第一話 ー第九十九階層ノ足跡ー
昇層門が開く音は、レンが想像していたものとは違っていた。
もっと重々しく、岩山そのものが割れるような轟音がするのだと思っていた。
実際には、最初に聞こえたのは低い振動だった。
腹の底に響くような、長く一定した唸り。
続いて、黒い扉の表面を走っていた淡青色の光が一本ずつ強くなり、幾何学的な溝の奥を水のように流れていく。
門の前に立つ警備兵たちが、慣れた動作で左右へ離れた。
「通行札を見える位置に」
低い声が響く。
レンは首から下げていた木札を上着の外へ出した。
札の表には、灰都の狩人組合の焼き印。
その下には、北坑道での岩喰い討伐を示す三本の刻み。
三日前には存在しなかった傷が、その隣にもう一本あった。
左手の甲から手首へ伸びる、赤黒い擦過傷。
岩喰いの尾が砕いた岩片をまともに受けた痕だ。
命を落とすほどの怪我ではない。
だが、討伐が「上へ行くための簡単な仕事」などではなかったことを、左腕に痛みが走るたびに思い出させた。
岩喰い三体。
門番から聞いたときは、数字でしかなかった。
実際の岩喰いは、大人ほどの胴を持つ六本脚の魔物だった。洞窟の壁とほとんど見分けがつかない灰褐色の甲殻をまとい、岩盤に含まれる魔石を食べる。
一体目を倒すために、討伐隊の男が肩を噛まれた。
二体目では灯りを一つ失い、暗闇に引きずり込まれた男が一人、戻ってこなかった。
三体目は天井近くの岩棚へ逃げ込み、レンたちが下を通る瞬間を狙って落ちてきた。
悲鳴と怒号が狭い通路に響いた。
すべてを仕留めた頃には、討伐隊の人数が減り、さらに数人が傷を負っていた。
母のナイフがなければ、レンの左腕は今頃まともに動かなかったかもしれない。
あの青白い刃は、岩喰いの脚の関節を驚くほど容易く断った。
どうして母があんな武器を持っていたのか。
その違和感と疑念は、討伐を終えてからさらに存在感を増していた。
「レン・アルヴェール」
門番が名簿を読む。
「第百階層灰都出身。上行通行許可、九十九まで。滞在期限は七日。延長する場合は九十九側の役所で手続きをすること」
「分かった」
「第九十八階層への通行権は含まれていない」
「……それも分かってる」
返事をする声が硬くなる。
九十九まで。
たった一つ。期待していたわけではないが、いざ現実を突きつけられると落胆を禁じ得ない。
今回、レンに許されたのは、第九十九階層までだった。
しかし門の向こう側は、昨日までの彼にとって「世界の外側」に等しかった。
低い音が途切れる。
黒い門の中央に、髪の毛ほどの細い隙間ができた。
そこから白い光が差し込んでくる。
レンは反射的に目を細める。
第百階層の魔石灯とは違う。
青白く冷たい光ではない。
少し黄みを帯びた、柔らかな明るさ。
隙間が広がるにつれ、レンの胸の内でも期待が次第に膨らんでいった。
扉は左右へ開いているように見えたが、動きそのものは妙だった。
あれだけ巨大な金属塊が岩床を擦る音がしていない。
黒い扉が、壁そのものへ吸い込まれていく。そんな感覚。
やがて、大人が横に十人並んでも余るほどの入口が開いた。
その先には、遥か遠くに明かりが見えるほど、長い階段が続いていた。
「行け」
警備兵に促される。
レンは新しい世界への一歩を踏み出した。
*
階段は、想像していたより遥かに長かった。
黒い石で造られた幅広の階段が、緩やかに上へ続いている。
もう何歩上ったのだろう。両側の壁は滑らかで、第百階層の建物に使われていた粗い岩壁とはまるで違う。継ぎ目が見当たらず、一枚の巨大な石を削ったように平らだった。
一定の間隔で、壁には魔石灯が埋め込まれ、乳白色の淡い光を放っている。その光が階段を照らしているおかげで、手元の灯りを足元へ向ける必要はなかった。
レンは何度か足を止め、壁に埋め込まれた魔石灯を眺めた。触れてみたいという好奇心に駆られたが、手を伸ばすことはしなかった。
少しして、後ろから荷車の軋む音と、商人の足音が近づいてきた。レンは振り返り、道を譲った。
車輪には鉄の輪がはめられた小型の二輪車。
荷台には木箱が六つ。
第百階層なら、大人が二人がかりで押すような荷物の量に見えた。
ところが、それを押しているのは黄土色の外套を着た小柄な男一人だけだった。それでも足取りに重さはなく、慣れた様子で階段を上っていく。
荷車の車輪が階段の縁に当たるたび、がたん、がたんと規則正しい音が響いた。
レンは男の背中へ目を向ける。
外套は厚手だが、布地の目は細かい。肘にも肩にも継ぎ布はなく、腰には小さな革袋が三つ下がっている。靴底には、滑り止めなのか金属の鋲まで打たれていた。
たった一人の通行人を見ただけでも、灰都との違いは十分に分かった。
レンは無意識に自分の袖を引いた。
母が何度も縫い直した跡。狩りで新たに裂けた肩。色も厚さもばらばらな継ぎ布。
急に、自分がひどくみすぼらしくなったような気がした。
だが、その感情よりも、未知の階層へ向かう好奇心の方がずっと強かった。
「それ、何を運んでるんだ?」
荷車の男が振り返った。
「何って?」
「箱」
「果実だよ」
「果実?」
「赤鈴果」
聞いたこともない名前だった。どうやら、それが顔に出ていたらしい。
男は半歩進んだところで足を止め、肩越しにレンを振り返った。
「お前、百から来たのか?」
「そう」
「ああ」
それだけで納得したようだった。
「九十九じゃ普通に売ってる。酸っぱいが、煮ると甘くなる」
「木になるのか?」
「そりゃ果実だからな」
「木があるのか?」
今度こそ男が完全に振り返った。
数秒。
レンの顔をまじまじと見る。
そして、不意に笑った。
「面白いな、お前」
「何が」
「いや、悪い悪い。百じゃ茸ばっかりだってのは知ってたけど、そこまで違うとは思わなくてな」
男は荷車を押し直す。
「上に着けば嫌でも見れる」
「どんな木?」
「見りゃ分かる」
その言い方に、レンの足が一瞬だけ止まった。
見れば分かる。
その一言が、遠い記憶を引き寄せた。
母が語ってくれた、空の話を。
胸元に入れた破れた手紙の感触が、急に存在感を増す。
レンはそれを振り払うように頭を振り歩き出した。
一段、また一段と、階段を上っていく。
どれほど進んだだろう。
後ろを見ても、第百階層の門は、もう見えない。
前にも後ろにも、ただ階段がある。
自分は上っている。
足裏へかかる傾斜が、それをはっきり伝えてくる。
上へ。
第九十九階層へ。
レンは一度だけ足を止め、来た道へ目を向けた。
誰もいない階段が、闇の中へ吸い込まれるように下へ伸びていた。
母も、かつてここを通ったのだろうか。
その可能性を考え、そしてすぐに首を振った。
確かな証拠はない。あるのは、憶測だけだ。
第百階層の記録に空白があった。
見たことのない武器を持っていた。
空について妙に詳しかった。
それだけだ。
母がこの階段を歩いたと決めつけるには、何かが足りていない。
だから、確かめる。
そのために、自分は今ここにいる。
*
先に変化したのは、匂いだった。
冷たい石と僅かな埃しかなかった階段に、湿った植物の匂いが混ざり始める。
レンは歩みを緩めた。
知っている匂いではない。
茸とは違う。
もっと青く、少し苦い。
やがて前方が明るくなってくる。
階段の終わりが、少しずつ近づいてくる。その先にあるのは、第九十九階層。
レンは最後の一段を上がった。
そして、そこで立ち止まった。
「……なんだ、これ」
最初に目へ飛び込んできたのは、鮮やかな緑だった。
瑞々しい若葉が幾重にも重なり、柔らかな光を受けて艶やかに輝いている。
地面から伸びる細い幹。
そこから広がる枝。
そして、青々と茂る葉。
高さはレンの背丈を優に越えている。
一本ではない。
何本も。
何十本も。
葉の間には、親指ほどの赤い実が、鈴のようにいくつも連なっていた。
階段で会った商人が運んでいた赤鈴果だろう。
木々は無造作に生えているのではなかった。
長方形に区切られた畑に、どれも同じ間隔で整然と植えられている。
その間を縫うように、細い水路が走っていた。
流れているのは、底の小石までかすかに見えるほど澄んだ水だ。揺れる水面には緑の葉や淡い光が映り込み、流れに合わせてゆらゆらと形を変えている。
第百階層にも水路はある。
だが、灰都を流れる水は、採掘区や居住区の地下を通ってくるせいか、わずかに鉄の匂いがした。水は濁り、ところどころ淀んでいて、底など見えたこともない。
ここを流れる水には、鼻を刺すようなあの独特の臭いはない。
石で組まれた幅一尺ほどの溝を、絶えずさらさらと流れている。
畑の隅では、腰を曲げた女性が木製の板を持ち上げ、水の流れを別の溝へ変えていた。
「初めてか?」
横から声が聞こえた気がして、レンはそちらを向いた。
門の反対側に、小さな詰所が建っている。白い石壁に、赤褐色の屋根。そして窓には――ガラスが嵌め込まれていた。
半透明の板でも、濁った魔獣の角を削ったものでもない。
向こう側にいる人間の姿が、表情まで見えそうなほど透き通っている。
レンは思わず、その窓を見つめた。
入口の脇に立つ男は、濃い緑色の制服を着ていた。
三十歳前後だろうか。背はレンより頭半分ほど高く、がっしりとした肩幅をしている。赤茶色の髪は短く刈り込まれ、顎には細い傷が一本走っていた。
腰には剣を提げている。鞘も柄も、灰都の門番が持っていたものより丁寧に作り込まれていた。
だが、レンの目を引いたのは剣そのものではない。立っているだけなのに隙がなく、腰の剣がただの飾りではないことが伝わってくる。
「何が?」
レンが聞き返すと、男は木々を顎で示した。
「樹園」
「……ああ」
「百から来た奴は、だいたいそこで止まる」
「みんな?」
「大体な」
警備兵は面白がるように、右の口角だけをにやりと持ち上げた。
「その次は水路。その次は道。その次は店だ」
「道?」
「歩けば分かる」
まただ。
レンは少しだけ笑った。
「何だ?」
「いや。そういう言い方、流行ってるのかと思って」
「何の話だ」
「こっちの話」
男は首を傾げたが、それ以上は追及しなかった。
「通行札」
レンは首から下げていた札を外し、男に手渡した。
男は受け取ると、表と裏を順に確認した。
「岩喰い三体。百の北坑道か」
「そう」
「若いのによくやったな」
「俺一人じゃない」
「それでも参加したんだろ。左腕もそのときか」
レンは傷の残る左腕へ目を落とした。
「岩でやった」
「治療所に寄っとけ。膿むと面倒だ」
「これくらいなら――」
「百じゃそうなんだろうが、ここじゃその程度なら銅貨一枚だ」
レンは思わず顔を上げた。
「一枚?」
「洗浄と薬だけならな」
第百階層で薬師に同じことを頼めば、その数倍は取られる。
素材が少ないからだ。
「……行く」
「ああ、そうしろ」
男は通行札を返すと、詰所の方を指した。
「入層手続きはあそこでしろ」
「一晩だけの滞在でも記録は必要だ。無論、揉め事を起こせば百へ送り返す。武器の携帯は自由。ただし、市街地で抜けば理由を問わず拘束する」
「魔物は?」
「市壁の中にはほとんど出ない」
「ほとんど?」
「たまに水路から入り込む」
警備兵は肩をすくめ、皮肉っぽく付け加えた。
「まあ、人間の方がよほど面倒だ」
それはどこも同じらしい。
レンは詰所へ向かった。
*
第九十九階層の入層所には、紙があった。
それだけなら、第百階層でも役所へ行けば目にする。
驚いたのは、その使われ方だった。
受付の机、壁に貼られた規則、荷物検査の表、宿泊施設の案内、交易税の一覧。
目に入る文字という文字が、ほとんど紙の上に記されている。
一枚の紙が貴重品として箱へ仕舞われていた灰都とは違う。
受付係の女性は、机の上の紙を丸めると、横の籠へ放り込んだ。
レンの視線は、その迷いのない仕草に釘付けになった。
「どうしました?」
「それ、捨てるのか?」
「はい?」
「紙」
女性は一瞬きょとんとしてから、籠へ目を向けた。
「ああ。書き損じですから」
「裏は?」
「裏?」
「何も書いてない」
「そうですね」
「使わないのか?」
女性は数秒、レンの顔を見つめた。何を言っているのか、その真意を測りかねているようだった。
年齢は二十代半ばほどだろう。
淡い栗色の髪を後頭部でまとめ、薄い生成りのシャツに濃茶の短い上着を重ねている。袖口は白く、インク染み一つない。
胸元には、真鍮製の小さな札が留められていた。
そこには――『入層管理官 ミラ』と刻まれている。
「第百階層から?」
「分かる?」
「ええ、まあ」
悪意は感じなかった。
レンは少し気まずくなって、用紙へ視線を戻した。
「ここに名前と出身、それから入層の目的を書いてください」
差し出されたのは羽根ペンだった。
レンはそれを受け取った。
軽い。
「炭じゃないんだな」
「書類が汚れますから」
机の上には、小さな硝子瓶が置かれていた。
中には、黒い液体。
インクだ。
知ってはいたが、使ったことはない。
ペン先をインクに浸し、紙へ走らせようとする。
慣れないせいか、少しつけすぎた。
ぽたり、と黒い雫が落ち、紙の上に染みを広げる。
「あ…」
「そのくらいなら大丈夫ですよ」
ミラが笑う。
レンは慎重に書いた。
氏名。
レン・アルヴェール。
出身。
第百階層灰都。
目的。
「上層への移動準備、及び調査」
最後の欄まで書いたところで、ペンが止まった。
「調査とは?」
ミラが用紙を覗き込む。
「人を探してる」
「第九十九階層の住民ですか?」
「分からない」
「名前は?」
レンは一瞬迷った。
何も期待しない方がいい。
そう思った。
ここで母の名を口にしたところで、何かが分かる可能性はほとんどない。
エレナは第百階層で生まれた。
灰都の記録でも、住居履歴はすべて灰都内に残っている。
空白があるのは、幼少期の一時期だけだ。
それなのに。
「エレナ・アルヴェール」
期待しないつもりだった。
それでも、胸の奥に残っていたわずかな期待に押されるように、名前が口をついて出た。
「女性?」
「母親」
「現在はこちらに?」
「死んだ」
ミラの表情がわずかに強張った。
「……失礼しました」
「いい」
「以前、第九十九階層へ来た可能性がある、ということですか?」
「分からない。それを調べたい」
ミラは少し考え込み、そして言った。
「滞在記録でしたら、住民管理局ですね」
「誰でも見られる?」
「現行記録は、本人か親族でなければ閲覧できません。古い記録は保存年数にもよりますが、申請すれば閲覧できます」
「どのくらいまで?」
「お母様のお年は?」
レンは答えた。
ミラは少し考えるように視線を上げた。
「それなら、紙台帳の時代ですね。中央区の記録庫に残っている可能性があります」
レンの指が、机の上で止まった。
可能性。
それだけで十分だった。
「どこ?」
「その前に入層手続きを終わらせましょう」
ミラは少し呆れたように笑った。
*
入層所を出ると、第九十九階層の街道が真正面へ伸びていた。
門から都市までは、歩いて半刻ほどだという。
レンはその道を歩き始めた。
そして、警備兵の言葉の意味を理解した。
道。
第百階層にも、そう呼ばれるものはある。
だが、それは人が何度も歩いたことで、土や岩が踏み固められ、平らになっただけのものだった。
ここでは違う。
四角く切り出された灰白色の石が、隙間なく敷き詰められている。その両脇には、細い排水溝まで設けられていた。
道の中央はわずかに盛り上がり、雨――いや、この世界に雨はないはずだ――それでも水が溜まらないよう、緩やかな傾斜がつけられている。
レンは足元を凝視した。
靴底が引っかからない。泥もない。ところどころ石が欠けてはいるが、それでも灰都の道とは比べものにならなかった。
街道の左右には、畑がどこまでも続いている。
赤鈴果の樹園。
背の低い穀物。
葉の広い野菜。
そして、茸。
茸だけは見慣れていたが、育て方はまるで違っていた。
第百階層では、湿った洞穴の壁際や木箱に詰めて育てていた。
ここでは長い木棚が何列も並び、段ごとに違う種類の茸が植えられている。
棚の上には細い水管が通され、一定の間隔で水滴を落としていた。
人が桶を運ばなくても、水が届く。
レンは思わず立ち止まり、その仕組みを眺めた。
木製の管、接合部には金属、高い位置に水槽のようなものが見える。
そこから傾斜を使って流しているらしい。
通りに響いた怒号に、意識を引き戻される。
すぐ横を、大きな荷車が通り過ぎていった。
レンは慌てて道端へ身を寄せる。
荷車を引いていたのは、二頭の見慣れない生き物だった。
鹿に似ている。
だが角はなく、首は太い。淡褐色の短い毛に覆われ、脚の先には二つに割れた蹄がある。
鼻先には、革製の覆いがつけられていた。
「何だ、あれ……」
「荷角獣だよ」
近くで野菜を並べていた少女が、何でもないことのように答えた。
十二、三歳ほどに見える。藍色に染めたワンピースの上へ、白い前掛けをつけていた。
服の裾には、野菜を並べている間についたのだろう土汚れが残っている。それでも、生地に破れや継ぎ当ては見当たらなかった。
「荷角獣?」
「知らないの?」
「初めて見た」
少女は目を丸くした。
「どこから来たの?」
「百」
「ああ!」
ひどく納得したように頷かれた。
その反応にも、少しずつ慣れてきた。
「食べる?」
少女が籠から赤鈴果を一つ取り、レンに差し出した。
「金ないぞ」
「一個くらいいいよ」
レンは受け取った。
赤く、表面はつるりとしている。
鼻先へ近づけると、かすかに甘い香りがした。
レンはしばらく実を眺めたあと、好奇心に負けるようにかじりついた。
「……酸っぱ」
予想外の味にレンが口をすぼめると、少女が声を上げて笑った。
「生だと酸っぱいって!」
「先に言えよ」
「言ったら面白くないじゃん」
口いっぱいに強い酸味が広がる。
だが、噛んだ実から溢れた果汁には、かすかな甘みと爽やかな香りも混じっていた。
レンはもう一口齧った。
「美味しい?」
「酸っぱい」
「でも食べてる」
「まあな」
第九十九階層に来て、初めて口にしたもの。
この味は、たぶん忘れない。
*
都市が見えた。
最初に姿を現したのは、壁だった。
灰白色の石を積み上げて造られた、高さ六メートルほどの市壁。
巨大な魔物を防ぐには低い。
だが、人の暮らす場所と、その外を隔てるには十分だった。
門をくぐる。
そして、その向こうへ足を踏み入れた瞬間、レンは再び立ち止まった。
第九十九階層最大の都市――水段都市ラグナ。
街は一枚の平地ではなく、巨大な洞窟の斜面を削り出したように、幾つもの段へ分かれていた。
一番下には倉庫街。その上には市場が広がり、さらに上へ行くにつれて住宅らしき建物が連なっている。
最上段には、ひときわ大きな石造りの建物がいくつも並んでいた。
それぞれの段を、石造りの階段と緩やかな坂道が結んでいる。
そして、そのすべてを縫うように、水が流れていた。
上段の岩壁から湧き出した水が、石造りの水路を通って下へ流れ落ちている。
段差ごとに、小さな滝。
その脇では、木製の水車がゆっくりと回っていた。
ごう、と低い水音が響く。
一定の間隔で、水車の軸が軋む。
水車につながった建物からは、穀物を挽く規則正しい音が聞こえてきた。
レンはその場から動けなかった。
第百階層の灰都も、人は少なくなかった。
だが、色が違う。
ここには、茶色以外の色がある。
藍、薄緑、赤、黄。色とりどりに染められた布が、店先に吊るされている。
屋根は赤褐色の焼き瓦。窓にはガラス。店先の看板には文字。
肉屋の軒先には干した腸詰が吊るされ、パン屋からは焼いた穀物の甘い香りが漂ってくる。
果物屋には赤や橙の実が山と積まれ、陶器店には白や青の皿が並んでいた。
道を歩く人々の靴も違った。
獣皮を布で縛っただけのものではない。
革を足の形に縫い合わせ、紐や金具で留めた靴。
腰へ鞄を提げる者。
紙袋を持つ者。
細い金属の腕輪をつけた女。
子供ですら、小さな木板と羽根ペンを抱えて歩いている。
レンの視線は忙しく動いた。
全部見たい。
知らないものばかりだ。
母の死も、隠された秘密も、旅の目的も。
そのすべてを一瞬忘れて、目の前の街に夢中になってしまいそうだった。
純粋に、楽しかった。
知らない世界へ来た。
その事実だけで、胸が高鳴る。
もっと上には、何があるのだろう。
第九十八。
第九十七。
第九十。
そして、第一。
そのさらに先にあると、母が話していた地上。
レンの中で、これまで輪郭しか持たなかった「旅」というものが、急に鮮やかな色を帯び始めた。
*
治療所へ寄った。
銅貨一枚。
本当にそれだけだった。
白い石造りの小さな建物。
床には石板が敷かれ、きれいに水洗いされている。汚れらしい汚れは見当たらない。
嗅いだことのある薬草の匂いが漂っていた。
治療師はレンの傷を見ると、まず透明な液体で洗った。
染みる。
下手をすれば、岩喰いにやられたときより痛い。
「動かさないで」
「これ、何?」
「殺菌液」
「さっきから知らない言葉ばっかりだ」
まじまじと見つめるレンを見て、治療師の女性が小さく笑った。
四十歳ほどだろうか。短い灰茶色の髪を耳にかけ、白い上衣の袖を肘までまくっている。腕には、薬草を扱ううちについたのだろう薄い染みが残っていた。
「第百階層?」
「今日からそれだけで全部説明されるようになった」
レンはわずかに眉を下げて答えた。
「悪く取らないで。珍しいのよ」
傷へ淡緑色の軟膏が塗られる。
その上から、真新しい清潔な布が巻かれた。
第百階層なら、古い布を煮沸して使い回すというのに。
「これで終わり」
「治癒魔法は?」
「こんな擦り傷に使うものじゃないわ」
「使えるの?」
「私は無理。治癒師なら中央院にいるわ」
「中央院?」
「第九十八ほどじゃないけど、一応病院があるの」
第九十八。
その言葉に耳が反応した。
「九十八はもっとすごい?」
「医療ならね。あっちは薬師協会の本部があるから」
母が病気だったときに聞いた噂。
第九十八階層には、本格的な治癒院がある。
本当だったようだ。
レンは何気なく、腕に巻かれた真新しい布へ視線を落とした。
母が生きていたとき、ここまで連れてくることができていたら。
いや。
母は拒んだ。
それでも。
無理にでも連れてくるべきだったのではないか。
そんな考えが、今さら胸の奥に浮かんだ。
「ねえ」
治療師が声を落とした。
「大丈夫?」
声音には、わずかな心配が滲んでいた。
「……何が?」
「急に怖い顔したから」
「別に」
レンは代金を置き、治療所を出た。
*
住民管理局は、街の中段にあった。
そこへ辿り着いた頃には、レンの脚は重くなっていた。
昇層階段。
街道。
市内の坂。
一日で随分と歩いた。
だが疲労より、建物を前にした緊張の方が強かった。
三階建て。
白い石造りの、周囲よりひと回り大きな建物だった。
入口の上には、天秤と鍵を組み合わせた紋章と、「住民管理局」と刻まれた石板が掲げられている。
この中に、母の痕跡が残っているかもしれない。
そう思うだけで、疲れていたはずの足取りが軽くなった。
レンはわずかに汗ばんだ手で扉を開け、中へ入った。
これまで第九十九階層で見た建物の中では、一番広い。
受付が四つ。待合用の長椅子。壁一面を埋める棚。そして、順番を待つ人々の列。
天井から吊り下げられた案内板には、「出生」「婚姻」「転居」「商業登録」といった文字が並んでいる。
第百階層の記録所とは、比べものにならない規模だった。
レンは案内板を見上げた。
読めるには読める。
だが、文字が多すぎて目的の項目がなかなか見つからない。
しばらく目で追っていると、横から声がした。
「閲覧なら三番だ」
振り向くと、老人が立っていた。
七十歳ほどに見える。
細い身体に、濃い灰色の長衣をまとっていた。
頭髪はほとんど白く、鼻の上には小さな金属枠が乗っている。
その枠には、透明な板が二枚はめ込まれていた。
表面には周囲の景色がうっすらと映り込んでいるのに、その向こうにある老人の目元ははっきりと見える。
「それ何?」
レンが指した。
「眼鏡だ」
「眼鏡」
「文字が見えにくくなった者が使う」
老人が片方の眉を上げた。
「お前さん、随分遠いところから来た顔をしているな」
「顔で分かるのか?」
「服で分かる」
「やっぱりか」
老人は喉の奥で笑った。
「三番だ。古い記録なら、受付で名前と年代を言え」
「ありがとう」
レンは三番窓口へ向かった。
若い男が座っている。
「記録閲覧」
「対象は?」
「エレナ・アルヴェール」
「関係」
「息子」
「本人確認」
男は短く問いながら、手元の用紙へ次々と書き込んでいく。
レンは促されるまま通行札を差し出した。
男は受け取ると、表と裏を確認した。
「対象者の生年」
レンは答えた。
「第九十九階層での住所は?」
「分からない」
「滞在時期」
「それも」
受付係の眉間に、わずかに皺が寄った。
「では、検索に時間がかかります」
「名前だけじゃ駄目?」
「現行台帳なら可能ですが、古い記録は地区別、年代別に分かれています」
「どのくらい?」
「何十年分を探すつもりです?」
レンは言葉に詰まった。
母がいつここへ来た可能性があるのか。
分かっているのは、幼少期に九年間の空白があることだけだ。
それ以外にも来ていた可能性はある。
母の年齢。
レンが生まれる以前の年月。
いくら考えても、時期を絞り込める材料がない。
「……全部」
男の顔に、露骨に嫌そうな色が浮かんだ。
「無理です」
「金?」
「そういう問題ではありません」
「じゃあ、どうすればいい?」
「年代を絞ってください」
レンは無意識に、胸元の手紙へ触れた。
母の、第百階層での記録。
七歳から十五歳までの空白。
十二歳で失踪扱いになり、十五歳で突然、灰都の住民として再登録されている。
もし、この空白の間に第九十九階層へ来ていたのなら――。
エレナが十二歳だった年を伝える。
受付係が計算する。
「その前後五年なら、旧南区台帳ですね」
「南?」
「第百階層からの来訪者は、当時、南門付近でまとめて登録されていました」
レンの背筋に、細い緊張が走った。
第百階層からの来訪者。
その言葉が、妙に耳に残る。
「記録、ある?」
「探してみなければ分かりません」
「探してほしい」
受付係は小さく溜息をついた。
「閲覧料は銀小貨一枚です」
「……高い」
「紙台帳を倉庫から出すんです。嫌なら諦めてください」
レンは財布へ目を落とした。
第百階層から持ってきた金は、討伐の報酬もあるとはいえ、決して多くはない。
銀小貨一枚は、正直かなり痛い。
それでも、ここで使わなければ何のためにここまで来たのか。
レンは銀小貨を一枚取り出し、机の上へ置いた。
「頼む」
*
一刻近く待っているように思える…。
その間、レンは住民管理局の窓から街を眺めていた。
下段へ向かって流れ落ちる水。
その流れを受け、軋む音を立てながらゆっくりと回り続ける水車。
穀物を詰めた麻袋や、木箱を山のように積んだ荷車を引いて歩く荷角獣。
市場は、すれ違うにも肩を避けなければならないほどの人で賑わっている。店先では客と商人が声を交わし、その隙間を荷物を抱えた人々が行き交っていた。
遠くでは、階層の岩天井に無数の魔石灯が柔らかな光を灯している。
第百階層とは比べものにならないほど多い。
等間隔に並べられているのではなく、街や畑を照らすように、必要な場所へ光が集められていた。
明るい。
それでも。
天井はある。
レンは母の言葉を思い出した。
空は、これよりもっと明るいのだろうか。
もっと高いのだろうか。
「レン・アルヴェール」
空想から引きずり戻されるように、名前を呼ばれた。
レンは受付へ向かう。
そこにいたのは、先ほどの眼鏡の老人だった。
机の上には、大きな帳面が三冊置かれている。
革張りの表紙は、角も縁も擦り切れていた。
「お前さんの母親を探しているそうだな」
「知ってるの?」
「知らん」
即答だった。
「私は記録係だ。人間より、文字の方を多く覚えている」
老人は帳面を開いた。
「エレナ・アルヴェール。綴りはこれで間違いないか」
紙に書かれた名前を見る。
間違いない。
「うん」
老人は帳面を開き、ページをめくり始めた。
一枚。
また一枚。
乾いた紙の擦れる音だけが、机の上に小さく響く。
「お前さんが指定した年代には、ない」
レンの肩から力が抜けた。
「……そう」
「その前年もない」
「うん」
「翌年もない」
やはり。
母の失踪と第九十九階層を結びつけたのは、考えすぎだったのかもしれない。
第百階層の記録が、ただ欠けていただけ。
それなら、それで説明はつく。
「ただな」
老人の指が止まった。
レンが顔を上げる。
「何?」
「妙なことがある」
老人は隣に置かれていた帳面を引き寄せ、開いた。
「これは名前から探せるんだがな」
「名前から?」
「ああ。全地区の登録者を姓ごとにまとめてある。そこから、どの台帳に記録があるか辿れる」
老人の指が、紙の上をゆっくりと滑る。
ア。
アルヴェール。
そこに――
一行。
エレナ。
レンの身体が固まった。
「……ある」
「ああ」
「あるじゃん」
「だが、お前さんが指定した年代じゃない」
老人は眼鏡を指で押し上げると、レンの顔をまっすぐ見た。
声は静かだったが、その言葉だけははっきりしていた。
「もっと後だ」
レンは無意識に息を詰めた。
「どのくらい?」
聞きたいはずなのに、老人が口を開くまでのわずかな間が妙に長く感じられた。
告げられた年を、頭の中で母の年齢へ置き換える。
レンは計算を間違えたのかと思い、もう一度数え直した。
「母さんが……二十代?」
「そうなるな」
「でも」
第百階層の記録では、その時期、エレナは確かに灰都に住んでいる。
記録が正しいなら、ここにいるはずがない。
転居記録もない。
少なくとも、レンが確認した台帳には。
「同姓同名?」
「可能性はある」
老人は淡々としている。
気づけば、レンは机の上へ身を乗り出していた。
「その記録、見せて」
「少し待て」
老人はそう言って、別の帳面を探し始めた。
「索引番号、南区、四号……これか」
一冊。
一目で分かるほどに古い。革張りの表紙はひび割れ、ところどころ色が剥げている。
老人は綴じ紐を解き、傷めないようゆっくりと表紙を開いた。
レンの呼吸は、知らず知らずのうちに浅くなっていた。
息を潜めるようにして老人の指先を見つめる。
名前、日付、出身、滞在理由、行き先。
そして…
「エレナ・アルヴェール」
老人の指が止まった先に、見覚えのある文字が並んでいる。
母の名前。
間違いない。
だが、まだだ。
名前だけなら、同姓同名という可能性もある。
次。
『出生階層――第百階層』
喉の奥が乾いた。
生唾を飲み込む音が、妙に大きく耳につく。
『出身地――灰都南区』
レンの指先から、すっと血の気が引いていった。
「……同じ」
「お前さんの母親と?」
「出身も」
老人は記録へ目を落とした。
「年齢も合うな」
レンは何も言えなかった。
第九十九階層。
母は、本当にここへ来ていたのだ。
第百階層から出たことがないはずの母が。
ここにいた。
「何の記録?」
ようやく声を出す。
「短期滞在者の住民登録だ」
「短期?」
「当時は、十日以上同じ地区に滞在する者を登録していた。商人でも旅人でもな」
「何日いた?」
「二十三日」
「二十三……」
長い。
一日二日ではない。
ただ通り過ぎただけでもない。
母は、第九十九階層で三週間以上暮らしていた。
「目的は……?」
レンは何かに急かされるように、老人へ問いかけた。
「何?」
「滞在目的、書いてない?」
老人が欄を追う。
「調査」
「何の?」
「そこまではない」
「仕事?」
「分からん」
「誰と来た?」
「記載なし」
「どこに泊まってた?」
「南水路区、共同宿舎セラド」
ようやく得た手掛かりに沸き立つ気持ちを抑えながら、レンは問いを続けた。
「今もある?」
「その建物は三十年ほど前の水害で流された」
答えが一つ増えるたび、探せるものが一つずつ減っていく。
レンは奥歯を噛んだ。
「その後は?」
「その後?」
「ここを出た記録」
老人はページの右側を見る。
「ある」
「どこへ?」
老人の指が、ゆっくり一行をなぞる。
「第九十八階層」
耳の奥で、きん、と細い音が鳴った気がした。
「……九十八」
「ああ」
「帰ってない?」
「少なくとも、この記録ではな」
「第百階層へ戻った記録は?」
「帰還記録は別帳だ」
「見せて」
「待て待て」
老人は降参するように両手を上げた。
「一度に全部は出せん。古い台帳は傷みやすい」
「でも――」
「急いでも、過去は逃げん」
その言葉に、レンは口を閉じた。
老人は何冊かの台帳を順に確認していった。
ほんの数分のはずなのに、一生にも思えるほど長かった。
やがて。
「ないな」
「ない?」
「この年から、その後五年。エレナ・アルヴェールが第九十九階層から第百階層へ戻った記録はない」
レンは机を見つめたまま、ぽつりと呟いた。
まるで、自分自身に確かめるように。
「でも母さんは百にいた」
「なら記録漏れだろう」
「そんな簡単に漏れる?」
「昔の記録だ。門を正規に通らなかった者もいる。名を変える者もいる。別の地区を通った者もいる」
説明しようと思えば、いくらでも説明はつく。
それでも。
第百階層の記録では、その時期、母はずっと灰都にいたことになっている。
なのに、第九十九階層の記録では、同じ時期に二十三日間滞在し、その後、第九十八階層へ向かったことになっていた。
二つの記録。
二つの場所。
「これ、本当に母さん?」
レンは小さく呟いた。
老人は答えなかった。
代わりに、台帳の端へ指を滑らせる。
「特徴欄がある」
「特徴?」
「登録時に、身元確認のため外見的特徴を一つ二つ記録する」
老人の指が、ゆっくりと下へ移る。
「黒髪。灰眼」
母と同じだ。
「身長は――」
告げられた数字も、レンの記憶にある母の背丈とほとんど違わなかった。
「右肩に古い裂傷」
レンの思考が止まった。
「……何?」
「右肩に――」
「もう一回」
思わず言葉を遮った。
老人が怪訝そうに眉を寄せる。
「右肩に古い裂傷痕」
その言葉を聞いた瞬間、レンの頭に一つの記憶が浮かんだ。
幼い頃。
夏――地下世界に夏などないが、居住区がひどく暑くなる時期。
母が上着を脱ぎ、薄い肌着姿で洗濯をしていた。
肩。
右肩の後ろ。
白い肌に、斜めに走る古い傷痕。
子供の頃、一度だけ聞いたことがある。
『これ?』
エレナは笑った。
『転んだのよ』
『どこで?』
『昔ね』
転んだ。
ただ、それだけ。
「母さんだ」
かすれた、声とも息ともつかない音が口をついて出た。
もう、同姓同名ではない。
同じ名前。
同じ出身。
同じ年齢。
同じ髪。
同じ瞳。
そして、同じ傷。
母だった。
エレナは、第九十九階層へ来ていた。
そして――
第九十八階層へ向かった。




