第32話 - 予期せぬ誤解
淡と雛華の会話はしばらく続いたが、雛華の返事がだんだん短くなる。
「雛華、眠い?」
「……ちょっと」
そう小声で答えた直後、雛華の身体がゆっくり淡のほうへ傾いた。
夜遅くまで夕日と話をしていたと聞いている。
それに、朝からバタバタもしていた。
だから、眠くなるのも仕方がない。
雛華はそのまま淡に身体を預けるようにして、眠ってしまった。
「寝るの早いな」
小さく呟いた淡の言葉にも、返事はなかった。
起こすのもかわいそうなので、そのままにした。
目的地までは起きているつもりだったが、次第に瞼が重くなってきた。
意識もぼんやりとしてきた。
バスの揺れに合わせて身体が傾き、自然と雛華のほうへ体重がかかった。
淡も雛華に身体を預けたまま、眠ってしまった。
*
周りの騒がしさで、淡は目を覚ました。
隣で雛華も眠そうに瞬きをしていた。
「……着いた?」
「みたい」
まだ頭が完全には働いていない。
すでにバスを降りる準備を済ませている生徒が何人かいた。
淡も準備をしようと席を立つと、斜め前に座っていた女子生徒から声をかけられた。
「やっぱり二人付き合ってるでしょ!寄り添い合いながら寝ちゃってさ」
淡も雛華も寝起きで、まだ頭がうまく働いていなかった。
そのため、女子生徒が何を言っているのか、すぐには理解できなかった。
そんな二人を見て、女子生徒はスマートフォンの画面を見せてくる。
そこには、肩を寄せ合って眠る淡と雛華が写っていた。
「写真撮ったの?」
「だって、めっちゃそれっぽかったんだもん。ていうか、手まで繋いでたよ」
淡は改めて画面を見直した。
確かに、手を繋いでいるように見える。
眠っている間に、偶然手が重なってしまったのだろうか。
雛華は顔を赤くしながら、スマートフォンから女子生徒へと視線を移した。
「いや、これは知らない!」
「ほんとラブラブじゃん。昨日は着物デートで、今日はこれ?」
「だから昨日は四人だって」
「でもこれは言い逃れ無理じゃない?」
「寝てただけだから!」
「手繋いで?」
「だから知らないって!」
雛華が必死に否定する横で、淡は少しだけ後悔していた。
別に、雛華と寄り添って眠ってしまったことに抵抗があるわけではない。
ただ、昨日澄都と話したばかりだった。
淡が少し離れた場所にいる澄都へ目を向けると、ちょうど目が合った。
しかし、澄都は特に表情を変えなかった。
怒っているようにも、気にしているようにも見えない。
ひとしきり女子たちにああだこうだと言われ、ようやく解放された頃には、淡も雛華もすっかり目が覚めていた。
バスを降りたところで、水野が全員に聞こえるように声を張った。
生徒たちの会話が少しずつ止んでいった。
「ここからは自由行動だ。ただし、班ごとのレポートが必要になるから、ちゃんと見学してこい」
生徒たちの中から、まばらに返事が上がる。
水野はそれを聞いてから、今後の予定を説明した。
「時間になったらバスに戻れ。そのあと名古屋駅へ移動して、そこからは自由時間だ。そして、そのまま東京へ帰る予定だ」
簡単な注意事項と集合時刻の確認が終わったところで解散になった。
一気に生徒たちが散り始めた。
淡は周囲を見渡し、少し離れたところにいる澄都を見つけた。
「雪」
呼ぶと、二人が同時にこちらを見た。
澄都とその隣にいた女子生徒――柴田 由希。
淡は一瞬、言葉に詰まった。
「あ、ごめん柴田さん。澄都の方」
「あ、ですよね」
柴田は少し気まずそうに笑った。
淡は柴田に軽く会釈すると、澄都のところまで歩いていった。
「どうした?」
「雛華とのさっきの話と写真って、澄都にも伝わってる?」
「見せられた」
「ごめん」
澄都が眉を寄せる。
「なんで俺に謝る」
「謝るよ」
「はぁ……。そこまで何とも思ってない」
「そうなの?」
「月城とは昨日、夜遅くまで話してたし、雛華からも灯と遅くまで話してたって聞いてる。それに朝からバタバタしてただろ。二人とも疲れてんのは分かる」
「でも、わざわざ寄り添って寝なくてもいいじゃん」
「自分で言うなよ。自分たちでそうしたわけじゃないんだろ?」
淡が頷くと、澄都は特に気にする様子もなく、話を続けた。
「二人が恋愛関係になることは絶対ないって言ってたし。灯を見るお前の目を見てたら、別に心配することないだろ。……他の男だったら嫌だけどな」
心配事が一つ消えた。
あの写真は、恋人同士だと言われても否定しづらいものだっただけに、澄都が気にしていないと分かって安心した。
淡はさっきのことを思い出す。
「それはそれとして、これから澄都って呼ぶわ」
「なんだよ急に」
「さっきみたいに、『ゆき』って女の子の名前でも多いから紛らわしいなと思って」
澄都も柴田の方を見る。
「あー、今のやつね。好きに呼べば」
「じゃあ澄都。僕のことは淡で」
「なんでだよ」
「僕だけ名前だと、距離を感じるから」
「そういうの気にするのか?」
「普段は気にしない。名前で呼ぶ人もほとんどいないし。けど、一応友達だし、雛華もそう呼ぶから」
「雛華は結構前からだろ」
「じゃあ澄都も今日から」
「勝手に決めんな。……分かったよ」
澄都は苦笑いしながら、視線を逸らした。
淡はその反応に満足して、笑みを浮かべた。
「よろしく、澄都」
「はいはい、淡」
二人で歩き始めると、何人かの生徒から一緒に回ろうと声をかけられた。
昨日までなら、曖昧に笑いながら、その場の空気に合わせていたかもしれない。
けれど、今日は違った。
淡は笑顔を崩さずに答えた。
「ごめん。班のメンバーで回ろうと思ってる。澄都、二人を探しに行こ」
誘ってきた生徒たちが何か言うよりも早く、淡はその場を離れた。
少し歩いたところで、澄都が口を開いた。
「いいのかよ?結構誘われてただろ」
「機嫌取るの疲れるし。ベタベタされるの鬱陶しいし」
淡はあっさりと答えた。
複数人で観光するとき、男子と一緒に歩く分には気にならない。
けれど、女子の中には当たり前のように腕を組んでくる者が一定数いた。
昨日までなら、笑って受け流していただろう。
だが今は、そうした行動に少し嫌悪感さえ覚える。
「昨日までと言ってること全然違うな」
「今朝決めたからね」
雛華はすぐに見つかった。
何人もの男女に囲まれていて、離れたところからでも目立っていた。
雛華は困ったように笑いながら誘いを断っていた。
淡はそのまま近づき、雛華に声をかけた。
雛華がこちらを向いた。
「雛華、行くよ」
それだけで周囲も察したらしく、雛華はあっさりと輪から抜けた。
後ろから何か声をかけられたが、三人とも気にせず歩き出した。
雛華は周囲に聞こえないほどの小さな声で呟いた。
「助かったよ」
「どういたしまして」
「便利だね、その噂」
「利用できるうちは利用する」
隣を歩く澄都は、少し呆れたような顔をしていた。
三人はそのまま夕日を探しに向かった。
夕日を見つけた瞬間、淡の表情が固まった。
少し離れたところで、夕日は同じ学校の別クラスの男子生徒数人に囲まれていた。
明らかに困っていた。
「灯さん、前から可愛いなって思ってたんだよね。今日は髪型も違うし、眼鏡もかけてないから、雰囲気が違うね。よかったら一緒に回らない?」
夕日は断ろうとしているが、強く突き放すことができない。
そこは、昔から変わっていなかった。
淡も、その男子生徒がどのクラスなのか分からなかった。
淡ですら知らない相手なのだから、夕日が話したことなどないはずだ。
それなのに、夕日が眼鏡を外し、髪型を変えて顔がよく見えるようになった途端、こうして群がってくる。
それが無性に腹立たしかった。
雛華が淡を見て何か言おうとしたが、そのときには淡はすでに歩き出していた。
雛華と澄都は、その場から動かなかった。
夕日に話しかけていた男子生徒の一人が、夕日の肩に手を伸ばした。
淡はその手を払い、夕日の隣に立った。
夕日は淡に気づくと、表情を緩めた。
「夕日。行くよ」
夕日はすぐ頷いた。
淡は夕日の手を取り、男子たちに目を向けた。
今朝、不特定多数の人間にいちいち愛想を振りまくのはやめようと決めた。
だから、もう笑顔を向ける必要もなかった。
「あのさ、夕日が困ってるの分からないの? 自分が話したいとか、一緒にいたいとか、そればっかりじゃん。勝手に女の子に触ろうとするとかあり得ないし。そんなんだからモテないんだよ」
淡の声は周囲にも届き、近くにいた何人かの生徒がこちらを見た。
「傍から見たら普通に滑稽だよ」
男子たちは何も言い返してこなかった。
淡はそれ以上何も言わず、夕日と手をつないだまま雛華たちのところへ戻った。
雛華は戻ってきた淡を見て、にやにやと笑った。
「気にしないんじゃなかったの?」
「困らせるのはまた別だから。夕日に触ろうとしてたし」
夕日は淡に顔を向け、穏やかな口調で言った。
「困ってたけど。悪意があったわけじゃないから、落ち着いて」
淡はすぐには答えず、一瞬黙り込んだ。
「……分かった」
返事はしたものの、淡は少しも納得していなかった。
そんな気持ちが顔に出ていたのか、淡を見た澄都が笑った。
「全然落ち着いてないだろ」
「今落ち着こうとしてる」
淡は一度息を吐き、夕日を横目で見ながら小さく呟いた。
「夕日の可愛さに今さら気づくとか、ほんと見る目ないやつらだな」
淡の呟きは夕日にも聞こえたらしい。
夕日は顔を伏せ、耳まで真っ赤になっていた。
「夕日?」
「何でもない」
淡が夕日の顔を覗き込もうとすると、夕日は顔をそむけた。
「じゃあ行こっか」
雛華の呼びかけに三人も返事をし、四人は歩き出した。




