第12話 明けの星の下で
第12話 明けの星の下で
上か。
下か。
ノクティエルの翼は、そのどちらにも動かなかった。
目の前で、光の扉が、ゆっくりと開いていく。
秤の園の底に、細い光の道が、まっすぐに伸びている。
その道の先から、懐かしい匂いが降りてきた。
灯の泉の火の匂い。
雲の上の、乾いた花の匂い。
千の鈴の、かすかな残響。
帰れる。
ここから、帰れる。
その言葉が、胸の奥で、何度も、何度も鳴った。
三百年、見上げ続けた場所に。
白い翼で。
ハリエルの隣に。
〈迷うことはない〉
ルシファーの声が、光の中で、柔らかく揺れた。
〈下にいる者たちのことは、気にしなくていい。あれらは、何代も前から、嵐を越えて渡ってきた。お前がいなくても、越えるものは越え、落ちるものは落ちる。それが、あれらの道だ。お前の道ではない〉
足の下で、雲の海が、どす黒く渦を巻いていた。
嵐の音が、雲の下から、地鳴りのように響いてくる。
その音の奥で、また、かすれた鳴き声が聞こえた。
◇
ノクティエルは、翼をたたんだ。
上へ打つのでも、下へ打つのでもなく、ただ、たたんだ。
体が、落ち始めた。
〈何をする〉
ルシファーの声が、初めて、わずかに揺れた。
落ちていく。
光の扉が、遠ざかっていく。
薄い空気が、少しずつ、濃くなっていく。
翼が、風を受けて、勝手に開こうとする。
ノクティエルは、それを、半分だけ開いた。
落ちる速さを、殺しすぎないように。
怖かった。
天界から落とされた夜を、思い出した。
翼のない背中で、輪郭がほどけながら、雲を抜け、夜の空を抜けて、水たまりへ落ちていった、あの夜。
今、また、落ちている。
自分で、選んで。
あの夜は、何もわからないまま落ちた。
どこへ行くのか、何になるのか、何ひとつ知らずに。
今は、知っている。
下には、嵐がある。
嵐の中には、羽の折れた若い鳥がいる。
その先には、まだ、五つの段が残っている。
知っていて落ちる方が、知らずに落ちるよりも、ずっと怖かった。
それでも、翼は、上へは打たれなかった。
〈愚かな〉
ルシファーの光が、落ちていくノクティエルの上で、追いかけるように揺れていた。
〈扉は、二度は開かない。お前は、今、天界を捨てたのだ〉
「……捨ててない」
落ちながら、ノクティエルは答えた。
声が、風にちぎられて、後ろへ飛んでいく。
「今は、行けないだけだ」
雲の海に、飛び込んだ。
◇
雲の中は、嵐だった。
上も下もわからない。
灰色の渦が、四方八方から、ノクティエルの体を叩いた。
雨が、氷の粒のように、羽に突き刺さる。
雷が、すぐそばで、白く裂けた。
ノクティエルは、翼を広げた。
広げた瞬間、風に、体ごと横へさらわれた。
くるりと回転し、どちらが空なのかも、わからなくなる。
――流れを読め。
海の段の、渦の中を思い出した。
まっすぐ抜けようとすれば、叩かれる。
風と同じ向きに乗りながら、少しずつ、ずれていく。
ノクティエルは、風に逆らうのをやめた。
風の向きに、翼を合わせた。
体が、嵐の流れに乗った。
乗りながら、少しずつ、少しずつ、下へ。
雲が、切れた。
山脈の峰々が、すぐ足の下に迫っていた。
その峰と峰のあいだを、嵐の風が、川のように流れ落ちている。
そして、その風の川の中で、群れが、ばらばらになっていた。
くさびの形は、どこにもなかった。
何十羽が、それぞれの向きに、風に煽られ、翻弄されていた。
ある者は峰の岩肌へ叩きつけられかけ、ある者は谷底へ吸い込まれかけていた。
先頭を担うはずの者も、誰の風を読めばいいのかも、もう、わからなくなっていた。
ノクティエルの目が、群れを走った。
この体の目は、遠くまで、よく見えた。
嵐の中でも、一羽一羽の羽の色が、見分けられた。
峰の岩肌のすぐそばで、一羽が、風に叩きつけられた。
翼が、不自然な形に折れ曲がった。
その一羽は、もう、羽ばたかなかった。
ただ、風に運ばれるまま、灰色の谷の底へ、ゆっくりと吸い込まれていった。
二百八十。
ノクティエルは、それを数えた。
数えながら、思った。
もし自分が、あの扉の前で、もう少しだけ迷っていたら。
もし自分が、山脈を越える時、群れから離れて上へ昇っていかなかったら。
自分の風が、あの一羽の前にあったかもしれない。
蛙の段で刻まれた傷が、救えなかった方を、真っ先に思い出させた。
それでも、目は、群れの上を走り続けた。
右の翼が、わずかに傾いている一羽。
若い鳥は、群れのいちばん外れで、谷底へ向かって、少しずつ落ちていた。
◇
ノクティエルは、まっすぐに、若い鳥のもとへ向かった。
途中で、群れのほかの者たちとすれ違った。
皆、怯えていた。
海の段の、渦の中の群れと、同じだった。
恐れの前では、誰もが、一匹になる。
若い鳥の真上に、たどり着いた。
若い鳥は、折れた羽をばたつかせ、必死に、風に抗っていた。
抗えば抗うほど、体が回り、谷底へ近づいていく。
ノクティエルは、若い鳥の、すぐ前へ回り込んだ。
翼を、大きく打った。
自分の翼の先から、渦を巻いた風を、若い鳥の方へ流す。
若い鳥が、その風に、乗った。
嵐の中でも、すぐ前の誰かの風には、乗れる。
まっさらな嵐の風は、一羽では読めない。
だが、前を飛ぶ者の翼が作る、小さな、確かな渦なら、読める。
若い鳥の傾きが、少しだけ、収まった。
ノクティエルは、そのまま、谷の上へ向かって、ゆっくりと昇り始めた。
若い鳥が、後ろについてくる。
ふと気づくと、若い鳥の後ろに、もう一羽、ついてきていた。
その後ろに、もう一羽。
嵐の中で、ばらばらになっていた群れの者たちが、ノクティエルの翼の作る風に、一羽、また一羽と、吸い寄せられるように並び始めていた。
誰も、ノクティエルに呼ばれたわけではなかった。
ノクティエルも、誰も呼ばなかった。
ただ、嵐の中で、いちばん確かな風が、そこに流れていた。
それだけで、群れは、少しずつ、形を取り戻していった。
くさびの形が、嵐の中に、もう一度、生まれようとしていた。
その先頭に、ノクティエルがいた。
◇
先頭は、重かった。
誰の風にも、乗れない。
嵐の、いちばん荒い風を、真正面から、自分の翼だけで切り裂かなければならない。
一度打つたびに、翼の付け根が、軋んだ。
胸が、焼けるように痛んだ。
それでも、この体は、群れのほかの者よりも、強かった。
薄い空気の中でも、翼がよく動いた。
嵐の中でも、遠くまで見えた。
山脈の向こうに、嵐の切れ目があるのが、見えた。
峰と峰のあいだの、ひとつだけ低くなった鞍部。
そこを抜ければ、風が弱まる。
――僕にしか、見えない。
ノクティエルの胸の奥で、何かが、ふっと膨らんだ。
僕にしか、見えない。
僕にしか、飛べない。
この群れは、僕がいなければ、嵐を抜けられない。
僕が、先頭だ。
僕が、この群れを、救っている。
三百年、灰色の翼のまま、最後尾の魂ばかりを灯してきた。
ハリエルの白い翼を、いつも下から見上げていた。
ハリエルは、きっと、いつも、こんな気持ちだったのだろう。
誰よりも高く、誰よりも遠くまで。
後ろの者たちが、自分の背中を見上げている。
今、自分は、群れの先頭を飛んでいる。
何十羽が、自分の翼の作る風に乗っている。
〈そうだ〉
ルシファーの声が、嵐の上から、柔らかく降ってきた。
〈それが、お前の本当の姿だ。お前は、灰色の翼の落ちこぼれではない。誰よりも高く飛び、誰よりも遠くを見る者だ。見ろ。あれらは皆、お前についてくる。お前がいなければ、何もできない。お前は、あれらの光だ〉
光。
ノクティエルの翼が、一瞬、強く打たれた。
誇らしさが、翼の付け根から、全身へ広がっていく。
その瞬間、後ろの風が、乱れた。
振り返ると、若い鳥が、くさびの列から、外れかけていた。
ノクティエルが、強く翼を打った分だけ、速く進みすぎたのだ。
若い鳥は、折れた羽で、その速さについていけなかった。
ノクティエルは、はっとして、翼の打ち方を緩めた。
――僕が、光だ。
そう思った瞬間に、後ろの一羽が、見えなくなっていた。
◇
ルシファーの声は、まだ、上から降り続けていた。
〈何を緩める。速く飛べ。お前の速さに、ついてこられない者は、ついてこられない者だ。それは、お前のせいではない〉
ノクティエルは、答えなかった。
翼を、若い鳥の速さに、合わせ直した。
若い鳥が、また、風に乗った。
翼の付け根が、限界を訴えていた。
先頭に出てから、どれくらい経ったのか。
鞍部は、まだ遠い。
このまま、自分が先頭を飛び続ければ、いつか、翼が動かなくなる。
そうなれば、群れは、また、ばらばらになる。
先頭は、交代するものだった。
群れの中で、いちばん長く渡りを続けてきた、年かさの一羽が、ノクティエルのすぐ左斜め後ろを飛んでいた。
その一羽は、何度も、ノクティエルの方を見ていた。
代わろう、と、その目が言っていた。
ノクティエルは、迷った。
交代すれば、自分は先頭ではなくなる。
鞍部が見えるのは、自分だけだ。
自分が先頭でなければ、群れは、鞍部を見失うかもしれない。
――いや。
本当に、そうだろうか。
自分が先頭を離れたくないのは、群れのためなのか。
それとも、先頭という場所を、握っていたいだけなのか。
トカゲの段の傷が、疼いていた。
大切なものができるたびに、囲い込みたくなる。
先頭という場所。
若い鳥のすぐ前という場所。
自分だけが、見えるもの。
握りしめていたかった。
ノクティエルは、鳴いた。
短く、鋭く。
そして、首を、左前方へ、まっすぐに伸ばした。
鞍部の方角へ。
年かさの一羽に、見せるように。
年かさの一羽が、ノクティエルの首の先を、目で追った。
嵐の切れ目を、見つけた。
ノクティエルは、ゆっくりと、先頭から下がった。
年かさの一羽が、前へ出た。
くさびの形が、崩れずに、そのまま、新しい先頭のあとについていく。
ノクティエルは、列の、いちばん後ろまで下がった。
◇
若い鳥の後ろだった。
若い鳥は、もう、ノクティエルの風ではなく、前を飛ぶ別の一羽の風に乗っていた。
折れた羽で、それでも、ちゃんと、くさびの中に収まっていた。
ノクティエルが前にいなくても。
ノクティエルの風でなくても。
胸の奥が、少しだけ、痛んだ。
握りたい手が、まだ、そこにあった。
だが、その痛みよりも、ずっと大きなものが、胸の中に広がっていた。
――大丈夫だ。
若い鳥は、ノクティエルがいなくても、飛べる。
群れの誰かの風に乗って。
ノクティエルの役目は、若い鳥を自分の風の中に囲い込むことではなかった。
若い鳥が、群れの風に乗れるところまで、連れて行くことだった。
最後尾は、いちばん疲れない場所だった。
前の何十羽が作る風が、全部、重なって流れてくる。
ノクティエルは、その風に乗りながら、群れ全体を、後ろから見ていた。
一羽も、外れないように。
外れた者がいれば、すぐに、その前へ回り込めるように。
◇
〈理解できない〉
ルシファーの声が、嵐の上から、ゆっくりと降りてきた。
光は、いつの間にか、ずっと近くまで来ていた。
ノクティエルのすぐ上で、六枚の光の翼が、嵐の雨に打たれていた。
〈お前は、先頭にいた。お前にしか見えないものがあった。お前は、あれらの光になれた。それを、なぜ、手放した〉
「……光は、ひとつじゃなくていい」
ノクティエルは、最後尾から、群れの先を見ながら答えた。
「先頭の一羽が、ずっと光でいたら、その一羽は、いつか落ちる。落ちたら、群れは、真っ暗になる。だから、渡す。疲れたら、次の誰かに。見えたものを、見せて、渡す」
「僕は、光になりたかった。天界で、ずっと。灰色の翼じゃなくて、誰かに見上げられる、白い光に」
「でも、灯し手は、光じゃなかった。光を、渡す者だった。泉で受けた火を、魂の胸に、渡すだけの」
ルシファーの光が、長いあいだ、黙っていた。
〈……わたしは、光そのものだった〉
やがて、澄んだ声が、静かに言った。
〈明けの星。あの園の、いちばん高いところで、いちばん明るく輝く者。誰も、わたしより明るくはなかった。誰も、わたしの光を、借りなくても生きていけるとは、思わなかった〉
〈だから、渡さなかった。わたしの光は、わたしだけのものだった。いつまでも、いちばん高いところで、いちばん明るく。それが、わたしだった〉
〈誰かに渡せば、わたしの光は、わたしだけのものではなくなる。それが、何よりも、怖かった〉
ノクティエルは、その言葉を聞いて、天界で、覚えた魂の顔を、誰にも話さなかった自分を思い出した。
マモンの段で、気づいたこと。
しまっておいたものは、誰の喉も潤さなかった。
明けの星も、同じだったのだ。
誰よりも明るい光を、誰にも渡さずに、いちばん高いところに、しまっておいた。
〈……そして、落ちた〉
嵐の雨が、光の翼を、しとしとと濡らしていた。
濡れた光は、少しだけ、暗く見えた。
◇
鞍部が、近づいていた。
だが、嵐が、最後の力を振り絞るように、黒い雲を、鞍部の上へ押し寄せていた。
視界が、閉ざされていく。
新しい先頭の一羽が、迷い始めた。
さっきまで見えていた嵐の切れ目が、黒い雲に、塗りつぶされていく。
ノクティエルは、最後尾から、前へ出ようとした。
自分の目なら、まだ、見えるかもしれない。
だが、翼が、もう、ほとんど動かなかった。
ノクティエルは、上を見た。
すぐ上に、光があった。
六枚の翼の、明けの星。
「……照らしてくれ」
ノクティエルは言った。
〈何?〉
「あなたの光で、あの鞍部を照らしてくれ。あなたが、いちばん明るい場所になるんじゃなくて。あなたの光で、あそこを、見えるようにしてくれ」
「渡り鳥は、星を見て飛ぶ。何代も前から。夜の空の、星の位置で、道を知る。あなたは、明けの星だ。あなたが、あそこを照らせば、この群れは、迷わない」
光の翼が、ぴたりと、止まった。
〈……わたしに、道しるべになれと言うのか。わたしに、誰かの道を照らす、ただの星になれと〉
「ただの星じゃない」
ノクティエルは、最後の力で、翼を打った。
「誰かの道を照らす星は、いちばん高いところで、ひとりで光っている星よりも、ずっと、覚えられる。この群れは、何代も先まで、あなたの位置を覚えて飛ぶ」
◇
嵐の上で、光が、動いた。
ゆっくりと。
ためらうように。
六枚の光の翼が、ノクティエルの上から離れ、黒い雲の向こう、鞍部の真上へと、昇っていった。
そして、そこで、止まった。
光が、雲を貫いた。
まばゆい、一本の光の柱が、黒い雲の真ん中に、穴を穿った。
その穴の向こうに、鞍部が、くっきりと浮かび上がった。
新しい先頭の一羽が、首を、まっすぐにその光へ向けた。
くさびの形が、光に向かって、迷わずに伸びていく。
何十羽が、一羽も外れずに、その光の下をくぐり、鞍部を越えていった。
ノクティエルは、最後尾で、最後の一羽として、鞍部を抜けた。
抜ける瞬間、光の柱のすぐ横を通った。
光は、熱くなかった。
灯の泉の火のように、ただ、静かに、温かかった。
嵐が、背後へ遠ざかっていく。
山脈の向こうに、温かい色をした、広い平野が見えた。
夜明けだった。
長い、長い夜の、終わりだった。
平野の湖に、群れは降りた。
何十羽が、疲れきった体を、水面に浮かべた。
誰も、鳴かなかった。
ただ、首を翼の下に差し入れ、眠り始めた。
若い鳥は、ノクティエルのそばへ来かけて、途中で止まった。
すぐ近くで、年かさの一羽が、首を低くして、若い鳥を呼んでいた。
先頭を代わってくれた、あの一羽だった。
若い鳥は、ノクティエルの方を一度見て、それから、年かさの一羽の翼の陰へ、首を差し入れた。
ノクティエルは、少し離れたところで、それを見ていた。
胸の奥が、また、少しだけ痛んだ。
握りたい手は、まだ、そこにあった。
だが、その手を、ノクティエルは、そっと開いたままにしておいた。
振り返ると、鞍部の真上に、ひとつだけ、星が残っていた。
夜明けの空に、最後まで消えずに残る、明けの星。
〈……一度だけだ〉
かすかな声が、その星から、降ってきた。
〈わたしは、また、いちばん高いところへ戻る。明日の夜には、また、ひとりで光っている。お前のような者に、何度も、道を照らしてやるつもりはない〉
〈……だが〉
星が、少しだけ、瞬いた。
〈あの者に会ったら、伝えておけ。わたしの火は、もう、瓶には詰めさせない、と〉
それきり、星は、夜明けの光の中に、溶けていった。
◇
白い場所で、大いなる秤が揺れていた。
皿の上には、一枚の、灰褐色の羽が載っていた。
羽の先に、ほんのわずかに、星のような光が宿っていた。
「第六の段の判定を告げる」
ネメシスが言った。
「お前は、天界へ戻る扉を、自ら閉じた。光の中心になる道を、自ら手放した。明けの星に、ひとりで輝く代わりに、一度だけ、誰かの道を照らさせた」
「明けの星は、救われてはいない。あれは、また、いちばん高いところへ戻る。だが、一度、光の向きを変えた。己の火を、二度と瓶には詰めさせぬと言った」
「退けたものとする。そして、お前を、完全な昇格とする」
ヘルメスが、秤の柱の陰から現れた。
帽子の翼を、ゆっくりと揺らしていた。
「扉の前で、翼をたたんだな」
「……はい」
「あの扉の向こうに、ハリエルがいたのを、知っていたか」
ノクティエルの光が、震えた。
「あいつは、扉のすぐ内側まで来ていた。片翼で。お前が、帰ってくるかもしれないと思って」
ノクティエルは、何も言えなかった。
「お前が下を選んだのを、ハリエルは見ていた。何も言わずに、北の門へ戻っていったよ」
ヘルメスは、少しだけ、目を細めた。
「お前が、今は行けないと言ったのも、聞こえていたはずだ」
今は、行けない。
ノクティエルは、自分の言った言葉を、もう一度、胸の中でなぞった。
あの扉は、裏口だった。
十の段を昇りきらずに、ルシファーの光で開けてもらう、古い扉。
借り火と、同じだった。
自分を変えずに、結果だけを手に入れる近道。
その近道を抜けて、ハリエルの前に立っても、ハリエルの隣には、立てない。
片翼で、毎朝、灰になった花畑の前を通って門へ向かうハリエルの隣に立つには、自分も、自分の翼で、そこまで昇らなければならなかった。
だから、今は、行けない。
いつか、行く。
ネメシスが、布の奥で、静かに言った。
「六つ目の能力は、遠くを見る力と、自由に動く力。六つ目の心は、自分の才を、誰かのために使う責任。憧れを、希望として、誰かに渡せる心だ」
「傷は残る。高く飛べる者の、優越感。そして、墜落への恐れだ。次の器では、自分が誰かより優れていると感じるたびに、同時に、そこから落ちることを恐れるようになる」
ヘルメスが、杖を振り上げた。
「第七の段。次は、温かい血の器だ。乳で子を育て、群れで寄り添い、誰かを愛するということを、体で知る器。そして、愛を、鎖に変えたがる者が、そこで待っている」
白い場所の底から、温かい匂いが、立ちのぼってきた。
毛皮の匂い。
乳の匂い。
雪の匂い。
落ちていく前に、ノクティエルは、数を確かめた。
失われた者。
二百八十。
一つの群れ。
一つの沼。
そして、そのどこかに、自分が焼いた魂が、混じっているかもしれないということ。
生きている者。
水たまりの、二つの膜。
石の下の、小さな兄弟。
海の、尾鰭の欠けた一匹。
池の、最初の丸い体。
砂丘の向こうの、幼いトカゲ。
そして、平野の空を、群れの風に乗って渡っていく、羽の折れた若い鳥。
七。
その七つのどこかにも、自分が焼いた魂が、混じっているかもしれない。
それでも、ノクティエルは、数えた。
失われた者と、生きている者のあいだに、もう、はっきりとした境目はなかった。
どちらも、自分が覚えておく者たちだった。




