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第11話 空に戻る翼

最初に知ったのは、風だった。


 下から、吹き上げてくる。

 冷たく、澄んでいて、どこまでも高い場所の匂いがする。

 その風が、体の両脇に広がった、何か大きなものを、ぐいと持ち上げた。


 翼だった。


 ノクティエルは、思わず、その翼を打った。

 一度。

 体が、浮いた。

 二度。

 足の下から、地面が離れていった。

 三度。

 空が、近づいてきた。


 ――飛んでいる。


 天界で、三百年、灰色の翼を背負っていた。

 灯の泉と、秤の柱と、北の門のあいだを、低く、ぱたぱたと飛び回るだけだった。

 ハリエルの白い翼が、高く昇っていくのを、いつも下から見上げていた。


 この翼は、灰色ではなかった。

 灰褐色の、硬い羽が、何枚も何枚も重なり合っている。

 打てば、風を掴む。

 掴んだ風が、体を、もっと高くへ押し上げる。


 飛ぶ前の記憶も、少しだけ、あった。


 北の、ひんやりとした湿地。

 草を編んだ巣の中で、殻を割って出た。

 すぐそばに、大きな二羽の鳥がいた。

 一羽は、巣のすぐそばで、首を低くして、まわりを見張っていた。

 もう一羽は、巣の上に覆いかぶさるように、ノクティエルたちを、翼の下に抱いていた。


 親だった。

 この段で、初めて、二羽の親がいた。


 夏のあいだに、羽が生え揃った。

 初めて飛んだのは、湿地の水面の上だった。

 親が、先に飛び立った。

 低く、ゆっくりと、ノクティエルたちの前を。

 その翼が作る風に乗って、ノクティエルは、初めて、水面から足を離した。


 親は、いつも、前を飛んだ。

 向かい風を、先に受けるのは、いつも、親の方だった。


 ◇


 天界で、一度だけ、秤の柱の頂まで、飛ぼうとしたことがあった。


 ハリエルが、白の位に上がった日だった。

 ハリエルは、祝いの代わりに、柱の頂まで一息に昇ってみせた。

 白い翼が、大いなる秤の皿のすぐそばを、悠々と巡っていた。


 その夜、誰もいない時に、ノクティエルも、柱の根元から飛び立った。

 灰色の翼を、力いっぱい打った。

 半分も、昇れなかった。

 翼が重くなり、息が切れ、柱の途中で、ずるずると滑り落ちた。

 地面に転がったまま、ノクティエルは、柱の頂を見上げていた。

 自分の翼では、一生、あそこには届かないのだと思った。


 ノクティエルは、もう一度、翼を打った。

 水たまりから、ずっと、地面を這い、水の中を泳いできた。

 膜も、鋏も、鰭も、尾も、全部、下にあるものに張りついて生きる体だった。

 今、初めて、何にも張りつかずに、空の中にいた。


 ◇


 まわりに、同じ羽の色をした鳥が、たくさんいた。


 大きな鳥だった。

 長い首を、まっすぐ前へ伸ばし、広い翼を、ゆっくりと、力強く打っている。

 何十羽。

 それが、空の中で、一つの形を作っていた。


 くさびの形。

 先頭に一羽。

 そこから左右へ、斜めに、少しずつ後ろへずれながら、一羽ずつ並んでいく。

 ノクティエルは、そのくさびの、右の列の、真ん中あたりにいた。


 また、真ん中だった。

 どの段でも、変わらない場所だった。


 だが、海の群れとは違った。

 ここでは、自分の位置が、はっきりとわかる。

 前の一羽の、右斜め後ろ。

 前の一羽が翼を打つと、その翼の先から、くるりと渦を巻いた風が流れてくる。

 その渦の、少し上がる側に乗ると、自分の翼を打たなくても、体が、ふわりと持ち上がる。


 前を飛ぶ者が、後ろの者を、持ち上げている。


 北の湿地で、親が前を飛んでくれた時と、同じだった。

 あの時は、親の風に乗るだけで、精一杯だった。

 今は、自分の翼が作る風に、右斜め後ろの誰かが乗っている。

 自分が受けた風を、自分の翼で形を変えて、後ろへ渡している。


 灯し手の仕事に、少し似ていると思った。

 泉で受けた火を、灯し棒で運び、魂の胸へ渡していく。

 受け取ったものを、自分の中で留めずに、次へ流していく。

 天界にいた頃は、そんなふうに考えたことは、一度もなかった。


 海の段で、渦の流れを読んだのと、同じだった。

 ここでは、仲間の翼が作る風を読む。

 読んで、その上に乗る。

 乗るから、遠くまで飛べる。


 先頭の一羽だけは、誰の風にも乗れなかった。

 まっさらな空気を、自分の翼だけで、切り裂いて進んでいた。

 しばらくすると、先頭の一羽が、ゆっくりと列の後ろへ下がっていった。

 代わりに、二番目にいた一羽が、先頭に出た。


 交代するのだ。

 先頭は、いちばん疲れる場所だった。

 一羽が、いつまでも先頭にいることはできない。

 疲れたら、後ろへ下がり、誰かの風に乗って、休む。


 ――海の段で、先頭は、後ろの恐れを背負う場所だと知った。


 ここでは、先頭は、後ろの疲れを背負う場所だった。

 背負って、また、別の誰かに渡す場所だった。


 ◇


 群れは、何日も、何日も、飛び続けた。


 昼は、高く。

 夜は、星を頼りに。

 ときどき、広い湿地や、湖の岸に降りて、草をついばみ、休んだ。

 それから、また、空へ戻った。


 どこへ向かっているのか、ノクティエルにはわからなかった。

 だが、体が、知っていた。

 北から南へ。

 寒くなる土地から、温かい土地へ。

 この群れは、何代も前から、同じ空の道を、毎年、往復しているのだ。

 その道の記憶が、翼の付け根の、いちばん奥に、刻まれていた。


 ノクティエルのすぐ右斜め後ろを、一羽の若い鳥が飛んでいた。


 ほかの者たちよりも、ひと回り小さい。

 まだ、去年の夏に生まれたばかりなのだろう。

 そして、右の翼の、いちばん外側の長い羽が、一本、途中から折れていた。


 折れた羽のせいで、若い鳥は、まっすぐに飛べなかった。

 右へ、わずかに傾く。

 傾いて、慌てて立て直す。

 また傾く。

 そのたびに、ノクティエルの翼が作る風から、外れかけた。


 ノクティエルは、自分の翼の打ち方を、少しだけ変えた。

 ほんの少し、右へ。

 若い鳥の傾きに合わせて、風の渦を、そちらへ流すように。


 若い鳥は、ノクティエルの風に、ふわりと乗った。

 傾きが、少しだけ、ましになった。


 海の段の、尾鰭の欠けた一匹を、思い出した。

 あの一匹のすぐ外側を、何日も、泳ぎ続けた。

 今度は、すぐ前を飛んでいる。

 後ろの者を、自分の風で、持ち上げている。


 それから、何日も、ノクティエルは、その若い鳥の前を飛んだ。

 先頭の交代が回ってきても、ノクティエルは、自分の位置を動かなかった。

 自分が動けば、若い鳥の前の風が、なくなってしまうから。


 ――トカゲの段の傷だ。


 ノクティエルは、ふと、そう思った。

 大切なものができるたびに、それを囲い込みたくなる。

 この若い鳥を、自分の風の中に、ずっと置いておきたかった。

 ほかの誰の風にも、乗せたくなかった。


 それが、守ることなのか、握ることなのか。

 ノクティエルには、まだ、うまく見分けがつかなかった。


 ◇


 湖の岸で休んだ夕暮れ、若い鳥は、いつもノクティエルのそばで眠った。


 若い鳥の親は、群れの中にはいないようだった。

 どこかの空で、はぐれたのか。

 嵐に落とされたのか。

 あるいは、もっと前に、別の何かがあったのか。

 ノクティエルには、わからなかった。

 ただ、若い鳥は、眠る時、いつも、ノクティエルの翼の陰に、首を差し入れてきた。


 ノクティエルは、くちばしで、若い鳥の折れた羽の付け根を、そっと整えた。

 折れた羽は、元には戻らない。

 次に羽が生え変わるまで、このまま飛ぶしかない。

 それでも、まわりの乱れた羽を整えれば、風の受け方が、少しだけ、ましになる。


 北の湿地で、親がそうしてくれたことを、体が覚えていた。


 若い鳥は、整えられるあいだ、目を閉じて、じっとしていた。

 眠ったふりをしているのだと、ノクティエルにはわかった。

 わかっていて、何も言わなかった。


 ◇


 ある昼、湖の岸に降りた群れの上に、影が落ちた。


 ノクティエルの体が、勝手に、こわばった。

 見上げる前に、わかった。

 ハサミムシの段で受け取った、危険を先に察知する力。

 空の高いところで、何かが、こちらへ向かって、翼をすぼめている。


 鷹だった。


 まわりの鳥たちは、まだ、草をついばんでいた。

 群れの見張り役の一羽も、反対の方角を見ていた。


 ノクティエルは、首を高く伸ばし、鳴いた。

 腹の底から。

 海の段で、腹を光らせたように。

 ハサミムシの段で、焦げた樹脂の匂いを噴き出したように。

 この体の合図は、声だった。


 群れが、一斉に、首を上げた。

 次の瞬間、何十羽が、水面を蹴って、湖の上へ飛び立った。

 鷹の爪が、さっきまで群れがいた岸の草を、空しく掴んだ。


 若い鳥は、少し遅れた。

 折れた羽のせいで、飛び立つのが、ひと呼吸遅れた。

 ノクティエルは、若い鳥の真下に回り込み、自分の翼で、風を押し上げた。

 若い鳥の体が、ふわりと浮いた。


 鷹は、二度目の急降下をせずに、遠ざかっていった。


 誰も、最初に鳴いたのがノクティエルだとは、気にしなかった。

 群れは、何事もなかったように、また湖の岸へ降りた。

 石の下の段の傷――見られたいという欲が、ちくりと痛んだ。

 痛んだまま、ノクティエルは、若い鳥の隣に降りた。


 ◇


 ある朝、群れは、ひどく高いところを飛んでいた。


 大きな山脈を越えるためだった。

 雪をかぶった峰々が、足の下に、どこまでも連なっている。

 群れは、峰々の上を越えるために、ゆっくりと、高度を上げていった。


 空気が、薄くなった。

 息が、苦しくなる。

 翼を打つたびに、胸が、きしむように痛んだ。

 まわりの鳥たちも、皆、苦しそうだった。

 若い鳥は、ノクティエルの後ろで、何度も、くさびの形から落ちかけた。


 ノクティエルは、苦しくなかった。


 いや、苦しかった。

 だが、ほかの者たちほどではなかった。

 この体は、どういうわけか、薄い空気の中でも、翼がよく動いた。

 まるで、もっと高いところを、知っているかのように。


 若い鳥は、ノクティエルの風に、しがみつくように乗っていた。

 折れた羽の傾きが、薄い空気の中で、いっそうひどくなっていた。

 ノクティエルが、少しでも位置を変えれば、若い鳥は、くさびから外れる。


 それなのに、ノクティエルは、くさびの右の列から、ほんの少しだけ、上へ浮き上がった。

 群れよりも、少し高く。

 また、少し高く。

 翼が、軽かった。

 空気が薄いほど、体が、なぜか、懐かしいと感じていた。


 雲を、抜けた。


 足の下に、白い雲の海が、果てしなく広がった。

 その雲の海の、ずっと、ずっと上に。


 何かが、見えた。


 空の、いちばん高いところ。

 青が、白に変わる、そのさらに上。

 そこに、ぼんやりと、巨大なものの、底が見えた。

 雲よりも白く、石よりも硬く、何もかもを見下ろすように浮かんでいる、途方もない庭の、底。


 秤の園だった。


 見間違えるはずがなかった。

 三百年、その上で暮らしてきた場所だ。

 底から見上げるのは、初めてだった。

 下から見ると、あの園は、こんなにも大きく、こんなにも遠く、こんなにも冷たく見えるのだと、初めて知った。


 ◇


 ノクティエルの翼が、止まりかけた。


 あそこに、柱がある。

 大いなる秤がある。

 灯の泉がある。

 眠りの花畑がある。

 ――半分が灰になった、眠りの花畑が。


 そして、ハリエルがいる。


 三百年、見上げ続けた場所。

 灰色の翼では、柱の半分にも届かなかった場所。

 借り火の瓶に手を伸ばしたのも、結局は、あそこへ行きたかったからだった。

 白い翼で、高いところへ。

 ハリエルと同じ高さへ。


 その場所が、今、翼を打てば届きそうなところに、浮かんでいた。


 トカゲの段の傷が、胸の奥で疼いた。

 握りたい手。

 大切なものができるたびに、それを囲い込みたくなる。

 ずっと欲しかったものが、目の前にある時、その手は、いちばん強く握ろうとする。


 翼が、勝手に、上へ打たれた。

 もう一度。

 もう一度。

 群れのくさびが、ずっと下へ、遠ざかっていく。

 若い鳥の姿が、雲の切れ間に、小さくなっていく。


 空気が、さらに薄くなった。

 鳥の体が、悲鳴を上げていた。

 胸が、裂けそうだった。

 それでも、翼は、止まらなかった。

 ヘルメスが言った通りだった。

 天界の、すぐ下まで。


〈よく来た〉


 声がした。


 これまでのどの声とも、違った。

 甘くもなく、乾いてもいなく、低くもなく、金貨の音もしない。

 ただ、澄んでいた。

 朝の、いちばん最初の光のように。

 夜明け前の空に、一つだけ残る星のように。


〈ずいぶん、遠回りをしたね、ノクティエル〉


 ノクティエルの目の前の空に、光が、ひとつ、灯った。


 眩しかった。

 目を開けていられないほどに。

 だが、不思議と、怖くはなかった。

 その光は、灯し手の灯し棒の先に立つ火と、どこか、似ていた。


 光の中に、姿があった。

 翼があった。

 六枚の、白い翼。

 いや、白ではない。

 光そのものでできた翼が、六枚、ゆっくりと、空を撫でていた。


〈わたしは、ルシファー〉


 光が、名乗った。


〈光をもたらす者。明けの星。かつては、あの園の、いちばん高いところにいた者だ〉


 ◇


〈お前を、迎えに来た〉


 ルシファーの声が、薄い空気の中に、柔らかく響いた。


〈十の段のうち、もう五つを越えた。蠅の王を退け、冠の囁き手の冠を割り、海の底の者の恐れを抱え、滅びの淵の者に別の終わりを選ばせ、蓄える者の宝を砂に変えた。見事だ。灰色の翼の天使に、ここまでできると、誰が思っただろう〉


〈もう、十分だ〉


 光の翼が、一枚、ノクティエルの方へ、伸ばされた。


〈残りの五つを、地上で這い回る必要はない。わたしが、扉を開けてやろう。あの園の底に、わたしだけが知っている、古い扉がある。そこを抜ければ、お前は、天界へ戻れる〉


〈翼も、戻る。灰色ではない。白い翼だ。いや、お前がこれまでに越えてきたものを思えば、金色でもおかしくない〉


 白い翼。

 金色の翼。

 ノクティエルの胸の奥で、何かが、大きく揺れた。

 三百年、欲しかったもの。

 借り火の瓶に手を伸ばしてまで、欲しかったもの。


〈それに〉


 ルシファーの光が、少しだけ、陰った。


〈お前には、知らせておかなければならないことがある〉


〈お前が焼いた、二百十七の魂のことだ〉


 ノクティエルの翼が、ぴたりと止まった。

 体が、ぐらりと傾き、薄い空気の中を、少しだけ落ちた。

 慌てて、翼を打ち直した。


〈灯されぬまま失われた、と、ネメシスは言っただろう。だが、それは、正確ではない〉


〈灯されなかった魂は、消えはしない。秤に載れなかった魂は、行き場をなくして、いちばん下へ落ちる。命の、いちばん下へ〉


〈そして、そこから、昇り直す。一段ずつ。器を借りて。お前と、同じように〉


 ノクティエルは、何も、言えなかった。

 言葉の代わりに、翼の付け根が、細かく震え始めた。

 薄い空気のせいではなかった。

 その震えは、もっと奥の、いちばん古いところから来ていた。


〈わかるかい。お前が水たまりで出会った膜。石の下の兄弟たち。海の群れ。沼の丸い体。砂漠の痩せた者たち〉


〈その中には、お前が焼いた、二百十七の魂が、混じっていた〉


 ◇


 風が、止まった気がした。


 水たまりで、最初に甘い粒を奪った、隣の膜。

 ここにいる、と流してきた、小さな膜。

 石の下で、土を押し返した、大きな兄弟。

 隅で、欠片を置いていった、小さな兄弟。

 海で、脇を寄せてきた、尾鰭の欠けた一匹。

 背中に、こつん、と頭をつけた、丸い体。

 砂丘の向こうへ去りながら、振り返った、幼いトカゲ。


 二百七十九。

 一つの群れ。

 一つの沼。


 その数の中に。

 自分が数えてきた、失われた者の中に。

 自分が、天界で焼いた魂が、いた。


 二度、死なせた者が、いた。


 いや、二度ではないのかもしれなかった。

 膜の頃に消えた者が、石の下でまた生まれ、また消え、海でまた生まれ、また消えていたのだとしたら。

 三度。

 四度。

 ノクティエルが段を越えるたびに、同じ魂が、何度も、自分のそばで、終わっていたのだとしたら。


 ――ここにいる。


 あの淡い味は。

 あの触角の、とん、という感触は。

 あの、脇を寄せてきた一瞬は。


 自分が焼いた魂が、それでも、自分に向かって、流してきたものだったのかもしれない。


〈どれが、そうだったのかは、わたしにもわからない〉


 ルシファーの声は、どこまでも、優しかった。


〈だが、確かなことが一つある。お前が地上で昇っている限り、あの魂たちも、お前のまわりで、昇ったり、落ちたりし続ける。お前が段を越えるたびに、お前のそばで、また誰かが死ぬ。それは、お前のせいではない。だが、お前がいる限り、終わらない〉


〈だから、もう、やめなさい〉


〈天界へ戻りなさい。お前が地上を離れれば、あの魂たちは、お前の道連れにならずに済む。お前は、白い翼で、秤の園に立つ。そして、いつか、あの魂たちが、自分の力で昇ってきた時、その胸に、お前が、火を灯してやればいい〉


〈それに、あの園には、お前を待っている者がいる〉


 光の翼が、秤の園の底を、そっと指した。


〈片翼の天使だよ。お前が焼いた翼のまま、今も、北の門で、灯し棒を握っている。一枚の翼では、もう、柱の頂までは昇れない。それでも、毎朝、千の鈴で起きて、灰になった花畑の前を通って、門へ向かっている〉


〈お前が戻れば、あの天使の隣に立てる。海の段で、お前は学んだのだろう。怖いまま、誰かの隣に立つことを。今こそ、それをする時だ〉


〈それが、いちばんの、償いだろう?〉


 ◇


 ノクティエルは、薄い空気の中で、翼を打ち続けていた。


 胸が、裂けそうだった。

 空気が、足りない。

 頭が、ぼんやりとしてくる。

 ルシファーの光が、ますます眩しくなる。


 その眩しさの中で、ノクティエルは、ひとつのことを思い出していた。


 ――この光を、どこかで、見たことがある。


 灯の泉の火ではない。

 ハリエルの白い炎でもない。

 もっと、近くで。

 もっと、自分の手の、すぐそばで。


 北の門の朝。

 灯し棒の先に、黒みがかった赤い雫を垂らした、あの瞬間。

 橙色の小さな火が、ぼう、と跳ね上がり、腕ほどの太さに膨れ上がった、あの時。


 あの時の火の、いちばん芯の部分。

 赤でも、黒でもない。

 ただ、眩しく、澄んでいた。


 今、目の前にある光と、同じ色をしていた。


「……あなたが」


 声が、薄い空気の中に、かすかに滲み出た。


「借り火は、あなたの火だったのか」


 ルシファーの六枚の翼が、ほんのわずかに、動きを止めた。


〈……ふふ〉


 澄んだ声が、初めて、小さく笑った。


〈半分だけ、正解だよ〉


〈火は、わたしのものだ。明けの星の、いちばん芯の火。だが、それを瓶に詰め、記録の園などという、ありもしない名を名乗って、お前の手に渡したのは、わたしではない〉


〈わたしは、ただ、頼まれて、火を分けただけだ。……あの者にね〉


 あの者。

 リヴァイアサンも、そう呼んでいた。

 蠅の王も、冠の囁き手も、滅びの淵の者も、蓄える者も、皆、あの者に呼ばれて、段に先回りしていたのだと。


 その時、ずっと下の、雲の海の下から、かすかな声が、聞こえた気がした。

 声ではなかった。

 鳥の、鳴き声だった。

 何十羽もの雁が、互いを呼び合う、あの、ひどく遠くまで届く声。


 そして、その中に、ひとつだけ、ほかの声よりも、少しだけかすれた、若い声が混じっていた。


 ノクティエルの翼が、大きく揺れた。


 足の下で、雲の海が、どす黒く渦を巻き始めていた。

 嵐だった。

 山脈の向こうから、とてつもなく大きな嵐が、群れのいる空へ、まっすぐに押し寄せてきていた。


 下からの声は、すぐに、嵐の音にかき消された。

 かき消されても、ノクティエルの耳の奥で、その声だけが、細く鳴り続けていた。


 折れた羽の、若い鳥。

 ノクティエルが前を飛ばなければ、風に乗れない若い鳥。

 あの声は、自分を呼んでいるのだろうか。

 それとも、ただ、群れの誰かを呼んでいるだけなのだろうか。

 わからなかった。

 わからないまま、翼が、上と下のあいだで、揺れていた。


〈さあ、選びなさい〉


 ルシファーが、光の翼を、大きく広げた。

 その翼の向こうに、秤の園の底が、ゆっくりと、口を開けていくのが見えた。

 古い扉。

 天界へ続く、光の道。


〈上か。下か。光か。嵐か〉


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