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電波の魔人ヴィーナス。
彼女の能力の正体は、俺の推測通りだった。彼女は電波を操るのだ。
テラステラ師匠曰く、電波とはこの世界に無数に存在する、目に見えない波動のことだという。
ヴィーナスはこの電波を使って他人の脳信号に直接干渉し、相手の精神を自在に操ることができるのだ。
その電波を物理的に防ぐため、俺たちは電磁波を遮断する性質を持つミスリル銀の布を頭に巻いておいた。
だが、メルクリウスの頭には直接アンテナが刺されていた。
結果、布の防御をすり抜けてアンテナが電波を受信し、奴の言いなりになってしまっているということだ。
「める、ちゃ……どうして……」
リィナが冷たい石畳に這いつくばりながら、悲痛な声で問いかける。
激しい酸欠でひどく苦しそうだ。メルクリウスが操られたことで、俺たちに酸素を供給してくれていた風の結界が消滅してしまったのだ。
だが、息苦しさよりも、何よりも。
大切な仲間であり、友達である彼女が自分に牙を剥いたことが、リィナには悲しくて仕方ないのだろう。
「リィナ……メルクリウスは、ヴィーナスに操られている。……メルクリウスの意志で裏切ったわけじゃない」
言葉を発するたびに、肺から貴重な酸素が失われていく。
だが、それでも伝えたかった。リィナの絶望に染まった悲しい顔を、どうしても見たくなかった。
いや、待て。
ここは塔の最上階。大気が極端に薄い超高層だ。
結界を張っていたメルクリウスはともかくとして、なぜヴィーナスは平然としているんだ。
俺やリィナは酸素の欠乏で意識を失いかけているというのに。
「貴様と一緒にしないでください、重力の魔人。わたくしは星より特別な恩寵を賜っているのです」
恩寵。何を言っていやがる。
ヴィーナスはどこか誇らしげに胸を張った。
何らかの理外の力を、この星そのものから与えられているというのか。
だから奴は、酸素のないこの高空でも普通に活動できているとでもいうのか。
「愚妹。その二人をたっぷり痛めつけてから、塔から突き落としなさい」
「…………」
メルクリウスが感情のない瞳でこくりと頷く。
今の彼女は、完全にヴィーナスの忠実なる下僕と化しているようだった。
ゆらりと、無機質な足取りでこちらへ近づいてくる。
「める、ちゃ……やめ……あぁっ」
メルクリウスが無言のまま、リィナの腹を蹴り飛ばした。
リィナの小さな身体が宙を舞い、硬い地面に無惨に叩きつけられる。
「ぐ、ううぅ……っ」
「リィナっ。メルクリウス、お前っ。目を覚ませっ。大好きなお姉ちゃんに酷いことをして、良いと思ってるのかっ」
俺の叫びにも、メルクリウスに動揺の色は見られない。
無表情のまま俺に近づき、今度は俺の胴に重い蹴りを食らわせた。
激しい衝撃が走り、俺の身体が後方へ吹き飛ばされる。
ゴロゴロと床を転がりながら、俺はある違和感に気づいた。
(手加減……してる……?)
そう、以前メルクリウスと本気で戦ったことのある俺だからこそ気づけた。メルクリウスの本来の蹴りは、こんな生温いものではない。
リィナも痛みに苦しそうに咳き込んでいるが、死んではいない。
魔人の、とりわけ音波の振動を乗せた必殺の一撃をまともに食らえば、俺たちの肉体なんて内臓ごと粉々に砕け散っているはずだ。
そうなっていないということは、彼女は無意識に手加減をしているということだ。
「っ」
メルクリウスの虚ろな目から、ひと筋の涙が静かに流れていた。
肉体は完全に操られていても、心の奥底では、大好きな友達を傷つけていることへの強烈な罪悪感と戦っているのだろう。
「める……ちゃん……」
ふらふらと足元をよろめかせながら、リィナが立ち上がる。
でも、彼女は剣を構えず、攻撃の動作には一切移らなかった。
激しい痛みに顔を歪めながらも、リィナは無理に笑みを浮かべた。
「大丈夫、大丈夫だよ……。こんなの、ぜぇんぜん、痛くないよ……っ」
リィナの言葉が耳に届いたのか、あるいは心に響いたのか、メルクリウスの無慈悲な動きがピタリと止まる。
大好きな友達が、痛みに苦しんでいる。自分がリィナを傷つけてしまったからだ。
だから、リィナは痛くないよと強がって、メルクリウスの心を安心させようとしているのだ。
正気に戻ってくれと懇願するのではなく、純粋に相手の心を気遣う。
その底抜けの優しさが、メルクリウスの動きを呪縛のように止めたのだ。
「なにをしているのですっ。さっさとボコボコにしてやりなさいっ」
「が……っ。うううぅうううっ」
ヴィーナスの絶対的な命令と、自分の中に残るリィナへの想い。
その二つが脳内で激しくぶつかり合っているのだろう。メルクリウスは頭を抱え、ひどく苦しそうに唸り声を上げている。
妹がこれほどまでに苦しんでいるというのに、この女は平然と。
「お前……お前ぇっ」
俺は魔人と人間が共存できると信じたかった。
全ての魔人がマルスのように、人間をゴミのように見下し、無闇に虐殺するわけじゃない。
メルクリウスだって、時間をかけて向き合えば分かり合えた。
だから、ヴィーナスも分かり合えるかもしれないと、心のどこかで甘い期待を抱いていたのだ。
「なんですか、重力の魔人。何か問題でも」
「くそ、がぁっ」
極度の酸欠で身体が重い。頭が割れるように痛く、視界がぐらぐらと揺れる。
だが、ここで立ち止まるわけにはいかない。
メルクリウスはヴィーナスの命令によって縛られている。
ならば、命令主であるヴィーナスを直接ぶっ飛ばせば、彼女の呪縛も解けて元に戻るはずだ。
俺はよろけながらも立ち上がり、自らの肉体に減重をかけて前傾姿勢で走り出す。
重力から解放された俺は、弾丸のごとき圧倒的な速度でヴィーナスへ肉薄した。
はぁ、とヴィーナスが呆れたようにため息を吐く。
「愚妹。わたくしを守るのです」
直後、俺は背後から凄まじい衝撃を受けた。
見えない巨大なハンマーで背中を思い切り叩きつけられたように、前のめりに倒れ込む。
激痛に耐えながら振り返ると、メルクリウスの小さな手には、見慣れない奇妙な武器が握られていた。
なんと例えればいいだろうか。そういえば、南の島国の楽器にウクレレというものがあった。
そう、楽器だ。
数本の弦が張られている、木製の弦楽器のような形状をしている。
「愚妹の持つ遺物は、自らの音波を強制的に増幅させる凶悪な装置なのです」
「遺物、だと……」
「かつて世界に存在し、今の矮小な技術力では絶対に再現できない失われた武具のことです。魔人の本来の力を何倍にも増幅するという恐るべき性能を持ちます」
あの古びた弦楽器が、メルクリウスの専用の遺物だというのか。
確かに、あいつと最初に戦った時とは比べ物にならないほどの重い衝撃だった。
以前の音波攻撃は、せいぜいが初級の風魔法程度の威力だった。直撃しても、分厚い木の壁にヒビが入るくらいのものだった。
でも、今さっき彼女が放った音の衝撃波は、俺の背中の肉を深く抉り取るほどの絶大な威力があった。
「だめ……だめだよ、める、ちゃ……」
リィナが悲痛な声でメルクリウスに呼びかける。
だが彼女は、泣き出しそうな苦痛の表情を浮かべながらも、再び震える指で弦楽器をかき鳴らす。
ジャァンッ。
空気を切り裂くような不協和音と共に、不可視の衝撃波が今度は扇状に周囲へ広がる。
俺だけじゃない、リィナをも巻き込む無差別の攻撃だ。
俺は瞬時に自重を限りなく軽くしてリィナの元へ飛び、彼女の身体を強引に抱え込む。
「ガイアっ」
「大丈夫、だ。リィナ、お前……お前、先に戻ってろっ」
俺はリィナに減重をかけ、この危険な塔の最上階から安全な下層へと突き落とそうとした。
けれど、彼女は俺の腕を力強く掴んで離さなかった。
「ダメだよガイアっ。また、一人で傷つこうって……してるっ」
また、というのは多分、俺が一人で全てを背負い込もうとしたマルス戦のことを言っているのだろう。
「あたし、戦うよっ。相手が、めるちゃんでもっ」
リィナが覚悟を決めたように剣を構える。
だが、その鋭い切っ先の先にいるのは、大好きなメルクリウスだ。
あんなに仲良く笑い合っていた相手。その友達に本気で刃を向けることに、彼女の心はひどく引き裂かれている。
酸欠で息も絶え絶えなのに、あえて声を張り上げているのは、そうしないと今にも泣き崩れてしまいそうだからだ。
「愚妹。全く、さっさと倒せと言っているのに。本当にしょうがない子ですね」
ヴィーナスが鬱陶しそうに薄目を開け、冷酷な瞳で俺たちを睨みつける。
奴の全身から、ぞっとするほどの濃厚な殺意の波動が溢れ出していた。
「わたくし自ら、神敵である貴様らをまとめて葬り去ってやりましょう」




