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第16話 自分を指す手

夜明けとともに、ノクティエルは、斜めに残った幹へ、手をかけた。


 幹は、まだ、川の中に横たわっていた。

 こちら側の根元は、濁流に洗われ、半分沈んでいた。

 向こう側の先は、土手に引っかかったまま。

 幹全体が、川の流れに押されて、ぎし、ぎし、と、小さく軋んでいた。


 昨日、群れは、この上を、駆けて渡った。

 今日、ノクティエルは、一歩ずつ、這って渡った。

 手で幹を掴み、足で幹を掴み、体を低くして。

 濁った水が、すぐ下で、渦を巻いていた。

 その水のどこかに、あの小さな手が、沈んでいる。


 ノクティエルは、目を逸らさなかった。


 幹の真ん中あたりで、足が、一度、止まった。

 昨日、若い母親が手を滑らせた場所だった。

 樹皮が、そこだけ、ひどく擦り剥けていた。

 爪で必死に掴もうとした跡だった。

 ノクティエルは、その擦り剥けた跡に、自分の手を、そっと重ねた。

 それから、また、這い始めた。


 岸の岩の上で、年かさの雌が、ノクティエルを見ていた。

 夜のあいだ、一度も見なかった目が、今は、まっすぐに、こちらを見ていた。


〈やめておけ〉


 ベリアルの声が、朝の川霧の中で、のんびりと言った。


〈戻れば、責められる。責められれば、群れの中での場所を失う。誰もお前に毛づくろいをしなくなる。お前の器用な手も、誰にも真似されなくなる。何もかも、失うぞ〉


 ノクティエルは、答えずに、幹の上を、這い続けた。


 ◇


 向こう岸の実の林で、群れは、もう起きていた。


 長が、大きな木の根元に座っていた。

 そのまわりに、群れの者たちが、輪になって集まっていた。

 若い雄たちが、落ち着きなく、体を揺らしていた。

 雌たちが、低い声で、何かを交わしていた。

 若い母親は、輪の端に、背中を丸めて座っていた。

 背中に、何もいない背中に、まだ、時々、手を回していた。


 ノクティエルが、川の方から近づくと、輪が、ざわりと、動いた。


 何頭かが、歯を見せた。

 何頭かが、目を逸らした。

 若い雄の一頭が、立ち上がりかけて、また座った。


 長が、ノクティエルを見た。

 白い顎ひげの奥で、目が、静かに光っていた。


 ノクティエルは、輪の真ん中へ、歩いていった。

 長の前で、止まった。


 手を、持ち上げた。


 五本の指。

 昨日、傾いた木を指さした手。


 その手で、ノクティエルは、自分の胸を、指さした。


 秤の柱の下で、膝をついた日のことを、思い出していた。

 あの日、自分は、何を指さしたか。


「火を渡した者がいます」


 記録の園から来たという天使を。

 借り火の瓶を。

 自分ではない、誰かを。


 嘘ではなかった。

 瓶を渡した者は、確かにいた。

 だが、あの時、自分は、自分の胸を指さそうとは、一度も思わなかった。

 思いつきもしなかった。


 ◇


 輪の中が、しんと、静まった。


 ノクティエルは、もう一度、自分の胸を指さした。

 それから、川の方を指さした。

 両手を合わせて、一本の棒の形を作った。

 棒を、ゆっくりと倒した。

 倒した棒の片方の端を、ぐらり、と揺らし、崩れ落ちる仕草をした。


 最後に、また、自分の胸を、指さした。


 自分が、考えた。

 自分が、示した。

 自分が、根元を見なかった。


 言葉ではなかった。

 だが、輪の中の誰もが、それを見ていた。


 若い雄たちが、顔を見合わせた。

 木を倒したのは、自分たちだった。

 だが、ノクティエルは、若い雄たちを、一度も指さなかった。


 ノクティエルは、輪の外を見た。

 岸の方。

 まだこちらへ渡ってきていない、年かさの雌の方。


 その方角へ、ノクティエルは、両手を、ゆっくりと開いて見せた。

 手のひらを上に向けて。

 何も持っていない手。


 それから、頭を、地面につくほど、低く下げた。


〈何をしている〉


 ベリアルの声が、初めて、少しだけ、苛立った。


〈あの年寄りに、頭を下げてどうする。あいつは、はっきり止めなかった。唸っただけだ。止めなかった奴にも、責任はある。半分は、あいつのせいだろう〉


 ノクティエルは、頭を下げたまま、答えなかった。


 年かさの雌は、唸っていた。

 長も、目で尋ねていた。

 それを、聞かなかったのは、自分だった。

 見たような顔をしたのは、自分だった。


 ◇


 長が、立ち上がった。


 ゆっくりと、ノクティエルの前まで歩いてきた。

 大きな体が、ノクティエルの上に、影を落とした。


 次の瞬間、長の手が、ノクティエルの肩を、強く打った。


 ノクティエルの体が、地面に転がった。

 肩が、焼けるように痛んだ。

 長は、もう一度、ノクティエルを打とうとして、手を振り上げた。


 ノクティエルは、逃げなかった。

 身を丸めもしなかった。

 地面に転がったまま、ただ、長を見上げていた。


 逃げてはいけない、と思ったのではなかった。

 逃げたら、あの子が落ちた時に、自分が水の強さから逃げたのと、同じになる。

 それだけは、もう、したくなかった。


 長の手が、止まった。


 しばらく、長は、振り上げた手のまま、ノクティエルを見下ろしていた。

 それから、ゆっくりと、手を下ろした。

 背を向けた。

 輪の外へ、歩いていった。


 群れの者たちが、ひとり、またひとりと、輪を崩していった。

 誰も、ノクティエルに近づかなかった。

 誰も、ノクティエルの背中の毛に、触れようとしなかった。


 それが、罰だった。


 打たれた肩よりも、ずっと痛い罰だった。

 膜の頃から、ずっと、誰かに「ここにいる」と伝えられてきた。

 味で、匂いで、触角で、揺れで、声で。

 その「ここにいる」が、この群れの中から、一つも、届かなくなった。

 自分が、ここにいるのに。


 だが、ノクティエルは、それを、理不尽だとは思わなかった。

 自分が、あの子から、「ここにいる」を奪ったのだから。


 ◇


 それから、何日も、ノクティエルは、ひとりだった。


 群れが実を食べる時、ノクティエルは、いちばん最後に食べた。

 誰も、それを命じたわけではなかった。

 ただ、ノクティエルが近づくと、皆が、少しずつ、場所を空けて、離れていった。

 離れていった後の、食べ残しを、ノクティエルは食べた。


 夜、寝床を作っても、誰も、隣に寝床を作らなかった。

 子らは、もう、ノクティエルの手元を見なかった。

 石を振り上げても、誰も、真似をしなかった。


 毛づくろいを、誰にもしてもらえないと、体中が、かゆくなった。

 背中の、自分の手が届かないところに、虫が這った。

 ノクティエルは、木の幹に背中をこすりつけて、それを我慢した。


 ある朝、ノクティエルは、年かさの雌の石を、手に取った。


 真ん中が浅くくぼんだ、平たい石。

 あの日から、ずっと、ノクティエルが使っていた石だった。

 ノクティエルは、それを抱えて、斜めに残った幹を、もう一度、渡った。

 元の岸の、年かさの雌が座っている岩の下まで。


 石を、岩の下に、そっと置いた。

 それから、また、幹を渡って、群れのいる岸へ戻った。


 年かさの雌は、石を見下ろしていた。

 手に取らなかった。

 だが、追い払いもしなかった。


 次の日、ノクティエルが元の岸を見ると、石は、岩の上の、年かさの雌のすぐ隣に、移されていた。


 ◇


〈ほら、言っただろう〉


 ベリアルは、毎晩のように、囁いた。


〈何もかも、失った。責任を取ったところで、誰も褒めない。誰も感謝しない。川の底の子は、戻ってこない。お前は、ただ、自分から、ひとりになっただけだ。何の得にもならない〉


「……得にならなくていい」


 ノクティエルは、暗い寝床の中で、小さく答えた。


〈では、なぜだ〉


「誰のせいでもないなら、あの子のことは、誰も覚えていない」


 ノクティエルは、指先を、見つめた。

 あの日、小さな手に掴まれた指。


 天界の秤の園で、二百十七という数を告げられた時、自分は、それを、借り火のせいにしようとした。

 記録の園の天使のせいにしようとした。

 自分のせいだと認めれば、その数の重さに、潰されてしまう気がした。

 だから、水たまりに落ちてからも、ずっと、数えてきた。

 数えることで、重さを、少しずつ、自分の方へ引き寄せてきた。


「雨が降った。土が緩んだ。木が動いた。それだけのことなら、あの子は、ただ、川に流されただけになる。誰も、あの子のことを、考えなくなる」


「僕のせいだから、僕が覚えている。僕が、ずっと、覚えている」


 ベリアルの声は、その夜、それきり、何も言わなかった。


 ◇


 ある日、若い母親が、ノクティエルの寝床のそばへ来た。


 ノクティエルは、身を固くした。

 若い母親の目は、腫れていた。

 毛は、毛づくろいをされても、どこか、乱れたままだった。


 若い母親は、ノクティエルの前に座った。

 しばらく、何もしなかった。

 ただ、ノクティエルを見ていた。


 それから、手を伸ばし、ノクティエルの指を、ぎゅっと、掴んだ。


 強かった。

 あの小さな手よりも、ずっと大きく、ずっと強かった。

 掴んだまま、若い母親は、ノクティエルの指を、ぐいと引っ張った。

 痛いほどに。

 何度も、何度も。


 ノクティエルは、引かれるままにしていた。


 やがて、若い母親は、ノクティエルの指を、ぱっと離した。

 立ち上がり、何も示さずに、群れの方へ戻っていった。


 許されたのではなかった。

 ノクティエルにも、それはわかった。

 ただ、若い母親は、あの子の手が、最後に掴んだものを、確かめに来たのかもしれなかった。


 ノクティエルは、引っ張られた指を、胸に抱えた。

 痛かった。

 その痛みを、ずっと、覚えていようと思った。


 その夜、寝床の中で、背中に、何かが触れた。


 小さな指だった。

 ノクティエルの背中の、自分の手が届かないところの毛を、そっと、かき分けていた。

 振り返ると、群れの子らの一頭が、目を逸らしながら、寝床の端にしゃがんでいた。

 石の割り方を、真っ先に真似しようとして、何度も指を打っていた子だった。

 ノクティエルが、うまくいかなかった子からは目を逸らしていた、その子だった。


 子は、ほんの少しだけ毛をかき分けると、ぱっと寝床から飛び降りて、暗がりへ逃げていった。

 誰にも見られないように。


 ノクティエルは、背中の、その一か所だけが、かゆくなくなっているのを、長いあいだ、感じていた。


 ◇


 雨季の終わりが、近づいていた。


 実の林の木々が、少しずつ、実を落とし始めた。

 あと何日かで、こちらの実も、食べ尽くしてしまう。

 群れは、元の岸へ、戻らなければならなかった。


 だが、帰る道がなかった。


 倒れた木の幹は、雨季の最後の大雨で、濁流に押し流されていた。

 浅瀬は、まだ、深い流れの下にあった。

 群れは、また、岸に集まった。

 長が、川を見つめていた。

 誰も、ノクティエルの方を見なかった。


 ノクティエルは、輪の外で、川を見た。


 この手で、考えることは、まだ、できた。

 どこを渡れば、いいのか。

 何を使えば、いいのか。

 頭の中で、いくつもの形が、浮かんでは、消えた。


 だが、ノクティエルは、手を上げなかった。


 ――また、間違えたら。


 判断する手が、重かった。

 上げようとするたびに、肩が、長に打たれた時のように、痛んだ。

 指が、若い母親に引っ張られた時のように、痛んだ。


〈そうだ。もう、何もするな〉


 ベリアルが、ほっとしたように言った。


〈お前が手を上げれば、また、誰かが落ちる。だから、何もしなければいい。誰かが考えるだろう。誰かが決めるだろう。お前には、関係ない〉


 ノクティエルは、手を下ろしたまま、川を見ていた。


 その時、川の向こう岸、元の岸の岩の上から、年かさの雌が、ゆっくりと、降りてきた。


 ◇


 年かさの雌は、ずっと、元の岸に残っていた。


 群れが実の林に渡ってからも、ひとりで、元の岸の岩の上にいた。

 その雌が、川の向こうから、こちらを見ていた。

 ノクティエルが顔を上げると、年かさの雌は、川の上流の方を、指さしていた。


 いや、指さしているのではなかった。

 手招きしていた。

 ノクティエルを。


 ノクティエルは、輪の外から、岸に沿って、上流へ歩いた。

 川の向こうで、年かさの雌も、同じように、上流へ歩いていた。


 上流へ。

 川が、岩の間を縫って、細く、速く、流れているところ。

 その上に、一本の大きな木が、両岸から、枝を伸ばしていた。

 片方の岸に根を張った木の枝が、向こう岸の別の木の枝と、川の上で、絡み合っていた。


 生きた木だった。

 倒れた木ではない。

 両岸の根が、しっかりと、土を掴んでいた。


 年かさの雌は、向こう岸の、その枝の下で、立ち止まった。

 川を挟んで、ノクティエルの方を見た。

 それから、ゆっくりと、枝の一本を、手で掴んだ。

 揺らした。

 枝は、しなったが、折れなかった。


 年かさの雌は、自分では、渡らなかった。

 もう、細い枝の上を渡るには、体が重すぎるのだと、ノクティエルにはわかった。

 だから、ずっと、こちら岸に残っていたのだ。

 そして、毎年、群れが同じ浅瀬しか渡らなかったのも。


 年かさの雌は、この道を、知っていた。

 自分では、もう使えない道を。


 若い頃には、この枝を渡っていたのかもしれない。

 年を取り、体が重くなって、渡れなくなった。

 渡れなくなった道を、群れに教えても、自分は一緒に行けない。

 だから、群れには、自分も渡れる浅瀬だけを、使わせてきたのかもしれない。

 それが正しかったのかどうかは、ノクティエルには、わからなかった。

 ただ、年かさの雌は、今、その道を、自分から差し出していた。


 ◇


 ノクティエルは、枝に、手をかけた。


 一本ずつ、確かめた。

 掴む。

 揺らす。

 体重を、少しずつかける。

 しなる枝と、しならない枝。

 乾いている枝と、雨を吸って柔らかくなっている枝。


 年かさの雌が、下から見ていた。

 ノクティエルが、柔らかい枝に手をかけると、低く唸った。

 ノクティエルは、すぐに、手を離した。

 別の枝を探した。

 年かさの雌が、唸らなかった枝だけを、選んだ。


 今度は、聞いた。

 唸りを、ひとつも、聞き逃さなかった。


 川の真ん中の上で、枝が、大きく揺れた。

 足の下で、濁流が、白く泡立っていた。

 手が、震えた。

 判断が、重かった。

 この枝で、いいのか。

 この次の枝で、いいのか。


 年かさの雌は、黙っていた。

 黙っているのは、いい、ということだった。


 ノクティエルは、向こう岸の木の幹に、たどり着いた。

 年かさの雌の、すぐ上だった。


 ◇


 ノクティエルは、自分では、群れを呼びに行かなかった。


 向こう岸の幹の上から、川の向こうの群れを見た。

 年かさの雌が、幹の下で、群れのいる岸へ向かって、長く、低く、鳴いた。

 それから、絡み合った枝を、手で、指し示した。


 川の向こうで、長が、上流を見た。

 枝の上の、ノクティエルを見た。

 年かさの雌を見た。

 群れの者たちが、ざわめいた。


 群れは、上流へ移った。

 年かさの雌は、こちら岸の枝の下に立った。

 若い雄たちが、先に枝へ取りついた。

 ノクティエルは、向こう岸の幹の上から、一頭ずつ、渡ってくる者たちを、見ていた。


 柔らかい枝に手をかけようとする者がいると、ノクティエルは、短く鳴いた。

 年かさの雌に、教わった通りに。

 その者は、手を離し、別の枝を探した。


 子を背負った母親たちが、渡ってきた。

 若い母親も、渡ってきた。

 背中には、何も背負っていなかった。

 それでも、若い母親は、一本ずつ、慎重に、枝を選んで渡ってきた。


 渡る途中で、一頭の子が、枝の真ん中で、動けなくなった。


 足の下の濁流を見てしまったのだ。

 手が、枝にしがみついたまま、震えていた。

 後ろの者たちが、止まった。

 前の者たちが、振り返った。


 ノクティエルは、向こう岸の幹から、枝へ戻った。

 来た道を、一本ずつ、確かめながら。

 怖かった。

 判断が、まだ、重かった。

 それでも、さっき確かめた枝なら、もう一度、確かめられた。


 子のすぐ前まで来て、ノクティエルは、自分の手を、子の手のすぐ先の枝に置いた。

 ここだ、と。

 子が、ノクティエルの手のあるところへ、震える手を、伸ばした。

 ノクティエルは、手を一つ先へ移した。

 子が、また、そこへ手を伸ばした。


 ひとつずつ。

 ノクティエルの手が置かれたところを、子の手が、追ってきた。


 向こう岸の幹にたどり着いた時、子は、ノクティエルの背中に、ぎゅっと、しがみついた。

 夜の寝床で、毛をかき分けてくれた子だった。


 最後に、長が渡った。


 年かさの雌は、渡らなかった。

 こちら岸の枝の下で、群れが全員、渡りきるのを、見届けていた。


 ◇


〈……わからんな〉


 ベリアルの声が、ひどく、重かった。


 軽くなかった。

 これまでの、どの夜よりも。


〈お前は、責任を取った。罰を受けた。ひとりになった。それなのに、また、手を上げた。しかも、自分の手柄にもしなかった。年寄りに、道を指さしてもらった。群れの誰も、お前が渡り方を見つけたとは思っていない〉


「僕が見つけたんじゃない」


 ノクティエルは、枝の下の、年かさの雌を見ていた。


「あの雌が、ずっと知っていた。僕は、確かめただけだ」


〈それでも、お前は、枝の上で、震えていた。また間違えるのが、怖かったんだろう〉


「怖かった。今も、怖い」


「でも、何もしないことも、選ぶことだった。何もしないで、誰かがまた川に落ちたら、それも、僕のせいだ」


 ベリアルの声が、長いあいだ、黙っていた。


〈……重いな〉


 やがて、声が、ぽつりと言った。


〈お前は、ずいぶん、重いものを、背負っている〉


〈わたしは、昔、ひとつのことを、背負いきれなかった。背負いきれなかったから、重さなど、どこにもないことにした。正しいことも、間違ったことも、ないことにした。そうすれば、何も、背負わなくて済んだ〉


〈軽かったよ。ずっと〉


〈……だが、軽いものは、何も残らないんだな〉


 ベリアルの声が、ふっと、消えた。

 軽く去ったのではなかった。

 ひどく重いものを、引きずるようにして、遠ざかっていった。


 ◇


 白い場所で、大いなる秤が揺れていた。


 皿の上に、真ん中が浅くくぼんだ、平たい石が、ひとつ、載っていた。


「第八の段の判定を告げる」


 ネメシスが言った。


「お前は、己の判断の過ちを、己の手で指した。他者に押しつけなかった。罰から逃げなかった。そして、罰を受けた後も、手を下ろしたままでいることを選ばなかった」


「責任から逃げる者は、重さを一度、知った。救われてはいない。だが、軽さが何も残さぬことを、見た。退けたものとする」


「お前を、完全な昇格とする」


 ヘルメスが、秤の柱の陰から現れた。


「八つ目の能力は、道具を使う知恵と、仲間と力を合わせる力。八つ目の心は、自分のしたことが、群れ全体に及ぶと知る責任。共感と、罪悪感だ」


「傷は残る。判断の重さを知った者の、ためらいだ。次の器では、何かを決める前に、手が止まる。止まりすぎて、間に合わなくなることもある」


 ヘルメスは、そこで、少しだけ、杖を下ろした。


「次の段では、お前は、天使だった頃のことを、全部、思い出す」


 ノクティエルの光が、揺れた。


「これまでは、思い出していたつもりだろう。だが、まだ、全部じゃない。借り火の瓶に手を伸ばした、あの夜のこと。お前が、本当は、何を見て、何を見なかったのか」


「次の器には、言葉がある。火がある。死んだ者を、土に埋める習いがある。言葉があれば、記憶は、はっきりと形になる。そして、そこには、罪を思い出させる者が、待っている」


 ヘルメスが、杖を振り上げた。


 白い場所の底から、煙の匂いが、立ちのぼってきた。

 焚き火の匂い。

 焼けた肉の匂い。

 そして、誰かが、低く、言葉のようなものを、口ずさんでいる声。


 落ちていく前に、ノクティエルは、数を確かめた。


 失われた者。

 二百八十二。

 一つの群れ。

 一つの沼。


 生きている者。

 八。


 それから、向こう岸の幹の上で、最後に見た光景を、思い出した。

 群れが全員渡りきった後、年かさの雌が、こちら岸の枝の下で、ノクティエルの方へ、手のひらを上に向けて、ゆっくりと開いて見せた。

 何も持っていない手。

 ノクティエルが、長の前で、年かさの雌に向けて開いて見せたのと、同じ手。


 九。


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