第14話 - 大切な人への気持ち
研修旅行当日の午前五時三十分。
六月の空はすでに明るく、学校前には朝の光が差していた。
校門の前には大型バスが並んでいる。
東京から奈良までの長距離移動になるため、普段学校へ来る時間よりずっと早い。
眠そうな顔をした生徒たちが大きな鞄を荷物室へ預け、次々と車内へ入っていく。
クラスメイトの女子グループが淡を見つけ、取り留めのない話題で声をかけてきた。
少し遅れて、雛華もやってきた。
「おはよう、淡」
「おはよう。眠そうだね」
「眠いよ。四時前に起きたからね」
「僕も似たような感じ。雪は?」
「来てる。ちゃんと自力で起きたみたい」
「偉いね」
「普通だから」
バスに乗ると、二人は決めていた二人掛けの席まで向かった。
窓側が雛華、通路側が淡だった。
ほどなくして、後ろから女子たちの声が聞こえてきた。
「やっぱ隣なんだ」
「仲いいね」
雛華が振り返る。
「班一緒だから」
「部屋は別なのに?」
「それ男女だからでしょ」
笑いが起きる。
淡はあくび混じりに呟いた。
「朝から元気だね」
雛華は苦笑しながら窓側へ座った。
*
午前六時を少し過ぎた頃、点呼を終えたバスがゆっくり学校を出発する。
市街地を抜け、高速道路へ向かう。
しばらくは車内も騒がしかったが、早朝ということもあり、三十分ほど経つ頃には眠り始める生徒も増えていた。
淡は窓の外を見る雛華に声をかける。
「雛華。一個聞いていい?なんでここまで協力してくれるの?」
雛華は少しだけ間を置いて答える。
「今さら?交換条件だからでしょ」
「最初はね。でも、雪のことだけなら、ここまでやる必要ないでしょ」
「……確かに」
「夕日と話すために班まで作って、部屋も合わせて、旅行中の作戦まで考えてる」
「そうだね。言われて考えると結構いろいろやってるね」
「なんで?」
雛華は前の座席にいる夕日の方向に目を向ける。
「最初は、澄都のこと知れるならいいかなって思っただけだよ」
「最初は?」
「うん。それと、淡と灯さんが何なのか気になった」
「野次馬じゃん」
「だから最初はね」
雛華は笑ってから、少し声を落とした。
「でも、あの話聞いたら変わった」
あの話とは、中学二年の十一月に起きた事件と、その後、夕日と話せなくなった経緯のことだ。
「淡が、灯さんと付き合いたいとか、自分を好きになってほしいとか言ったなら、多分ここまではしなかった」
「そうなの?」
「うん、それは恋愛の話だから。でも淡が言ったの、『話したい。また名前を呼んでほしい』だったでしょ?」
雛華の言葉に間違いはなかったが、淡は何も答えなかった。
「それくらいなら、戻ってほしいと思った」
雛華は淡に微笑んだ後、窓の外へ視線を移した。
「私も澄都とずっと一緒にいるからかな。今の関係がなくなるって考えたら、普通に嫌だし。そんな状態、無理だと思う。だから、淡たちも何とかなるなら、何とかした方がいいかなって」
「優しいね」
「交換条件も忘れないでよ。澄都の方もちゃんとやってもらうから」
「はいはい」
雛華は、窓の外から淡へ視線を戻した。
「それより、二人になったら、何話すか決めてる?」
何日も前から覚悟を決め、考えてきたことなのに、改めて聞かれると少し緊張した。
「一応。まず、夕日って呼ぶ。返事してくれたら……話したいって言う。それから、噂が嘘だったって。ちゃんと無実だったって言いたい」
「それは淡の中では必要なんだね」
「うん。それと、ずっと話したかったって」
淡は、あの日、夕日に拒絶されたと思っていた。
今も、夕日が噂を信じたからだと考えている。
噂が嘘だったことを伝えたくても、怖くて話しかけられない。
「そこまで言えればいいかな」
雛華はそこで一つ確認するように聞いた。
「『なんであのとき月城さんって呼んだの』は?気になってたでしょ?」
「聞きたい。でも、最初からは多分無理」
「私も後の方がいいと思う。最初に聞くと、責めてるみたいになるかもしれないし」
「じゃあ、どうするのがいいかな?」
「淡がどう思ってたかだけ先に言えば?話したかった。でも怖かった。噂は全部嘘だった。まずはそこ」
「それから?」
「灯さんが話すのを待つ」
「何も言わなかったら?」
「そのときも待つの」
「一年半以上待ってるけど」
「その待つじゃなくて。二人で話してる最中くらい、急かさないってこと」
「分かった」
「あと、台本みたいに覚えない方がいいよ」
言い終えると、雛華は一度窓の外へ視線を戻したが、すぐにまた淡を見た。
「じゃあ、もう一個聞いていい?」
「何?」
「淡は私のこと好きにならないの?」
「ならない」
あまりの即答に、雛華が一瞬黙る。
「早くない?」
「だって、ならないから」
「なんで?」
答えは決まっていたが、淡はすぐには口にしなかった。
「夕日の方が可愛いから」
「それだけ?」
「え、重要じゃない?」
「面食いなんだ」
「多分」
淡は笑いながら、あっさり認める。
今の夕日は、昔とはかなり印象が違う。
雰囲気を重く見せる眼鏡。
顔を隠すように伸びた前髪。
少しうつむきがちな姿勢で、人を寄せつけない空気。
昔のような明るさは、ほとんど見せない。
それでも淡の中では、夕日の方が可愛い。
そこは変わらなかった。
「あと、雛華は、僕に本当の笑顔向けないでしょ」
「向けてるよ」
「向けてないよ。笑顔の違いくらい分かる」
「すごい自信。それでなんでで分かるの?」
「幼なじみ経験とモデル経験。人の表情見る機会は多いからね」
撮影スタッフやモデル仲間と接する雑誌の現場では、作った笑顔を見ることも珍しくない。
それとは別に、淡は幼い頃から夕日の表情を見続けてきた。
相手に合わせて笑っているとき。
笑っているように見えて本当は楽しんでいないとき。
照れて誤魔化しているとき。
そうした表情の違いを、淡は自然と見分けるようになっていた。
「雛華が僕と話してるときの笑顔と、雪と話してるときの笑顔、全然違うよ」
「そんなことない」
「ある。雪と話してるときの方が、本当に楽しそう」
この言葉が恥ずかしかったのか、雛華の耳が赤くなる。
「別に普通だよ」
「今は自覚なしでいいんじゃない?」
「何、その上から目線」
「僕も昔そうだったから」
淡は肩をすくめる。
「夕日のこと特別だって分かってても、それを恋愛だとは思ってなかった」
『恋愛』という言葉は、雛華に合わせただけだった。
夕日への感情に、その名前をつけていいのかは、淡にも分からない。
それでも、何より大切な相手であることだけは分かっていた。
雛華は口を開きかけたが、何も言わなかった。
「でも、人としては雛華のこと好きだよ」
「急にフォロー入れた?」
「本当に」
「どういうところ?」
「話しやすいし、信用できるし。ここまで付き合ってくれてるし。あと、うちの親が好きそう」
「どこを?」
「運命ってやつ」
雛華が怪訝そうな顔をする。
「また運命?」
「雛華と雪がセットじゃなかったら、僕、多分雛華に相談してなかったから」
雛華は納得したように笑う。
それを見て、淡も口元を緩めた。
「幼なじみ共鳴だね」
「何それ?」
「今作った」
淡は雛華の方へ上半身を向けて、少し頭を下げた。
「雛華に恋愛感情は湧かない。ごめんなさい」
雛華はその仕草に、不服そうな顔で淡を見返す。
「なんでフラれたみたいにするの。告白してないけど!」
二人で笑い、それを最後に会話は途切れた。
しばらくすると、二人とも眠っていた。
*
長い移動のあと、昼過ぎにバスが奈良市内へ入る。
古い建物や緑が窓の外を流れ、歩道の近くに鹿が見えた瞬間、車内のあちこちから声が上がった。
眠っていた生徒たちも次々と目を覚ます。
淡と雛華も起き、外の景色に目を向けた。
バスは奈良公園周辺の団体バス乗降場所へ入った。
ここから、四人での班行動だ。
淡は、夕日と話せるかもしれないと少しだけ期待しながら、バスを降りる準備をした。




