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第13話 雪原の巣穴

最初に知ったのは、温かさだった。


 熱ではなかった。

 砂漠の、外から借りてくる熱ではない。

 体の内側から、湧き上がってくる温かさ。

 そして、それと同じ温かさが、すぐそばにもあった。

 柔らかく、ふかふかとして、規則正しく、上下に動いている。


 息をしている。

 誰かの腹が、すぐ目の前で、ゆっくりと、膨らんでは縮んでいた。


 ノクティエルの目は、まだ開かなかった。

 耳も、よく聞こえなかった。

 ただ、鼻だけが、まわりの匂いを、くっきりと拾っていた。

 乳の匂い。

 毛皮の匂い。

 土と、凍った草の匂い。

 そして、自分と同じ匂いをした、小さな体が、いくつも、すぐそばで、もぞもぞと動いていた。


 腹が、空いた。

 体が、勝手に、温かい腹の方へ、這い寄っていった。

 鼻先が、柔らかな毛の中に、何かを探り当てた。

 口に含む。

 吸う。


 温かいものが、口の中いっぱいに、流れ込んできた。


 ――乳だ。


 水たまりで、甘い粒を一つ包み込んだ時。

 石の下で、母が吐き戻した欠片を口にした時。

 砂漠で、岩の裂け目の水を初めて飲んだ時。

 どの時よりも、満ちた。

 満ちていく、と感じた。

 飢えの傷が、ほんの少しだけ、静かになった気がした。


 頭の上で、温かい舌が、ノクティエルの体を、ゆっくりと舐めた。

 ハサミムシの母が、卵を一つずつ舐めていたのと、同じ舐め方だった。


 ◇


 目が開いたのは、それから、十日ほど後だった。


 巣穴だった。

 土を掘った、薄暗い穴。

 入り口から、白い光が、細く差し込んでいる。

 その光の中に、母がいた。

 灰色の、大きな体。

 尖った耳。

 金色の目が、穴の奥で丸まっている子らを、一匹ずつ、見下ろしていた。


 子は、五匹いた。


 ノクティエルは、いちばん大きかった。

 乳を吸う時、いちばん先に、いちばんいい場所を取れた。

 押されても、負けなかった。

 石の下の、いちばん大きな兄弟と、同じ位置だった。

 初めて、真ん中ではなかった。


 そして、いちばん小さいのは、白い耳の子だった。


 体は灰色なのに、耳の先だけが、雪のように白かった。

 乳を吸うのが下手で、いつも、ほかの兄弟に押しのけられていた。

 押しのけられて、母の腹の端の方で、ほとんど出ない乳首を、いつまでも吸っていた。


 ノクティエルは、それを見ていた。

 自分の吸っている場所は、いちばん乳がよく出る場所だった。

 そこを譲れば、白い耳の子は、もっと吸える。

 譲れば、自分は、少しだけ、満ちなくなる。


 体の奥で、飢えの傷が、また疼いた。

 満ちていても、満ちていないと感じる。

 念のために、もう少し。


 ノクティエルは、乳首から口を離した。

 鼻先で、白い耳の子の体を、ぐいと押した。

 白い耳の子が、驚いたように、ころりと転がって、ノクティエルが離れたばかりの場所に、顔を埋めた。


 吸い始めた。

 喉が、こくこくと鳴った。


 ノクティエルは、腹の端の方へ移って、ほとんど出ない乳首を、少しだけ吸った。

 母の金色の目が、一瞬だけ、ノクティエルの方を見た。

 何も言わなかった。

 ただ、長い舌で、ノクティエルの頭を、一度だけ、ゆっくりと舐めた。

 満ちなかった。

 それでも、少しも、苦しくはなかった。


 ◇


 巣穴の外には、雪原が広がっていた。


 どこまでも、白い。

 空も、地面も、遠くの森も、全部、雪に覆われていた。

 その白さの中に、群れがいた。


 狼の群れだった。

 母のほかに、六頭の大人がいた。

 いちばん大きな、黒い毛の父。

 片耳の欠けた、年老いた雄。

 母の妹にあたる、若い雌が二頭。

 去年生まれた、まだ若い兄が二頭。


 群れは、狩りに出かけ、帰ってくると、子らのために、腹の中の肉を吐き戻した。

 ハサミムシの母と同じだった。

 だが、ここでは、母だけではなかった。

 父も、年老いた雄も、若い兄たちも、皆、子らのために、吐き戻した。

 誰の子か、ではなかった。

 群れの子だから、群れの全員が、育てるのだ。


 ノクティエルは、年老いた雄から、多くを教わった。


 片耳の欠けた雄は、群れでいちばん長く生きていた。

 狩りには、もうほとんど出なかった。

 代わりに、巣穴のそばで、子らの番をしていた。

 雪の上に残る足跡の読み方。

 風の中の匂いで、獲物がどれくらい遠くにいるかを知る方法。

 氷の張った川の、どこが厚く、どこが薄いかを見分ける方法。


 年老いた雄は、言葉を使わなかった。

 ただ、鼻先で、雪の上の足跡を指し示した。

 氷の上を、自分で歩いてみせた。

 薄いところの手前で、ぴたりと止まって、振り返った。


 ノクティエルは、それを、体で覚えた。

 覚えたことは、体の奥に、しっかりと残った。

 ヘルメスが渡してくれた、記憶を受け継ぐ力。

 いや、まだ渡されてはいなかった。

 だが、この体は、もう、それを知っていた。

 誰かが覚えたことを、次の誰かが受け取って、また次へ渡していく体だった。


 ◇


 白い耳の子は、いつも、ノクティエルのそばにいた。


 乳を譲ってから、白い耳の子は、ノクティエルのあとを、どこへでもついてくるようになった。

 巣穴の外へ出る時も。

 雪の上で、兄弟たちと転げ回って遊ぶ時も。

 夜、巣穴の奥で丸まって眠る時も。

 いつも、ノクティエルの腹の横に、白い耳を押しつけて、眠った。


 ある日、白い耳の子は、雪の中から、小さな骨のかけらを掘り出してきた。

 どこかの獣の、古い骨だった。

 白い耳の子は、それをくわえて、得意そうに、ノクティエルの前に置いた。

 それから、ノクティエルの顔を、じっと見上げた。

 ほめてほしい、と、その目が言っていた。


 ノクティエルは、骨のかけらを、鼻先で、白い耳の子の方へ押し返した。

 白い耳の子は、もう一度、それをくわえて、ノクティエルの前に置いた。

 何度も、何度も、それを繰り返した。


 ノクティエルは、それが、うれしかった。


 水たまりでも、石の下でも、海でも、沼でも、砂漠でも、空でも。

 誰かを助けて、その誰かは、いつも、去っていった。

 小さな膜は、雨の中へ流れていった。

 石の下の兄弟は、枯れ葉の向こうへ消えていった。

 尾鰭の欠けた一匹は、群れの真ん中で、ノクティエルから遠ざかった。

 若い鳥は、年かさの一羽の翼の陰で眠った。


 白い耳の子は、去らなかった。

 毎日、毎晩、ノクティエルのそばにいた。

 白い耳を、ノクティエルの毛に、押しつけてきた。


 ――ここにいる。


 それは、もう、遠くから流れてくるものではなかった。

 すぐそばで、温かい体ごと、伝わってくるものだった。


 ノクティエルは、白い耳の子の体を、舌で、ゆっくりと舐めた。

 母がしてくれたように。

 この子が、ずっと、ここにいればいいと思った。


 その思いが、どこから来るのかを、ノクティエルは、深く考えなかった。


 ◇


 天界で、一度だけ、ハリエルに、ひどいことを言ったことがあった。


 ハリエルが白の位に上がって、しばらく経った頃だった。

 ハリエルのまわりに、新しい顔が増えた。

 白の位の天使たち。

 ハリエルは、彼らと一緒に、柱の上の方で灯し棒の手入れをしたり、泉のそばで笑い合ったりするようになった。


 ノクティエルのところへ来る回数が、少しずつ、減った。


 ある夕方、久しぶりに、ハリエルが泉の裏の岩陰へ来た。

「最近、どうしてる」

 ハリエルは、いつもと同じ顔で、そう聞いた。

 ノクティエルは、答えなかった。

 代わりに、こう言った。

「白の連中と、灯し棒でも磨いてればいいだろ」


 ハリエルは、少しのあいだ、黙っていた。

 それから、何も言わずに、岩陰を出ていった。


 次の日、ハリエルは、また来た。

 その次の日も。

 ノクティエルは、そのたびに、少しだけ、ほっとした。

 ほっとしながら、ハリエルが白の連中と一緒にいるところを見ると、胸の奥が、ぎゅっと縮んだ。


 あの縮み方と、今、白い耳の子が兄弟たちと転げ回っているのを見る時の縮み方は、よく似ていた。


 ◇


 初めて、狩りについていったのは、雪が深くなる少し前だった。


 ノクティエルは、子らの中で、いちばん足が速かった。

 大人たちの後ろを、誰よりも長く、遅れずに走れた。

 獲物の鹿の匂いを、子らの中で、いちばん早く嗅ぎつけた。

 黒い毛の父が、ちらりと振り返って、ノクティエルを見た。

 それだけで、胸の奥が、ふっと膨らんだ。


 空の段で刻まれた傷だった。

 自分が、誰かより優れていると感じるたびに。


 鹿は、崖の上へ逃げた。

 大人たちが、崖の縁を回り込んで追った。

 ノクティエルは、まっすぐ崖を駆け上がろうとした。

 自分なら、追いつける。

 自分なら、いちばん先に。


 崖の途中で、足元の雪が、ずるりと崩れた。


 体が、宙に浮いた。

 一瞬だけ。

 すぐに、前足が、岩の出っ張りを掴んだ。

 落ちなかった。

 だが、その一瞬、体の奥のいちばん古いところが、悲鳴を上げていた。


 落ちる。

 高いところから。

 天界から落とされた夜と、同じように。

 嵐の空へ、自分で翼をたたんで落ちていった時と、同じように。


 ノクティエルは、岩にしがみついたまま、しばらく動けなかった。

 上の方で、大人たちが鹿を仕留める音がした。

 ノクティエルは、それを、崖の途中で聞いていた。


 誇らしさと、落ちる怖さは、いつも、同じ場所から湧いてくるのだと知った。


 ◇


 冬が、深くなった。


 雪が、何日も降り続いた。

 獲物が、いなくなった。

 鹿の群れは、どこか遠くの谷へ移っていった。

 群れの狩りは、空振りばかりになった。

 吐き戻される肉が、日に日に、少なくなっていった。


 子らは、痩せていった。

 ノクティエルも、痩せた。

 だが、いちばん痩せたのは、白い耳の子だった。


 ある朝、巣穴の奥で、兄弟の一頭が、動かなくなっていた。


 五匹のうち、真ん中くらいの大きさの子だった。

 ノクティエルと白い耳の子のあいだで、いつも、どちらにもつかずに眠っていた子だった。

 母が、その小さな体を、長いあいだ、舐めていた。

 それから、そっと、巣穴の外へ運んでいった。


 二百八十一。


 ノクティエルは、数えた。

 数えながら、自分が、その子のことを、ほとんど覚えていないことに気づいた。

 白い耳の子のことばかり、見ていた。

 すぐそばで、もう一頭が、少しずつ痩せていったことに、気づかなかった。


 一頭を見つめすぎると、ほかの一頭が、見えなくなる。


 ノクティエルは、自分の分の肉を、少しずつ、白い耳の子に譲った。

 譲るたびに、腹の中が、冷えた。

 冷えるたびに、白い耳の子が、ノクティエルの腹の横で、少しだけ温かくなった。


 年老いた雄は、いつも、いちばん最後に食べた。


 若い者たちが食べ終え、子らが食べ終え、母が食べ終えたあとで、残った骨のまわりを、ゆっくりと舐めていた。

 ある夕方、ノクティエルは、骨を舐める年老いた雄のそばへ行った。

 年老いた雄は、ノクティエルを見ても、追い払わなかった。

 代わりに、骨の端を、鼻先で、ノクティエルの方へ、少しだけ押した。


 ノクティエルは、それを舐めなかった。

 ただ、年老いた雄の隣に、座っていた。


 年老いた雄の、欠けた片耳を見た。

 何かに、噛みちぎられたような跡だった。

 何年も前の、古い傷だった。

 年老いた雄は、ときどき、遠くの森の方を、じっと見ていることがあった。

 何かを待っているように。

 あるいは、何かを見送ったあとのように。


 ある夜、巣穴の外で、年老いた雄が、長く、長く、遠吠えをした。


 群れの大人たちが、それに応えて、一頭ずつ、鳴いた。

 ノクティエルには、その意味が、なんとなくわかった。

 この谷を、出る。

 獲物を追って、遠くへ。

 凍った大きな湖を越えた、その向こうの谷へ。


 子らも、連れて行く。

 もう、巣穴に置いていけるほど、小さくはなかった。


 ◇


〈かわいい子だね〉


 声がした。


 巣穴の奥で、白い耳の子が眠ったあとだった。

 ノクティエルが、その体を、腹の横に抱え込むようにして、丸まっていた時だった。


 甘い声だった。

 だが、蠅の王の、腐った果物の甘さとは違った。

 温かかった。

 乳の匂いがした。

 母の腹の匂いがした。

 巣穴の奥の、いちばん暗くて、いちばん安心できる場所の匂いがした。


〈お前は、本当に、その子を愛しているんだね〉


〈誰も、そんなふうに、お前のそばにいてくれたことはなかった。水たまりでも、石の下でも、海でも。お前が助けた者は、皆、お前を置いて、去っていった。でも、その子は違う。その子は、お前のそばにいる〉


 ノクティエルは、腹の横の、白い耳の子の寝息を、聞いていた。


〈大切にしなさい。その子は、お前の宝だよ〉


「……お前は、誰だ」


〈わたしは、アスモデウス〉


 声が、ふわりと、巣穴の暗がりに広がった。


〈愛する者の、味方だよ。愛する者が、愛するものを失わずに済むように、手を貸してやる者だ〉


〈蠅の王は、飢えた者に囁いた。冠の囁き手は、見られたい者に。海の底の者は、怯える者に。滅びの淵の者は、諦めかけた者に。蓄える者は、握りたい者に。明けの星は、高く昇りたい者に〉


〈わたしは、誰かを愛した者にだけ、囁く。だから、わたしの声は、いちばん、断りにくいよ〉


 ◇


〈群れは、湖を越えるつもりだね〉


 アスモデウスの声は、どこまでも、優しかった。


〈凍った湖だ。春が近づけば、氷は薄くなる。あの年寄りは、薄いところを知っている。だが、すべてを知っているわけではない。湖の真ん中で、氷が割れたら、どうなる〉


〈いちばん小さい子が、いちばん先に、落ちるよ〉


 ノクティエルの体が、こわばった。


〈それに、湖の向こうの谷で、その子が大きくなったら、どうなる。狼の子は、大きくなれば、いつか群れを出る。自分の群れを作りに、遠くへ去っていく。お前も、知っているはずだ。去年生まれた兄たちも、次の春には、出ていくだろう〉


〈その子も、いつか、出ていく。お前を置いて〉


〈ほかの者たちと、同じように〉


 ノクティエルは、腹の横の、白い耳を見下ろした。


 出ていく。

 この子が。

 自分を置いて。


 胸の奥で、何かが、ぎゅっと、縮んだ。

 砂漠の段で、刻まれた傷。

 大切なものができるたびに、それを囲い込みたくなる。

 空の段で、若い鳥を、自分の風の中に置いておきたかったように。


〈離さなければいい〉


 アスモデウスが、ささやいた。


〈守るためなら、少しくらい、縛ってもいい。愛しているなら、それは、悪いことではない。その子が、危ないところへ行かないように。お前から、離れていかないように。お前が、そばで、見張っていればいい。それだけのことだよ〉


〈見てごらん〉


 巣穴の暗がりに、ぼんやりと、景色が浮かんだ。


 春の野原。

 雪が解け、若い草が伸びている。

 その草の上で、大きくなった白い耳の子が、ノクティエルのすぐ隣に、寝そべっていた。

 白い耳を、ノクティエルの毛に、押しつけて。

 夏が来ても。

 秋が来ても。

 次の冬が来ても。

 白い耳の子は、ずっと、ノクティエルの隣にいた。


〈これが、お前の手に入るものだよ〉


〈愛する者を縛れば、失うことはない〉


 ◇


 群れは、湖へ向かった。


 何日も、雪の中を歩いた。

 先頭を、黒い毛の父が歩いた。

 そのすぐ後ろを、片耳の欠けた年老いた雄が歩いた。

 子らは、大人たちの足跡の中を、一列になって、ついていった。


 ノクティエルは、白い耳の子の、すぐ後ろを歩いた。

 白い耳の子が、列から少しでも外れると、鼻先で、ぐいと押し戻した。

 白い耳の子が、雪の上の兎の足跡を見つけて、そちらへ駆け出そうとすると、首筋を軽く噛んで、引き戻した。


 危ないから。

 はぐれるから。

 ノクティエルは、そう思っていた。


 白い耳の子は、最初は、おとなしく従った。

 だが、三日目あたりから、引き戻されるたびに、小さく唸るようになった。

 四日目には、ノクティエルの鼻先を、前足で払いのけた。


 四日目の昼、凍った小川を渡った。


 年老いた雄が、先に氷の上を歩き、薄いところの手前で止まって、振り返った。

 群れは、その足跡の上だけを、一頭ずつ渡った。

 白い耳の子は、ノクティエルの前を歩いていた。

 小川の真ん中で、白い耳の子の後ろ足が、足跡から、ほんの少しだけ外れた。

 氷が、ぴしり、と鳴った。


 ノクティエルは、とっさに、白い耳の子の首筋をくわえ、足跡の上へ引き戻した。

 白い耳の子の後ろ足の下で、氷が、小さく割れた。

 黒い水が、割れ目から、じわりと滲み出した。


 白い耳の子は、震えていた。

 ノクティエルの胸に、体を押しつけて、しばらく離れなかった。


 ほら、と、ノクティエルは思った。

 やっぱり、自分がいなければ、駄目なのだ。

 この子は、自分が見張っていなければ、氷に落ちる。


 その思いが、ひどく温かく、ひどく心地よかったことを、ノクティエルは、あとになって、何度も思い出すことになる。


 五日目の夕方、群れは、湖の岸にたどり着いた。


 見渡すかぎり、白く凍った湖だった。

 対岸は、霞んで見えなかった。

 年老いた雄が、氷の上に、一歩、前足を乗せた。

 しばらく、じっとしていた。

 それから、振り返って、群れに、短く鳴いた。


 明日、渡る。

 春が来る前に。

 氷が、まだ厚いうちに。


 ◇


 湖の岸で、群れは、最後の夕暮れを過ごした。


 白い耳の子は、若い兄と一緒に、岸の雪の上で、転げ回って遊んでいた。

 若い兄が、わざと負けて、雪の上にひっくり返る。

 白い耳の子が、その上に乗って、得意そうに尾を振る。

 ノクティエルが、一度も見たことのない顔だった。

 ノクティエルのそばにいる時の白い耳の子は、いつも、少しだけ、おとなしかった。

 列から外れれば押し戻され、兎を追えば引き戻される。

 ノクティエルのそばでは、白い耳の子は、自分で走ることが、できなかった。


 ノクティエルは、岸の岩の陰から、それを見ていた。

 胸の奥が、ぎゅっと、縮んだ。

 ハリエルが、白の連中と笑い合っているのを見た時と、同じ縮み方だった。


 その夜、白い耳の子は、ノクティエルの腹の横で眠らなかった。


 少し離れたところで、去年生まれの若い兄の一頭のそばに、丸まっていた。

 若い兄は、群れの中で、いちばん足が速かった。

 いちばん遠くまで、匂いを追えた。

 次の春には、群れを出ていくだろうと、ノクティエルにもわかっていた。


 白い耳の子は、その若い兄の腹の横に、白い耳を押しつけていた。


〈ほらね〉


 アスモデウスの声が、雪の上を、温かく撫でた。


〈もう、始まっている。あの子は、お前から、離れようとしている。あの若いのについていくつもりだよ。春になったら、二頭で、群れを出ていく。お前を置いて〉


〈今なら、まだ、間に合う〉


〈明日、湖の上で、あの子のすぐそばを歩け。氷の薄いところで、少しだけ、押せばいい。落とすんじゃない。足を、少し濡らすだけだ。凍った水に足を浸けた子は、怖がる。怖がった子は、もう、遠くへ行こうなんて思わない。お前のそばから、離れなくなる〉


〈それは、守ることだよ。危ないことを、教えてやるだけだ。愛しているから〉


 ノクティエルは、雪の上で、身動きもせずに、その声を聞いていた。


 離れたところで、白い耳の子が、寝返りを打った。

 白い耳が、月の光を受けて、かすかに光った。


 小さな膜は、雨の中へ流れていった。

 石の下の兄弟は、枯れ葉の向こうへ消えていった。

 尾鰭の欠けた一匹も、背中に乗せた丸い体も、砂丘の幼いトカゲも、羽の折れた若い鳥も。

 皆、去っていった。

 去っていくのを、ノクティエルは、ただ見送ってきた。

 見送ることしか、できなかった。


 今は、違う。

 牙がある。

 強い脚がある。

 群れの子らの中で、いちばん大きな体がある。

 見送らなくても、いい。

 止められる。


 そう思った瞬間、ずっと昔に聞いた声が、耳の奥で、かすかに鳴った。


 ――それは、お前の秤には載らない。


 ハリエルの翼のことを、ネメシスに尋ねた時の言葉だった。

 あれの翼がこれからどうなるかは、あれ自身の皿の上のことだ。

 お前が勝手に載せたり下ろしたりしてよいものではない。


 ノクティエルの口の中で、牙が、ゆっくりと、噛み合わされた。

 噛み合わされたまま、なかなか、開かなかった。


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