第6話 - 守るために
中学二年の十一月、それまで当たり前だったものが、突然全部壊れた。
いつも通り、淡がクラスでよく話すグループと過ごしていると、一人の先輩が教室にやってきた。
そのとき、夕日は教室にいなかった。
始まりは、その先輩とクラスメイトの女子との口論だった。
どちらの方が淡を好きなのか。
どちらが淡に釣り合うのか。
そんな話から、二人はそれぞれ淡と特別な関係にあったと言い始めた。
先輩は、ある日、淡と一緒にいたと言った。
同級生も、その時間は自分と会っていたと言い張った。
二人の話は両立しなかった。
それでもどちらも譲らず、自分の話が本当だと言い張った。
最初は、ただ二人の言い争いだった。
淡自身にとっては、どちらの話も身に覚えがなかった。
二人が何を根拠にそんなことを言っているのかも分からなかった。
けれど、二人の言い争いは、淡についての噂となって教室の外まで広がっていった。
「私も誘われたことがある」
「私も二人で会った」
「あの子とも何かあったらしい」
淡と少し話したことがあるだけの女子も、ほとんど接点のない女子も加わった。
やがて、肉体関係があったかのような話まで混ざり始めた。
さらに、その女子たちを好きだった男子まで加わった。
「お前、何人に手出してんだよ」
「ふざけんな」
「モデルだからって何してもいいと思ってんの?」
淡は、言われるたびに「してない」と否定した。
けれど、すでに広がった話は止まらなかった。
否定すれば言い逃れだと言われ、黙れば認めたことにされた。
何を言っても、次には別の誰かが別の話を持ってくる。
発端は先輩と同級生の二人だったはずなのに、途中から加わった生徒の中には、最初に何があったのかすら知らない者もいた。
次第に、誰が誰を嫌っているとか、以前誰が誰の悪口を言ったとか、淡とは関係のない話まで持ち出されるようになった。
誰が誰の話を信じているのか。
誰が何に怒っているのか。
それさえ曖昧なまま、淡の名前だけが中心に残った。
言い争いは教室だけでは収まらず、廊下でも揉め事が起きた。
やがて男子同士が掴み合い、机が倒れ、誰かが投げた物が窓に当たった。
ガラスが割れる音がした。
そこでようやく、教師たちが本格的に介入した。
*
生活指導室に、淡は呼び出された。
先輩と同級生、それに何人かの生徒から事情を聞いた生活指導の教師は、最初から淡を疑っているようだった。
「複数の生徒が同じようなことを言ってるんだぞ」
「嘘です」
「全員が嘘をついてるっていうのか?」
「はい。僕は誰とも何もしてません」
「モデルなんかやってるから、学校でも自分が特別だと勘違いしてるんじゃないのか?」
淡は教師を見返した。
「関係ないと思います」
「そういう態度だよ」
「何がですか」
「大人を馬鹿にしてるのか」
「してません」
何を答えても、教師の態度は変わらなかった。
話を聞くために呼ばれたはずなのに、淡の言葉を確かめようとしているようには思えなかった。
複数の生徒がそう言っている。
教師が繰り返すのは、そればかりだった。
「その日はどこにいた」
具体的な日付を挙げられた。
淡には、ほぼ全部に答えがあった。
夕日と一緒に家にいた日。
二人で買い物に出かけた日。
それ以外は、モデルの仕事が入っていた。
それでも、夕日の名前だけは出さなかった。
「家です」
「一人で?」
淡は黙った。
「誰か証明できる人はいないのか?」
いる。
夕日なら、淡の話を裏付けられる。
小学五年生のとき、泣きながら一人で皆の前に立った夕日を覚えている。
普段は大声を出すこともない夕日が、あの日だけは淡を庇い続けた。
あのときは、夕日が淡を守ってくれた。
だから今度は、夕日を巻き込みたくなかった。
今回の騒ぎは、あのときよりずっと大きい。
ここで『灯夕日と一緒にいました』と言えば、今度は夕日も事情を聞かれる。
なぜ毎日一緒にいるのか。
何をしていたのか。
付き合っているのか。
肉体関係はあるのか。
淡について好き勝手なことを言った人間が、今度は夕日に何を言うのか分からない。
自分の無実を証明するために、夕日をこの騒ぎの中へ連れてくる。
淡には、それができなかった。
だから、名前を出さなかった。
「証明できないなら、お前の言ってることなんて信用できないんだよ」
「でも、してないです」
「まだ言うか」
「してないものはしてません」
次の瞬間、頬に衝撃が走った。
何が起きたのか、一瞬分からなかった。
生活指導の教師に殴られたのだと気づくまで、少し時間がかかった。
「モデルなんかやって、周りからちやほやされて。自分は何しても許されると思ってるんじゃないのか」
淡は手を上げることも、言い返すこともしなかった。
ただ教師を見ていた。
別の教師が入ってきて、そこでようやく止まった。
*
淡の話が事実だと分かったのは、そのあとだった。
まず、モデルの仕事が入っていた日について、撮影記録と関係者の証言、移動時間が確認された。
虚言で挙げられていた場所に淡がいることは、物理的に不可能だった。
別の日には、買い物に行ったスーパーの店員が淡を覚えていた。
雑誌で見たことがあったからだ。
『その日は、誰かと一緒に来ていましたよ』
『たぶん、月城くんと同じくらいの年の子だったと思います』
誰だったのか。
男だったのか、女だったのか。
そこまでは覚えていなかったようだ。
それでも、一人ではなかったという店員の記憶に加え、来店した時間や買った物は記録とも一致した。
虚言の内容とは合わなかった。
ほかの日も、仕事関係者の証言や記録から少しずつ矛盾が見つかった。
一つ確認されるたび、淡が言っていたことと、周囲が広めていた話のどちらが事実なのかがはっきりしていった。
最初の二人の話も、詳しく確認するほど食い違っていった。
そこが崩れると、便乗していた話も次々に崩れた。
やがて、淡について広まっていた話の大半は虚偽だったと確認された。
淡は無実だった。
ただ、それが分かるまでに時間がかかった。
疑いが晴れても、耳に入った言葉や向けられた視線、教師に殴られた事実まで消えるわけではなかった。
*
「灯さんの名前は、本当に一回も出さなかったの?」
雛華の問いに、淡は頷いた。
「出してない」
「ほとんど一緒にいたんでしょ?」
「うん」
「言えば、もっと早く終わったかもしれないのに」
「そうかもね」
淡はあっさり答えた。
「でも、巻き込みたくなかったから」
「そうかもしれないけど……」
「もしあの時、夕日が自分から名乗り出ても否定したよ。関係ないって。それで夕日に被害が及ばないなら」
そこで一度、言葉を切った。
「夕日が言わなかったことは、僕の中ではよかったと思ってる」
自分が夕日を巻き込まないと決めたことも、そのときは間違っているとは思わなかった。
「でも、嘘つき呼ばわりされて、教師にも殴られたんでしょ」
淡は少し俯いた。
「こういうの、有名税っていうのかな」
「そういうことじゃないでしょ」
雛華の声が強くなった。
「有名だからって何してもいいなんて、おかしいよ」
「まあ、殴った教師の件は、父さんがいろいろ動いてたよ。教師が生徒に手を上げたこと自体が問題になって、その教師は解雇された。学校のスキャンダルにもなるから、父さんは大きく報じられないようにも動いてたみたい」
「やっぱり社長ってすごいんだね。でも、それで淡の傷がなくなるわけじゃないでしょ」
淡はすぐには答えなかった。
父親が動いて教師が処分されても、それで自分の中まで元に戻るわけではなかった。
「うん」
雛華も、それ以上は続けなかった。
しばらくして、淡が口を開く。
「殴られたことや、嘘を触れ回されたことより辛いことがあったから、処分がどうとかで切り替えられなかったね」
雛華は何も言わず、淡の次の言葉をただ待った。




