたび、まるで違う世界の本が現れる。そこには何の統一感もなかった。


 母の残した何かを拾い集めるように、レンは一冊、また一冊と本を開いた。


 何か挟まっていないか。書き込みはないか。


 夢中で頁をめくっているうちに、夜はとうに深くなっていた。


 時計塔の鐘が二十二回鳴る。


 そこでようやく、レンははっと顔を上げた。


 いつの間に、こんな時間になっていたのだろう。


 それでも、本を閉じる気にはなれなかった。


 最後の一冊。


 表紙の剥がれた古い帳面。


 中身は、家計簿のようだった。几帳面な字で、一つひとつ項目が並んでいる。


 塩。


 芋。


 薪。


 魔石。


 布。


 何年も前からの記録。


 答えを求めるように、レンは頁をめくり続けた。


 最後の頁が近づいたころ、ふと指先に違う感触が伝わった。


 一枚だけ、紙質が違う。


 白い。


 上質な紙。


 明らかに、ほかの頁とは異なっている。


 あとから挟み込まれたものだということは、一目で分かった。


 理由は分からない。


 それでも、この紙に何かがある――そんな妙な確信があった。


 レンは紙を傷めないよう、指先で慎重に引き抜いた。


 そこには、短い文章が書かれていた。


 母の字だ。


 間違いない。


『レンへ』


 その二文字を見ただけで、喉が詰まった。


 母から自分への手紙。


 知らなかった。


 指先に力が入り、紙が僅かに震えた。


『あなたがこれを見つける頃、私はもう説明できなくなっているかもしれません。』


 最初の一文で、胸が重くなる。


『だから、最初に謝っておきます。』


『私は、あなたに話していないことがたくさんあります。』


 レンの視線が止まる。


 胸の奥で鳴る心臓の音が、妙に耳についた。この先を知れば、もう後戻りできない。そんな気がして、本能が頁を閉じろと訴えている。


『でも、それはあなたを信じていなかったからではありません。』


『あなたには、あなたの人生を生きてほしかった。』


 そこから先。


 文章は途切れていた。


「……は?」


 覚悟していた何かを、肩透かしにされたような感覚。


 何もない。


 あれほど騒いでいた心臓だけが、取り残されたようにまだ速く打っていた。


「これ…だけ?」


 紙の下半分は、破り取られていた。


 まっすぐではない。


 誰かが手で裂いたような繊維が残っている。


 手掛かりがどこかへ消えてしまうような、理由のない焦燥に駆られ、レンは机の引き出しを開けた。


 ない。


 本の背を掴み、頁を下に向けて振る。


 ぱらぱら、と乾いた紙の音。


 箱を持ち上げ、そのまま勢いよくひっくり返す。


 乾いた埃が、頼りなく床へ落ちる。


 床に膝をつき這いつくばりながら、箱の下や棚との隙間にまで目を凝らす。


 何も…ない…。


 母が、自分に何かを隠していた。


 それだけは、もう間違いない。


 けれど、何を。


 なぜ。


 まるでそこだけを狙ったように、答えの直前だけが抜け落ちている。


「説明できないって……」


 誰に?


 自分に?


 何を?


 母は、自分が死ぬことを予想して書いたのか。


 それとも、もっとずっと前から?


 何か見落としているのではないかと、レンは手紙を食い入るように見つめた。


 母の文字が、急に遠いものに感じられた。


 見慣れた字のはずなのに。


 それを書いた母だけが、自分の知らない場所に立っている。


 そんな錯覚さえ覚えた。


     *


 翌朝。


 気づけば、レンは中央区の記録所へ向かっていた。


 灰都の中では珍しく、壁を白灰色の石で作った建物だ。


 扉には鉄板が張られ、入口には槍を持った警備兵がいる。


 中へ入る。


 石床。


 木製の受付台。


 棚。


 棚。


 棚。


 大量の木板と帳面。


 第百階層では、これほど多くの記録が一か所に集まる場所は他にない。


「用件は?」


 受付に座る女が顔を上げる。


 三十代ほどにみえる。


 髪は短く切り揃えられ、濃紺の役人服を着ている。


 服の襟は少し擦れているが、市場の人間のものより明らかに質が良い。


「人を調べたい」


「誰?」


「エレナ・アルヴェール」


 女は手を止めた。


「関係は?」


「母親」


「死亡記録?」


「いや」


「出生?」


「違う」


「じゃあ何?」


 レンは少し迷った。


「……全部」


 女が眉を寄せ、冷たく返す。


「全部という記録はないわ」


「ここにある母さんの記録を見たい」


「理由は?」


「必要なんだ」


「それじゃ通らない」


「じゃあ何て言えばいい?」


「相続なら相続。借金なら借金。住居履歴なら住居履歴」


「住居履歴」


 レンは即答した。


 女の目がすっと細くなる。


「何年前まで?」


「生まれてから全部」


「ずいぶん古いわね」


「頼む」


「料金、銅貨二枚」


 レンは机へ置いた。


 女はそれを引き寄せ、奥の棚へと向かう。


 レンはすることもなく、何となく辺りを見回した。


 役人たちが木板を運び、人が慌ただしく出入りしている。


 しばらくその様子を眺めているうちに、ふと壁に掛けられた灰都の簡易地図が目に入った。


 中央区。


 採掘区。


 農茸区。


 水路区。


 北端。


 レンは暇を持て余すように、一つずつ視線で辿っていく。


 そして、そのさらに向こう。


 昇層門。


 地図は、そこで終わっていた。


 女が戻ってくる。


 手には薄い帳面が握られている。


「エレナ・アルヴェール。出生、第百階層灰都南区」


「うん」


「住居移動、三回。全部灰都内」


 レンは息を吐いた。安心したはずなのに、胸の奥には妙な物足りなさが残っている。


 やはり。


 母はずっと第百階層にいた。


「最後が現在の家?」


「そう」


「それ以前は?」


「南区。さらにその前は――」


 女が頁をめくる。途中で何かに気づいたように、首を傾げた。


「おかしいわね」


「何が?」


「幼少期の記録が薄い」


「どういう意味?」


「出生記録はある。でも七歳から十六歳まで、食料配給の記録がない」


「何がおかしい?」


「子供なら普通はある」


 女がさらに帳面を確認する。


「九年分、完全に空白」


「なんでないんだ?」


「分からない」


「他の街にいたとかは?」


「第百階層内で移動したなら、転居記録が残るはず」


「じゃあ……」


 レンの口が止まった。


 聞くのが怖いが。

 けれど同時に、ずっと探していた何かに触れられるかもしれないという期待が、わずかに胸を高鳴らせた。


「上?」


 女が顔を上げた。


 そして鼻で笑った。


「まさか」


「どうして?」


「十歳前後の子供を上へ連れて行く物好きがどこにいるのよ」


「でも記録が――」


「古い帳面なんて欠けることもある。火事もあったし、虫害もあった。あなたのお母さんの子供時代なんて、何十年前の話?」


 それで説明はつく。


 記録がない。だから上へ行った。


 そんな推測は飛躍しすぎている。


「そう…だよな」


「他には?」


「……いや」


 レンが帳面を返そうとした。


 そのとき。


 一枚の紙が帳面の隙間から滑り落ちた。


 女が拾って紙を広げる。


「十二歳。所在確認不能。十五歳、再登録」


 レンは顔を上げた。


「再登録?」


「一度、配給台帳から除籍されたみたいね」


「死んだことになってた?」


「違う。失踪扱い」


「失踪?」


「そのあと戻ってきてる」


 レンは言葉が出なかった。


 母は話さなかった。


 そんなこと、一度も。


「どこに行ってたか分からない?」


「わからないわね」


「他に記録は?」


「個別の失踪調査記録が残っていれば、地下書庫かしら。でも閲覧許可が必要よ」


「どうすれば見られる?」


「親族なら申請できる。ただし審査」


「何日?」


「早くて三日」


「申請する」


 レンは間髪入れずに答えた。


 あまりの即答に、女は一瞬目を丸くし、それから少し呆れたように息を吐いた。


「随分、熱心ね」


「母さんが死んだから」


 レンは自分でも驚くほど平坦な声が耳に届いた。


「もう本人には聞けない」


 女の表情が労わるかのように和らいだ。


「……そう」


 手渡された申請書を受け取る。


 紙ではなく、薄い木板。


 名前、目的、続柄、項目が連なっている。


 レンは炭を握った。


 そしてハッとする。


 自分は今、何をしようとしている?


 脳裏には母との記憶がよみがえる。


 七歳のときの会話。


 病床での拒絶。


 隠されたナイフ。


 破られた手紙。


 頭の中で重なる。


 それでも手は止めることはできなかった。


     *


 記録所を出たあと、北へ足を向けた。


 昇層門を見たかった。


 子供の頃、一度見ただけの場所。


 中央区を抜ける。


 建物は次第にまばらになり、代わりに草木が目立つようになっていった。


 行き交う人々の姿も変わる。


 槍。

 弓。

 短剣。


 武器を携えた者が、目に見えて増えていた。


 魔物の出る区域が近いのだ。


 壁際には、三人一組の警備兵が立っている。


 それでも足は止まらない。

 考えるより先に、身体だけが前へ進んでいく。


 やがて、道の先を塞ぐように巨大な影が現れた。


 昇層門。


 その姿を目にした瞬間、レンはようやく足を止めた。

 記憶よりも遥かに大きかった。


 岩壁全体へ埋め込まれるように造られた、黒い扉。


 高さは三十メートルを越えているだろう。


 幅も広い。


 表面には幾何学的な溝が走り、その一部にはほんのりと淡い光が流れている。


 魔法陣。


 そう聞いたことがある。


 だがレンには、それが魔法陣というより、何か別の機構にも見えた。


 門の中央。


 巨大な文字。


 ――第九十九階層。


 その下には別の文字列がある。


 読めない。


 古代文字だと言われている。


「止まれ」


 槍を持った兵士が手を上げた。


「通行証は?」


「ない」


「ならここから先は駄目だ」


「見るだけ」


「見たら帰れ」


「門の向こうって、どうなってる?」


 兵士は怪訝そうにレンを見る。


「階段だ」


「どれくらい?」


「知らん」


「行ったことない?」


「俺は第百階層勤務だ」


「上から来た人は?」


「いなくはない」


「何て言ってる?」


「何が」


「第九十九階層」


 兵士は厄介事でも見るように眺め、ため息をついた。


「お前、何が聞きたいんだ?」


 レンは門を見上げた。


「上に行きたい」


「やめとけ」


 即答だった。


「何で?」


 兵士は一度目を閉じ、うんざりしたように鼻から息を吐いた。

 そこには苛立ちというより、同じやり取りを何度も繰り返してきた者の諦めが滲んでいた。


「お前みたいな奴は大抵そう言う」


「大抵?」


「若い奴はな。ここじゃないどこかなら、もっと良い暮らしができると思ってる」


 兵士が槍を持ち直す。


「九十九に行けば、次は九十八に行きたくなる。そこで満足しなきゃ九十七。その次。その次」


「悪い?」


「悪くはない」


 兵士は門の数字を一瞥し、改めてレンを見る。


「ただ、戻ってきた奴を見たことがない」


 レンは兵士を見る。


「死ぬってこと?」


「知らん」


「じゃあ何で?」


「上へ行った奴は上に残る。それだけだろ」


 その説明は合理的だった。


 第百階層より上が豊かなら。


 戻る理由がない。


「家族がいても?」


「だから普通は行かない」


 兵士が門から視線を外す。


「生まれたところで生きる。そうすりゃ面倒がない」


 レンは返事をしなかった。


 その言葉を、何度聞いただろう。


 生まれた場所で。


 与えられた仕事をして。


 見える範囲で生きる。


 それは間違いではない。


 第百階層にも笑う人はいる。


 恋をする人もいる。


 家族を作る人もいる。


 市場では毎日のように喧嘩が起き。


 子供が楽しそうな声をあげながら走り回り。


 食事の匂いがして。


 祭りもある。


 ここで幸せに生きることはできる。


 でも。


 レンはもう知ってしまった。


 第九十九階層から来た男の服。


 母の隠していたナイフ。


 空白の九年間。


 母が話した空。


 そして。


 あの手紙。


『私は、あなたに話していないことがたくさんあります。』


 レンは門を見上げた。


 あの向こうへ行けば、何かが分かる。


 そう思った。


 証拠はない。


 母が上へ行った証拠など一つもない。


 けれど。


 母が知らないはずのものを知っていた理由。


 母の子供時代の空白。


 異質な装備。


 全部が、ほんの僅かに同じ方向を向いているように感じる。


 上。


 レンは息を吐いた。


 その呼気が、第百階層の冷たい空気に溶ける。


「どうしたら通れる?」


 兵士が眉を上げる。


「本気か?」


「方法を聞いてる」


「交易組合の護衛になる。討伐証を集める。役所から移住許可を取る。金があるなら商人枠を買う」


「一番早いのは?」


「討伐証」


「何を倒す?」


「北坑道の岩喰い三体。今なら討伐札が出てる」


「一人で?」


「死にたいならな」


 兵士が顎で南を指す。


「狩人組合へ行け。人数を集めてる」


 レンは踵を返した。


「おい」


 呼び止められる。


 振り返る。


「何?」


 兵士がレンをじっと見ていた。


「何でそこまで行きたい?」


 レンは少し考えた。


 母の秘密を知りたい。


 それは確かだ。


 けれど、それだけではない。


 もっと前から。


 母が死ぬよりずっと前から。


 幼い頃から。


 天井のない場所を想像するたび、胸の奥がむず痒くなるような感覚があった。


 何があるのか見たい。


 自分の目で確かめたい。


 第百階層しか知らないまま死ぬ。


 そのことを考えると、どうしても納得できなかった。


「地上が見たい」


 兵士の顔から一瞬だけ表情が消る。


 何かを思い出すような目だった。


 しかし、すぐに苦笑へ変わる。


「第九十九階層に地上なんかないぞ」


「知ってる」


「第一階層の先だって、ただの昔話かもしれん」


「それも知ってる」


「だったら――」


「だから、確かめに行く」


 兵士はこれ以上言っても無駄だと悟ったのか口を閉じた。


 レンは門を見る。


「ないなら、ないって自分の目で確かめたい」


 そしてもう一つ。


 心の中で付け足す。


 母さんが、何を隠していたのかも。


     *


 その日の夜。


 レンは家中の荷物を広げていた。


 持っていくもの。


 置いていくもの。


 水袋。


 乾燥茸。


 根芋。


 火打ち石。


 縄。


 布。


 簡単な薬。


 母のナイフ。


 金属札。


 破れた手紙。


 それらを並べる。


 狩人組合へは帰りに寄った。


 討伐隊への参加を申し込んだ。


 三日後。


 北坑道。


 岩喰い三体。


 討伐に成功すれば、通行資格の一部になる。


 それだけでは足りない。


 だが最初の一歩にはなる。


 レンは部屋を見回した。


 ここで十七年生きてきた。


 壁の傷。


 柱には背の高さを測った線。


 子供の頃に倒して折れた椅子の欠け。


 母が鍋を焦がして黒くなった竈の縁。


 全部知っている。


 これまで、この家が世界だった。


 この街が世界だった。


 第百階層が世界だった。


 でも。


 世界には、第九十九階層がある。


 その上には第九十八。


 第九十七。


 もっと先。


 第一階層。


 そして。


 階層ではない場所。


「空……」


 レンは天井を見る。


 黒い石。


 いつもの天井。


 母は言った。


 青いのだと。


 ずっと遠くまで続いているのだと。


 触れられないのだと。


 見れば分かるのだと。


 その言葉が、今になって妙に引っかかる。


 見たことがない人間が、どうしてあんな言い方をしたのか。


 レンは母の手紙を折り、胸元の内ポケットへしまった。


 ナイフを腰につける。


 鏡はない。


 窓代わりの磨いた金属板に、自分の姿がぼんやり映った。


 黒髪。


 暗い瞳。


 煤けた服。


 第百階層の少年。


 どこから見ても、ただの下層民だ。


「母さん」


 声に出す。


 家の中に響く。


「俺、行くよ」


 返事はない。


「止める?」


 当然、何も返ってこない。


「……止めそうだな」


 少し笑った。


 病床の母を思い出す。


 上へ行こうと言ったとき。


 あのときの母は、なぜあんなに拒んだのだろう。


 怖かったから?


 自分が危険な目に遭うから?


 それとも…


 何か別に理由があったのか。


 レンには分からない。


 だからこそ、確かめたかった。


 母が見ていたもの。


 母が隠したもの。


 自分の知らない世界。


 自分の世界を確かめるように家の外へ出る。


 第百階層の夜は足元が見えないほどに暗い。


 魔石灯は薄く赤い光を発している。


 路地には人影が少ない。


 遠くで水路の流れる音が聞こえてくる。


 どこかの家からは、赤子の泣き声がかすかに漏れてきた。


 別の家からは夫婦の笑い声が聞こえてくる。


 茸を焼く匂い。


 採掘場からの振動が、地面を通して鈍く身体に伝わってくる。


 今まで何千回も聞いてきた音。


 何千回も嗅いだ匂い。


 ただ、今日この時だけは、少しだけ何かが違って感じられた。


 レンは北を向いた。


 あの門の向こうには、そのさらに先には、一体何が待っているのだろう?


 足が自然に一歩、また一歩と前へ出る。


 まだ旅立ちではない。


 門を越えてもいない。


 討伐も終えていない。


 それでも。


 その一歩を踏み出した瞬間から、レンにとって第百階層は「世界」ではなくなってしまう。


 世界を構成するただの一部になる。


 そして少年はまだ知らない。


 自分がこれから辿る道を。


 ずっと昔。


 同じように北を見上げた者がいたことを。


 その者が何を見て。


 何を失い。


 何を得て。


 何を隠し。


 そして、なぜこの第百階層へ居たのかを。


 レンは何も知らない。


 ただ一つ。


 確かなことがある。


 彼は、見たいと思った。


 母が語った、天井のない場所を。


 誰も見たことがないと言うのならなおさら。


 自分の目で、自分の足で、その新たな世界を。

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