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第10話 捨てた尾

夜明けまでの時間は、思っていたよりも、ずっと長かった。


 裂け目の奥で、ノクティエルは、尾を抱えて丸まっていた。

 入り口の外の、小さな熱が、また一つ、細くなる。

 舌を出さなくても、わかった。

 この体は、目を閉じていても、熱が見える。

 見えてしまう。


〈眠れ〉


 マモンの声が、くぼみの水面で、ちゃりん、と鳴った。


〈目を閉じて、眠ってしまえばいい。朝になれば、全部、終わっている。お前は何もしなかった。何も奪わなかった。ただ、自分のものを、自分のところに置いておいただけだ。それは、罪ではない〉


 罪ではない。


 ノクティエルは、その言葉を、尾の重さと一緒に抱えた。

 確かに、罪ではないのかもしれなかった。

 奪ってはいない。

 押しのけてもいない。

 ただ、渡さないだけ。


 天界の秤の園で、ネメシスは言った。

 秤は数を責めぬ。

 責めるのは、お前自身だ。


 ノクティエルは、目を開けた。


 ◇


 くぼみには、夕方に残した半分の水が、まだ、そこにあった。

 天井から落ちた滴が、少しだけ、それを増やしていた。


 ノクティエルは、くぼみに口を浸けた。

 飲まなかった。

 口の中に、水を含んだ。

 舌の上に、冷たい重さが溜まる。

 それから、ゆっくりと、入り口の方へ這っていった。


〈何をする〉


 金貨の音が、鋭く鳴った。


 ノクティエルは、答えなかった。

 口の中に水を含んでいたから、というのもあった。

 だが、それだけではなかった。

 答えれば、決めたことが、揺らぎそうな気がした。


 入り口の外で、幼いトカゲは、頭を半分だけ裂け目に突っ込んだまま、動いていなかった。

 舌を出す力さえ、もう、残っていないようだった。


 ノクティエルは、幼いトカゲの口元に、自分の口を寄せた。

 口の中の水を、少しずつ、流し出した。

 水は、幼いトカゲの乾いた口の端に、じわりと染み込んでいった。


 何も、起きなかった。

 しばらく、何も。


 それから、幼いトカゲの喉が、ほんのわずかに、動いた。

 こくり、と。


 ノクティエルは、裂け目の奥へ戻り、また、くぼみの水を口に含んだ。

 入り口へ這い、流し込む。

 戻る。

 含む。

 這う。

 流し込む。


 蛙の段で、背中に丸い体を乗せて坂を往復したのと、同じだった。

 ただ、今度の坂は、裂け目の奥から入り口までの、ほんの体三つ分の距離だった。


 くぼみの水が、なくなった。


 ◇


 夜が、明けた。


 幼いトカゲは、生きていた。

 裂け目の入り口の、岩の影の中で、うずくまっていた。

 熱が、少しだけ、戻っていた。

 舌を、ちろりと出して、ノクティエルの方を見た。


〈……やったな〉


 マモンの声が、くぼみの空っぽの底から、低く響いた。

 ちゃりん、という音は、もうしなかった。

 代わりに、乾いた砂が、ざらりと崩れるような音がした。


〈お前は、水を失った。一晩分の水だ。今日、お前は喉を焼かれる。それでも、天井の一滴を待つしかない。その一滴も、明日には、この幼いのが飲むだろう。そうしたら、お前は、また喉を焼かれる〉


〈お前は、自分の宝を、自分の手で削り始めたんだよ。一度削れば、二度目も削る。二度削れば、三度目も。最後には、何も残らない〉


 ノクティエルは、空っぽのくぼみを見下ろした。

 天井から、一滴、落ちた。

 くぼみの底で、小さく、ぴちゃん、と鳴った。

 金貨の音では、なかった。


「……まだ、尾がある」


 ノクティエルは言った。

 声が、乾いた喉から、かすれて滲み出ていった。


〈そうだ。尾がある〉


 マモンの声が、少しだけ、元気を取り戻した。


〈尾だけは、守れ。尾は、お前の命そのものだ。水は失っても、尾があれば、何日かは持ちこたえる。尾まで失ったら、本当に、何もなくなるぞ〉


 日が昇ると、すぐに、ノクティエルの喉は、焼けるように痛み始めた。


 水が、なかった。

 天井の一滴は、くぼみの底を、ほんのわずかに湿らせるだけだった。

 外へ出て、虫を探した。

 虫の体の湿り気が、ほんの少しだけ、喉をなだめた。

 それでも、すぐにまた、焼けた。


 入り口の陰で、幼いトカゲが、じっとこちらを見ていた。

 ノクティエルが戻ってくるたびに、首を少しだけ持ち上げた。

 何かを、待っているようだった。


 ノクティエルは、くぼみの底を見た。

 一滴、また一滴。

 ほんの少しずつ、湿り気が溜まっていく。


 喉が、叫んでいた。

 飲め。

 お前の水だ。

 お前が見つけた水だ。


 ノクティエルは、くぼみの湿り気を、舌の先で、ほんの少しだけ舐めた。

 それから、残りを口に含んで、入り口へ這っていった。


 天界にいた頃、覚えた魂の顔を、誰にも話さなかった。

 自分の中にだけ、しまっておいた。

 この水も、同じだった。

 誰にも見つけられないように、裂け目の奥に、しまっておいた。

 しまっておいたものは、誰の喉も潤さなかった。


 ◇


 昼前、岩のまわりに、たくさんの熱が近づいてきた。


 年老いたトカゲの一団だった。

 幼いトカゲの匂いを、追ってきたのだ。

 年老いたトカゲは、岩の根元にたどり着くと、裂け目の入り口でうずくまっている幼いトカゲを見つけた。

 長い舌を伸ばし、その頭に、そっと触れた。

 何度も。


 それから、年老いたトカゲは、裂け目の奥を見た。

 ノクティエルと、目が合った。

 熱で見ても、目で見ても、年老いたトカゲの体は、ひどく痩せていた。

 尾は、短く、細く、色の違う先が、ぴくぴくと動いていた。


 年老いたトカゲは、舌を出した。

 裂け目の奥の、冷たい匂いを、嗅ぎ取った。


 水だ、と、その舌が言っていた。


〈来たぞ〉


 マモンの声が、ざらりと崩れた。


〈ほら、言った通りだ。一匹を入れれば、十匹が来る。あれらは、お前の裂け目を、お前の一滴を、全部、奪っていく。今なら、まだ間に合う。入り口に立て。鱗を逆立てろ。尾を振り上げて、威嚇しろ。お前は、あれらより若い。あれらは、痩せている。戦えば、勝てる〉


 ノクティエルの体の奥で、何かが、ぎゅっと縮んだ。


 蛙の段で、刻まれた傷。

 救えなかった命の記憶。

 そこに、もう一つの何かが、重なっていた。

 失うことへの、警戒。

 この裂け目は、自分のものだ。

 この一滴は、自分のものだ。

 あの丸い体を背中で乾かしてしまったのは、背中の水が足りなかったからだ。

 足りなかったのは、蓄えがなかったからだ。


 ――蓄えがあれば、救えた。


 マモンの言葉が、また、のしかかってきた。


 年老いたトカゲが、裂け目の入り口へ、一歩、近づいた。


 ◇


 ノクティエルは、入り口に立った。


 鱗を逆立てた。

 尾を、高く振り上げた。

 体が、勝手にそうした。

 この体の、いちばん古いところが、そうしろと叫んでいた。


 年老いたトカゲが、止まった。

 後ろの一団も、止まった。

 皆、痩せていた。

 皆、乾いていた。

 皆、ノクティエルの振り上げた尾を、じっと見ていた。


 年老いたトカゲは、威嚇し返さなかった。

 ただ、ゆっくりと、頭を低くした。

 自分の短い尾を、体の下へ、そっと隠すように。


 年老いたトカゲの、短い、色の違う尾の先が、ぴくりと動いた。

 ノクティエルは、そのとき、ふと思った。

 あの尾は、本当に、自分が逃げるために捨てたのだろうか。

 年老いたトカゲは、いつも一団の先頭を這っていた。

 蛇が来れば、真っ先に見つかる場所だった。

 もしかしたら、あの尾は、後ろを這う誰かのために、蛇の口へ差し出したものだったのかもしれない。

 マモンが「愚か者の尾」と呼んだもの。

 蓄えを捨てたから、いつまでも痩せている、と笑ったもの。


 ――戦わないのか。


 ノクティエルは、その姿に、戸惑った。

 年老いたトカゲは、戦えないのではなかった。

 戦わないことを、選んでいた。

 入り口に立つ若い者を傷つけてまで、水を奪おうとはしなかった。

 ただ、頭を低くして、待っていた。


 その時、年老いたトカゲの背後で、砂が、ざわりと動いた。


 ノクティエルの舌に、ひやりとした匂いが、絡みついた。

 砂の熱に紛れて、ほとんど区別のつかない、長く、細い熱。


 蛇だった。


 あの日、ノクティエルの尾の先に食いついた蛇。

 水と、弱った獲物の匂いを追って、ここまで来たのだ。

 蛇の頭は、一団のいちばん後ろ、まだ動けずにいる、もう一匹の幼いトカゲの方へ向いていた。


 ◇


 一団が、弾けた。


 痩せたトカゲたちが、四方へ散る。

 年老いたトカゲが、首を巡らせ、後ろを振り返った。

 だが、遠かった。

 幼いトカゲは、蛇の、すぐ目の前にいた。


 ノクティエルは、走った。


 入り口から飛び出し、砂の上を、全力で。

 焼けた砂が、指の腹を焦がした。

 構わなかった。

 年老いたトカゲの脇をすり抜け、散っていく一団のあいだを抜け、蛇と幼いトカゲのあいだへ。


 蛇の頭が、ノクティエルの方を向いた。


 あの日と同じだった。

 蛇の口が開き、ノクティエルの体へ、まっすぐに伸びてきた。

 ノクティエルは、体をひねった。

 頭ではなく、尾を、蛇の方へ向けた。

 太く、重く、何日もかけて膨らませた尾を。


 蛇の口が、尾に、深く食い込んだ。


 痛みが、尾の付け根から、背骨を駆け上がった。

 あの日と、同じ痛みだった。


〈離すな〉


 マモンの声が、砂の中から、悲鳴のように響いた。


〈離すな。その尾は、お前の全部だ。逃げるなら、尾ごと逃げろ。あの日のように、岩にしがみつけ。守れ。守れ。守れ〉


 あの日は、守った。

 岩にしがみつき、蛇の口の前に留まり、鱗を何枚か失っただけで、尾を守り抜いた。

 その結果、自分は、ずっと、危うい場所に立ち続けていたのだ。

 蛇の前に。

 握った手の前に。


 背後で、幼いトカゲが、砂の上を這っていく気配がした。

 年老いたトカゲの方へ。

 ノクティエルが、ここで尾を守れば、蛇は、ノクティエルごと、ここに留まる。

 幼いトカゲは、逃げられるかもしれない。

 だが、尾ごと食われれば、ノクティエルは、もう、どこにも行けない。


 尾を捨てれば、蛇は尾だけで満足する。

 ノクティエルも、幼いトカゲも、両方、逃げられる。


 答えは、最初から、そこにあった。

 握りたい手が、それを見えなくしていただけだった。


 かちり、と。


 尾の付け根のどこかで、何かが、外れた。


 今度は、止めなかった。

 止めないと、自分で決めた。

 体の古い知恵に、ようやく、心が追いついた。


 ◇


 体が、ふっと軽くなった。


 ノクティエルは、砂の上を転がった。

 振り返ると、蛇の口の中で、切り離された尾が、のたうっていた。

 ぴくぴくと、まるでまだ生きているかのように、跳ね回っている。

 蛇は、その尾に夢中になっていた。

 巻きつき、締め上げ、丸ごと飲み込もうとしている。


 その隙に、幼いトカゲは、年老いたトカゲのもとへ、這っていった。

 一団が、岩の陰へ、逃げ込んでいった。


 ノクティエルは、尾のない体で、砂の上にうずくまっていた。


 何日もかけて、膨らませた尾。

 くぼみの水を半分ずつ残し、虫を一匹ずつ捕らえ、少しずつ、少しずつ、積み上げた蓄え。

 それが、今、蛇の喉の奥へ、消えていく。


〈なんということを〉


 マモンの声が、震えていた。

 怒りではなかった。

 ほとんど、悲鳴に近かった。


〈なんということを。お前の蓄えだ。お前の命だ。お前が、何日も、何日もかけて、数えながら積み上げたものだ。それを、見ず知らずの幼い者のために、蛇にくれてやったのか〉


〈お前は、もう、何も持っていない〉


 ノクティエルは、尾の付け根の、ひりひりと痛む切り口を、地面に押しつけた。

 熱い砂が、傷に触れて、焼けるように痛かった。


「……持ってない」


 声が、かすれて滲み出ていった。


「でも、数えられる」


〈何を〉


 ノクティエルは、岩の陰を見た。

 熱で見ると、そこに、小さな熱が二つあった。

 一晩中、入り口で冷えていった幼いトカゲ。

 そして、今、蛇の前から逃げ延びたもう一匹。

 どちらも、年老いたトカゲのそばで、うずくまっていた。


「あなたは、持っているものを数える」


 ノクティエルは言った。


「一枚ずつ。まだここにある、と確かめるために。数えていれば、何も失わずに済むから」


「僕は、持っていないものを数えている。水たまりの膜も、石の下の兄弟も、海の欠けた一匹も、池の丸い体も。どれも、僕のところにはいない。僕のものじゃない。手放して、もう二度と会えない者たちだ」


「それでも、数えている。手元にないから、数えている。どこかで、まだ、ここにいる、と流しているはずだから」


 ちゃり、という音が、どこかで、かすかに鳴った。

 それは、金貨の音ではなかった。

 乾いた砂が、ひと粒、こぼれ落ちる音だった。


「あなたの数え方と、僕の数え方は、同じじゃない」


「あなたは、握っているものを数える。僕は、手放したものを、手放したまま、覚えている」


 ◇


 岩の根元の、裂け目の奥で、何かが、崩れ始めた。


 ざらり、と。

 ざらざらと。

 くぼみの水面に揺れていた金色の光が、細かな砂の粒になって、こぼれ落ちていく。

 金貨だと思っていたものは、全部、砂だった。

 この砂漠の、どこにでもある、乾いた砂。


〈……違う〉


 マモンの声が、ひび割れた。


〈違う。わたしの宝だ。わたしが、何千年も、数えてきた宝だ。一枚ずつ。一枚ずつ……〉


〈……数えても、数えても、足りなかった。一枚数えるたびに、まだ足りない、と思った。だから、もう一枚、もう一枚と、集めた。集めても、集めても、足りなかった〉


 ノクティエルは、その言葉を、尾のない体で聞いていた。


 満ちていても、満ちていないと感じる。

 念のために、もう一つ。

 水たまりで刻まれた、自分の傷と、同じだった。


 マモンも、飢えていたのだ。

 何千年も。

 握りしめれば握りしめるほど、足りないと叫ぶ手で。


〈……お前は、足りないのか〉


 砂になりかけた声が、かすかに尋ねた。


「足りない」


 ノクティエルは、正直に答えた。


「今も、喉が焼けてる。尾もない。腹も減ってる。ずっと、足りない。たぶん、この先も、ずっと」


「でも、足りないまま、渡せた。足りないことと、渡せないことは、別のことだった」


 砂の崩れる音が、長いあいだ、続いた。


 やがて、裂け目の奥は、静かになった。

 くぼみの底に、乾いた砂が、薄く積もっていた。

 その砂の上に、天井から、一滴、水が落ちた。

 ぴちゃん、と。


 マモンの声は、もう、聞こえなかった。


 ◇


 それから、何日かが過ぎた。


 年老いたトカゲの一団は、岩の陰に留まった。

 ノクティエルは、裂け目の入り口を、塞がなかった。

 一団は、夜になると、一匹ずつ、裂け目の奥へ入っていった。

 くぼみの水を、一匹ずつ、少しずつ、飲んだ。

 足りなかった。

 十匹で分けるには、天井の一滴は、あまりに少なかった。


 それでも、誰も、奪い合わなかった。

 足りないことを、皆が知っていた。

 知っているから、誰も、先に取ろうとしなかった。

 水たまりの頃の自分なら、きっと、真っ先に口を突っ込んでいた。


 年老いたトカゲが、いつも最後に飲んだ。

 最後に入って、くぼみに残った、わずかな湿り気だけを、舌でそっと舐めていた。

 幼いトカゲたちが、いつも最初だった。


 ノクティエルは、最後から二番目に飲んだ。


 昼のあいだ、二匹の幼いトカゲは、ノクティエルのそばを離れなかった。

 ノクティエルが日向へ出ると、後ろについて日向へ出た。

 日陰へ戻ると、日陰へ戻った。

 熱くなりすぎず、冷えすぎず。

 ノクティエルが覚えた熱の読み方を、二匹は、ノクティエルの背中を見て、覚えていった。

 夜には、裂け目の奥の、岩が昼の熱を吐き出すいちばん温かい場所を、ノクティエルは二匹に譲った。

 自分は、入り口に近い、少し冷えるところで眠った。

 それが、少しも苦しくなかった。


 ある朝、年老いたトカゲが、ノクティエルの切り口の残る尾の付け根に、舌で触れた。

 そこから、細く、短い、色の違う尾が、生え始めていた。

 年老いたトカゲの尾の先と、同じ色だった。


 ――愚か者の尾。


 マモンは、そう呼んだ。

 ノクティエルは、自分の新しい短い尾を、少しも恥ずかしいとは思わなかった。

 年老いたトカゲと同じ尾であることが、むしろ、少しだけ誇らしかった。


 十日目の夕方、空の高いところに、黒い雲が湧いた。

 砂漠に、ほんのわずかな雨が、降った。

 岩の表面を、雨が、細く流れ落ちていった。

 一団は、岩の窪みに溜まった雨水を飲み、それから、年老いたトカゲの後について、砂丘の向こうへ、ゆっくりと移っていった。


 最後尾の幼いトカゲが、一度だけ、振り返った。

 舌を、ちろりと出した。


 ここにいる。


 ◇


 白い場所で、大いなる秤が揺れていた。


 皿の上には、ひと粒の砂と、一滴の水が載っていた。


「第五の段の判定を告げる」


 ネメシスが言った。


「お前は、蓄える者を、倒した」


 ノクティエルは、驚いて、秤を見上げた。

 これまで、倒したことは、一度もなかった。


「お前の剣でも、鋏でも、牙でもない。お前の答えが、あれの数え方を、砂に変えた。握るために数える者は、手放すために数える者の前では、自分の宝が何であったかを、見ずにはいられない」


「……あれは、どうなったのですか」


 ノクティエルは、問いを滲ませた。


「砂になった」


 ネメシスは、短く答えた。


「だが、砂は、消えぬ。風が吹けば、また、どこかに集まる。いつかまた、誰かの飢えに寄り添って、金貨の音を鳴らすかもしれぬ。倒すとは、そういうことだ。滅ぼすことではない。一度、己の宝が何であったかを、見せることだ」


「お前の水たまりの頃の飢えも、消えてはいない。同じことだ」


「完全な昇格とする」


 ヘルメスが、秤の柱の陰から現れた。

 帽子の翼を、ぴんと立てていた。


「尾を捨てるのは、この体のいちばん古い知恵だ。お前はそれを、一度目は拒み、二度目に選んだ。それでいい。知恵は、最初から選べるものじゃない」


「五つ目の能力は、ひとりで長く耐える力と、待つ力。五つ目の心は、自分の場所を守りながら、それでも、持っているものを手放せる節度だ」


「傷は残る。失うことへの警戒だ。次の器では、大切なものができるたびに、それを囲い込みたくなる。手放せた今でさえ、お前の中には、まだ、握りたい手が残っている」


 ノクティエルは、それを否定しなかった。

 尾のない体で、砂の上にうずくまっていた時も、心のどこかで、蛇の喉へ消えていく尾を、取り戻したいと思っていた。


 ヘルメスは、杖を振り上げようとして、ふと、手を止めた。

 それから、ネメシスの方を見た。

 ネメシスは、布の奥で、長いあいだ、黙っていた。


「次の段では」


 ネメシスが、ゆっくりと言った。


「お前に、翼が戻る」


 ノクティエルの光が、大きく揺れた。


「天使の翼ではない。鳥の翼だ。だが、空を飛べる。地上の境目を越え、高く、高く、昇ることができる。……天界の、すぐ下まで」


 ヘルメスが、短く付け足した。


「そこで、お前を待っている者がいる。お前がずっと会いたかった者と、お前がずっと会いたくなかった者だ」


 ノクティエルは、何も言えなかった。


 会いたかった者。

 片翼を焼いた、金色の翼の天使の顔が、浮かんだ。

 会いたくなかった者。

 白い翼の縁だけが煤けた、低く穏やかな声の天使の顔が、浮かんだ。


 どちらが、どちらなのか。

 あるいは、どちらも、両方なのか。

 ノクティエルには、わからなかった。


 ただ、翼が戻る、という言葉だけが、尾のない体のどこかで、熱く疼いていた。

 その疼きが、マモンの言った「握りたい手」と、ひどく似ていることにも、気づいていた。


 白い場所の底が、ゆっくりと、ほどけていった。

 熱い砂の匂いが、薄れていく。

 代わりに、冷たく、澄んだ風の匂いが、下から吹き上げてきた。

 高い、高い場所の匂い。

 雲の匂い。


 そして、その風の奥で、かすかに、千の鈴が鳴った気がした。


 落ちていく前に、ノクティエルは、数を確かめた。


 失われた者。

 二百七十九。

 一つの群れ。

 一つの沼。


 生きている者。

 水たまりの、二つの膜。

 石の下の、小さな兄弟。

 海の、尾鰭の欠けた一匹。

 池の、最初の丸い体。

 そして、砂丘の向こうへ去っていった、最後尾の、幼いトカゲ。


 六。


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