第4話 - ずっと隣にいた
淡の一番古い記憶には、夕日がいる。
何歳の頃だったかは分からない。
庭で遊んでいて、夕日が転んだ。
泣き出した夕日の隣に、淡はただ座った。
どう慰めればいいのか分からなくて、泣き止むまで一緒に地面に座っていた。
あとで親たちに、『淡は優しいな』と言われた。
淡自身は、優しくしたつもりなどなかった。
夕日が泣いていたから、そこにいただけだった。
幼稚園も小学校も同じだった。
どちらかの家にいるのが当たり前で、「遊びに行く」という感覚すらなかった。
「淡、これやって」
「自分でやれば?」
「できないから持ってきたの。お願い」
「まだ見てもないから」
「淡ならできるよ」
昔から夕日は、淡にいろいろなことを頼んでいた。
折り紙や工作、宿題、ゲーム、壊れたおもちゃまで、淡ができそうだと思えばとりあえず持ってくる。
逆に、淡がやらないことや苦手なことは夕日がやった。
「淡、その服、色が合ってない」
「そう?」
「うん。こっちの方が似合う」
夕日は淡の部屋から別の服を持ってきた。
「はい」
「何が違うの?」
「全然違うよ」
「分かんない」
「淡は分からなくていいの」
夕日は昔から、色や形を見るのが得意だった。
ファッション関連の仕事をしている母親の影響なのか本人の感覚なのか、淡にはよく分からなかった。
ただ、夕日が選んだものを着ていれば、夕日は満足そうだった。
それなら、それでよかった。
*
小学三年生の頃、親の会社関係者に声をかけられ、淡はモデルの仕事を始めた。
最初は一度だけのつもりだった。
服を着て、指定された場所に立ち、カメラを向けられる。
始めたばかりの頃は仕事もそれほど多くなく、たまに雑誌の撮影へ行く程度だった。
学校生活の方がずっと中心だった。
「どうだった?」
最初の撮影から帰った淡に、夕日が聞いた。
「普通」
「普通って何?」
「服着て、写真撮られた」
「それだけ?」
「それだけ」
数週間後、掲載された雑誌を夕日が持ってきて、ページを開いた。
「いた」
「いるね」
「淡だ」
「僕だからね」
夕日はしばらく写真を眺めていた。
「かっこいい」
何でもないことのように言われ、淡は少し恥ずかしそうに視線を逸らした。
「……そう?」
「うん。モデルの淡、かっこいいよ」
それだけだった。
でも、次の仕事を頼まれたとき、淡は断らなかった。
モデルが好きだったわけではない。
撮影が楽しかったわけでもない。
ただ、夕日がかっこいいと言った。
それで続ける理由としては十分だった。
*
小学四年生のとき、淡も親と一緒に海外へ行く選択肢はあった。
むしろ両親からすれば、その方が自然だったと思う。
でも、淡は行かなかった。
海外で暮らすことが怖かった。
知らない言葉や学校、街で暮らすことも、残る理由のひとつだった。
けれど、一番大きかったのは別だった。
夕日に会えなくなるのが嫌だった。
当時の淡は、それを特別な感情だとは考えていなかった。
ただ、夕日がいない生活を想像できなかった。
だから一人になっても日本に残った。
両親は最初、食事や掃除を任せるためにハウスキーパーを入れるつもりだったらしい。
けれど、淡は知らない人が家に出入りするのを嫌がった。
結局、定期的に人を入れることはせず、必要なときだけ頼れる生活支援サービスを契約し、普段は灯家に頼る形になった。
一人暮らしが始まった年は、夕日の家で面倒を見てもらうことが多かった。
学校が終わると、自分の家に荷物を置き、それから隣の灯家へ行った。
扉を開ければ、夕日だけではなく、夕日の父親や母親も淡を迎えてくれた。
宿題をしたり夕日と遊んだりして、夕食を一緒に食べることが日常だった。
時間になれば、自分の家へ戻った。
家には誰もいなかったが、いつでも隣へ行けば夕日と夕日の両親が迎えてくれた。
だから淡は、自分が一人で暮らしているという感覚をあまり持たなかった。
*
小学五年生になる頃、夕日の両親も海外を拠点にするようになり、夕日は一人暮らしとなった。
夕日も日本に残る決断をしていた。
本人に直接理由を聞いてはいないが、淡と同じ気持ちだったと思った。
今度は生活の形が逆になり、夕日が淡の家へ来る方が圧倒的に多くなった。
学校が終わると、そのまま淡の家へ来た。
休日は朝からいた。
宿題をしたり、テレビを見たり、本を読んだりしながら、淡の部屋で好き勝手に過ごした。
夕食も、淡の家で食べるのが日常だった。
最初は二人で料理をすることが多かったが、次第に夕日が一人で作るようになった。
最初は卵焼きや味噌汁、野菜炒めのような簡単なものだけだった。
そのうち、レシピを見ながらいろいろな料理を作れるようになっていった。
「どう? おいしい?」
「おいしい」
「本当に?」
「うん」
「どれくらい?」
「どれくらいって?」
「店だったらいくら出す?」
「なんで店基準なの」
「いいから」
淡は少し考えた。
「千円」
「安いよ……」
夕日は少し肩を落とした。
「じゃあ千五百円」
「適当になった」
「おいしいって言ってるじゃん」
夕日はまだ少し不満そうだった。
それでも、次の日も料理を作った。
風呂も淡の家で済ませ、寝るときだけ夕日は隣の自分の家へ戻った。
例外は、雷や台風の日だった。
夕日は雷が大の苦手だった。
空が光り、大きな音が鳴ると、自分の家には戻りたがらなかった。
「今日、帰らない」
「ここで寝るの?」
「うん。雷怖いから、一人やだ」
夕日はそう言って、リビングのテレビの音量をいつもより大きくした。
雷の音を紛らわせるためだった。
そのまま淡の隣でテレビを見ていたが、気がつけばソファで眠っていた。
淡が音量を下げると、雷が鳴るたびに夕日は薄く目を開けた。
結局、その日は自分の家に戻らず、淡の家で朝を迎えた。
半年もすれば、二人の家のうち淡の家が生活の中心になっていた。
半分、一緒に暮らしているようなものだった。
*
中学生になっても、二人の関係は大きく変わらなかった。
学校では話し、一緒に帰った。
家に帰ってからも、小学生の頃と変わらず夕日は淡の家にいた。
テスト前には、一緒に勉強した。
「淡」
「なに?」
「これ分かんない」
「どれ?」
夕日が差し出した問題集を、淡が解いた。
「ここ先に変形する」
「なんで?」
「そのままだと計算しにくいから」
「……あ」
「分かった?」
「分かった」
「じゃあ次、自分でやって」
夕日が少し考えた。
「淡」
「何?」
「これも分かんない」
「今のと同じじゃん」
「違う」
「数字しか違わないよ」
「教えて」
「自分でやって」
「けち」
淡の成績は悪くなく、夕日も平均より上だった。
ただ、夕日は分からない問題があるとすぐ淡に聞いた。
そして、珍しく淡にも分からない問題があると、夕日はなぜか嬉しそうに言った。
「淡も分からないんだ」
「嬉しそうなの腹立つんだけど」
「だって淡、何でも分かるみたいな顔するから」
「してないよ」
「してる」
「してない」
「してる」
結局、二人で答えを見た。
そんな毎日だった。
*
中学二年になる頃、淡の髪色が変わった。
撮影の都合で、一時的にシルバー系へ染めることになった。
淡にこだわりはなかったから、仕事が終われば戻すつもりだった。
家へ帰ると、夕日は玄関を開けた淡を見て固まった。
「髪の色どうしたの?」
「仕事で染めただけだよ」
夕日は淡の周りを一周した。
「似合う」
「そう?」
「うん。淡、その色も似合う」
「その色も?」
「黒もいいけど」
夕日は正面に戻った。
「かっこいいよ。私はこっちも好き」
結局、淡はそれ以降戻すことはなかった。
*
雛華の視線が、淡の髪へ向いた。
「今も?ずっとその色?」
「うん。少し濃くしたり薄くしたりはするけど、だいたい同じ」
「仕事で?」
「今は別に指定されてないよ」
雛華が少しだけ首を傾げた。
「じゃあ、なんで?」
淡は自分の前髪を軽くつまんだ。
「変える理由がないから」
「……そっか」
淡は前髪をつまんだまま、小さな声で続けた。
「夕日が、かっこいいって言ってくれたから……」
雛華はそれ以上、何も尋ねなかった。
少し間を置いて、雛華は話を戻した。
「そこまでずっと一緒にいたのに、二人は付き合ってなかったんだよね?」
「うん」
「好きじゃなかったの?」
淡は少し考えた。
「当時は、好きとか付き合うとか、あんまり分かってなかったんだと思う」
「中学生でも?」
「小さい頃からずっと一緒だったから」
夕日は夕日だった。
幼なじみで、隣の家の子で、一番一緒にいる子。
そのどれでもあって、どれか一つではなかった。
「特に小学生の頃は、好きって何なんだろうって思ってたよ」
「どういうこと?」
「名前くらいしか知らない相手を好きになることあるでしょ?」
「まあ、あるね」
「それが一番分からなかった」
淡は笑った。
「ほとんど話したこともないのに、なんで好きになれるんだろうって」
「淡は逆だったんだ」
淡は、夕日の好きな食べ物も、苦手なことも、笑い方も、怒ったときの顔も、泣き方も知っている。
機嫌が悪いときに黙ることも、何をすれば喜ぶかも知っている。
淡にとって、誰かを特別に思うなら、まずその人を知っていることの方が自然だった。
「でも、僕の中で夕日の存在が変わった瞬間はあるよ」
「いつ?」
「小五」
そう言って、淡は伸びをするように上体を少し後ろへ傾け、昔のことを思い返した。




