77
状況は極めて悪い。
ギンコさんをはじめとしたSランカーに囲まれ、張り詰めた空気が肌を刺す。
キースホンドやノエルが人質に取られており、剣呑な金属音が微かに響いていた。
だが。
俺には一つの策があった。この窮地を打破できるだけの確かな策が。
メルクリウスは躊躇している。
自分が不用意に動けば、ノエルたちに迷惑がかかると懸念しているのだ。
彼女はもう、以前の人間を見下すだけの存在ではなくなっている。
あいつ自身、確実に進化しているのだ。
リィナと出会い、友達を得て、人の心を知った。
今ならできる。
「……メルクリウス」
俺は小声でつぶやいた。
それこそ、誰にも聞こえないほどの微かな声量だ。
だが、ピクッとメルクリウスの尖った耳が反応を見せる。
音波の魔人たる彼女の聴覚は、常軌を逸して鋭い。
だから、この場にいる誰にも聞こえない吐息のような声も拾えるのだ。
俺は彼女にだけ、作戦を端的に伝える。
メルクリウスが目を輝かせ、コクリと力強く頷いた。
「ゲーヒィン」
俺は静かに一歩前に出た。
「おおっと、近づくなよぉ。お前達の愚かな行動で、大事な大事なお仲間が、って、おいっ」
俺はゲーヒィンの警告を完全に無視し、ずんずんと歩みを進めていく。
「き、聞こえてなかったのかっ」
「聞こえているさ……」
俺は勢いよく彼に近づき、無防備な顔面を思い切り殴りつけた。
鈍い打撃音が室内に響き渡る。
「ぎゃぁっ」
ゲーヒィンは勢いよく後方へ転がっていった。
ふらふらと無様に立ち上がると、濁った瞳に怒りの炎を宿して叫ぶ。
「ギンコぉっ。殺せっ。その犬女を殺せぇいっ」
だが。
「…………」
「ど、どうしたギンコぉっ。殺せっ。殺すんだよぉっ」
いくら喚き散らしても、ギンコさんは全く反応を示さない。
冷たい剣の腹をキースホンドの首筋に添えたままだ。彼女は一切の怪我をしていない。
「ほ、他の連中でいいっ。殺せっ。人質を殺すんだぁっ」
「「「…………」」」
ブトーさんをはじめとしたSランカーたちもまた、ギンコさん同様にゲーヒィンの命令に従わない。
その場で彫像のように待機したままだ。
「ど、どうなってるんだぁ。なぜ、吾輩の命令を聞かないんだぁ」
「命令が聞こえてないからだよ」
「なぁんだとぉ」
俺はゲーヒィンを冷ややかに見下ろしながら告げた。
「お前の声は、みんなに届いていないんだ。音波の魔人、メルクリウスが音を操作してるからな」
メルクリウスが両手をぴんと伸ばしている。
彼女は音波の動きを自在に操ることができるのだ。
ゲーヒィンから発せられた音だけを、外に拡散しないように空間を遮断しているのである。
「ギンコさんたちは、お前の命令で動いている。ということは、命令が届かない今、自発的に動くことはない」
ヴィーナスの力で命令を聞く状態にはなっている。
だが、具体的な命令がない限り動かないということだ。
特に、自分の意に沿わぬ非道な行動を、命令が無い状態で自ら行うわけがない。
「ぎ、ぎ、ギンコぉっ。目の前でお前の愛しい男がぁ。ピンチなんだぞぉっ。助けろ、助けろよぉっ」
「……無駄だよ」
ゆらりと、怒りのオーラを放ちながらリィナが近づいてくる。
その手には、普段から愛用している剣が固く握られていた。
彼女の瞳には、ゲーヒィンへ向ける静かな怒りの炎が燃え盛っている。
当然だ。大切な親友に酷い仕打ちをした相手なのだから。
いくら温厚な彼女であっても、こればかりは怒って当然である。
「あたし、わかるもん。同じ男性を好きになったんだもん。好きでもない奴のことなんて、助ける義理はないもん。特に、お前みたいな悪人をっ」
リィナは鞘に入った状態のまま、剣を上段に構えた。
怒りで彼女の小さな肩が小刻みに震えている。
「ガイア。お願い……あたしにやらせて」
誰よりもブチ切れているのはリィナだろう。
だからこそ、リィナ自身の手でこいつを成敗したいらしい。
是非もない。俺は無言でリィナの剣にそっと触れ、重力を操作した。
「せやぁああああああああああああっ」
リィナが凄まじい早さで剣を振り抜く。
ドガァッと、硬いものが砕けるような鈍い音が響いた。
「ぎええええええええええええっ」
空を舞って吹き飛んでいくゲーヒィンの先へと回り込み、リィナは再び剣を構える。
剣士の職業が持つ、特有のスキルを発動させた。
「【秋雨】っ」
降り注ぐ冷たい雨のごとく、無数の突きを素早くゲーヒィンの巨体に浴びせる。
鋭い風切り音が連続して鳴り響いた。
「ぶぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぁあああああああああああああああああああああっ」
全身に痛烈な突きを食らったゲーヒィンが、ボールのようにさらに弾き飛ばされていく。
その先に待ち受けていたのは、メルクリウスだ。
彼女の胸の奥にも、ゲーヒィンへの強い恨みや憎しみがあるのだろう。
怒りで桃色のツインテールが逆立っている。
「お前は、許されないことをしたのだっ」
メルクリウスが音波に乗って加速し、音速の蹴りを顔面に食らわせた。
「ぎゃぁあああああああああああああああああああああっ」
ゲーヒィンの身体が壁をぶち破り、塔の外の虚空へと投げ出される。
空中に浮く彼のもとへ、メルクリウスが再び音速で移動した。
「友達を泣かせた罰だぁああああああああああっ」
メルクリウスがゲーヒィンの脳天に対して、容赦のないかかと落としを食らわせる。
凄まじいスピードによる必殺の一撃。
威力は速度によって何倍にも増幅される。
とんでもない早さによるかかと落としは、ゲーヒィンを遥か眼下の地面へと叩き落とした。
そして。
ドゴォオオン。
離れた高層階にいるここからでもはっきりと聞こえるほどの、巨大な激突音が響き渡る。
土煙が舞うのを見届け、メルクリウスがふわりと戻ってきた。
そして、リィナに近づき、その小さな身体をぎゅっと抱きしめる。
「もう大丈夫だよ、お姉ちゃん。だから、泣かないでなのだ」
リィナは涙を拭いながら何度も頷き、メルクリウスの頭を優しく撫でた。
「ありがとう……めるちゃん」
リィナがやっと見せた安堵の微笑みに、メルクリウスは尻尾をパタパタと振るような勢いで嬉しそうに笑うのだった。




