第5話 - 次は僕が守る
小学五年生の頃、淡はモデルの仕事を続けていたので、学校内では少し有名人だった。
男女問わず明るく接していて、周囲との関係も悪くなかった。
ただ、淡の価値観を大きく変える出来事が一つあった。
ある日の放課後、淡はあやこという六年生の女の子に呼び出された。
学校で一番可愛いと言われていた生徒で、淡も名前くらいは知っていたが、まともに話したことはほとんどなかった。
「月城くん」
「はい」
「私、月城くんのことが好き。付き合ってください」
どう答えればいいのか少し考えたが、答えは一つしかなかった。
「ごめんなさい」
その返事に、あやこの表情が変わった。
「……どうして?」
「どうしてって言われても」
嫌ではない。
でも、好きなのかと聞かれれば好きではない。
何より、名前くらいしか知らない相手と、なぜ付き合うのか。
当時の淡には本当に分からなかった。
「ごめんなさい」
もう一度そう言って、その日は終わった。
終わったはずだった。
翌日、学校へ行くと空気が違った。
六年生が何人か、それに淡の同級生までが周りに集まってきた。
「あやこちゃん泣かせたんだろ」
「何様なの?」
「モデルやってるからって調子乗ってない?」
「あやこちゃん可哀想」
「普通、あやこちゃんに告白されたら付き合うだろ」
告白されて、断った。
ただ、それだけだ。
なぜ責められるのか分からない。
「好きじゃないから断っただけです」
そう言っても、聞いてもらえなかった。
一人が何か言えば、別の誰かが重ねた。
モデルだから調子に乗っているとか、女の子の気持ちを考えていないとか、生意気だとか、あやこを傷つけたとか。
こちらの話を聞かないまま、否定の言葉だけが増えていった。
そのときだった。
「違う!」
教室に大きな声が響き、淡も驚いて振り返った。
夕日だった。
普段の夕日は明るく、よく笑う。
淡には遠慮なく言うこともあるが、人前で怒鳴るような子ではない。
そんな夕日が、泣いていた。
「淡はそんな人じゃない!」
声を震わせながら、皆の前に立った。
「淡は、あやこちゃんを傷つけたくて断ったんじゃない!」
「灯には関係ないだろ」
周囲から声が飛んでも、夕日はやめなかった。
「関係ある!」
その声は、淡がそれまで聞いたことがないくらい大きかった。
「淡は優しいよ!困ってたら絶対助けてくれる!人の悪口だって言わないし!私が分かんないことあったら、何回でも教えてくれる!」
泣きながら、夕日は淡のいいところを一つずつ口にした。
否定されれば、また言い返した。
「でも、あやこちゃんは――」
「好きじゃないのに付き合った方がひどいじゃん!」
誰に何を言われても、夕日は淡の前から退かなかった。
先生が騒ぎに気づいて教室へ入り、皆を止めるまで、ずっと一人で淡を庇い続けた。
*
淡は少し笑った。
「そのときかな、夕日って、かっこいいなって思ったの」
「それまでは?」
「可愛いとはずっと思ってたよ」
それまでの淡にとって、夕日はずっと身近な存在だった。
可愛いと思うこともあったし、一緒にいるのが当たり前だった。
頼られることも、頼ることもあった。
夕日が料理を作ることも、分からない問題を持ってくることも、雷の日に帰りたがらないことも、全部いつものことだった。
だから、それまで淡は夕日を改めて評価するようなことをほとんどしてこなかった。
隣にいて、毎日の中にいる人だった。
でも、その日だけは違った。
自分のために泣きながら皆の前に立ち、何を言われても退かなかった夕日の姿が、淡には誰よりもかっこよく見えた。
自分が知っている夕日の中に、そんな強さがあることを初めて意識した。
「それで決めた」
「何を?」
「次は僕が守ろうって」
淡にとって、その言葉は難しいものではなかった。
夕日が自分の前に立ってくれたのなら、次に何かあったときは自分が前に立てばいい。
誰かに何かを言われるなら、自分が言われればいい。
淡は昔から、自分でできることは自分で済ませる方が自然で、守ることもその延長にあった。
夕日が自分のために泣いて周りとぶつかるようなことは、もう絶対にさせないと思った。
「夕日は、可愛い夕日のままでいてほしいって思った」
雛華は少しだけ首を傾げた。
「かっこいいって思ったのに?」
「うん。夕日に強さがいらないって意味じゃないよ」
淡は少し考えてから続けた。
「夕日が泣くのを、もう見たくなかったんだと思う」
「それ、もう好きだったんじゃない?」
答えはすぐに浮かんだが、淡は一拍置いてから笑った。
「今ならそう思う」
ただ、当時はその感情に名前をつけなかった。
あやこからの告白を断った翌日、夕日が自分の前に立ったことで、淡の中で『いつも隣にいる夕日』の見え方だけが変わった。
大切な相手であることは、それ以前から変わらない。
ただ、その大切さを恋愛として考えるところまでは、まだいかなかった。
「じゃあ、付き合いたいとかも?」
「考えてなかったよ」
「そこまで一緒にいるのに?」
「一緒にいるから、かな」
淡は言葉を探した。
「どういえばいいのかな……。付き合わないと一緒にいられないって思ってなかったからかな」
恋人という言葉を知らなかったわけではない。
ただ、自分と夕日に当てはめる必要を感じなかった。
関係に名前を付けなくても、変わらず夕日は隣にいると思っていたからだ。
夕日は次の日もいる。
来週もいる、来年もいる、ずっと隣にいる。
そう思っていたから。
*
先生が騒ぎを収め、夕日もようやく落ち着いた。
家に帰っても、夕日は当たり前のように淡の家へ来て、いつも通り宿題をして、一緒に夕食を食べた。
騒動の翌日、淡は夕日に何かされるのではないかと心配しながら登校した。
自分がされたように、今度は周囲が夕日に何かしてくるかもしれない。
そんなことを警戒しながら教室に入った。
けれど、夕日に嫌がらせや無視が向けられることはなかった。
全員が、騒ぎを起こした側と同じ気持ちだったわけではないのかもしれない。
夕日もいつもの笑顔で女友だちと話していた。
ただ、前日までと違ったのは、淡が夕日を見る回数だった。
意識して視線を向けることも、無意識に目で追うことも増えていた。
夕日は自分が守る。
そう決めた気持ちの表れだったのかもしれない。
もう一つ、変わったことがあった。
夕日以外の相手には、以前より少しだけ線を引いて接するようになった。
話しかけられれば普通に笑うし、自分から話すこともある。
ただ、相手がどう受け取るか分からないことは、わざわざ言わない。
意見を求められても、必要以上には踏み込まない。
今振り返れば、それは人を遠ざけるためではなく、波風を立てずに付き合うための処世術に近かったのだと思う。
誰かを信用しなくなったわけではない。
ただ、相手との距離を意識せずに近づくことはしなくなった。
小学六年生になったころには、夕日と話しているときだけ、他の人が自然と会話へ入ってこなくなることが増えた。
「今思えば、雛華と雪が話してるときに少し似てたのかも」
「私たち?」
「うん。二人で話してると、周りが入りづらい感じ」
「……そんな感じある?」
「あるよ」
雛華は少し考えるように首を傾げた。
淡は小さく笑って、話を続けた。
もちろん、クラスメイトと話さなかったわけではない。
ただ、夕日と話しているときだけは、二人で会話が完結していたのだと思う。
卒業式には当然のように、両家の親は来なかった。
それでも、夕日がいたので全く寂しくなかった。
中学生になっても、変わらず夕日が隣にいると思っていた。
淡にとっては、通う先が小学校から中学校へ変わるだけの感覚だった。
*
中学生になっても、夕日との生活はさほど変わらなかった。
変わったのは、淡のモデルの仕事の幅だった。
事務所を通して企業やブランドと継続的な契約を結ぶようになった。
撮影や広告の仕事は増えたが、来た仕事をすべて受けていたわけではない。
学校生活や、夕日と家事を分担する日々を崩すほど、仕事を入れる気はなかった。
帰る場所は変わらない。
家に帰れば、夕日から「おかえり」と言われ、淡が「ただいま」と返す。
モデルとしての露出も少しずつ増え、小学生の頃以上に学校内で目立つようになった。
クラスメイトだけでなく、同級生や上級生から話しかけられることも増えていった。
学校ではクラスメイトと普通に話し、よく一緒にいるグループもあった。
夕日のように何でも話せる相手はいなかったが、モデルの現場で大人たちと接する機会も多く、相手に合わせて波風を立てずに話すことには慣れていた。
学校で人間関係に困ることはなかった。
学校でも当たり前のように「夕日」と呼ぶ。
淡が名前で呼ぶのは夕日だけだった。
中学生になると、夕日との関係を『付き合っている』とからかわれるようになった。
淡はそれを嫌だと思わなかったし、肯定も否定もしなかった。
「周りからはそう見られてたんだ」
「うん。最初はからかわれてたけど、僕も夕日も何も変えなかったからか、そのうち言われなくなったね」
「否定もしなかったの?」
「わざわざする理由もなかったから」
雛華は少しだけ目を丸くした。
「灯さんは?」
「そのことを二人で話したことはなかったよ」
夕日に好意を向けて近づく男子もいなかった。
幼なじみだと知っている人も多く、いつも一緒にいる二人の間には入りづらいと見られていたのだと思う。
物心ついた頃から、淡は母にプログラミングを教わっていた。
中学生になる頃には、簡単な仕事を任されることもあった。
成績は悪くなかったが、上位を狙うほど勉強に力を入れていたわけではない。
学校へ行き、夕日と家事を分担し、モデルの仕事や母から任された作業をこなす。
そんな毎日で十分に充実していた。
中学二年になると、少しずつ高校の話も出るようになった。
「同じ高校に行けたらいいね」
そんなことを夕日と話すこともあった。
具体的な進学先を決めていたわけではない。
それでも、次の学校にも夕日がいる未来を、淡は当たり前のように想像していた。
夕日はこれからも隣にいる。
自分たちの生活は、このまま続いていく。
少なくとも淡は、そう信じていた。
――中学二年の十一月までは。




