第20話 - 話があるの
夕日は俯いたままベッドに座って、しばらく何も言わなかった。
雛華はその様子を見て、続きを促す。
「話したいことってなに?」
夕日は少しだけ間を置いた。
「うん。……えっと……月城さんと付き合ってるの?」
予想していなかった質問に雛華は動けなくなった。
今日一日、淡と話しているところを何度も見られている。
周りからも、二人はそういう関係だと思われていた。
夕日が気になっていたとしても、不思議ではなかった。
それでも実際に聞かれると、すぐには言葉が出なかった。
「それは——」
答えようとした瞬間、夕日が少しだけ身を乗り出す。
「すごいお似合いだと思う!」
雛華が返事をする前に、夕日はそのまま続けた。
「今日、女の子に囲まれてたときも、すぐ助けに行ってたでしょ」
「あれは……」
「すごく自然だったし」
夕日は楽しそうに笑った。
「他の人に悪く言われたりもしないし、二人でいるの似合ってる」
その笑顔を見て、雛華の胸が少し痛んだ。
「付き合ってないよ」
夕日の笑顔が止まった。
「え?あんなに仲良さそうなのに?」
「話はするけど、それだけだよ」
雛華は少し迷ってから、聞いた。
「夕日は、淡のこと知ってるの?」
口にした瞬間、苦しくなった。
淡と夕日のことを知っている。
淡にとって夕日がどれだけ大きな存在なのかも知っている。
それなのに、何も知らないふりをして聞いている。
さっきまでの明るさが消え、夕日は視線を落とした。
「うん。同じ中学で、幼なじみなんだ」
雛華が黙っていると、夕日は続けた。
「中二の十一月にある事件が起きちゃって」
夕日の声が、少しだけ小さくなる。
「そこから月城さんの性格が変わっちゃったの」
「淡の?」
「うん。誰とも話さない人になった」
雛華は黙って聞く。
「でも、高校に入ってからまた変わった」
夕日の表情が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
「明るくなって、雛華みたいに、お似合いの人ができて」
その笑顔を、雛華はまともに受け止められなかった。
「やっと解放されたんだと思った」
夕日は心から安心したように、小さく呟いた。
「よかった」
雛華は思わず聞き返す。
「よかった?」
夕日の表情が、そこでわずかに止まった。
「いや……。何でもない。深い意味はないよ」
それでも、雛華の中には引っかかりが残った。
少し迷ってから、もう一歩だけ踏み込む。
「その事件って……夕日も関わってるの?」
事件のことは、淡から聞いて知っている。
それでも、夕日の口から聞かなければならない。
そんな気がして、そのことがひどく苦しかった。
夕日はしばらく答えなかった。
それから、小さく頷いた。
「うん」
その声は、わずかに震えていた。
「関わらないといけなかったのに、自己保身で逃げたんだ。……月城さんを裏切ったの」
夕日は膝の上で、両手を強く握った。
「だから私は、彼に話しかけることはできない」
「夕日……」
「最低な女だから」
夕日は笑おうとした。
けれど、その表情は少しも笑えていなかった。
「大切な人を平気で裏切る、最低な女だから」
その言葉を聞いて、雛華はようやく気づいた。
夕日も、淡と同じなのだ。
二人とも、相手に拒絶されたと思っている。
そして夕日は、自分が淡を傷つけたから、もう自分から話しかける資格はないとまで思っている。
だから、夕日は淡から離れた。
雛華は、できるだけ優しく聞いた。
「よかったら、話してくれないかな?」
「……何を?」
雛華は少し声を落とした。
「そのときのこと。夕日がどう思ってたのか、聞きたい」
夕日はすぐには答えなかった。
長い沈黙のあと、小さく頷く。
「中学二年の十一月にね、月城さんを中心に、男女間のいざこざがあったの。それが、最後は暴力まで発展したの」
夕日は一度、深く息を吸った。
「中心にいた女の子の発言を、私なら覆せた。……でも……それを言ったら、今度は私がいろんな人からターゲットにされると思った。だから言えなかった。怖かったの。何も言えなかった。その間に、事態はどんどん大きくなった。月城さんは、いろんな生徒にもみくちゃにされて。先生にも手を上げられて」
雛華の胸が締めつけられる。
淡から聞いた話と、起きたことは同じだった。
それでも、夕日の口から聞くとまるで違って聞こえた。
「結局、月城さんは無実だったの。それで、次の日」
夕日はそこで言葉を止めた。
当時のことを思い出したのか、さっきよりも表情が苦しそうに歪む。
「月城さんから話しかけられたの。でも、そのまま普通に話せなかった」
少しの間を置いて、夕日はその言葉を絞り出した。
「だから……。『おはようございます、月城さん』って言ったの」
淡を一番苦しめている言葉。
夕日もまた、その言葉にずっと苦しめられているようだった。
「十四年一緒にいて、初めて」
夕日は少し笑った。
けれど、それは見ている雛華まで苦しくなるような笑いだった。
「たぶんそのときの私、すごく酷い顔してたと思う」
ここまでの話を聞けば、その表情に何が出ていたのか、雛華にも少し分かる気がした。
何もできなかったことへの怒り。
怖くて動けなかった無力さ。
淡を裏切ったという後悔。
そして、そんな夕日自身を許せない気持ち。
「月城さん、すごく絶望した顔してた。あの顔、今でも忘れられない。それでも近づけなかった。裏切った私から、何事もなかったみたいに普通に話しかけに行けないよ」
雛華は、淡から聞いた話を思い出す。
冷たい目。
拒絶するような表情。
『月城さん』
淡は、あの瞬間に夕日との関係を切られたと思っていた。
でも、違った。
少なくとも夕日の中では、あの表情は淡を拒絶したものではない。
夕日自身を、許せなかったのだ。
「それから何日かして、淡が無断欠席したの」
呼び方が、いつの間にか戻っていた。
雛華はその変化に気づいたが、今は何も言わなかった。
「一日じゃなくて、何日か。さすがにおかしいと思って、家に行ったら」
そこまで話したところで、夕日の声が震えた。
「倒れてた」
雛華は、すぐには言葉を返せなかった。
「家が隣だから、合鍵も持ってるの。だから中に入れた。そこから、目を覚ますまで看病した。それなのに、目を覚ましてからも……どうしても、前みたいに話せなかった。また自分のせいで迷惑をかけることが、怖かった。それでも放っておけなかった。そこから毎日、淡の家に行くようにした」
「毎日?」
「うん。また倒れないように。何も話せないから。でも、見ていないと怖かった。せめて、何かしないとって思って」
雛華は何も挟まず、その続きを待った。
「淡の服を勝手に部屋着にしたり」
夕日の頬が少しだけ赤くなる。
「淡のベッドで勝手に寝たりした」
「……何で?」
「前みたいに、何してるんだって言ってほしかったから」
夕日は恥ずかしそうに視線を逸らした。
「何でもいいから、話しかけてほしかった。……それに、淡の香りに包まれてると、少しは楽になれたし」
夕日は、離れたかったわけではない。
話せなくなってからも、ずっと淡の近くにいたかった。
そして、自分からはできない代わりに、淡から話しかけてほしかったのだ。
「でも、結局、それが最後」
「最後?」
「最後にちゃんと話したのが、『月城さん』って呼んだときなの。そこから一年半以上、まともに話せていない。……私自身も、人と交流するのが怖くなっちゃって。だから学校でも、目立たないように、誰にも近づかないように、拒絶される前に距離を取るようになっちゃった」
夕日の表情は、それまでの苦しそうなものから一気に明るくなった。
「だけど、淡がまた幸せそうで、本当によかった」
その満面の笑みに、雛華は一瞬言葉を失った。
淡が言っていた『夕日の方が可愛い』という意味が、今ならはっきり分かる。
心から誰かのことを思ったとき、夕日はこんなふうに笑うのだ。
「立ち直ってくれて……。立ち直らせてくれて、本当にありがとう。雛華」
本当に嬉しそうに笑っている。
それでも雛華には、その笑顔の奥に、まだ何かを押し込めているように見えた。
「こんなの話したの、初めて」
夕日は少し照れたように言う。
「一緒の班になったとき、嫌な思いさせちゃうかなって思ったけど、雛華のおかげで楽しそうで、何よりだよ」
その言葉に、雛華は何も答えられなかった。
今すぐ、淡の気持ちを代わりに伝えたかった。
違う。
淡は夕日を嫌っていない。
むしろ、夕日に拒絶されたと思っている。
明日、自分から話しかけようとしている。
怖くても、それでもそう決めている。
全部、言ってしまいたかった。
でも、それは駄目だ。
明日、淡自身が話すと決めている。
雛華が先に伝えてしまってはいけない。
「話してくれてありがとう、夕日」
「ごめんね。こんな話しちゃって」
「謝らなくていいよ」
「ありがとう」
夕日は布団に入った。
「明日も早いから寝るね」
「うん、おやすみ」
「おやすみ」
部屋の明かりを少し落とすと、夕日はそのまま横になった。
しばらくして、雛華のスマートフォンが光った。
淡からメッセージが届いていた。
『部屋に戻ってからも雪に、付き合ってるのか、キスしたのか、エッチしたのかって聞かれた。いつもみたいに流そうとしたら、だいぶ不機嫌になったから、僕のこと全部話した』
その下に、もう一通続いていた。
『交換条件のことは言ってないから』
雛華はその文字をしばらく見つめた。
今、夕日から聞いたことを淡に伝えるべきか、雛華は迷った。
夕日は淡を嫌っていない。
拒絶したわけでもない。
ずっと夕日は、夕日自身を責めていただけだ。
それを今すぐ淡に伝えれば、明日何かが変わるかもしれない。
雛華は、眠ろうとしている夕日を一度見てから、もう一度スマートフォンへ視線を戻した。
淡は明日、直接話すと決めている。
夕日も初めて、誰にも話してこなかったことを口にした。
だから今は、誰かが間に入るべきではない。
雛華は返信欄を開かず、そっとスマートフォンの画面を消した。




