第22話 - 空白を埋めるように
清水道で市バスを降り、そこから清水寺まで歩いて向かった。
雛華と澄都が少し前を歩き、淡と夕日が並んでついていく。
さっきまで泣いていた淡と夕日の目元は、まだ少し赤い。
それでも二人は、今度は離れて歩いていなかった。
会話はない。
それでも、一年半以上止まっていた二人の関係が、ほんの少し動いたように感じた。
けれど、動いたからといって、すぐ元通りになるわけではない。
何を話せばいいのか、まだ分からなかった。
淡が隣を歩く夕日の横顔を見ようと顔を向けると、ちょうど同じタイミングで夕日もこちらを向いた。
目が合い、二人とも反射的に前を向いてしまった。
その様子を少し前から見ていた雛華が足を止めた。
「ねえ。このまま四人で回るのやめない?」
突然の提案に、淡は一瞬返事が遅れた。
「どういうこと?」
「淡と夕日、二人で落ち着いて話してきたら?」
淡は返事に詰まった。
隣を見ると、夕日も驚いたように雛華を見ている。
澄都は何も言わず、雛華へ目を向けた。
当初の予定では、淡と夕日を二人きりにすることになっていた。
今はもう、互いに名前を呼べている。
昨日までのように距離を取って歩いているわけでもない。
それでも、何を話せばいいのか考えているうちに、結局ほとんど会話はできていなかった。
「今のまま四人で観光しても、二人ともずっとお互いのこと気にするでしょ」
「でもレポートは?」
夕日は心配そうに聞いた。
昨日の奈良でも必要な写真は撮っている。
それでも気にするのは、班長として最後まで責任を持ちたいからなのかもしれない。
雛華はそんな夕日の様子に、小さくため息をついた。
「私と澄都でやるよ」
「俺も?」
「うん。やるよ」
「いや、やるけど」
澄都は文句を言いながらも、本気で嫌がっているようには見えなかった。
雛華はスマートフォンで時刻を見る。
「二時間くらいでどう?短い?」
淡は夕日に目を向ける。
夕日も迷っているようだった。
夕日と二人で話せることは、素直に嬉しい。
昨日から、今日は話すつもりでいた。
それでも、淡自身が二人で話そうと決めるのと、突然その場を用意されるのとでは、心の準備がまるで違った。
雛華は迷っている二人を交互に見て、続けた。
「一年半以上話していないんでしょ。二時間でも足りないんじゃない?」
「それはそうかも」
淡は夕日の反応が気になって、隣を見る。
夕日もほんの少しだけ笑っていた。
その表情を見て、さっきまでの不安が少しだけ薄れる。
二人きりになることへの戸惑いより、夕日と話せることへの嬉しさの方が大きくなった。
「じゃあ二時間後にここ」
雛華が地図アプリを二人に見せながら、集合場所を確認する。
「私と澄都は清水寺回って、レポート用の写真とメモ取ってくるから」
淡はスマートフォンから顔を上げた。
「ありがとう」
「いいよ。ちゃんと話すんだよ。逃げちゃだめだよ」
「分かってる」
「夕日も」
澄都が二人を見る。
「まあ、二時間あれば何とかなるだろ」
「雪は適当だね」
「今さっきまで弱気だったやつに言われたくねえ」
淡は少しだけ笑った。
夕日が隣にいても、こうして澄都と軽口を交わせることが、さっきまでより自然に感じられた。
「じゃあ行くか、雛華」
雛華は心配だったのか、もう一度だけ淡と夕日を見た。
「二時間後ね」
そう言って、雛華と澄都は人の流れの中へ歩いていった。
残された淡と夕日は、すぐには動かなかった。
「……どうしようか」
淡が聞くと、夕日は少し考える。
「どこか座れるところ探さない?」
二人は歩き始めた。
参道から少し外れたところに、小さな和風のカフェがあった。
木の格子が使われた落ち着いた店で、奥には外の空気が入るテラス席もある。
二人は、人通りから少し離れた一番端の席に座った。
静かで声を張らなくても話せる場所だ。
淡は注文したコーヒーに視線を落とす。
夕日もテーブルの上へ視線を落としたまま、何も言わない。
さっきは雛華たちがいたから、名前を呼べたのかもしれない。
今は二人きりで、間に入ってくれる相手もいない。
何を言えばいいのか考えてみても、うまい言葉は浮かばなかった。
だから、今一番思っていることをそのまま口にした。
「夕日。さっき、名前呼んでくれてありがとう」
顔を上げた夕日は、一瞬だけ言葉に詰まった。
「……うん」
「嬉しかった。本当に」
名前を呼ばれたときの夕日が、もう一度頭に浮かぶ。
涙を流しながら、それでも昔と同じように笑っていた。
ずっと見たかった。
ずっと、あの声で名前を呼んでほしかった。
そう思うと、自然と口元が緩んだ。
「私も、夕日って呼んでもらえて、嬉しかったよ」
夕日は淡から目を逸らさず、静かに言った。
また少しだけ沈黙が続く。
けれど、さっきまでとは違った。
今度は、次に何を話すかを探している時間だった。
先に口を開いたのは夕日だった。
「淡」
夕日は少しだけ間を置いた。
ためらいを押し切るように、言葉を続ける。
「あの日のこと、話したい」
「中学のときの?」
夕日は頷き、そのまま手元を見るように俯いた。
「あの日、淡を拒絶したかったわけじゃないの」
淡は何も言わず、続きの言葉を待つ。
「私、自分のことが許せなかった。……言わなきゃいけなかったのに言えなくて、淡があんなことになって。それなのに次の日、普通に話しかけてくれたでしょ」
昨日までなら、思い出すだけでも苦しくなる場面だった。
けれど今は、不思議とそこまで苦しくなかった。
「だから、どういう顔して話せばいいのか分からなかったの。自分に腹が立ってたし、情けなかったし、怖かった。……たぶん全部顔に出てた」
淡は、その言葉を頭の中で確かめるように聞いた。
「僕を嫌いになったり、怒ってたわけじゃなかった?」
「違う」
夕日はすぐに顔を上げ、淡を見た。
「一度も淡にそんなこと思ったことない」
その言葉に、少しだけ安堵する。
だからこそ、一年半以上ずっと聞きたかったのに、怖くて聞けなかったことを口にした。
「でも、……月城さんって呼ばれた」
夕日の表情が曇る。
「それまで一度も名字で呼ばれたことなかったから。僕には、それが夕日の気持ち……答えに見えた」
もう前みたいには話してほしくない。
あのときは、そう思われているように感じた。
夕日は唇を噛んだ。
「ごめんなさい……」
「責めてるわけじゃないよ。ただ、僕はそう思ったってだけ」
夕日はまた俯いた。
しばらくして、小さく口を開く。
「あのときの淡の顔、今でも覚えてるの」
「そんな酷い顔してた?」
「絶望した顔だったよ」
淡は少し笑う。
「それはしてたと思う」
夕日は笑わなかった。
言うか迷うようにしばらく黙ってから、夕日が口を開いた。
「さっき、雪くんが言ってたこと」
「雪?何か言ってたの?」
淡は女子生徒たちに囲まれていたから、その場面を知らない。
夕日もそれに気づいたようだ。
「淡が写真撮ってたときにね、雪くんと雛華と中学の事件のことを少し話したの」
中学の事件という言葉に、淡の表情がわずかに変わる。
それでも夕日は続けた。
「もしあの事件を覆せる人がいたとしても、淡はその人に発言させるつもりがなかったって」
淡は少し意外そうに夕日を見る。
「それ聞いたんだ」
「その人が何か言ったら、今度はその人が傷つくって分かってたからって」
夕日は少しためらってから、言葉を続けた。
「だから、何も言わなかったこと自体はよかったと思ってたって。……本当なの?」
「うん」
「どうして?」
「もし言ったら、今度は夕日が標的になると思ったから。僕のことを助けるために夕日まで何かされる方が嫌だった」
「でも……」
「夕日が言えば状況が変わったかもしれないとは思ったよ」
淡はそこで一度、言葉を止めた。
「でも、それと夕日に言ってほしかったかは別」
夕日は何も返さず、黙って淡の言葉を聞いていた。
「だから……。あの事件のことで夕日を責めたことないよ」
夕日の目に涙が溜まり始めていることに淡は気づいた。
「泣かないで」
「淡が言う?」
「僕はもう泣き止んだから」
「私も泣いてないもん」
夕日は少しだけ笑った。
「目に涙溜まって流れそうだよ」
夕日は目元を指で拭った。
「じゃあ、僕からも聞いていい?僕が倒れてから、夕日ずっと家に来てるでしょ」
夕日は少し恥ずかしそうに、淡から目を逸らした。
「……うん」
「あの頃だけじゃなくて、今も。それに毎日ご飯も作ってるし」
「うん」
「僕の服、今も勝手に部屋着にしてるし」
夕日は頬を赤くしながら、淡を見た。
「勝手にって言わないで」
「僕の服だけど」
「借りてるだけだもん」
「何も聞かれてないけど」
夕日は恥ずかしそうに眉を寄せた。
その困ったような表情を見て、淡は少し笑った。
「ベッドも普通に使うよね」
「……使う」
「僕が帰ったら寝てることあるし」
「眠くなるから」
「自分の家、隣なのに?」
「いいでしょ」
少しからかいすぎたのか、夕日は拗ねたように返した。
そんなやり取りさえ、淡には懐かしかった。
「ずっと気になってたんだけど、どうして?僕と話せないのに、毎日来てたの?」
夕日は、言葉を探すようにわずかに唇を結んだ。
淡は急かさず、そのまま待った。
行きのバスで雛華に言われたように、夕日が話すまで待つ。
しばらくして、夕日が答える。
「最初は、また倒れたら怖かったからだよ。ちゃんと食べてるかも心配だったし。淡、一人になると本当に何もしなくなることあるから」
「否定できないね」
「でしょ」
夕日の口元から笑みが消え、眉が少しだけ下がった。
「でも、それだけじゃないよ。その……離れたくなかった」
その言葉を聞いた瞬間、淡の思考が一度止まった。
「話せなくても、淡の近くにいたかった。何も話せないから、何かしたら淡から話しかけてくれるかなって思ってたの」
「それで僕の服とか、ベッド使ったの?」
「……うん」
「全然分からなかった」
「だよね。あれで伝わると思ってた私がおかしいよ」
「僕は嫌われてるのに、なんで毎日いるんだろうって思ってた」
「嫌ってないよ。一度も。一瞬も」
夕日の即答に、淡の目が少し揺れる。
夕日はそれに気づいたのか、一呼吸置いた。
「ずっと大切だったから」
淡はその言葉を噛みしめるように、少しだけ間を置いてから答えた。
「僕も」
淡はそれ以上言葉を重ねなかったが、夕日は満足そうに表情を緩めた。
それからも、二人の会話は途切れなかった。
聞けば答えが返ってくる。
答えれば、また次のことを聞かれる。
一年半以上の空白を、一つずつ埋めるように、二人はゆっくりと言葉を交わしていった。
「ねえ。淡は今、どうしたい?」
淡は少し考えたが、すぐには答えが出なかった。
『昔に戻りたい』と言うこともできる。
でも、十四年近く何も考えずに一緒にいられた頃へ、そのまま戻るのは違う。
起きたことをなかったことにはできない。
「前と全く同じには戻れないと思う。……でも……また普通に話したい。朝会ったら、おはようって言って。何かあったら連絡して。どうでもいい話もして」
こうして夕日に気持ちを伝えられることが、無性に嬉しかった。
言葉を重ねるほど、笑っているのが分かる。
「家に来たら普通に話したい」
夕日の表情も、少しずつ明るくなっていた。
「僕の服着てたら、また着てるって言う」
「それは言わなくていいじゃん」
「ベッドで寝てたら起こす」
「寝かせてよ」
「自分の家で寝なよ」
「やだ。そのときは淡のベッドがいいの」
「夕日がベッドで寝ると、僕ソファーになるんだよ」
二人で笑う。
その笑いが落ち着くと、夕日が言った。
「私も、また普通に話したい。急に前みたいには無理かもしれないけど」
二人は、それからもたくさん話した。
それでも、一年半以上の空白をすべて埋めるには足りない。
「これから、少しずつでいい?」
夕日は嬉しそうに頷いた。
「学校でも話す?」
「最初は緊張すると思う。でも話したい」
夕日はそこで一度言葉を切った。
少し間を置いてから、続ける。
「あと、もう月城さんって呼ばない。これからずっと、淡って呼ぶね」
スマートフォンで時間を確認すると、もう一時間半以上時間が経っていた。
「時間が経つのは早いね。二時間は長いと思ってたけど」
「私も。でも、いっぱい話せてよかった」
それからは、もっと小さな話をした。
特別でもなく、答えを求める必要もない話。
昔なら、毎日のようにしていた話。
もう、今日すべての空白を埋める必要はなかった。
淡も夕日も、それが分かっている。
だから、何かを確かめるための話はしなかった。
これから、また話せるのだから。




