80
俺とリィナ、そしてメルクリウスは、ヴィーナスの待つ塔の最上階へと歩を進める。
ひんやりとした空気が肌を撫で、石造りの壁からは古いカビと湿った土の匂いが漂ってくる。
チワさんから聞いていた通り、俺たちがいた居住区画から上は魔物が出現する領域だ。元々この塔は、巨大なダンジョンとして機能しているのだから。
「いくぞ」
俺は靴底で硬い石畳を踏みしめる。
いざとなれば重力の力を全解放する覚悟はある。だが、できればこの閉鎖空間でそれは避けたい。
地下と違って、塔は上にも下にも細長く延びている。
万が一重力を暴走させれば、構造のバランスが崩れ、塔そのものが倒壊してしまう可能性があるのだ。巨大な建造物が倒れれば、眼下に広がる都市全体を巻き込む大惨事になりかねない。
塔の魔物出現階層へと足を踏み入れた。
石造りの狭い通路がどこまでも続いている。壁のあちこちにくり抜かれた窓から外光が差し込み、視界の明るさは保たれていた。
だが、リィナの横顔は青ざめ、額には冷や汗が浮かんでいる。剣の柄を握る手が微かに震えているのは、通路の奥から淀むように流れてくる濃密な殺気を、無意識に感じ取っているからだろう。
俺と、そしてメルクリウスが、彼女の小さな両肩にそっと触れた。
「大丈夫だ」
「そうなのだ。我々がいるのだ」
肩越しに伝わる温もりに、リィナが少しだけ表情を和らげた。亜麻色の髪を揺らし、こくりと小さく頷く。よし。
俺たちは急ぎ足で前へと進む。どうやらヴィーナスは最上階でかなり儀式を進行させているらしい。一刻の猶予もない。
しばらく薄暗い通路を歩いていると。
ガシャガシャガシャと、硬い金属同士が不快にこすれ合う音が反響して聞こえてきた。
リィナがピタリと立ち止まり、鋭い音を立てて剣を抜き放つ。
「ギチチチッ」「ギギイギッ」「ギギギギッ」
「鋼鉄蟻だ。まさかSランクの魔物がこんな浅い階層に現れるなんてな」
体高は五歳児ほどもある。人間の幼児サイズとはいえ、通常の蟻と比較すれば気味が悪いほど巨大だ。
さらに、その黒光りする外殻は全て硬質な鉄で構成されている。鋭く尖った大顎は、人間の肉や骨など容易く切断してしまうという。
「こんなにたくさん魔物がいるのに、不思議だね。あんまり、怖くなくなったよ」
リィナがぐっと姿勢を低くして身体を縮める。そして、弾かれたように視界から消え失せた。
ザンッ。
風を切る鋭い音と共に、リィナの剣が鋼鉄蟻の硬い装甲を易々と一刀両断してみせたのだ。
真っ二つに切断された鋼鉄蟻は、自身の身に何が起きたのか理解できていないのだろう。ギチリと不気味に首を傾げながら、重々しい金属音を立てて地面に倒れ伏した。
「すごいっ。体がいつも以上に軽いよ」
それもそのはずだ。俺が減重でリィナの剣や防具などの装備品を極限まで軽くし、さらにメルクリウスが音波を巧みに操って、彼女の動きを背後から加速させたのである。
「速さは強さだ。二人の魔人の力で速度と重量を最適化されているお前に、鋼鉄蟻なんて敵じゃない」
無論、不可視の音波に人間を乗せて加速させるのは至難の業だ。少しでも能力の制御を誤れば、リィナは超音速で石壁に激突し、全身の骨を砕いてしまうからだ。
「めるちゃーん。ありがとうっ」
リィナも自身の圧倒的な速さの秘密に気づいたようだ。剣を片手に、振り返ってメルクリウスへ手を振る。
メルクリウスは尻尾をパタパタと振るような勢いで嬉しそうに笑い、両手を振り返した。
「お前が自分から、他人の攻撃の補助をするとは驚きだったよ」
「リィナが斬った方がいいと思ったのだ。あいつらは無駄に硬いしな。うん」
彼女の音波による内部破壊の攻撃では、分厚い装甲を持つ相手には通じにくい。だから、鋭利な武器による物理攻撃に任せた方がいいという判断だったらしい。
もっとも、彼女がリィナを助けた理由は、決してそれだけではないだろうが。
「ガイアお兄ちゃんは、どうして重力で直接攻撃しないのだ」
確かに、音波をぶつけるよりは破壊力が高い。俺の重力で相手を押し潰す攻撃は、絶対的な威力を持つ。それでも。
「俺は、できないよ」
かつて、制御しきれない重力で故郷の村を潰し、人を傷つけた過去がある。その生々しい感触と悲鳴が、未だに俺の心に深くこびりついているのだ。枷を外せば、強力な攻撃を行使できるようにはなる。
だが、おいそれと外す勇気が出ない。相手がよほどの強敵であり、かつ周囲の味方に絶対に被害が及ばない。そんな限定的な状況でしか、力を解放できないのだ。
「闘気を身につければ大丈夫なのだ」
闘気。大気中の自然エネルギーを取り込み、体内で燃焼させて使う技術。俺たち魔人は、本来無意識のうちにその闘気を操っているらしい。
俺もそれを自在にコントロールできるようになれば、重い枷で己を縛らなくても、暴走状態に陥ることなく重力攻撃が可能になる。
理屈としては理解している。でも、闘気を真に扱うためには、星の声とやらに耳を澄まさなければいけないらしい。その漠然とした謎の存在を、俺は未だに理解できずにいた。
「お兄ちゃん、大丈夫なのだ」
そっと、メルクリウスの小さな両手が俺の固く握った拳を包み込んでくれた。
破壊と闘争を好む魔人である彼女。だが、その手は思ったよりもずっと温かく、そして人間のように柔らかかった。
「多分、お兄ちゃんの気持ち次第だと思うのだ」
「気持ち次第」
「そうなのだ。めるめるでさえ、闘気を使えるんだから。めるめるよりずっとすごい魔人であるお兄ちゃんが使えないわけがない。多分、気の持ちようでしかないのだと思うのだ」
気の持ちよう、か。それはつまり、俺自身が魔人という化け物であることを心の底で拒絶し、受け入れていないから使えないということだろう。
逆に言えば、魔人である自分自身を完全に受け入れることができれば、俺にも闘気は使える。
俺は静かに俯き、自身の掌を見つめる。
魔人としての自分を受け入れる。それは、何よりも困難な壁のように思えた。
自身の力で人を傷つけ、故郷を奪ってしまった過去があるからこそ、俺は無意識に人間でありたいとすがりついてしまうのだ。
だが。
目の前にいるメルクリウスは、確かに変わった。ただの破壊を好む魔人だった彼女が、人間の心に寄り添えるようになったのだ。リィナと対等な友達になり、人のために怒り、悲しみ、自らの力を貸している。
魔人は、全員がマルスのように破壊衝動に身を任せて無差別に人を攻撃するわけじゃない。仮に初めはそうであったとしても、メルクリウスのように変わっていくことができるのだ。
彼女が変われたのならば、俺にも、できるかもしれない。
『3gkp、3b』
「っ」
脳の奥底に、微弱なノイズのような、誰かの声のようなものが響いた気がした。
なんだ、なんなんだ今のは。
弾かれたように顔を上げ、周囲を見渡すも、石造りの通路に変わったところは何もない。
「ガイア、どうしたのーっ」
ちょうど、リィナが全ての鋼鉄蟻を処理し終えたようだった。剣を振り抜いて血糊を払い、こてんと可愛らしく首を傾げながら俺に尋ねてくる。
「いや、なんでもない」
今のが、もしかして星の声というやつだったのだろうか。でも、だとしたらなぜ急に聞こえたのだろう。




