第零話 ー第百階層ノ異邦人ー 前編
第百階層には、朝がない。
あるのは、"朝"と呼ばれる時間だけだった。
岩盤をくり抜いて造られた居住区の天井には、太い鉄製の支柱が何本も渡されている。その支柱から吊り下げられた魔石灯が、決められた時刻になると一斉に白い光を放ち始める。夜の間は火種ほどの小さな赤い明かりしか残さないそれが少しずつ輝きを増し、人々はその変化を見て一日の始まりを知る。
けれど、どれほど明るくなっても天井は天井だった。
見上げれば、煤で黒ずんだ岩肌がある。
その向こうに何があるのかを知る者はいない。
少なくとも、第百階層に住む人間のほとんどは、知ろうともしなかった。
湿った石造りの路地を、一人の少年が歩いていた。
年齢は十七ほど。少し長めの黒髪は自分で切っているため、耳の周りだけ不揃いに跳ねている。細身ではあるものの、肩や前腕には荷運びでついた筋肉があり、右手の親指には新しい擦り傷が一本走っていた。
煤けた灰色の上着は袖口がほつれている。麻布を重ねただけのズボンには膝当てが縫いつけられ、靴は革ではなく、魔獣皮と布を何度も補修したものだった。
少年――レンは、左肩に麻袋を担ぎながら、路地を曲がった。
通りは、三人大人が並べば猫一匹通れないほどの幅だ。
両側には、粗く切り出した黒灰色の石を積んだ家々が並んでいる。窓は小さく、ガラスが入っている家はほとんどない。木枠に油紙を張ったものか、薄く削った魔獣の角をはめ込んだものが使われている。
家々の隙間から、煮炊きの煙が細く立ち上っていた。
焦げた根菜の匂い。
湿った木材。
皮をなめす薬品の刺激臭。
そして、鼻につく地下水路特有の硫黄臭。
それらが混ざった空気は、第百階層に生まれた者にとっては、日常の匂いだ。
「レン!」
背後から声が飛んできた。
振り返ると、荷車の脇で男がこちらを向いて片腕を上げている。
五十歳を越えているだろう。日に焼けることのない地下生活のせいで肌は黄白く、額から頭頂部にかけて髪が薄い。革の前掛けには黒い油染みが幾つもついていた。
「それ、こっちだ」
「分かってる」
レンは麻袋を担ぎ直し、荷車へ向かった。
中身は干した黒根茸だった。
第百階層で多く栽培される、掌ほどの大きさの茸である。湿気と僅かな魔力さえあれば育ち、塩を使わずとも長期間保存できる。
噛むほど染み出す渋い苦味、蒸れた土と古い木材を混ぜたような匂い。
だが、この階層では貴重な食料だった。
袋を荷台へ載せると、乾燥した茸同士が擦れて、かさかさと音を立てた。
袋はしっかり縛られているのに、それでも中からは食欲をそそるとは言い難い独特の匂いが染み出している。
「十五袋目」
男が木板に炭で線を引く。
「今日はこれで終わり?」
「いや。北倉庫からあと四つ来る」
「また?」
「嫌なら上に行くか?」
男が笑った。
レンは眉を僅かに上げる。
第百階層ではよく使われる冗談だった。
仕事が嫌なら上へ行け。
飯が不味いなら上へ行け。
この街が嫌なら上へ行け。
要するに――無理を言うな、という意味だ。
この世界には百の階層がある。
少なくとも、レンはそう教えられて育った。
一番上に第一階層。
一番下に第百階層。
そしてレンたちがいるのは、その最下層だった。
階層と階層の間には巨大な昇層門があり、それを越えれば第九十九階層へ行ける。
理屈の上では。
現実には、ほとんど誰も行かない。
門を開くには許可が必要だった。
許可を得るためには、魔物の討伐証明や、交易組合からの推薦、あるいは役人からの特別な通行証が必要になる。
それ以前に、第百階層の住民の大多数は、上へ行こうと考えない。
生まれた階層で働き。
結婚し。
子を育て。
そして死ぬ。
それが普通だった。
レンは荷台に腰を預け、通りの奥を見た。
魔石灯の光が届かないところでは、路地は紫がかった闇に沈んでいる。
その向こうには市場があり、さらに進めば第百階層最大の街――灰都グラヴァの中央区へ出る。
そして中央区のさらに北。
崖のようにそびえる巨大な岩壁の向こう側に、昇層門がある。
子供の頃、一度だけ見たことがあった。
高さは家十軒分以上。
黒い金属で造られた、巨大な扉。
その表面には見たことのない文字と、ひとつだけ誰でも読める数字が刻まれていた。
九十九。
レンは無意識に、北の方角へ顔を向けていた。
「また見てるのか」
男が言った。
「何を?」
「門の方だよ」
「見えないだろ」
「見えなくても、お前はいつもそっちを見る」
レンは男を一瞥し、余計な思考を断ち切るように無言で首を横に振る。
そして、ひとつ息を吐くと、荷台の縁へ手を置いた。
ざらつき、ささくれだった木の感触が掌に残る。
「エレナさんに似たな」
男が何気なく呟くように言った。
レンが指を止め、わずかに眉根を寄せて男へ視線を向ける。
「どこが」
「じっとしてられないところだ」
「母さんは、ずっとここにいた」
「そういう意味じゃねえよ」
男は愉快そうに目を細めると、炭を耳に引っ掛けた。
「お前の母親も、何か気になることがあると、納得するまで調べる人だった。茸の栽培床に虫が出たときなんて、夜通し這いつくばって――」
その先は聞かなくても知っている。
レンの脳裏に幼い頃の記憶が、湿った石壁の匂いと一緒に蘇った。
*
「母さん」
レンは七歳だった。
小さな家の床に敷かれた古い布の上で、レンは肘をつき、腹ばいになっていた。
目の前には、一冊の本が開かれている。
第百階層では、本は貴重だ。
紙そのものが高価で、一枚買えば一家の一日分の食費に届くほどだと言われる。
庶民が使うのは、木板か薄い石板がほとんどで、紙に文字を書けるのは役所や商人、あるいは裕福な家庭に限られていた。
無論、レンが読んでいるその本も、紙製ではない。
薄く削った白茸の皮を乾かして作った頁を、魔獣皮の紐で束ねたもので、一番上の頁には生物図鑑と書かれている。
その図鑑は、第百階層に生息する生物の絵が、一頁に一種ずつ大きく描かれていた。文字はその傍らに十文字ほど添えられているだけで、ほとんど絵を見るためのような簡素なものだった。
「母さん」
図鑑に視線を落としたまま呼ぶ。しかし、返事はない。
小さく息をついて図鑑から顔を上げ、再び呼びかける。
「母さん」
「聞こえてるわよ」
台所から、少し笑ったような声が返ってきた。
レンの母、エレナは鍋を火から下ろした。
その髪はレンと同じ黒髪だった。
けれどレンの髪よりも柔らかく、肩より少し下まで伸びたそれを、普段は革紐で緩くまとめていた。
肌はこの階層の人間らしく白い。
瞳は淡く青みがかった灰色だった。
明るい場所では銀色に近く見え、暗い場所では岩壁のような濃い色になる。
細身で、決して大柄ではない。
それでも歩くときの姿勢が妙にまっすぐで、重い荷物を持つことにも慣れていた。
当時のレンは、それを母親なら誰でもそうなのだと思っていた。
「何?」
「地上って何?」
皿によそいかけたエレナの手が、ふと止まった。
その時間は、瞬きをする間もないほど短かった。
もし今のレンがその場にいれば、容易く気づいただろう。
けれど、まだ七歳の少年には、それに気づけるはずもなかった。
「どこで、その言葉を聞いたの?」
「ハドおじさん」
「あの人は……」
エレナはあきれたように『もう…』とため息をつき、薄いスープの入った皿を木の台へ置いた。
「何て言ってたの?」
「昔の人は、地上から来たんだって」
「そう…」
「地上って、一階層?」
「違うわ」
間髪入れず、短く断定的な答えが返ってくる。
あまりにも迷いのない即答に、レンの瞳に好奇の光が宿る。
「じゃあ、どこ?」
先程とは対照的に、エレナは一瞬黙る。
そして皿から薄く細い湯気が立つのを眺めるように視線を落す。
「ずっと、ずっと遠いところよ」
「どのくらい遠いの?」
「そうね……きっと、とてもとても長い旅になるんじゃないかしら…」
母はどこか遠い場所を思い浮かべるように目を細め、静かに笑った。
「母さんは行ったことある?」
母は微笑んだまま、『ふふっ』と、笑ったのか息を漏らしたのか分からないような小さな音を返し、台所へ戻っていった。
その含みのある笑い方を、レンは今でも覚えている。
台所へ戻る母の背中に向かって問いを投げかけながら、机へと移動する。
「地上には何があるの?」
「どうして私に聞くの?」
「母さん、何でも知ってるから」
「それは買いかぶりすぎね」
エレナは椅子を引き、レンの隣へ腰を下ろした。
薄いスープには茸と小さな芋が浮いている。
僅かに塩の味がする。
肉はない。
それでも当時のレンにとっては、母と二人で食べる食事なら十分だった。
「昔の話ではね」
エレナがゆっくりと話し始める。
「地上には、天井がないんですって」
レンはスープを口へ運びかけた手を止め、顔を上げた。
「天井がない?」
「うん」
「じゃあ、岩が落ちてこないの?」
エレナは一瞬目を見開き、それから可笑しそうに口元を緩めた。
「たぶんね」
「どうやって?」
「分からない」
「変なの」
「そうね」
「じゃあ、上には何があるの?」
母の顔が、ゆっくりと天井を向いた。
煤で黒くなった石材。
垂れ下がった乾燥茸。
魔石灯。
いつもの景色だ。
しかしエレナは、天井を超えたその先に何か別のものを見ているようだった。
「空」
「そら?」
「空」
レンは初めて聞く響きを口の中で転がした。
「どんなもの?」
「青いの」
「青?」
「すごく大きくて、ずっと遠くまで続いてる」
レンは眉を寄せた。
想像できない。
第百階層で青いものは少なかった。
鉱石。
一部の茸。
毒を持つ洞窟蜥蜴の腹。
けれど、それらが「ずっと遠くまで続く」姿を考えようとしても、頭の中では青い岩壁にしかならなかった。
「触れる?」
「触れない」
「じゃあ、天井と同じじゃん」
「違うわよ」
「何が?」
エレナは眉を下げて少し困った顔をした。
そして、自分の胸元を指先で小さく二度叩き、微笑みながら言った。
「見たら分かる」
レンはすぐに聞き返した。
「母さん、見たことあるの?」
その瞬間。
エレナの表情から、笑みが消えた。
ほんの一呼吸ほど。
次には、いつもの穏やかな母親の顔に戻っていた。
「ないわ」
そう答えた。
少なくとも、そのときのレンは信じた。
「じゃあ、どうして分かるの?」
「本で読んだの」
「どの本?」
「さあ、どの本だったかしら」
「見たい!」
「困った子ね」
エレナはレンの頭をやさしく撫でた。
「いつか地上に行ってみたい?」
「行きたい!」
「どうして?」
「見たいもん!」
幼いレンにとって、それ以上の理由はなかった。
「空も見たい!天井がないところも見たい! それに、第一階層の向こうにあるんでしょ?」
「誰がそう言ったの?」
「みんな」
「みんな、ね」
母の手が止まった。
黒い髪を撫でていた指が、そのままレンの後頭部に触れている。
「レン」
「なに?」
「約束して」
「何を?」
エレナは何かを言おうとして、一度口を閉じた。
唇が僅かに強く結ばれる。
それから声の調子を変えた。
「危ないところには行かないこと」
「行かないよ」
「知らない人についていかない」
「子供じゃないよ」
「子供でしょ」
レンは頬を膨らませた。
エレナが笑う。
結局、その日、母は「上へ行くな」とは言わなかった。
ただ最後に、こう言った。
「地上を見たいと思うことは、悪いことじゃないわ」
そして少し間を空けて。
「でも――見たいものが、本当に見たいものと同じとは限らない」
七歳のレンには、その意味は分からなかった。
ただ、母の横顔を見ていると、それ以上聞く気にはなれなかった。
*
「レン!」
荷車の男の声で、現実へ引き戻された。
レンは顔を上げる。
「何?」
「何じゃねえよ。北倉庫」
「ああ」
「四袋だ」
「分かった」
男が怪訝そうにレンを見る。
「大丈夫か?」
「何が?」
「最近、ぼんやりしてる」
「寝不足」
「ちゃんと食ってるか?」
「食ってる」
嘘だった。
食べていないわけではない。
ただ、食事を用意するのが面倒になった。
一人分の食事というものは、どうにも作りにくい。
二人分なら、余っても翌日に回せた。
一人分を作ろうとすると、芋を半分だけ切るか、一個全部使って二食同じものを食べるかになる。
エレナが死んで、二か月が経っていた。
病気だった。
始めは、時折咳き込む程度だった。少し長引く風邪――そのくらいにしか思っていなかった。
第百階層では珍しくない。
採掘場の粉塵。
重く淀んだ湿気。
茸の胞子。
魔石を削る際に出る細かな灰。
呼吸器を悪くする人間は少なくない。
だからエレナも、最初は気にしていなかった。
だが、予想に反して咳は一か月を過ぎても治まらなかった。むしろ、日を追うごとに悪くなっているように思えた。
やがて熱を出し、ついには血を吐くほどになった。
第百階層にも医者はいる。
正確には「治療師」と呼ばれる人間が三人。
薬草を扱う者が二人。
簡単な治癒魔法を使える者が一人。
だが、その治癒魔法も、骨折や切り傷をようやく治せる程度のものだった。
上の階層に行けば、もっと良い薬があるらしい。
そんな話を耳にした。
第九十九階層には、錬金術師がいる。
第九十八階層には、本格的な治癒院がある。
さらに上には、切り割かれた腹を閉じるほど高度な治療魔法を使う者さえいる。
だが、それは全部、噂。
そして噂では、何の役にも立たない。
門を越える者がいないからだ。
何よりエレナ自身が拒んだ。
「行かなくていい」
弱りきった体から出たとは思えないほど、その声は力強く、はっきりとしていた。
堪えきれない怒りが込み上げ、レンは生まれて初めて母に声を荒らげた。
上に行けば助かるかもしれない。
だったら行くべきだ。
門番に頼んでもいい。
組合に頼んでもいい。
盗んだ通行証でも何でも。
そう言ったレンに、エレナはただ首を振った。
「駄目よ」
「なんで!」
「駄目なの」
「理由になってない!」
「レン」
「死にたいのかよ!」
口にした瞬間、後悔した。
母は何も言わなかった。
ただ、痩せてふるえる指で毛布を少し握った。
あの時の表情が、今も脳裏に焼きついている。
怒ってはいなかった。
悲しんでもいなかった。
まるで――恐れているようだった。
死ぬことではない、別の何かを。
*
北倉庫から四つの袋を運び終えた頃、中央の魔石灯は最も明るい時間に入っていた。
第百階層では、それを正午と呼ぶ。
実際に何を基準に「正午」が決められているのか、レンは知らない。
魔石灯を管理する時計塔が鳴らす鐘。
それが六回鳴れば朝。
十二回鳴れば昼。
十八回で夕刻。
二十四回で夜。
ただそれだけだった。
仕事を終えたレンは、乾燥茸二掴みと銅貨三枚を受け取り、市場へ向かった。
市場は灰都の中でも比較的広い空間にある。
巨大な鍾乳洞を削り広げたような場所で、中央には岩柱が何本も残されている。店はその柱と柱の間に木板を渡し、布を張って作られていた。
「根芋! 三個で銅貨一枚!」
「洞鼠の肉だ! 今朝捕れたばかりだぞ!」
「煤油! 煤油あるよ!」
「針の研ぎ直し!」
声が飛び交う。
人々が着ているものは、どれも似ていた。
麻布や魔獣の皮を身にまとっただけの、質素なものだった。
色合いも灰色や茶色、黒など、素材本来の色ばかりだ。
それもそのはず、染料は非常に高価で、庶民が気軽に手を出せるような代物ではない。
綺麗に染められた赤や青の服を着ているのは、商人か役人。
あるいは上層から来たのであろう人間だけだ。
レンはふと、通りの向こうで立ち止まった。
一人の男が歩いている。
見たことのない服だった。
深緑色の外套。
縫い目は細かく繊細だ。
裾には泥がついているが、布そのものにはほつれがない。
腰には革製の鞄。
靴も厚い革で作られ、金属の留め具がついている。
その隣では、小柄な女性が書類らしき紙束を抱えていた。
紙。
それも何十枚も。
周囲の人間が遠巻きに見ている。
「上から来た商人らしいぞ」
近くの店主が、客へ囁く声が聞こえる。
「九十九?」
「たぶんな」
レンの視線は自然と男を追った。
九十九。
たった一つ上。
それだけなのに。
あの男の服も。
靴も。
鞄も。
紙も。
第百階層のものとは違う。
レンは自分の服を見る。
何度も母の手で繕われた、ところどころ不格好に歪んだ服。
一部だけ布の色が違う。
急に、それがひどく狭い世界の証拠のように見えた。
「兄ちゃん」
店主が呼びかけてきた。
「買わないなら退いてくれ」
「あ、悪い」
レンは通路を空けた。
市場を抜けた先には、中央広場がある。
広場、といっても石畳で綺麗に舗装されたものではない。
地面を平らに削り、砂を撒いて固めただけの簡素なものだ。
中央には井戸があり、朝夕には水を汲む人間が行列を作る。
その脇には、小さな石碑が立っていた。
灰都で生まれた者。
死んだ者。
事故で亡くなった採掘師。
魔物に殺された警備兵。
病気で死んだ住民。
一定の金額を払えば、名前を刻んでもらえる。
そこにはエレナの名前も刻まれている。
レンは立ち止まって石碑を見る。
石碑の下の方。
まだ削り跡が新しく見える。
――エレナ・アルヴェール。
その下に、生年と没年が刻まれている。
レンは触らなかった。いや、触れなかった。
触ると、本当にそこに母がいるような気がして嫌だったからだ。
そこに母はいない。ただ、あるのは冷たい一つの石だけだ。
遺体は灰都の外れの共同墓地にある。そういう決まりだ。
名前だけが、街の真ん中に残っている。その歪さが、母の死を余計に現実離れしたものに思わせた。
「お母さんは、もうここにはいないんだよ」
あの葬儀の日、近所の老婆は子供に言い聞かせるように言った。
だから前を向きなさい、と。
悲しんでいたらお母さんが悲しむよ、 と。
レンには、その言葉が嫌いだった。
いないことくらい分かっている。
分かっているから困っているのだ。
家に帰っても、扉を開ける音を聞いてくれる人はいない。
おかえり、と言ってくれる人はいない。
飯を焦がしても笑う人はいない。
隣の部屋から聞こえる咳で、夜中に目を覚ますこともない。
母がいないという事実は、毎日のように形を変えて現れる。
レンは石碑に背を向け、逃げるようにその場を後にした。
*
家へ戻る頃には、夕刻の気配が辺りに滲み始めていた。
灰都の外れ。
採掘場へ向かう道を一本それた先の、二人で暮らすにはちょうどいい、小さく古びた家だ。
扉を開けると同時に冷えた空気が流れ出てくる。
誰もいないシンとした部屋。
「ただいま」
口から流れるように出た言葉に、レンは舌打ちした。
静まり返った家の奥から、返事が返ってくることはない。
少し苛立ったまま、麻袋を壁際へ置く。
棚から火打ち石を取り、竈に火をつける。
乾燥茸。
根芋。
少量の塩。
乱雑に鍋に投げ込む。
同じ材料のはずなのに、母が作ったものとは味が違う。
レンの作ったスープは、舌に苦みが残る。それでも、腹を満たすためだと割り切り、胃へ流し込んだ。
向かい側には、空の椅子。
その背には、母が愛用していた薄手の肩掛けが、まだ掛かっている。ところどころを端切れで繕った、古びたものだ。
使うことなど、もうない。それでも捨てることだけはできなかった。
遺品の整理も途中で止まっている。
奥の部屋には、母が使っていた箱が三つある。
繕った跡の見られる服。
ところどころ欠けのある道具。
ボロボロでやぶれかけている本。
何度も、何度も、片付けようとした。
けれど、蓋を開け、中を見るたびに手が止まる。
気づけば立ち上がっていた。そして、そのまま奥の部屋へ向かう。
その手には魔石灯を一つ握られている。
淡い光が狭い部屋を照らしだす。
誰も眠らなくなり、うっすらと埃が積もっている寝台。
あの日のまま、時が止まったような棚。
そして、三つの木箱。
母が寝ていた場所には、今も薄い毛布が畳んで置いてある。
レンは一番小さな箱を引き寄せた。
蓋には大小問わず傷が多い。
昔から家にあったものだ。
固く結ばれた革紐を解く。
中には母の衣類が入っている。
破れと解れのある灰色の上着。
長く足首まですっぽりと隠せそうな黒いスカート。
魔獣皮で作られた厚手の靴下。
どれも第百階層では普通のものだ。
それらを一枚ずつゆっくりと取り出していく。
箱の中身をすべて出した。残っているのは、むき出しの木の底だけだ。
「……これで…終わりか」
少し拍子抜けした。もっと何か、特別ななにかが残されているような気がしていた。
蓋を閉じようとして、ふと指が止まる。
違和感の正体を探るように、箱の底板へ目を凝らした。
角だけほんの僅かに色が違う。
何でもないと思えば、それまでだった。けれど、レンの目はそこから離れなかった。
色の違う角に爪を立てると、僅かな隙間に爪先が入り込んだ。
「何だ、これ」
そのまま指先に力を込めると、底板の端がふっと持ち上がり、薄い底板が外れた。
二重底だ。レンは動きを止め、開けていいものかほんの一瞬悩み、ゆっくりと板を持ち上げる。
その下には見慣れない素材の古びた布に包まれた、細長い何かが横たわっている。
胸の奥がざわつく。
母が隠していたもの。
母の秘密を暴こうとしているようで、胸がちくりと痛んだ。だが同時に、この見知らぬものの正体を知りたいという好奇心が、胸の内でせめぎ合った。
見るべきではない気がする。けれど母はもうここにはいない。
そして、母がこれを隠した理由を聞く機会は、もう二度と訪れない。
レンはゆっくりと布を持ち上げた。
意外と軽い。
ためらいながらも、指先は答えを求めるように包みをほどいていく。
中にあったのは、柄も長く使い込まれて黒ずんでいるナイフだった。長い年月を使われてきたものなのだろう。
少なくとも、台所で食材を切るためのナイフには見えない。
刃渡りはレンの掌より少し長い程度で、柄には黒革が巻かれている。長く使い込まれたのか、その革はところどころ擦れて剥がれていた。
何より奇妙なのは、刃だった。第百階層で一般に使われる鉄より一目見てわかるほどに明らかに質が良い。
魔石灯の光を反射し、淡く青白く輝いている。不気味というほどではない。かといって、綺麗という言葉もしっくりこない。レンには、その青白い輝きをどう表せばいいのか分からなかった。
なぜ、母は、こんなものを持っていた?
レンは柄を握った。
驚くほど手に馴染んだ。
少し振るとその下から、もう一つ何かが落ちてきた。それは床に当たり、冷たく硬い音を立てる。
理由もなく、何かが変わってしまいそうな、そんな妙な胸騒ぎがした。
指先で拾い上げ、魔石灯の光にかざす。それは金属でできた小さな札だった。
表面には小さな擦り傷がある。
文字らしきものも刻まれているように見えるが、ほとんど読むことができない。
ただ一か所だけ、中央に記号のようなものが刻まれている。
レンは目を凝らした。
輪郭を追っていくと、それは円のようにも見える。
そして、その中心を貫くように一本の線。
何を意味する印なのか、レンにはまるで分からなかった。
レンは眉を寄せ、首を傾げながら札をひっくり返した。
そこにも文字らしきもの。
こちらは完全に摩耗しきっていて、何が刻まれていたのか想像することすらできない。
「母さん……?」
そこにいるはずがない。分かっているのに、レンは何かを求めるように、小さくつぶやいた。当然、答える声はなかった。
ナイフを見る。
札を見る。
これは、第百階層のものではない。
そんな確信に近いものがあった。
もちろん、そう断言できる証拠などない。
分かっているのは、レンがこれまで、この金属に似たものを一度も見たことがないということだけだ。
母は一体、これをどこで手に入れたのだろう。
市場?
上層商人?
拾った?
いくつかの可能性が浮かんでは消える。
けれど、そんなことはどうでもよかった。
もっと引っかかることがある。
――なぜ、母はこれを隠した?
二十を数える鐘の音に、レンははっと思考を引き戻された。




