第零話 ー第?階層ノ青ー
足の裏に、冷たさがあった。
靴を履いているはずなのに、石の感触が近い。
一歩進む。
薄く張った水が靴底の縁から逃げ、細い音を立てた。
リアは足を止めた。
前を歩く誰かの靴音だけが、少し先へ遠ざかっていく。
顔は見えない。
背中だけが見える。
暗い色の服。
黒い髪。
細くも弱くもない背中。
知らない人のはずだった。
なのに、その後ろ姿から目を離せない。
追わなければならない。
理由は分からない。
ただ、ここで離れたら二度と追いつけない気がした。
通路は狭かった。
両側の壁には、古い石が積まれている。ところどころ継ぎ目が崩れ、黒い根のようなものが隙間から伸びていた。水を含んだ壁面には小さな菌が群れていて、足元まで届くほどの湿気が漂っている。
鼻の奥に、わずかな刺激臭が残る。
硫黄に似ている。
けれど、それだけではない。
遠くから風が流れてきた。
冷たい。
この場所には似合わない。そう感じた。
前にいる人が、一度だけ振り返った。
でも、その顔は暗く、見えない。
光が足りない。
リアは目を細める。
もう少し近づけば分かる。
そんな気がした。
「待って」
声を出した。
その人は再び歩き出した。
追いつこうと必死になって手を伸ばす。
靴底が水を踏む。
今度は、後ろから別の足音が重なった。
自分のものではない。
誰かいる。
振り返ろうとした。
けれど、前にいる人が手を上げた。
その姿はまるで、止まれ、と言っているように見えた。
リアは足を止める。
その先に、光があった。
通路の終わり。
扉なのか、崩れた壁なのか分からない。
ただ、そこだけが明るい。
外から風が入ってくる。
冷たい風だった。
髪が頬へ触れる。
風の向こうに、何かが見えた。
青い。
最初に浮かんだのは、その言葉だった。
水の色とは違う。
どこまでも広がっているようで、すぐそこにもあるような。
光を受けているようにも見えない。
それなのに、暗い場所から見てもはっきりと青かった。
こんな色を、知らない。
なのに。
胸の奥だけが、知っていると告げていた。
前にいる人が歩き出す。
「待って」
今度は、さっきより大きな声になった。
けれど、いくら手を伸ばしても指先が届かない。
距離はほんの数歩しかないはずなのに、足が前へ出ない。
何かに引かれている。
身体ではない。
時間そのものが、二人の間に挟まっているような。
前にいる人が、もう一度振り返る。
今度こそ顔が見える。
そう思った。
けれど、その瞬間。
光が強くなった。
青が視界いっぱいに広がる。
リアは目を細めた。
眩しい。
それでも目を閉じたくなかった。
見なければならない。
この人を。
この場所を。
この青を。
何のためなのかは分からない。
ただ、ここで目を逸らしたら、大切なものを二度と見つけられない気がした。
「待って……!」
伸ばした手が、空を掴む。
その人の姿が光の向こうへ消えていく。
青だけが残る。
そして――
リアは目を覚ました。
身体を起こすより先に、息を吸った。
胸が苦しい。
喉が乾いている。
寝台の上だった。
見慣れた天井。
閉められた窓。
薄暗い部屋。
いつもの場所だ。
夢…だった。
頬に冷たい感触が流れ落ちる。
何度か瞬きをする。
止まらない。
悲しいわけではない。
怖かったわけでもない。
少なくとも、そう思った。
それなのに、胸の奥だけが妙に重い。
リアは毛布を握った。
夢の中で見たものを思い出そうとする。
誰かの背中。
そして、青。
だが、あの人の顔だけが、どうしても思い出せない。一番思い出さなくてはならない。そんな気がするのに。
名前も知らない。
声も聞いていない。
それなのに、あの背中が消えていくことだけが怖かった。
リアは頬の涙を拭った。
指先に残った水滴を見つめる。
夢なら、どうして泣いているのだろう。
未来なら、どうしてこんなものを見たのだろう。
いつもの未来視とは違う。
もっと遠い。
もっと静かで。
まるで、自分がまだ知らない時間を一度だけ覗き込んだようだった。
リアは寝台から足を下ろした。
床が冷たい。
窓へ近づき、掛けられた布を少しだけ持ち上げた。
外には、いつもの街がある。
見慣れた建物。
見慣れた灯り。
見慣れた人の声。
何も変わっていない。
それなのに。
さっき見た青だけが、頭から離れなかった。
あれは何だったのか。
そして。
あの人は――。
「……あの人は、誰?」
呟いた声は、誰にも届かなかった。




