第18話 - 話しておきたいこと
八時三十五分、淡は一人で部屋を出ようとドアへ向かった。
「どこ行くんだ?」
ベッドに寝転んでいた澄都が聞く。
「ちょっと下」
「何しに?」
「すぐ分かるよ」
「何だよそれ」
淡は答えず、部屋を出た。
約束した時間まで、あと五分だ。
*
淡は一階ロビー奥のラウンジで、ソファに腰を下ろしていた。
夕方には何人か生徒がいたが、今は人もまばらだった。
スマートフォンを見ると、ちょうど八時四十分に切り替わる。
ほどなくして、エレベーターの扉が開いた。
先に雛華が降りてくる。
その後ろから、いかにも納得していない様子の澄都が続いた。
雛華は淡を見ると、少し得意げに笑った。
「ほら、言ったでしょ」
澄都はその場で足を止めた。
「……何なんだよ」
「来たね」
「雛華にいきなり『話あるから来て』って連れてこられたんだけど」
淡は思わず苦笑した。
「本当にそれだけで連れてきたんだ」
「説明してる時間ないって言ったでしょ」
雛華は淡の隣へ腰を下ろした。
「ほら、澄都も座って」
「何で俺まで」
「いいから座って」
「お前な……」
文句を言いながらも、澄都は向かいのソファへ腰を下ろした。
やっぱり雛華の言った通りだったことが、少しおかしくて笑ってしまった。
「で?何の話?」
淡も雛華も、すぐには答えなかった。
数秒して、澄都がもう一度口を開く。
「さっき月城に聞いたけど、お前ら付き合ってんの?」
雛華が一拍置いてから淡の方へ向き直る。
「ああ、それ聞かれたんだ」
「まだ答えてもらってない」
「今答えるよ」
淡は一度だけ言葉を切った。
「付き合ってない」
その返事を聞いて、澄都は少し力を抜くように背もたれへ体を預けた。
「……本当に?」
「本当に」
「じゃあ今日ずっと何だったんだよ」
「普通に話してただけ」
「バスも隣だっただろ」
「席がそこだったから」
「奈良でもずっと一緒だったじゃん」
「同じ班だからでしょ」
澄都は少し呆れたように息を吐いた。
「お前、さっきもそれ言っただろ」
「だって本当だし」
澄都が今度は雛華へ向く。
雛華も小さく頷いた。
「付き合ってないよ」
「……そう」
それだけ言って、澄都の肩から少し力が抜けた。
淡は何も言わなかった。
「それで、何で灯がいない間に三人で集まってんの?」
淡と雛華は一度だけ視線を交わした。
ここまで引っ張ってきた話を、ようやく切り出す。
「夕日と僕のことを、雪にも話しておこうと思って」
澄都が少しだけ間を置く。
「夕日って……灯のことか?」
「うん」
澄都は少し意外そうな表情を浮かべた。
「お前ら今日、一回も喋ってなくない?それなのに名前呼びするの?」
そこまで見られていたとは思わなかった。
確かに二人で直接話してはいないが、四人で会話する場面は何度もあった。
「僕と夕日、幼なじみなんだ」
澄都の動きが止まった。
「……は?」
「幼なじみ」
「いや、それは聞こえた」
澄都は淡と雛華を見比べた。
雛華はそれに静かに頷いた。
「いつから?」
「生まれたときから」
「生まれたとき?じゃあ何で、今一切喋ってないんだよ」
「それは長くなるから、話さない」
「は?」
澄都はどうにも腑に落ちない様子だった。
「そのために呼んだんじゃないのかよ」
「違うよ」
「じゃあ何のためだよ」
「僕と夕日が幼なじみだってことを、先に知っておいてほしかっただけ」
「それだけ?」
「あと、雛華は全部知ってる」
澄都の視線が雛華へ移った。
「全部?」
「うん。淡と夕日のことは全部聞いたよ」
「何で雛華だけ知ってんだ」
「その理由も今は話さない」
「何でだよ」
「時間ないから」
「さっきからそればっかじゃん」
淡が笑うが、澄都は明らかに不満そうだった。
「じゃあ俺、何のために連れてこられたんだよ」
「明日も四人で回るでしょ。雪だけ何も知らないと、変なところで話が噛み合わなくなるかもしれないから」
「俺は何かすればいいの?」
「特別なことはしなくていいよ」
「じゃあ余計に知らなくてもよくない?」
「知ってるのと知らないのじゃ違うでしょ。明日は普通にしてればいいから」
「普通って何だよ」
「いつも通り」
「一番分かんねえ」
淡が少し笑った。
「僕も明日は夕日と話すつもりだから」
「お前から?」
淡は、少し間が空いた。
澄都はさっきより真面目な顔で淡を見る。
「どんくらい話してないの?」
「一年半以上かな。今の状態は」
「それで怖いの?」
澄都には何度も驚かされる。
思っていたより、ずっと人のことを見ている。
だから今回は、誤魔化さなかった。
「怖い」
またあの冷たい目を向けられること。
もう一度拒絶されること。
話したことで、今より関係が悪くなること。
今あるこの距離さえ、失ってしまうこと。
考えれば考えるほど、どれも同じくらい怖かった。
澄都はそれ以上聞かず、雛華も黙ったままだった。
三人の会話が、そこで少しだけ止まった。
そのとき、雛華のスマートフォンが震えた。
淡はスマートフォンを見る雛華の表情で察した。
「夕日?」
雛華は返事の代わりに、スマートフォンの画面を淡に向けた。
そこには、短いメッセージが表示されていた。
「早くない?」
「私、戻るね」
雛華は立ち上がり、そのまま足早にエレベーターの方へ向かった。
数歩進んだところで、澄都が呼び止める。
「雛華」
「何?」
澄都はすぐには続けなかった。
「……いや、何でもない」
「何それ」
「いいから戻れって」
「澄都が呼んだんでしょ」
雛華は呆れたように返し、それでも最後には少し笑った。
「じゃあ、また明日」
雛華の言葉に、澄都は小さく手を上げた。
雛華がエレベーターの向こうへ消えると、淡は向かいの澄都へ向く。
澄都は何も言わなかった。
淡もそれ以上は話さず、二人で部屋へ戻るために立ち上がった。
*
部屋へ戻ってから、少し時間が経っていた。
澄都はベッドに腰を下ろしている。
淡も部屋でくつろぎながら、明日どう動くかを考えていた。
しばらくして、澄都が不意に口を開く。
「なあ、お前、雛華と本当に付き合ってないんだよな?」
淡は澄都の方へ向いた。
「付き合ってないよ」
「本当に?」
「本当」
「じゃあキスは?」
「してない」
「エッチとかも?」
「してないよ。なにその質問」
その質問は考えるまでもなかった。
それでも澄都は、まだ納得していないようだった。
「何でそこまで気になるの?」
「別に」
「別にって顔じゃないけど」
「いいだろ」
澄都は少し不満そうに黙った。
それでも、まだ何か引っかかっているようだった。
「じゃあ、何で雛華に相談したんだよ?」
今日の二人を思い返す。
夕日がそばにいたせいか、何度も昔を思い出した。
それを澄都にうまく伝えられる自信はなかった。
「雛華と雪だから」
「は?なんだそれ」
「そのままだけど」
「意味分かんねえよ」
笑う淡を見て、澄都はますます不満そうになる。
「どうせ、そういう関係になったから雛華に話したんだろ」
「そういう関係って?」
「そのままの意味だ。分かるだろ。だから、お前ら急に仲良くなったんだろ」
「多分、雪が想像してるのとは違うよ。でも、仲良くなったのは本当」
「それで雛華だけ全部知ってるんだろ?」
「うん」
「なのに付き合ってないし、何もしてないって?」
「してないよ」
「じゃあ何で雛華なんだよ」
「さっき言ったよ。堂々巡りしてる」
「雛華と俺だから、って?それが分かんねえんだって」
澄都の声が少し強くなる。
「どうせ俺に言えないような関係になったから、雛華に話したんだろ?」
「違うよ」
「じゃあ説明しろよ」
淡はそこで黙った。
思っていた以上に、澄都は本気で機嫌を悪くしている。
単に事情が気になるだけではない。
澄都の知らないところで淡と雛華が親しくなり、雛華だけが淡の事情を知っている。
そのこと自体が引っかかっているのだろう。
これ以上、いつもの調子で笑って流すのはやめた。
「……分かった」
淡は笑うのをやめ、自分のベッドへ腰を下ろした。
さっきまでの軽い調子は、もうなかった。
すぐには話し始めず、少しだけ言葉を選ぶ。
澄都も今度は急かさなかった。
それから淡は、自分の家庭のこと、中学二年の十一月に学校で起きた事件、そのとき何を考えていたのかを順に話した。
事件のあと、ずっとそばにいた夕日から距離を取られ、冷たい目を向けられたこと。
拒絶するように「月城さん」と呼ばれ、それから一年半以上、まともに話せなくなったことも。
今回の研修旅行で夕日と話すきっかけを作るため、最初から雛華へ相談し、四人が同じ班になるよう動いたこと。
そして、なぜ雛華に相談したのか。
雛華と澄都の二人を見ていると、夕日と過ごしていた頃の懐かしい空気を思い出すこと。
それを見るたびに、もう一度夕日と話したい、このままの関係を変えたいという気持ちが強くなったこと。
そこまで話し終える頃には、さっきまでの軽い空気はすっかり消えていた。
ただ一つ、雛華と交わした交換条件については話さなかった。
それは澄都に伝えることではないと思ったからだ。
話し終えると、澄都はしばらく黙っていた。
「……そういう意味だったのか」
澄都は視線を落とした。
さっきまでの苛立ちは、もうほとんど残っていないようだった。
「最初から雛華に相談するつもりだった?俺じゃなくて?」
「雪に相談しても、この話にはならなかったと思うよ」
「確かに……」
澄都は少し考えてから、ベッドへ背中を預けた。
「何か、勝手に使われた感じするな」
「ごめん」
淡は否定せず、少しだけ口元を緩めた。
澄都はそれ以上何も言わなかった。
*
雛華が戻ってから数分後、ドアの開く音がした。
夕日が追加で配られた資料を抱えるようにして、部屋に入ってきた。
夕日が班長用の資料を机に置くと、雛華が声をかけた。
「おかえり。ミーティングどうだった?」
「ただいま。明日の確認だけ」
「何か変わった?」
「朝の集合時間が少し早くなった」
夕日は資料へ目を落としたまま言う。
「雛華、男子にも伝えておいてくれる?」
「分かった」
雛華はスマートフォンを手に取る。
澄都に送っておけば、淡にも伝わる。
夕日は眼鏡を外してテーブルへ置き、ベッドへ腰を下ろした。
学校にいるときより、ずっと自然な表情をしている。
雛華はその様子を横目で見た。
ロビーでは、澄都に淡と夕日が幼なじみだということまでしか話していない。
澄都の性格なら、あれだけで納得するとは思えなかった。
今頃は、続きを聞いているかもしれない。
しばらく、部屋にはスマートフォンを操作する小さな音だけが続いた。
その静けさの中で、夕日が口を開く。
「雛華」
「ん?」
雛華が顔を上げる。
夕日は少し黙ったあと、雛華を見る。
「……話があるの」
その表情には、まだ少し迷いが残っていた。




