第14話 白い耳の行く先
牙が、開いたのは、夜明けの少し前だった。
ノクティエルは、雪の上で、一晩中、身動きもせずにいた。
離れたところで、白い耳の子が眠っていた。
若い兄の腹の横に、白い耳を押しつけて。
月が沈み、星が薄れ、湖の向こうの空が、かすかに白み始めていた。
〈もうすぐ、朝だよ〉
アスモデウスの声が、温かく、雪の上を撫でた。
〈決めたかい。明日の湖の上で、何をするか〉
ノクティエルは、噛み合わされたままの牙を、ゆっくりと、ほどいた。
顎が、痛んだ。
一晩中、噛みしめていたのだ。
「……押さない」
声が、凍った空気の中に、白く滲み出た。
〈なぜ〉
「あの子の足が濡れたら、あの子は、怖がる。怖がったら、遠くへ行かなくなる。僕のそばから、離れなくなる」
〈そうだ。それが、お前の望みだろう〉
「そうだ」
ノクティエルは、正直に答えた。
「僕は、あの子に、ずっと、そばにいてほしい。今も、そう思ってる。でも、怖がって、そばにいるあの子は、昨日、若い兄と転げ回っていたあの子じゃない」
「僕のそばにいる時、あの子は、自分で走れなかった。列から外れたら押し戻されて、兎を追ったら引き戻されて。僕は、あの子を守ってるつもりだった。でも、あの子は、僕のそばで、少しずつ、小さくなっていった」
〈それでも、生きている。氷に落ちるよりは、ずっといい〉
「生きてる。でも、あの子のままじゃない」
雪の上に、長い沈黙が落ちた。
これまでの段で、去っていった者たちのことを、ノクティエルは思い出していた。
雨の中へ流れていった小さな膜。
枯れ葉の山の向こうへ消えていった、石の下の兄弟。
群れの真ん中を、少し遅れて泳いでいった、尾鰭の欠けた一匹。
池の深みへ泳いでいった丸い体。
砂丘の向こうへ去った幼いトカゲ。
年かさの一羽の翼の陰で眠った、羽の折れた若い鳥。
皆、去っていった。
ノクティエルは、それを、見送ることしかできないと思っていた。
見送ることしかできない自分を、どこかで、寂しく思っていた。
だが、もし、あの者たちが、去らずに、ずっとノクティエルのそばにいたら。
小さな膜は、雨の中へ流れていけなかった。
石の下の兄弟は、自分の石を見つけられなかった。
去っていけたのは、生きていたからだった。
自分で泳ぎ、自分で這い、自分で飛べたからだった。
◇
夜が明けると、群れは、湖へ踏み出した。
年老いた雄が、先頭を歩いた。
氷の上に前足を乗せ、しばらく待ち、それから、一歩ずつ、進んでいく。
群れは、その足跡の上だけを、一列になってついていった。
白い耳の子は、若い兄のすぐ後ろを歩いていた。
ノクティエルは、その二頭から、少し離れて歩いた。
すぐ後ろではなく。
何頭かを挟んだ、ずっと後ろを。
白い耳の子が、列から外れかけても、ノクティエルの鼻先は、届かなかった。
届かない距離を、自分で選んだ。
白い耳の子は、一度だけ、振り返った。
ノクティエルの方を。
いつもなら、すぐ後ろにいるはずの兄が、いないことに、気づいたのかもしれない。
ノクティエルは、目を逸らさなかった。
ただ、そのまま歩き続けた。
白い耳の子は、少しのあいだ、こちらを見ていたが、やがて、前を向いた。
そして、若い兄の横に並んで、少しだけ、足取りを軽くした。
胸の奥が、痛んだ。
握りたい手が、まだ、そこにあった。
ノクティエルは、その手を、開いたまま、歩いた。
ハリエルのことを、思った。
白の連中と灯し棒でも磨いてればいい、と言った、あの夕方。
ハリエルは、黙って岩陰を出ていった。
次の日も、また来た。
その次の日も。
ハリエルは、一度も、ノクティエルを、白の連中のところへ連れていこうとはしなかった。
一緒に来い、とも、言わなかった。
ただ、ノクティエルのいる岩陰へ、自分の足で、来ただけだった。
そして、自分の足で、白の連中のところへ戻っていった。
どちらの場所も、ハリエルにとっては、自分で選んで行く場所だった。
ノクティエルは、それを、ずっと、ハリエルが自分から離れていくことだと思っていた。
離れていったのではなかった。
ハリエルは、ただ、自由だったのだ。
自由なまま、毎日、ノクティエルのところへも来てくれていた。
〈お前は、本当に、愚かだね〉
アスモデウスの声が、氷の上を、温かく這ってきた。
だが、その温かさの奥に、何かが、ひび割れていた。
〈わたしにも、昔、そばにいてほしい者がいた〉
◇
ノクティエルは、歩きながら、その声を聞いた。
〈ずっと、ずっと昔のことだ。まだ、わたしが、悪魔と呼ばれるようになる前。わたしは、ある者を愛した。その者は、自由だった。風のように、どこへでも行った。いつか、わたしのそばからも、行ってしまうのだと、わかっていた〉
〈だから、わたしは、その者を、そばに置いた。少しずつ。危ないところへ行かないように。ほかの誰かのそばへ行かないように。その者が、自分で走るのをやめるまで〉
〈その者は、行かなかった。ずっと、わたしのそばにいた。わたしは、満たされた。失わずに済んだ〉
声が、少しだけ、途切れた。
〈……その者は、もう、何も言わなくなった。笑わなくなった。風の匂いを嗅ぐこともしなくなった。ただ、わたしのそばに、いるだけになった。それでも、わたしは、離さなかった。離したら、失うから〉
〈今も、離していない〉
ノクティエルの足が、止まりかけた。
〈わたしの中に、いるよ。何千年も。わたしのそばに、ずっと。もう、自分が誰だったかも、忘れかけているけれど〉
アスモデウスの声の、いちばん奥に。
温かい巣穴の匂いの、いちばん暗いところに。
ノクティエルは、何かを感じた。
小さな、小さな光。
灯されたまま、どこへも行けずに、ただ、そこで、かすかに揺れている光。
――ここにいる。
その光からも、流れてきた気がした。
だが、それは、これまでのどの「ここにいる」とも違った。
ここに、いる。
ここにしか、いられない。
◇
湖の真ん中あたりで、氷が、鳴った。
ぴしり、と。
低く、長く、足の下を、何かが走っていくような音。
年老いた雄が、ぴたりと止まった。
群れ全体が、止まった。
春が、近づいていた。
昨日までの冷え込みが、夜のうちに、ゆるんでいた。
厚かったはずの氷が、どこかで、薄くなっていた。
年老いた雄が、首を巡らせ、氷の表面を、じっと見た。
それから、ゆっくりと、右へ、進路を変えようとした。
その時、白い耳の子の足元で、氷が、割れた。
音は、小さかった。
ぱきん、と、乾いた音がして、白い耳の子の前足と後ろ足のあいだに、黒い線が走った。
黒い線が、広がった。
白い耳の子の体が、ぐらりと傾いた。
次の瞬間、白い耳の子の下半身が、黒い水の中へ、沈んだ。
若い兄が、振り返った。
だが、若い兄の足元も、ひび割れていた。
動けば、自分も落ちる。
ノクティエルは、走った。
何頭かを挟んだ、ずっと後ろから。
年老いた雄が残した足跡の上を、全力で。
届かない距離を選んだのは、自分だった。
だから、その距離を、自分の脚で、埋めなければならなかった。
氷が、ノクティエルの足の下でも、鳴った。
構わなかった。
年老いた雄に教わった、薄い氷の色。
表面が、わずかに灰色がかって、濡れたように光る場所。
そこを、跳び越えた。
白い耳の子の首筋を、くわえた。
◇
引き上げようとした。
重かった。
水を吸った毛皮が、白い耳の子の体を、黒い水の中へ引きずり込もうとしていた。
ノクティエルの前足が、氷の上で、滑った。
体が、割れ目の方へ、ずるずると引き寄せられていく。
〈離せ〉
アスモデウスの声が、鋭く鳴った。
〈離せ。お前まで落ちる。その子は、もう駄目だ。離して、お前だけでも、岸へ戻れ〉
〈……いや〉
声が、ふいに、揺れた。
〈離すな。離せば、失う。失いたくないのだろう。だったら、離すな。一緒に落ちてでも、離すな。それが、愛だろう〉
アスモデウスの声が、二つに裂けていた。
離せ、と。
離すな、と。
どちらも、同じ温かさで。
ノクティエルは、どちらにも従わなかった。
くわえた首筋を、離さなかった。
だが、自分の方へ引き寄せようとするのを、やめた。
代わりに、首を、横へ振った。
白い耳の子の体を、割れ目の縁に沿って、横へ。
割れ目の向こう側。
若い兄が立っている、まだ厚い氷の方へ。
白い耳の子の前足が、若い兄の側の氷の縁に、かかった。
若い兄が、身を低くし、白い耳の子の首筋を、反対側から、くわえた。
二頭で、引き上げた。
白い耳の子の体が、黒い水の中から、ずるりと、氷の上へ抜け出した。
若い兄の側へ。
ノクティエルの側では、なく。
ノクティエルは、くわえていた首筋を、そっと離した。
離した瞬間、自分の前足が、割れ目の縁から、黒い水の中へ、滑り落ちた。
冷たかった。
冷たさが、痛みに変わり、痛みが、感覚のなさに変わっていくまで、ほんの一瞬だった。
ノクティエルは、後ろ足で氷を掻き、前足を、水の中から引き抜いた。
前足は、もう、自分のものではないように、重く、しびれていた。
狼の体は、温かかった。
内側から、温かさを生み出せる体だった。
それでも、黒い水は、その温かさを、あっという間に奪っていった。
あの子は、この冷たさの中に、腰まで沈んでいたのだ。
◇
白い耳の子は、若い兄の腹の下で、震えていた。
若い兄が、その濡れた体を、何度も、何度も、舐めていた。
ノクティエルは、割れ目の、こちら側にいた。
割れ目の向こうに、白い耳の子と、若い兄がいた。
黒い水が、そのあいだで、静かに揺れていた。
年老いた雄が、右へ進路を変え、割れ目を回り込む道を、ゆっくりと探り始めた。
群れが、その後に続いた。
白い耳の子と若い兄は、割れ目の向こう側から、別の道で、群れに合流していった。
ノクティエルは、いちばん最後に、割れ目を回り込んだ。
しびれた前足が、氷の上で、何度も滑った。
そのたびに、後ろ足で踏ん張り、また歩いた。
黒い水の割れ目が、背後で、少しずつ広がっていく音がした。
振り返らなかった。
前を行く群れの足跡だけを、ひとつずつ踏んで、対岸を目指した。
対岸に着いた時、白い耳の子は、若い兄の隣で、日向に寝そべっていた。
濡れた毛が、春の陽射しの中で、ゆっくりと乾いていった。
ノクティエルが近づくと、白い耳の子は、顔を上げた。
それから、立ち上がって、ノクティエルの方へ、二、三歩、歩いてきた。
ノクティエルの鼻先に、自分の鼻先を、そっと、触れさせた。
とん、と。
ハサミムシの母の触角と、同じ音だった。
一匹ずつ、子を数える時の、あの音。
それだけだった。
それから、白い耳の子は、若い兄の隣へ戻っていった。
◇
〈……なぜ〉
アスモデウスの声は、もう、ほとんど、温かくなかった。
〈なぜ、あの子を、向こう側へ押した。お前の側へ引き上げれば、あの子は、お前に救われたと思った。お前のそばから、二度と離れなかった。今度こそ、本当に、お前のものになった〉
「だからだ」
ノクティエルは、対岸の日向で、二頭を見ながら答えた。
「僕の側に引き上げたら、あの子は、僕に救われたと思う。僕のそばにいなきゃいけないと思う。それは、湖の上で足を濡らして、怖がらせるのと、同じだ」
「あの子が行きたいのは、向こう側だった。あの若い兄と、遠くへ。だったら、僕がすることは、あの子を、向こう側へ渡すことだった」
〈……それで、お前は、何を得た〉
「何も」
ノクティエルは、正直に答えた。
「あの子は、春になったら、行く。僕を置いて。それでも、あの子は、自分で走れる」
◇
アスモデウスの声が、長いあいだ、黙っていた。
対岸の雪が、春の陽射しの中で、少しずつ、解けていた。
解けた雪の下から、若い草が、のぞいていた。
〈……わたしは〉
やがて、声が、ひどく小さく、言った。
〈わたしは、あの者を、何千年も、離さなかった。あの者が、自分で走れなくなっても。笑わなくなっても。自分が誰だったかを、忘れかけても〉
〈愛していたからだと、思っていた〉
〈……違ったのだな。わたしは、失うのが、怖かっただけだ。あの者を愛していたのではなく、あの者がいなくなった後の、わたしの空っぽが、怖かっただけだ〉
ノクティエルは、何も言わなかった。
言うべきことは、もう、言ってしまっていた。
〈お前の、白い耳の子は、お前に、鼻先を触れさせたね〉
〈あの者は、もう何千年も、わたしに、そんなことをしてくれたことはない〉
アスモデウスの声の、いちばん奥で、小さな光が、かすかに揺れた。
〈……行かせて、みようか〉
声が、震えた。
〈わたしが離しても、あの者は、戻ってこないかもしれない。わたしを、恨むかもしれない。わたしは、空っぽになる。何千年分の、空っぽに〉
〈それでも〉
〈……お前に、許してくれとは言わない。あの者にも、許してくれとは言わない。許されるために、離すのではない〉
〈ただ、あの者が、自分で走るところを、もう一度、見てみたい〉
◇
対岸の空に、光が、ひとつ、昇った。
小さな、小さな光だった。
ふらふらと、まるで歩き方を忘れた者のように、ぎこちなく揺れながら、それでも、少しずつ、高く。
風の匂いを嗅ぐように、一度、くるりと回った。
それから、遠くの森の方へ、まっすぐに、飛んでいった。
振り返らなかった。
一度も。
まるで、ずっと前から、そちらへ行きたかったのだと、言うように。
アスモデウスの声は、それきり、温かさを失った。
巣穴の匂いも、乳の匂いも、母の腹の匂いも、全部、春の風の中に、溶けて消えていった。
〈……空っぽだ〉
最後に、かすかな声がした。
〈ひどく、空っぽだよ。これが、あの者を愛するということだったのか〉
ノクティエルには、答えられなかった。
ただ、白い耳の子が鼻先を触れさせたところが、まだ、温かかった。
◇
春が近づくまでの、何日かのあいだ。
ノクティエルは、しびれの残る前足を引きずりながら、ときどき、白い耳の子と一緒に、湖の岸を歩いた。
すぐ後ろではなく、隣を。
白い耳の子が、自分で、そうしてほしそうに、隣に並んできたから。
岸の近くの、まだ解け残った氷の前で、ノクティエルは立ち止まった。
鼻先で、氷の表面を指し示した。
わずかに灰色がかって、濡れたように光っている場所。
年老いた雄が、ノクティエルに教えてくれた、薄い氷の色だった。
白い耳の子は、首をかしげて、じっとそれを見ていた。
それから、自分の前足を、その灰色の氷の手前で、ぴたりと止めた。
振り返って、ノクティエルを見た。
ノクティエルは、何も言わなかった。
言葉を持たない体だった。
それでも、年老いた雄が教えてくれたことは、ノクティエルの体を通って、白い耳の子の体へ、渡っていった。
いつか、白い耳の子も、誰かに、この色を教えるのだろう。
自分の群れの、自分の子に。
ノクティエルの知らない、遠くの森で。
春になった。
ある朝、白い耳の子と若い兄は、群れを出ていった。
ノクティエルは、群れから少し離れた、丘の上にいた。
隣に、年老いた雄が座っていた。
二頭は、遠くの森の縁を、並んで見ていた。
森の縁へ向かって、二つの小さな影が、雪解けの草原を、駆けていく。
年老いた雄は、何も言わなかった。
欠けた片耳が、風に揺れていた。
ふと、年老いた雄が、ノクティエルの方へ、首を傾けた。
しびれの残る前足に、鼻先を、そっと寄せた。
湖の上で、黒い水に浸かった前足だった。
年老いた雄は、それを、長いあいだ、舐めていた。
白い耳の子を引き上げたのが、ノクティエルではなく、若い兄だったことを、群れの誰もが見ていた。
ノクティエルが、なぜ、割れ目の向こう側へ渡したのかを、群れの誰も、知らなかった。
年老いた雄だけが、知っているような気がした。
ノクティエルは、ようやく、わかった気がした。
この年老いた雄も、いつか、誰かを、こうして見送ったのだ。
欠けた片耳は、行かせまいとして、噛みつかれた傷だったのかもしれない。
行かせた後に、それでも追いかけて、つけられた傷だったのかもしれない。
どちらにしても、年老いた雄は、それから何年も、遠くの森の方を、見続けてきた。
見送った者を、見送ったまま、覚えておくために。
ノクティエルが、二百十七から、ずっと続けてきたことと、同じだった。
この群れには、言葉も、数もない。
それでも、年老いた雄は、覚えていた。
欠けた耳と、遠くを見る目で。
森の縁で、白い耳の小さな影が、一度だけ、止まった。
振り返った。
それから、また、駆けていった。
ここにいる。
◇
白い場所で、大いなる秤が揺れていた。
皿の上に、何も載っていなかった。
だが、皿の上の空気が、春の風のように、かすかに揺れていた。
「第七の段の判定を告げる」
ネメシスの声が、白い場所に響いた。
「お前は、愛する者を、縛らなかった。自分の側へではなく、相手の行きたい側へ、渡した。そして、愛を鎖に変えたがる者に、自ら、鎖を解かせた」
「あれは、己の罪を認めた。失うことへの恐れが、根にあったと見た。お前を誘うのを、やめた。何千年、離さなかった者を、自ら離した。空っぽになるという罰を、受け入れた。そして、何も求めなかった」
ネメシスは、少しだけ、言葉を区切った。
「救済の、成立とする」
ノクティエルは、白い場所で、問いを滲ませた。
「……あの光は、どこへ行ったのですか」
「知らぬ」
ネメシスは、迷わずに言った。
「あれは、あれ自身の皿の上を、何千年ぶりに、自分の足で歩き始めた。どこへ行くかは、あれが決める。お前が知る必要はない。悪魔が知る必要も、もはやない」
「お前は、それを数に入れなかったな」
「……僕が救ったのでは、ありませんから」
「それでいい」
ヘルメスが、秤の柱の陰で、帽子を、そっと脱いだ。
「初めてだな」
「……はい」
「悪魔が、本当に、救われたのは」
ネメシスが、静かに続けた。
「救済は、罪の帳消しではない。あれは、これから、空っぽを抱えて生きる。それが、あれの償いの始まりだ」
「お前自身は、完全な昇格とする」
ヘルメスが、帽子をかぶり直し、杖の先で、ノクティエルの光に触れた。
「七つ目の能力は、愛する力と、記憶を受け継ぐ力。七つ目の心は、愛する者を守りながら、相手の自由も認める心だ」
「傷は残る。失った仲間への執着。そして、善いことをした自分に、酔いそうになる危うさだ。次の器では、誰かを救ったあとで、救った自分を、誰かに認めてほしくなる」
ヘルメスは、杖を振り上げた。
「第八の段。次は、手がある器だ。物を掴み、道具を使い、仲間と力を合わせて、何かを作る器。そこでは、お前の選んだことが、群れ全体の明日を変える。そして、責任から逃げたがる者が、待っている」
白い場所の底から、森の匂いが、立ちのぼってきた。
木の実の匂い。
枝の折れる音。
何かを叩き合わせる、乾いた、硬い音。
落ちていく前に、ノクティエルは、数を確かめた。
失われた者。
二百八十一。
一つの群れ。
一つの沼。
生きている者。
水たまりの、二つの膜。
石の下の、小さな兄弟。
海の、尾鰭の欠けた一匹。
池の、最初の丸い体。
砂丘の、幼いトカゲ。
平野の空の、羽の折れた若い鳥。
そして、森の縁の向こうへ駆けていった、白い耳の子。
八。
それから、ノクティエルは、もう一つ、数に入れようか、迷った。
遠くの森へ、ぎこちなく飛んでいった、小さな光。
何千年ぶりに、自分で走り始めた、名も知らない誰か。
迷って、入れなかった。
あの光は、自分が救ったのではない。
あの光を離したのは、アスモデウスだった。
自分のものではないものを、自分の数に入れてはいけない。
八のまま、ノクティエルは、森の匂いの中へ、落ちていった。




