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第15話 手の中の石

最初に知ったのは、指だった。


 五本。

 一本ずつ、別々に動く。

 曲げられる。

 伸ばせる。

 閉じれば、何かを握れる。

 開けば、何かを離せる。


 ノクティエルは、自分の手を、長いあいだ、見つめていた。


 膜には、手がなかった。

 ハサミムシには、鋏があったが、掴むことはできなかった。

 魚には、鰭。

 蛙には、水かき。

 トカゲには、爪。

 鳥には、翼。

 狼には、前足と牙。


 この体には、手があった。

 握れる手。

 離せる手。

 何かを作ることも、何かを壊すこともできる手。


 トカゲの段から、ずっと胸の奥にあった、握りたい手。

 狼の段で、開いたままにしておいた手。

 それが、今、本物の手になって、目の前にあった。


 ◇


 森だった。

 深く、湿った、緑の森だった。


 高い木々が、空を覆っていた。

 枝と葉のあいだから、緑色の光が、まだらに差し込んでいる。

 鳥の声。

 虫の羽音。

 どこかで、水の流れる音。


 ノクティエルは、母の腹にしがみついていた。

 小さな手で、母の毛を、ぎゅっと掴んで。

 母は、ノクティエルを腹にぶら下げたまま、枝から枝へ、身軽に渡っていった。


 まわりにも、同じ姿の者たちがいた。

 黒い毛。

 長い腕。

 表情のよく動く顔。

 三十頭ほどの群れが、森の中を、ゆっくりと移動していた。


 群れの先頭を歩くのは、白い顎ひげの、大きな雄だった。

 群れの長だった。

 長が止まれば、群れが止まる。

 長が木の実の木を見つければ、群れがそこに集まる。


 だが、狼の群れとは、少し違った。

 ここでは、長が何かを決める前に、まわりの者たちが、しきりに声を交わした。

 短い叫び。

 低い唸り。

 顔をしかめたり、歯を見せたり、相手の背中の毛を指でかき分けたり。

 皆が、互いの顔を見て、互いの声を聞いて、それから、長が動いた。


 ――協議している。


 ノクティエルは、母の腹から、それを見ていた。

 言葉ではない。

 だが、言葉に、とても近いものだった。


 ◇


 群れの中で、ノクティエルは、すぐに、ほかの子らと違うことに気づかれた。


 手が、器用だった。


 群れの大人たちは、硬い殻の木の実を、石で割って食べた。

 平たい石を台にして、その上に実を置き、別の石で叩く。

 子らは、それを見て真似をした。

 だが、たいていは、うまくいかなかった。

 実が台から転がり落ちる。

 叩く石が、指を打つ。

 割れても、中身ごと粉々になる。


 最初の石を、ノクティエルに渡したのは、年かさの雌だった。


 群れでいちばん長く生きている雌。

 毛の色が、ところどころ灰色に抜けていた。

 ノクティエルが、子らの中で、何度も実を転がしているのを、少し離れたところから見ていた。

 それから、のそのそと近づいてきて、自分の使っていた台の石を、ノクティエルの前に置いた。

 真ん中が、浅くくぼんだ石だった。

 何年も、何十年も、同じところを叩き続けてできた、くぼみだった。


 年かさの雌は、何も示さなかった。

 ただ、石を置いて、元の場所へ戻っていった。


 ノクティエルは、三度目で、うまく割った。


 年かさの雌の石の、くぼんだところに、実を置いた。

 くぼみがあれば、転がらない。

 叩く石は、手のひらに収まる、少しだけ重いものを選んだ。

 振り上げすぎない。

 手首だけで、短く、鋭く。


 ぱきん、と、殻が割れた。

 中身は、きれいに残っていた。


 まわりの子らが、目を丸くして、ノクティエルを見た。

 大人たちの何頭かも、手を止めて、こちらを見ていた。


 体の奥で、何かが、ふっと膨らんだ。

 空の段で刻まれた傷。

 誰かより優れていると感じるたびに。

 そして、狼の段で刻まれた傷が、それに重なった。

 救ったあとで、救った自分を、誰かに認めてほしくなる。

 ――いや、まだ、何も救ってはいない。

 ただ、木の実を割っただけだった。

 それなのに、皆の目が、心地よかった。


 ノクティエルは、割った実の半分を、すぐ隣で何度も失敗していた子に、差し出した。

 差し出しながら、自分が、それを皆に見せたがっていることにも、気づいていた。


 ◇


 季節が、いくつか過ぎた。


 ノクティエルは、母の腹から降り、自分の手で枝を渡るようになった。

 木の実を割るのは、群れの子らの中で、いちばんうまかった。

 大人たちの何頭かよりも、うまかった。

 それだけではなかった。

 細い枝の葉をむしって、蟻の巣の穴に差し込み、蟻を釣り上げる方法も、すぐに覚えた。

 葉を噛んで柔らかくし、木のうろに溜まった水を、それに吸わせて飲む方法も。


 群れの子らは、ノクティエルの真似をするようになった。

 ノクティエルが石を選べば、同じような石を探した。

 ノクティエルが枝を折れば、同じ長さに折った。


 ノクティエルは、それが、うれしかった。

 子らが、自分の手元を見つめている。

 自分が石を振り上げると、何頭もの小さな手が、同じように石を振り上げる。

 空の段で、くさびの先頭を飛んだ時の気持ちに、似ていた。

 自分の動きに、誰かが続いてくる。


 だが、子らが真似をして指を打つと、ノクティエルは、目を逸らした。

 うまくいかなかった子のことは、あまり、見ないようにした。

 うまくいった子が、自分の方を見て歯を見せるのだけを、見ていた。


 長も、ときどき、ノクティエルの手元を、じっと見ていた。


 この手で、何でもできる気がした。

 膜の頃には、何一つ、自分では動かせなかった。

 今は、石を選び、枝を折り、葉を噛み、形を変えられる。

 世界の方を、少しだけ、自分の思うように変えられる。


〈いい手だ〉


 声がした。


 ある夕暮れ、群れが木の上の寝床を作り始めた頃だった。

 枝を折り曲げ、葉を敷き詰めて、一晩だけの寝床を編む。

 ノクティエルが、自分の寝床を編み終えた、その時だった。


 声は、ひどく、気楽だった。

 これまでのどの声よりも。

 甘くもなく、冷たくもなく、乾いてもいない。

 ただ、どうでもいいことを話すように、軽かった。


〈お前の手は、群れの誰よりも、よく動く。お前の頭は、群れの誰よりも、よく回る。いずれ、お前が群れを動かすようになる。そうなったら、楽しいぞ〉


「……お前は」


〈ベリアル〉


 声は、あっさりと名乗った。


〈わたしは、何も勧めないよ。蠅の王みたいに、食えとは言わない。冠の囁き手みたいに、認められろとも言わない。わたしは、ただ、教えてやるだけだ。この世には、正しいことも、間違ったことも、本当は、ないんだってことを〉


〈好きにやればいい。お前の手で、好きなように。うまくいけば、お前の手柄。うまくいかなければ――まあ、そういうこともある。誰のせいでもないさ〉


 ノクティエルは、答えなかった。

 答えなかったが、その軽さが、どこか、心地よかった。

 これまで、どの段でも、選ぶたびに、重かった。

 重い選択を、何度も、背負ってきた。

 誰のせいでもない。

 その言葉は、肩の上の重さを、ふわりと持ち上げてくれるような気がした。


 ◇


 群れの中に、生まれたばかりの子を背負った、若い母親がいた。


 まだ、自分も若かった。

 子を背負うのも、初めてのようだった。

 枝を渡る時、いつも、少しだけ、ぎこちなかった。

 ある日、ノクティエルが木の実を割っていると、若い母親の背中から、小さな手が伸びてきた。

 ノクティエルの指を、ぎゅっと、掴んだ。


 熱かった。

 小さいのに、驚くほど強い力だった。


 若い母親が、慌てて、子の手を引き離そうとした。

 ノクティエルは、掴まれたままの指を、しばらく、そのままにしておいた。

 小さな手は、やがて、自分から、ぱっと離れた。

 それから、若い母親の背中で、何かを確かめるように、もう一度、ノクティエルの方へ、手を伸ばした。


 ノクティエルは、割った実の、いちばん柔らかいところを、ほんの少しだけ、その小さな手に載せた。


 ◇


 雨季が来た。


 毎日、雨が降った。

 森の中を流れる川が、少しずつ、太くなっていった。

 茶色く濁った水が、岸を削り、倒れた木を押し流していく。


 群れの縄張りの、川の向こう側に、実のなる木の林があった。

 雨季のあいだ、そこだけは、実が落ちずに残る。

 毎年、群れは、川の浅瀬を渡って、その林へ行った。


 今年は、浅瀬がなかった。

 川が太くなりすぎて、いつも渡っていた場所が、深い流れの下に沈んでいた。


 森の中の実も、少なくなっていった。

 雨に打たれて、熟す前に落ちる。

 落ちた実は、すぐに腐る。

 群れは、日に日に、遠くまで実を探しに行かなければならなくなった。

 子らの腹の音が、夜の寝床で、しきりに鳴った。

 ノクティエルの腹も、鳴った。

 水たまりの頃からの、飢えの傷が、また、疼き始めていた。


 群れは、岸に集まった。

 長が、川を見つめていた。

 大人たちが、しきりに声を交わしていた。

 渡れない。

 こちら側の実は、もう、ほとんど食べ尽くしてしまった。

 このままでは、雨季が終わるまで、持たないかもしれない。


 ノクティエルは、岸の少し上流を見た。


 一本の大きな木が、根元から、川の方へ傾いていた。

 雨で地面が緩み、今にも倒れそうになっている。

 その木の幹は、長かった。

 もし、あれが、川の向こう岸まで倒れたら。


 ――橋になる。


 ノクティエルの頭の中で、それが、くっきりと形になった。


 ◇


 ノクティエルは、長のところへ行った。


 言葉は、なかった。

 だから、手で示した。

 傾いた木を、指さした。

 それから、両手を合わせて、一本の棒のような形を作った。

 その棒を、ゆっくりと、川の上へ倒していく仕草をした。

 最後に、向こう岸を、指さした。


 長は、長いあいだ、ノクティエルの手を見ていた。

 それから、傾いた木を見た。

 川を見た。

 向こう岸を見た。


 まわりの大人たちが、また、しきりに声を交わし始めた。

 何頭かは、首を振った。

 何頭かは、木の方へ、身を乗り出した。


 年かさの雌が一頭、低く唸った。

 群れでいちばん長く生きている雌だった。

 その雌は、傾いた木の根元を、じっと見ていた。

 根の張り方を。

 土の崩れ方を。

 それから、ノクティエルの方を見て、もう一度、低く唸った。


 危ない、と、その唸りは言っているように聞こえた。


 長は、年かさの雌の唸りを聞くと、少しだけ、首を傾けた。

 それから、もう一度、ノクティエルの方を見た。

 長の目は、ノクティエルに、何かを尋ねているようだった。

 本当に、大丈夫なのか、と。

 お前は、あの根元を、ちゃんと見たのか、と。


 ノクティエルは、目を逸らさずに、もう一度、傾いた木を指さした。

 見ていなかった。

 見ていないのに、見たような顔をした。


〈気にするな〉


 ベリアルの声が、軽く笑った。


〈年寄りは、いつも、新しいことを怖がる。お前の考えは、正しい。いや、正しいかどうかなんて、どうでもいい。やってみればいい。うまくいけば、群れは救われる。お前は、群れを救った子になる〉


〈救った子に、なりたいんだろう?〉


 狼の段の傷が、ちくりと痛んだ。

 救ったあとで、救った自分を、誰かに認めてほしくなる。


 ノクティエルは、年かさの雌の唸りを、聞かなかったことにした。


 あの雌は、いつも慎重すぎる。

 去年も、その前の年も、同じ浅瀬しか渡らなかった。

 新しい道を、試そうともしなかった。

 ――だから、群れは、今、困っているのだ。


 そう思った。

 そう思うことで、唸りの意味を、考えずに済ませた。

 初めて実を割った時、くぼんだ石を置いていってくれたのが、その雌だったことも。


 ◇


 群れの若い雄たちが、傾いた木に取りついた。


 ノクティエルが、手で示した通りに。

 根元の土を、手で掻き出す。

 幹に、何頭もでぶら下がり、体を揺らして、重みをかける。

 ノクティエルも、一緒にぶら下がった。


 木が、軋んだ。

 根が、土の中で、ぶちぶちと切れる音がした。

 ゆっくりと、幹が、川の方へ傾いていく。

 若い雄たちが、飛び退いた。


 どおん、と、大きな音がした。


 木が、倒れた。

 川の上を、まっすぐに横切って。

 幹の先が、向こう岸の土手に、どさりと乗った。


 群れが、どよめいた。

 若い雄たちが、歯を見せて、叫び合った。

 何頭かが、ノクティエルの背中の毛を、指でかき分け始めた。

 毛づくろい。

 この群れで、いちばん親しい者にだけ、するものだった。


 ノクティエルの胸の奥が、熱く膨らんだ。

 認められた。

 救った。

 群れを、救ったのだ。


〈な、言っただろう〉


 ベリアルが、楽しそうに言った。


 ◇


 群れは、倒れた木の上を、一頭ずつ、渡り始めた。


 若い雄たちが、先に渡った。

 幹の上を、四本の手足で、すばやく駆け抜けていく。

 向こう岸に着くと、振り返って、叫んだ。

 大丈夫だ、と。


 大人の雌たちが、続いた。

 子を背中に乗せた母親たちが、その後に続いた。


 年かさの雌は、渡らなかった。

 岸で、じっと、幹の根元を見ていた。

 倒れた木の、こちら側の根元。

 根の半分が、まだ土に残り、半分が宙に浮いていた。

 その宙に浮いた根から、泥が、ぼろぼろと、川へ崩れ落ちていた。


 ノクティエルは、それを、見なかった。

 見ないように、していた。


 一頭の若い母親が、幹の真ん中あたりまで来た時だった。

 背中に、まだ生まれて間もない子を、しがみつかせていた。


 幹が、ずるりと、動いた。


 こちら側の根元が、崩れた。

 雨を吸った土が、一気に、川へ流れ落ちた。

 幹の根元が、岸から外れ、濁流の中へ、ずるずると引き込まれていく。

 幹全体が、大きく傾いた。


 若い母親の手足が、幹から滑った。


 ノクティエルは、叫んだ。

 手を伸ばした。

 届かなかった。


 若い母親は、とっさに、幹の枝の一本を掴んだ。

 片手で。

 もう片方の手で、背中の子を押さえようとした。


 押さえきれなかった。


 小さな体が、母親の背中から、濁った水の中へ、落ちた。


 一瞬だけ、茶色い水面に、小さな手が見えた。

 それから、見えなくなった。


 ノクティエルの指が、熱くなった。

 あの日、ぎゅっと掴まれた指。

 小さいのに、驚くほど強い力だった、あの指。

 その熱さだけが、指の先に、まだ残っていた。


 ノクティエルは、岸を駆け下りた。

 濁流の縁まで。

 水に手を伸ばした。

 茶色い水は、ノクティエルの手を、ぐいと引っ張った。

 その力の強さに、体が、思わず、後ろへ逃げた。


 逃げた自分を、ノクティエルは、知っていた。

 海の段で抱えた恐れ。

 嵐の空で、落ちる恐怖。

 この体も、水が怖かった。

 怖くて、手を、引っ込めた。


 小さな手は、もう、どこにも見えなかった。


 ◇


 幹は、それでも、完全には流されなかった。

 向こう岸の土手に、先が引っかかったまま、斜めに、川の中で止まっていた。

 若い母親は、枝にしがみついたまま、若い雄たちに引き上げられた。


 若い母親は、向こう岸の土手で、川の流れを見つめていた。

 声を出さなかった。

 ただ、背中に、何度も、何度も、手を回していた。

 そこに、もう、何もいないことを、確かめるように。


 群れの雌たちが、若い母親のまわりに集まった。

 誰も、声を出さなかった。

 一頭が、若い母親の背中の毛を、指でかき分け始めた。

 もう一頭が、その隣で、同じように。

 さっきまで、ノクティエルの背中にしていたのと、同じ毛づくろいだった。


 ノクティエルの背中の毛は、まだ、少しだけ、他の者の指の温かさを覚えていた。

 その温かさが、急に、ひどく恥ずかしいものに思えた。


 二百八十二。


 ノクティエルは、こちらの岸で、それを数えた。

 数える指が、ひどく重かった。


 年かさの雌が、ノクティエルの方を、見ていた。

 唸らなかった。

 ただ、見ていた。


〈まあ、こういうこともあるさ〉


 ベリアルの声は、少しも、変わらなかった。


〈誰のせいでもない。雨が降った。土が緩んだ。木が動いた。それだけのことだ。お前が悪いわけじゃない。木を倒したのは、若い連中だ。渡ろうと決めたのは、母親自身だ。それに、ほら、群れのほとんどは、向こう岸に渡れた。実の林に、行けるようになった。差し引きすれば、お前は、群れを救ったんだよ〉


〈正しいとか、間違っているとか、そんなものは、本当は、どこにもない。あるのは、起きたことだけだ〉


 ノクティエルは、自分の手を見た。


 五本の指。

 握れる手。

 離せる手。

 傾いた木を指さした手。

 棒の形を作り、それを川の上へ倒す仕草をした手。


 この手が、橋を考えた。

 この手が、若い雄たちに、木を倒させた。

 この手が、年かさの雌の唸りを、聞かなかったことにした。


 ◇


 その夜、群れは、向こう岸の実の林で、眠った。


 ノクティエルは、こちらの岸に、ひとりで残っていた。


 いや、ひとりではなかった。

 岸の少し上の、大きな岩の上に、年かさの雌が、座っていた。

 この雌も、渡らなかったのだ。

 群れが向こう岸へ渡っても、ずっと、こちらの岸の、崩れた根元を見ていた。

 今は、川の向こうの、実の林の方を見ていた。

 ノクティエルの方は、一度も見なかった。


 ノクティエルも、雌の方を、見られなかった。

 見れば、何かが、崩れそうだった。

 渡れなくなったのではない。

 斜めに残った幹を伝えば、渡れないことはなかった。

 だが、ノクティエルは、渡らなかった。


 向こう岸から、低い声が、ときどき聞こえた。

 大人たちが、声を交わしていた。

 橋のこと。

 落ちた子のこと。

 誰の考えだったのか。


 明日の朝、長は、群れを集めるだろう。

 そして、皆の顔を見て、皆の声を聞いて、それから、決めるだろう。

 誰が、悪かったのかを。


〈簡単なことだ〉


 ベリアルの声が、夜の川の音に混じって、軽く響いた。


〈明日、長の前に出たら、こうすればいい。若い連中を指させ。木を倒したのは、あいつらだ。それから、年寄りの雌を指させ。危ないと知っていて、はっきり止めなかったのは、あいつだ。お前は、ただ、思いついたことを、手で示しただけだ。誰も、お前の手を、本気にしろとは頼んでいない〉


〈それでも責められそうなら、何も示さなければいい。黙っていればいい。誰のせいでもないんだから。お前ひとりが、背負うことはない〉


〈天使だった頃も、そうだっただろう? 借り火を渡したのは、別の誰かだった。お前は、ただ、受け取っただけだ〉


 天界で、一度だけ、自分の失敗を、泉のせいにしたことがあった。


 灯した魂の一つが、秤の皿の上で、うまく自分の重さを量れなかった。

 火が、弱すぎたのだ。

 ノクティエルの細い火では、その魂の胸の奥まで、届かなかった。

 位の見直しの日、ネメシスがそのことを告げた時、ノクティエルは、こう言った。


「泉の火が、あの日は弱かったんです」


 嘘ではなかった。

 その日の泉の火は、確かに、いつもより少しだけ、揺らいでいた。

 だが、ほかの灯し手たちは、同じ泉の火で、ちゃんと灯していた。


 ネメシスは、布の奥で、しばらく黙っていた。

 それから、何も言わずに、次の天使の名を呼んだ。


 あの時、責められなかったことに、ノクティエルは、ほっとした。

 ほっとしたことを、すぐに、忘れた。


〈それに、数えるのも、もうやめたらどうだ〉


 ベリアルが、あくびでもするように言った。


〈二百と八十いくつ。誰に頼まれて数えている? 神か? 秤か? どうせ、数えたって、誰も生き返らない。数えるから、重くなる。重いから、苦しい。お前が苦しんだって、川の底の子は、浮かんでこない。だったら、数えなければいい。それだけのことだ〉


 ノクティエルの指が、ぴくりと、動いた。


 ――受け取ったのは、お前だ。


 ネメシスの声が、ずっと昔の秤の園から、聞こえた気がした。


 夜が、少しずつ、白んでいった。


 若い雄たちを、指させばいい。

 年かさの雌を、指させばいい。

 あるいは、何も示さなければいい。

 どれを選んでも、ノクティエルは、群れの中に残れる。

 毛づくろいをしてもらえる、器用な手の子のままで。


 だが、どれを選んでも、あの小さな手のことは、群れの誰の中にも、残らない。

 雨が降った。

 土が緩んだ。

 木が動いた。

 それだけのこととして、川の底へ、流れていってしまう。


 ノクティエルは、川の音を聞きながら、自分の手を、ゆっくりと、握りしめた。

 握りしめた手の中に、何も、なかった。

 それでも、握りしめた。


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