第2話 - 交換条件
ゴールデンウィーク明けの放課後、淡はまだ何人かの生徒が残る教室で、雛華と澄都の会話を何となく聞いていた。
「今日、おばさん夜勤?」
「うん」
「じゃあ、うち来る?」
「今日は大丈夫」
「そう」
雛華は帰る支度を進めながら、鞄を手に取った。
「澄都こそ、佳澄ちゃんに頼まれてたの忘れてない?」
「覚えてるよ」
「ならいいけど」
「何でお前が確認するんだよ」
「忘れそうだから」
「忘れねえよ」
ごく普通の会話だった。
けれど、淡にはその普通さが少し気になった。
入学して間もない頃、女子生徒にプリントを渡されただけで言葉を詰まらせていた澄都が、雛華相手なら返事に迷わない。
澄都の方から話題を振ることは少なくても、二人の会話は自然に続いていく。
一方の雛華も、澄都の予定を気にしたり、頼まれ事を忘れていないか確認したりする。
さっきの会話も、二人にとってはきっといつものことなのだろう。
同じ種類の感情かどうかまでは分からない。
それでも、二人とも相手にだけ向けているものがあるように淡には見えた。
二人の距離は近い。
それなのに、恋人ではない。
少し考えたあと、淡は席を立った。
「桜さん」
呼びかけると、雛華が振り返る。
「ん?」
まだ何人かが残る教室で、淡はそのまま切り出した。
「今日、少し時間ある?」
「私?」
「うん。相談したいことがあって」
近くにいた何人かが、会話に気づいたようだった。
ただでさえ目立つ二人だ。
淡の方から雛華を誘えば、見ている側が勝手に意味をつけてもおかしくない。
淡は気にせず続けた。
「二人で話したいんだけど」
今度は、数人の視線がはっきりとこちらへ向いた。
澄都も同じだった。
「……二人で?」
先に口を挟んだのは澄都だった。
「うん」
淡がいつも通りに答えると、雛華は澄都の方を見る。
「澄都、先に帰ってて」
「別に待ってるけど」
「時間かかるかもしれないよ」
「……じゃあ帰る」
澄都はぶっきらぼうに返して鞄を持つと、淡の横を通り過ぎた。
その一瞬だけ目が合い、澄都が明らかに面白くなさそうな顔をしているのが見えた。
淡は何も言わなかったが、その反応を見て、考えていたことがほぼ確信に変わった。
*
駅前のカフェに入り、淡と雛華は向かい合って座った。
雛華は注文した紅茶を一口飲んだ。
「それで、相談って?」
「その前に一個聞いていい?」
「何?」
「雪のこと、どう思ってる?」
「澄都?」
「うん」
雛華は少し意外そうにしたが、答えはすぐに返ってきた。
「幼なじみ」
「それだけ?」
「大切ではあるよ」
そこで少し考えてから、雛華は付け加える。
「家族に近いかもしれない。小さいころから一緒だし、よくお世話になってたから」
「付き合いたいとは思わない?」
「……今は思わないかな」
「今は?」
「言葉のあや」
雛華が笑い、淡も笑った。
淡はそれ以上追及しなかった。
普段の様子と今の答えを合わせれば、少なくとも澄都が雛華にとって他の誰かとは違う存在なのは分かる。
「僕には、雪が桜さんを好きに見えるんだけど」
「え?」
「気づいてない?」
「澄都が私を?」
「うん」
雛華はしばらく考えたあと、首を横に振った。
「ないと思う」
「なんで?」
「澄都、昔からあんな感じだし」
「桜さんにだけね」
「そう?」
「他の女子と話してるとき見てみなよ。全然違うから」
それでも雛華は納得しきれていないようだった。
淡は教室での出来事を思い出しながら続ける。
「それに今日」
「今日?」
「僕が桜さんを二人きりで誘ったとき、雪、すごい顔してた」
「そうだった?」
「全然気づいてないんだ」
淡は少し笑った。
「じゃあ、試してみない?」
「何を?」
「僕と桜さんが仲良くしてみる」
「……私たちが?」
「雪がどう反応するかを見るの」
雛華は淡の顔をじっと見た。
「それ、結構強引じゃない?」
「そうかな」
「そうだよ。澄都の気持ちを確かめるために、私たちが仲良くするんでしょ?」
「でも、本人に聞いてもたぶん否定するでしょ」
「それは……まあ、しそうだけど」
「だから反応を見た方が早いかなって」
雛華は少し考えてから、呆れたように笑った。
「月城くん、意外と悪いこと考えるね」
「僕にもお願いがあるから」
「お願い?それって、交換条件ってこと?」
「そう」
そこまで軽い調子で話していた淡から、少しだけ笑みが消えた。
「僕にも、人間関係で困ってることがある」
「月城くんが?」
「僕だってあるよ」
「そういう意味じゃなくて」
雛華は言葉を探すように少し考えた。
「月城くんって誰とでも普通に話すけど、誰とも仲良くならないから」
淡はその言葉に少し笑う。
「そう見える?」
「連絡先も誰にも教えてないでしょ?」
「よく知ってるね」
「何人か断られてるから」
「別に嫌だからじゃないよ」
「分かってる」
雛華は紅茶をもう一口飲んだ。
「だから、わざわざ私に相談するくらいなら、結構困ってるのかなって」
淡はすぐには答えず、少し考えてから口を開いた。
「関係を戻したい人がいる」
雛華の表情が変わる。
「誰?」
淡は答えなかった。
沈黙が続く中、雛華は少し考え、やがて一人の名前を出す。
「灯さん?」
淡の目がわずかに動いた。
それを見た雛華が、小さく呟く。
「やっぱり」
「どうして分かったの?」
「月城くん、灯さんとだけ全然違うから」
「違う?」
「他の人には普通に話すのに、灯さんとは本当に何もない」
雛華は言葉を選んでから続けた。
「避けてる感じとも少し違う。お互い、いないみたいにしてる」
まさかそこまで見られているとは思ってもいなかった。
淡は苦笑した。
「よく見てるね」
「気にはなるよ。喧嘩でもしたの?」
「喧嘩してたように見える?」
「最初は。あからさまに態度違うから無視なのかなって」
「喧嘩だったら分かりやすかったんだけどね」
淡はそれ以上を話さず、雛華もその場では聞かなかった。
「詳しいことは、また別のところで話していい?」
「ここじゃ嫌?」
「知ってる人がいるかもしれないところでは話したくない」
「分かった」
そこで淡は、いったん止めていた話を戻した。
「で、条件なんだけど。雪が桜さんをどう思ってるのか、もう少し僕が見てみる。その代わり、桜さんには僕の相談に乗ってほしい」
「相談に乗るだけ?」
「今のところはね。僕一人だと、たぶん動けないから」
雛華は考えてから頷いた。
「……分かった。私にできることなら」
「ありがとう」
雛華の返事を聞くと、淡の中にあったわずかな緊張がほどけた。
淡は少しだけ椅子の背に体を預けた。
「それと、もう一個」
「なに?」
「この作戦なら、名字のままだと弱くない?」
雛華は一瞬考えた。
「……もしかして、下の名前で呼ぶの?」
「僕は雛華って呼ぶ。雛華は僕を淡って呼ぶ。どう?」
「待って。どこまでやるつもり?」
「付き合ってるふりまではしないよ。下の名前で呼ぶくらい」
「噂が出ても?」
「こっちから嘘はつかない」
「付き合ってるって聞かれたら?」
「僕は何も答えない」
「否定もしない?」
「肯定もしない」
雛華は少し呆れたように笑った。
「それ、十分ややこしくなりそうだけど」
「雪の反応を見るには、そのくらいがちょうどいいんじゃない?」
「……分かった。じゃあ、それで」
「決まり」
雛華が手を差し出し、淡も軽くその手を握る。
「利害関係だね」
「言い方が悪い」
「協力関係?」
「そっち」
二人で笑った。
それから淡はスマートフォンを取り出す。
「連絡先交換しよ」
雛華が少し驚いた。
「いいの?」
「連絡できないと困るでしょ」
「誰とも交換してないんじゃなかった?」
「だから雛華が最初」
「それ、澄都が知ったらもっと面倒になりそう」
「作戦としては成功じゃない?」
「淡、結構楽しんでない?」
「少しね」
その日、淡のスマートフォンに初めて、学校の生徒の連絡先が追加された。
桜雛華。




