第7話 - 月城さん
淡が無実だったことは確認され、モデルの仕事への影響もほとんどなかった。
父親も介入したことで、問題の大半は学校の中で収まったが、学校生活まで元に戻ったわけではない。
騒ぎが大きくなりすぎていた。
発端が何だったのか、誰が何を言ったのか。
誰が誰と喧嘩し、生活指導室で何があったのか。
大半の生徒は正確には理解していなかった。
ただ、月城淡を中心に学校中を巻き込む問題が起きたという印象だけが残った。
無実だったと分かったからといって、翌日から皆が元に戻るわけではない。
事件が起こる前は、朝でも、昼休みでも、授業の合間の短い休憩でも、誰かに話しかけられては普通に応じていた。
だが、事件のあと、誰も淡に話しかけなくなり、淡も周囲に話しかけることをやめた。
グループを組むときも、以前ならすぐに決まっていたのに、事件のあとは最後まで決まらず、腫れ物に触るように扱われた末、誰かのグループに押し付けられた。
誰とも話さないこと自体は苦ではなかった。
けれど、これはさすがにこたえた。
*
淡の無実が確認された日の夜、小学五年生から毎日のように来ていた夕日は、淡の家に来なかった。
淡は、今回の騒ぎを知ったのだと思った。
翌朝、いつもの時間に家を出ると、少し前を夕日が歩いていた。
「夕日」
いつも通りに呼ぶと、夕日は立ち止まり、ゆっくり振り返った。
そのとき向けられた目を、淡は今でも覚えている。
冷たく、少なくともそのときの淡には拒絶しているように見えた。
十四年間、淡にだけは向けられることがないと思っていた目だった。
夕日は小さく頭を下げた。
「……おはようございます、月城さん」
淡は動けなかった。
「……夕日?」
返事はなかった。
夕日はそのまま歩いていき、淡は追うことができなかった。
他の誰かに名字で呼ばれただけなら、何の意味もない。
けれど夕日は十四年間、一度だって淡をそう呼んだことがなかった。
淡には理由が一つしか思いつかなかった。
夕日も虚言を信じた。
だから、淡を拒絶した。
本当は違うと伝えたかった。
無実だったことを、夕日にだけはきちんと説明したかった。
けれど、話しかけてまたあの目で見られるのが怖かった。
もう一度『月城さん』と呼ばれることも怖かった。
その日を境に、淡は夕日に話しかけられなくなった。
*
それから数日、夕日は淡の家へ来なかった。
学校でも、夕日と話すことはなかった。
それどころか、誰も淡に話しかけてこなかった。
家に帰っても両親はいない。
夕日もいない。
淡は食事を取ることが減り、眠る時間もばらばらになったが、それでも何となく学校には通っていた。
ある朝、起き上がれなかった。
その日は学校を休み、次の日も、その次の日も行かなかった。
学校には連絡しなかった。
何日目だったのか、淡自身もよく覚えていない。
家の中で、一人で倒れた。
*
次に意識がはっきりしたとき、夕日がいた。
どうしてここにいるのか、淡には分からなかった。
夕日は淡の家の鍵を持っている。
何日も無断で学校を休んでいたため、様子を見に来たらしい。
夕日は何も言わず、淡も何も言えなかった。
それでも、その日から夕日はまた毎日、淡の家へ来るようになった。
以前と同じではない。
会話はなく、目もほとんど合わない。
それでも夕日は、平日は学校が終わると淡の家に来て、休日も変わらず通い、夕食を作り、洗い物をした。
淡が食べなかった日でも、次の日にはまた新しい夕食を作った。
最初のうちは夜になると夕日は自宅へ戻っていたが、いつからか帰らない日が出てきた。
夕日はリビングで夜を過ごすようになり、そのうち淡のベッドを使うようになった。
淡は何も言わず、代わりにリビングのソファで眠った。
しばらくすると、夕日が淡の家にいる時間はさらに長くなった。
ある夜、夕日は淡のTシャツを着ていた。
袖も丈も、夕日には大きすぎた。
次の日も、その次の日も同じように淡の服を着て、気がつけば部屋着にすることが当たり前になっていた。
淡には、夕日が何を考えているのか分からなかった。
淡を拒絶したはずなのに、毎日家に来て料理を作り、淡の服を着る。
帰らない日は淡のベッドで眠る。
それでも、一言も話さない。
何一つ意味が分からなかった。
*
家にいる時間は、日に日に苦しくなった。
だから淡は、外にいる時間を増やした。
学校が終わってもすぐには帰らず、教室に残って勉強した。
追い出されれば図書館へ行き、そこが閉まれば公民館の自習スペースへ行った。
家から離れた場所なら、どこでもよかった。
事件のあと、仕事も増やした。
それまでは、学校生活や夕日との家事分担を崩さない程度にモデルの仕事をセーブしていたが、もうそこまで気にせず入れるようになった。
また、母の仕事を手伝う時間も増え、中学三年になる頃には、以前より任される範囲が広がっていた。
夕日の父親からも、昔から仕事についていろいろ教わっていた。
この頃には、仕事を頼まれることも増えていた。
特に夏休みは仕事に使える時間が増え、モデルの収入も合わせると、中学生が稼ぐ額としては明らかにおかしかった。
空いた時間は勉強した。
とにかく、何もしていない時間を作りたくなかった。
夕日のことも、学校のことも、事件のことも、家に帰ったとき夕日がそこにいる理由も、考え始めれば答えの出ないことばかりだった。
だから、予定で埋めた。
*
話を聞いていた雛華が口を開いた。
「それで、あんなに勉強できるようになったんだ」
「まあね」
「前に言ってた理由の一つ目」
「そう」
余計なことを考えないため。
そして、もう一つ。
いつかまた夕日に『淡、これ教えて』と言われたとき、何を聞かれても答えられるようにするためだった。
そんな日が来るのかどうかは分からなかった。
それでも、勉強をやめる理由はなかった。
*
夏休みを過ぎても、二人は一度も言葉を交わさなかった。
それでも夕日は毎日淡の家へ来て、食事を作った。
淡の服を部屋着にし、帰らない日は淡のベッドで眠った。
学校では完全に他人だった。
淡には、友人と呼べる人間もいなかった。
そうして中学三年も終わり、中学校の卒業式を迎えた。
淡の両親は来なかった。
いつものことだった。
だから、それ自体は今さら何とも思わなかった。
本当なら、夕日と並んで卒業するはずだった。
小学校の卒業式のように、帰り道でくだらない話をして、写真を撮って、どちらかの家に帰って一緒に卒業祝いをする。
そんな未来を疑ったことすらなかった。
実際には誰とも話さず、一人で校門を出た。
夕日がどこにいたのか、淡は見なかった。
*
「高校は?どこを受けるか、灯さんと相談したりしなかったの?」
「してない」
「じゃあ、淡はどうやって今の高校決めたの?」
「一番近かったから」
「それだけ?」
「それだけ」
淡は笑った。
「高校自体、どこでもよかったんだよね」
中学三年の頃は、学校へ行き、残って勉強して、モデルの仕事へ行って、家に帰れば書斎にこもって、母たちから任された仕事をこなしていた。
高校に入れば、そこへさらにアルバイトも加えようと思っていた。
考える時間を、もっと減らしたかったからだ。
だったら、通学に時間を使う意味もない。
一番近い高校で十分だった。
入試で一位になったことも、新入生代表になったことも目的ではない。
ただ、事件のあとから勉強を続けていた結果だった。
「灯さんが同じ高校なの、知らなかった?」
「知らなかった」
「同じクラスなのも?」
「入学して初めて知った」
中学を卒業した時点で、夕日との関係が変わるとは考えていなかった。
変えようともしていなかった。
ただ、高校の教室で、もう一度灯夕日の名前を見ることになった。




