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第9話 岩の裂け目の水

最初に知ったのは、熱だった。


 背中に、熱が落ちてくる。

 腹の下から、熱が昇ってくる。

 上も下も、熱だった。

 沼の水も、海の冷たさも、どこにもない。

 ノクティエルは、焼けた砂の上に、腹ばいになっていた。


 体を確かめた。

 四本の脚。

 蛙の頃よりも、長く、しなやかで、指の先に小さな爪がある。

 背中から尾の先まで、細かな鱗がびっしりと並んでいる。

 皮膚は、もう、しっとりと濡れてはいなかった。

 乾いていた。

 乾いていて、硬く、熱を浴びても、水を奪われない。


 そして、尾があった。


 蛙の段で、静かに体の中へ消えていった尾。

 それが、また、そこにあった。

 だが、オタマジャクシの、薄く揺れる尾とは違った。

 太く、重い。

 付け根のあたりが、ぷっくりと膨らんでいる。


 ノクティエルは、少しだけ、尾を持ち上げてみた。

 重かった。

 重いのに、不思議と、その重さが心地よかった。

 何かを持っている、という重さだった。


 ◇


 砂漠だった。


 見渡すかぎり、黄色い砂と、ところどころに突き出た赤茶色の岩。

 空は、白く焼けていた。

 太陽は、空のてっぺんから、何もかもを押し潰すように照りつけていた。


 ノクティエルは、長く同じ場所にいられなかった。

 腹の下の砂が、あっという間に熱くなる。

 脚を一本ずつ持ち上げ、熱さを逃がす。

 それでも追いつかなくなると、体が勝手に走り出した。

 岩の陰へ。

 影の中へ。


 影の中では、体が冷えていく。

 冷えすぎると、今度は、脚が重くなる。

 動きが鈍くなる。

 すると、体が勝手に、また日向へ這い出していく。


 日向と日陰を、行き来する。

 熱くなりすぎず、冷えすぎず。

 この体は、自分で温まることができなかった。

 膜の頃よりも、ずっと大きく、ずっと強い体なのに、熱だけは、外から借りるしかなかった。

 太陽と、影と、岩の熱を借りて、ちょうどよい温かさを保つしかなかった。


 ――海の段の、流れを読む力だ。


 ノクティエルは、そう思った。

 渦の内側と外側の速さを読んだように、ここでは、熱の流れを読む。

 どこが熱く、どこが冷たいか。

 いつ影が伸び、いつ縮むか。


 それから、もう一つのことに気づいた。

 目を閉じても、熱が見えた。


 舌を、ちろりと出す。

 空気の中の何かが、舌に絡みつく。

 舌を口の中へ戻すと、頭の奥で、まわりの様子が、ぼんやりと浮かび上がる。

 砂の中に、小さな虫が潜っている。

 岩の向こうに、何か温かいものが、じっとしている。


 目ではなく、舌と、熱で、世界を見る体だった。


 膜の頃は、味で、まわりの者を知った。

 石の下では、匂いで。

 海では、揺れで。

 沼では、濡れた皮膚と、飛び出した目で。

 そしてここでは、舌と、熱で。


 段を昇るたびに、世界を知るための窓が、一つずつ増えていく気がした。

 窓が増えるほど、見えるものが増える。

 見えるものが増えるほど、見なかったことにできないものも、増えていく。


 蛙の段の傷が、ちくりと痛んだ。

 救えなかった方を、先に思い出す。

 熱で見える世界は、どこにいても、誰かの熱が、少しずつ冷えていくのが見える世界だった。


 ◇


 水は、どこにもなかった。


 砂は乾いていた。

 岩も乾いていた。

 空気さえ、乾いていた。

 ノクティエルの喉は、ひりひりと痛んだ。


 虫を食べた。

 砂の中から舌で探り当て、すばやく口で捕らえる。

 虫の体の中の、わずかな湿り気が、喉を潤した。

 だが、それだけでは、足りなかった。


 足りない、と体が叫んだ。

 水たまりで刻まれた、あの飢え。

 満ちていても、満ちていないと感じる傷。

 ここでは、本当に満ちていなかった。


 三日目の夕方、ノクティエルは、一つの岩にたどり着いた。


 赤茶色の、大きな岩だった。

 その岩の根元に、細い裂け目が、一本、走っていた。

 舌を出すと、裂け目の奥から、かすかに、冷たい匂いがした。


 ノクティエルは、裂け目の中へ、体を押し込んだ。

 鱗が、岩にこすれる。

 奥へ、奥へ。

 やがて、裂け目は、少しだけ広くなった。


 そこに、水があった。


 岩の天井から、一滴、また一滴と、水が滴り落ちていた。

 その下の岩のくぼみに、手のひらほどの小さな水溜まりができていた。

 どこから来る水なのか、わからない。

 岩の奥の、ずっと深いところから、少しずつ、少しずつ、染み出してくるのだ。


 ノクティエルは、くぼみに口を浸けた。


 冷たかった。

 喉が、ほどけていった。

 体の芯まで、水が染みとおっていく。

 生まれて初めて、この体が、満ちたと感じた。


 いや、満ちたとは、まだ、思えなかった。

 もう少し。

 念のために、もう少し。

 ノクティエルは、くぼみの水を、残らず飲み干した。


 飲み干してから、はっとした。

 くぼみは、空っぽだった。

 天井から、一滴、また一滴と、水が落ちてくる。

 くぼみが、また満ちるまでには、長い時間がかかりそうだった。


 ◇


 その夜、ノクティエルは、裂け目の奥で眠った。


 砂漠の夜は、昼とは逆に、ひどく冷えた。

 体が冷えて、動けなくなる。

 だが、裂け目の奥は、昼のあいだに岩が吸い込んだ熱が、ゆっくりと染み出してきて、ほのかに温かかった。


 朝になると、くぼみには、また少しだけ、水が溜まっていた。

 ノクティエルは、それを、今度は半分だけ飲んだ。

 半分は、残した。


 昼になると、外へ出て、虫を探した。

 虫を食べて、また裂け目へ戻る。

 夕方に、残しておいた半分を飲む。


 そうやって、何日か過ごすうちに、尾の付け根の膨らみが、少しずつ、大きくなっていった。


 食べたものの余りが、尾に溜まっていくのだ。

 虫がたくさん捕れた日は、尾が少し重くなる。

 何も捕れない日は、尾の重さが、少しずつ減って、そのぶん、体が持ちこたえる。


 ある昼、岩の外で虫を追っていると、舌に、ひやりとした匂いが絡みついた。


 熱が、近くにあった。

 だが、生き物の熱ではなかった。

 砂の熱に紛れて、ほとんど区別がつかない、長く、細い熱。

 それが、砂の上を、音もなく、こちらへ滑ってきていた。


 蛇だった。


 ノクティエルが気づいた時には、蛇の頭は、もう、すぐそばまで来ていた。

 体が勝手に走り出した。

 岩へ。

 裂け目へ。

 背後で、砂を叩くような音がした。

 何かが、尾の先を、かすめた。


 裂け目に飛び込んだ瞬間、尾の付け根に、引きちぎられるような痛みが走った。

 蛇の口が、尾の先に、食いついていた。


 その時、尾の付け根のどこかで、かちり、と、何かが外れかけた。

 この体は、知っていた。

 尾を、捨てられる。

 捨てれば、蛇は尾をくわえたまま止まり、体は逃げられる。


 ノクティエルは、捨てなかった。

 捨てたくなかった。

 何日もかけて膨らませた、蓄えの詰まった尾。

 それを、ここで失いたくなかった。


 四本の脚で、岩にしがみついた。

 尾を、裂け目の奥へ、無理やり引きずり込んだ。

 蛇の口が、ずるり、と外れた。

 尾の先の鱗が、何枚か、剥がれ落ちた。

 それだけで、済んだ。


 裂け目の奥で、ノクティエルは、尾を抱え込むようにして、震えていた。

 助かった。

 尾も、無事だった。

 それなのに、どこかで、ひどく危ういことをした気がした。

 尾を守るために、体ごと、蛇の口の前に留まった。

 もし、あと少し、蛇の力が強かったら。


 ――蓄えだ。


 ノクティエルは、震えが収まったあとで、尾の重さを、うっとりと感じた。

 水たまりの頃、膜の奥に、甘い粒を一つだけ蓄えた。

 あれを、小さな膜へ渡した。

 渡したあと、内側が空っぽになって、すうっと冷えていった。

 あの冷たさを、この体は、まだ覚えていた。


 今は、違った。

 尾が、重い。

 重いということは、まだ、空っぽではないということだった。


 ◇


〈いい尾だ〉


 声がした。


 かちり、と、硬いものが触れ合う音。

 ちゃり、ちゃり、と、小さな金属が積み重なっていく音。

 金貨を、一枚、一枚、数えながら積み上げていくような音。

 その音が、そのまま、声になっていた。


〈よく肥えている。その尾は、お前が自分の力で手に入れた、お前だけのものだ。誰にも渡す必要はない〉


 ノクティエルは、裂け目の奥で、身を硬くした。


「……お前は」


〈わたしは、マモン。蓄える者の味方だよ〉


 声は、裂け目の中の、くぼみの水面から聞こえてくるようだった。

 水面に、ちらちらと、金色の光が揺れていた。

 岩の天井から落ちてくる一滴一滴が、くぼみに落ちるたびに、ちゃりん、と、金貨のような音を立てた。


〈この水も、お前が見つけた。お前のものだ。この砂漠で、水の湧く場所を知っている者は、ほとんどいない。お前は、宝を見つけたのだ〉


〈宝は、隠しておくものだ。見つけた者だけが、持っていればいい〉


 ノクティエルは、くぼみの水を見下ろした。

 朝に半分飲んで、半分残した水。

 夕方まで、誰にも触れられずに、そこにある水。


〈蠅の王の話は、聞いているよ〉


 マモンの声が、ちゃりちゃりと、楽しげに鳴った。


〈お前は、膜の頃に、自分の蓄えを渡したそうだね。その結果、どうなった。空っぽになって、飢えて、冷えて、死にかけた。その飢えは、今も、お前の中に刻まれている〉


〈蛙の頃には、背中に乗せた者を、二匹、死なせたそうだね。救えなかった。お前の背中が、乾きすぎていたから。お前の蓄えが、足りなかったから〉


 ノクティエルの尾が、ぴくりと動いた。


〈蓄えがあれば、救えた。わかるだろう。蓄えのない者は、誰も救えない。まず、蓄えろ。お前の尾を、もっと太らせろ。お前の水を、誰にも渡すな。そうすれば、いつか、本当に誰かを救える日が来る〉


 それは、正しいことのように聞こえた。

 また、正しいことのように聞こえた。


〈それに、わたしとお前は、似ているよ〉


 ちゃり、ちゃり、と、金貨の音が、ゆっくりと続いた。


〈お前は、数える者だろう。わたしも、数える者だ。わたしは、持っているものを数える。一枚、一枚。数えるたびに、まだここにある、と確かめる。数えていれば、何も失わずに済む〉


〈お前も、そうだろう。消えた者を数えるのは、消えた者を、まだ持っていたいからだ。手放したくないからだ。違うかい〉


 ノクティエルは、答えられなかった。


 天界のことを、思い出していた。

 灯した魂の顔を、一つずつ覚えていたこと。

 ハリエルが群れ灯しを教えようとした時、断ったこと。

 覚えていることだけが、自分の取り柄だと思っていた。


 あの頃、ノクティエルは、覚えた顔を、誰にも話さなかった。

 ハリエルにも。

 泉の番をする年老いた天使にも。

 赤子の魂の顔も、溺れた犬の顔も、名もない羽虫の顔も、自分の中にだけ、しまっておいた。

 話せば、自分だけのものではなくなる気がした。


 ――持っていたかったのだ。


 灰色の翼の自分が、唯一、誰にも負けずに持っているもの。

 それを、手放したくなかった。

 マモンの言う通りなのかもしれなかった。


〈ほらね〉


 金貨の音が、ちゃりん、と、くぼみの水面で鳴った。


〈わたしたちは、同じだよ〉


 ◇


 次の日、ノクティエルは、岩のまわりに、別の匂いを見つけた。


 舌に絡みつく、たくさんの匂い。

 自分と同じ種類の、トカゲの匂いだった。

 一匹ではない。

 十匹ほど。

 砂丘の向こうから、ゆっくりと、こちらへ移ってきていた。


 ノクティエルは、岩の上へ登り、熱で、その一団を見た。


 皆、痩せていた。

 尾の付け根が、細くしぼんでいた。

 蓄えを、使い果たしかけているのだ。

 先頭を這っているのは、大きな、年老いたトカゲだった。

 尾の先が、途中で、ぷつりと切れていた。

 切れたところから、短く、色の違う尾が、生え直していた。


 年老いたトカゲの一団は、岩のそばの日陰で、身を寄せ合ってうずくまった。

 その中に、まだ小さな、幼いトカゲが、三匹、混じっていた。

 幼いトカゲたちは、ほとんど動かなかった。


〈見るな〉


 マモンの声が、ちゃりん、と鳴った。


〈あれらは、お前の群れではない。お前とは、何の関わりもない。あれらは、水を探して、ここまで流れてきた。もし、あれらが、この裂け目を見つけたら、どうなる〉


〈十匹で、お前の水を飲み尽くす。一晩で、くぼみは空っぽだ。天井の一滴では、とても追いつかない。そして、お前の水は、なくなる。お前の尾も、すぐにしぼむ。あれらと一緒に、お前も、干からびる〉


〈この水は、一匹分しかないんだよ。最初から〉


 ノクティエルは、岩の上で、じっと動かなかった。


 年老いたトカゲが、首をもたげた。

 舌を、ちろりと出した。

 岩の方を、じっと見ていた。

 何かを、嗅ぎ取ろうとしているように。


 ノクティエルは、岩から、すべり降りた。

 裂け目の入り口の前に、体を横たえた。

 入り口を、自分の体で隠すように。


 ハサミムシの段で、入り口を塞いだのと、同じ形だった。

 だが、あの時は、内側にいる兄弟たちを守るために塞いだ。

 今は、外にいる者たちから、内側の水を守るために塞いでいた。


 同じ形をしているのに、まるで、反対だった。


 ノクティエルは、それに気づいていた。

 気づいていて、動けなかった。


〈そう。それでいい〉


 マモンの声が、満足げに鳴った。


〈お前は、もう、愚かではない。水たまりの頃の、何でも渡してしまう膜ではない。守るべきものを、守れるようになった。それが、強くなるということだよ〉


 年老いたトカゲの舌が、また、ちろりと出た。

 そして、首をかしげ、ゆっくりと、別の方へ向きを変えた。

 岩の裂け目には、気づかなかったようだった。


 ノクティエルは、入り口の前で、長いあいだ、動かなかった。

 尾が、重かった。

 その重さが、さっきまでとは、少しだけ違う重さに感じられた。


 ◇


 それから二日、一団は、岩のそばの日陰を離れなかった。


 ノクティエルは、岩の上から、熱で、それを見ていた。

 年老いたトカゲは、昼になると日陰を出て、砂の上をあてもなく這い回った。

 水を探しているのだ。

 舌を出し、首をかしげ、また別の方へ這っていく。

 何度か、岩の根元のすぐそばまで来た。

 そのたびに、ノクティエルは、入り口の前に体を横たえた。


 ある時、年老いたトカゲの尾の、色の違う短い先が、よく見えた。

 切れて、生え直した尾。

 蛇から逃げるために、捨てたのだろう。

 捨てて、生き延びて、それから、短く生え直した。


〈あれは、愚か者の尾だよ〉


 マモンが、ちゃりん、と笑った。


〈せっかく蓄えた尾を、捨てて逃げた。あの年寄りが、今、あんなに痩せているのは、そのせいだ。蓄えを捨てた者は、いつまでも、飢えたまま這い回る〉


 ノクティエルは、自分の尾の先の、鱗が剥げたところを、思い出した。

 自分は、捨てなかった。

 捨てずに、蛇の口の前に留まった。


 どちらが愚かなのか、ノクティエルには、わからなかった。


 二日目の夕方、日陰の中で、幼いトカゲの一匹が、動かなくなった。


 熱が、ふっと消えた。

 水たまりで、膜の味が消えた時と、同じだった。

 年老いたトカゲが、その小さな体のそばに、長いあいだ、うずくまっていた。

 ほかの者たちも、動かなかった。


 二百七十九。


 ノクティエルは、岩の上で、その数を刻んだ。

 刻みながら、自分の舌の奥に、まだ、くぼみの水の冷たさが残っていることに気づいた。

 朝に、半分、飲んだ。

 半分は、残してある。

 その半分が、今、岩の奥で、誰にも触れられずに、静かに冷えている。


 あの半分は、明日の自分のための水だった。

 明日の自分が、喉を焼かれないための水。

 念のための、水。


 岩の下の日陰で、年老いたトカゲが、動かなくなった小さな体に、舌で、そっと触れていた。

 何度も。

 何度も。

 ハサミムシの母が、触角で子を数えていたのと、同じ触れ方だった。


 ノクティエルは、岩の上から、目を逸らした。

 逸らしても、熱は、見えてしまった。


 ◇


 その夜、砂漠に、風が吹いた。


 昼の熱の名残を巻き上げて、乾いた風が、砂を飛ばしていく。

 裂け目の奥にいても、入り口から、ざあざあと砂が吹き込んでくる音がした。


 その音の奥で、マモンが、金貨を数えていた。

 ちゃり。

 ちゃり。

 ちゃり。

 一枚、また一枚。

 砂嵐の音に負けないように、ゆっくりと、丁寧に。


 ノクティエルも、数えていた。

 二百七十九。

 その隣の、一つの群れ。

 その隣の、一つの沼。

 生きている者は、五。


 マモンの金貨の音と、自分の数える声が、裂け目の暗がりの中で、重なって聞こえた。

 同じだよ、とマモンは言った。

 持っていたいから数える。

 手放したくないから数える。


 ――本当に、同じなのだろうか。


 ノクティエルは、生きている者の数を、もう一度、確かめた。

 五。

 水たまりの膜は、もう、どこにいるかわからない。

 石の下の兄弟も、海の欠けた一匹も、池の丸い体も。

 どれも、ノクティエルの手元には、いない。

 どこか遠くで、それぞれに、生きているはずの者たち。


 持っていない者を、数えていた。

 自分のものではない者を、数えていた。


 マモンの金貨は、全部、マモンの手元にある。

 ノクティエルの数は、どれも、手元にはない。


 その違いが、何を意味するのか、ノクティエルには、まだ、うまく言葉にできなかった。


 夜明け前、ノクティエルは、入り口の外に、小さな温かさを感じた。


 熱だった。

 自分と同じくらいの、いや、もっと小さな熱。

 入り口のすぐ外で、震えていた。


 ノクティエルは、舌を出した。

 幼いトカゲの匂いだった。

 あの一団の、残った二匹の幼いトカゲのうちの一匹。

 砂嵐の中ではぐれ、風に追われて、この岩の根元まで、這ってきたのだ。


 幼いトカゲは、裂け目の入り口に、頭を半分だけ突っ込んでいた。

 中から、冷たい水の匂いがすることに、気づいたのかもしれない。

 だが、それ以上は入ってこなかった。

 動けないのかもしれなかった。

 熱が、どんどん小さくなっていく。

 夜の冷えに、体が奪われていく。


〈追い返せ〉


 マモンの声が、ちゃりん、と、鋭く鳴った。


〈一匹でも入れれば、あとが続く。この幼いのが戻らなければ、あの年寄りが探しに来る。探しに来れば、この裂け目を見つける。見つければ、十匹が来る。十匹が来れば、お前の水は、終わりだ〉


〈お前の尾を、見ろ。それは、お前が、何日もかけて、一匹で積み上げたものだ。それを、見ず知らずの者に、一晩で奪われていいのか〉


 ノクティエルは、自分の尾を見た。

 太く、重い尾。

 くぼみの水を、半分ずつ残し、虫を一匹ずつ捕らえ、何日もかけて、少しずつ膨らませてきた尾。


 入り口の外で、小さな熱が、また一つ、細くなった。


 蛙の段で、坂の上で乾いていった、二匹のことを思い出した。

 救えなかった方を、先に思い出す。

 ヘルメスが言った通りだった。


 ――蓄えがあれば、救えた。


 マモンの言葉が、尾の重さと一緒に、のしかかってきた。

 蓄えがあれば、救えた。

 だから、蓄えた。

 蓄えた今、目の前で、一匹が冷えていく。


 ノクティエルは、入り口の方へ、少しだけ、這い寄った。

 追い返すためなのか、確かめるためなのか、自分でもわからなかった。


 舌を出した。

 幼いトカゲの頭に、舌の先が、そっと触れた。


 冷たかった。

 生き物の熱が、ほとんど残っていなかった。

 それでも、舌の奥に、かすかな匂いが流れ込んできた。

 怯えている匂い。

 乾いている匂い。

 そして、そのどれでもない、もう一つの匂い。


 ここにいる。


 水たまりの膜が流した、淡い味。

 石の下の兄弟が、とん、と触れた触角。

 海の欠けた一匹が、脇を寄せてきた一瞬。

 池の丸い体が、背中に頭をつけた、こつん、という感触。

 どの段でも、同じだった。

 言葉ではない何かで、誰かが、ここにいる、と伝えてくる。


 ノクティエルは、舌を引っ込めた。

 引っ込めて、裂け目の奥へ、後ずさった。

 後ずさった体の、太い尾が、岩の壁にこすれて、重く鳴った。


 では、この蓄えは、いったい、誰を救うためのものなのか。


〈お前自身を、だよ〉


 マモンが、ささやいた。


〈決まっているだろう〉


 ノクティエルは、裂け目の奥で、尾を抱え込むように、体を丸めた。

 入り口の外の、小さな熱を、舌で感じながら。


 夜明けまで、まだ、少し時間があった。


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