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ノエルが重い瞼を開けると、そこは見知らぬ場所だった。
先ほどまで居た石造りの薄暗い通路とは、まるで違う。
神殿のような厳かな雰囲気を漂わせる、広大なホールだ。
冷たい大理石の床の感触が、直接肌に伝わってくる。
どこか甘ったるい香水の匂いが、静寂に包まれた空間に漂っていた。
「ここは……」
「げひひひっ。久しぶりだなぁ。のーえるぅ」
ホールの最奥には、悪趣味なまでに装飾された豪奢な椅子が置かれていた。
そこにふんぞり返っていたのは、ゲーヒィンだ。
かつての自分の嫁ぎ先であった、下品極まる男。
名は体を表すとは、まさにこのことである。
下卑た笑みを浮かべ、だらしなく涎を垂らしている。
その濁った瞳は、ノエルの豊かな胸や腰の曲線を遠慮なく舐め回すようにロックオンしていた。
ノエルは素早く立ち上がり、攻撃の態勢を取ろうと身構える。
彼女はこの男によって理不尽に攫われたのだ。多少乱暴な手段に出ても問題ないはずだ。
だが、頼るべき杖が手元になかった。
魔法使いである彼女にとって、杖がなければ魔法の行使は極めて困難となる。
使えないわけではないが、想定する威力を引き出せないのだ。
鋭い視線で周囲を見渡す。
ノエル以外に味方の姿はない。
となると、杖がない状態で無理に魔法を使っても、この状況を打破できるとは思えなかった。
ノエルは静かに魔力を収め、攻撃の意思を隠す。
「げひひひっ。相変わらず頭の回転が速い、かわいげ無い女よのぉ。まぁ、そこがいいんだがなぁ」
にちゃあ、と気色の悪い粘着質な笑みを浮かべるゲーヒィン。
ノエルは今すぐにでも、このおぞましい空間から逃げ出したい気持ちで一杯だった。
背後には、外へと続く出入り口が一つある。
あそこからなら逃げられそうだ。
ノエルは悟られぬよう、体内深くで密かに魔力を練り上げる。
「……私を、どうするつもり。」
「げひひっ。昔の続きをするだけだぁ。なぁ、可愛い可愛い花嫁よぉ」
ふと視線を落とし、ノエルは自身の肌を晒す面積の異常さに気づいた。
自分の服装が、いつもの冒険者のそれではない。
自分をここへ連れてきたギンコと同じ、極めて際どい衣装を着せられていた。
ビーズで繋がれた細いブラとショーツという、破廉恥極まる娼婦のような格好だ。
肌を撫でる空気が、やけに冷たく感じられる。
一秒だって、この場から逃げ出したい。
彼女は初級の光魔法、【発光】を無詠唱で発動させた。
カッ、と強烈な白い閃光がホール全体を包み込む。
攻撃系ではない、ただ強い光を放つだけの単純な魔法だ。
ゆえに、杖も呪文の詠唱も省いて瞬時に発動できたのである。
ゲーヒィンが急な眩しさに悲鳴を上げ、目を覆っている。
その隙を突き、ノエルは全速力で脱出を試みた。
背後の出入り口らしき場所から、外へ。
冷たい床を蹴り、無我夢中で走り抜け、そして彼女は絶望に足を止めた。
吹き荒れる強風が、ノエルの亜麻色の髪を激しく揺さぶる。
彼女がいるのは、塔の高層にあるバルコニーだった。
遥か眼下に、ミニチュアのようなザドゥの街並みが広がっている。
周りには何もない。ここから逃げ出すのは、完全な自殺行為だ。
飛び降りれば、確実に命はないだろう。
「げひひっ。ここは吾輩の住居スペースになっている。降りるためには鍵が必要なのだ。いいぞぉ、ノエルぅ。そうだ、諦めて吾輩の女となるがいいぃ。げひひひひっ」
いつの間にか背後に迫っていたゲーヒィンが、下劣な笑い声を上げる。
裏を返せば、鍵がない状態ではこの住居スペースからは絶対に離れられないということだ。
鍵を力ずくで奪うか、ここから飛び降りるか。
ノエルの脳裏をよぎったのは、大切な友達であるリィナ、そして仲間のガイアの顔だった。
二人を思うなら、取るべき行動は一つ。
決してここから飛び降りて、命を粗末にすることではない。
ゲーヒィンが身を乗り出し、ノエルの白い肌を無遠慮に撫で回す。
ざらついた舌が、彼女の頬をべろりと舐め上げた。
身の毛のよだつ嫌悪感に吐き気を催すが、ノエルは必死に歯を食いしばって耐える。
そう、こいつは自分を愛玩動物のように手元に置いておきたいはずだ。
それはつまり、殺されることはなく、命だけは保証されているということ。
星空の夜の依頼は、この街を支配者の手から解放することだ。
現在、敵側の情報が圧倒的に不足している。
ならば、あえてここに留まり、敵の懐で情報を集める。
それが、自分たちにとって必ず最大のメリットとなるはずだ。
だから、どれほど不愉快な屈辱を味わおうとも、耐え抜く。
大切な仲間たちのために。
そして、ノエルは固く信じていた。
あの不器用で優しい仲間たちが、絶対に助けに来てくれるのだと。




