第17話 石を並べる子
最初に知ったのは、火の匂いだった。
焦げた木の匂い。
煙の匂い。
その奥にある、温かくて、少し甘い、肉の焼ける匂い。
目を開けると、赤い光が揺れていた。
岩の天井に、影が大きく伸び縮みしている。
洞穴だった。
入り口の近くに、石で囲んだ炉があり、そこで火が燃えていた。
火のまわりに、何人もの体が寄り集まっていた。
毛は薄く、肌がところどころ見えている。
背は、猿の段の群れよりも、ずっとまっすぐだった。
手は、もっと器用そうだった。
そして、何かを、口から出していた。
鳴き声ではなかった。
唸りでも、叫びでもなかった。
短い音が、いくつも、いくつも、つながっていた。
ひとりが音を出すと、別のひとりが、別の音で返す。
また、ひとりが返す。
――言葉だ。
まだ、言葉と呼べるほどのものではなかったかもしれない。
だが、それは確かに、言葉の始まりだった。
ノクティエルは、その音の連なりに、長いあいだ、耳を澄ませていた。
ノクティエルは、自分の体を見下ろした。
小さな体。
まっすぐな背中。
五本の指。
猿の段の手よりも、親指が、ほかの指とよく向き合っていた。
そして、喉の奥に、何かがあった。
音を出したい、という何か。
水たまりから、ずっと、言葉を持たない体で生きてきた。
味で、匂いで、触角で、揺れで、声で、身振りで、伝えてきた。
今、初めて、この喉は、言葉を出せるかもしれなかった。
◇
群れは、二十人ほどだった。
洞穴は川のそばの崖にあり、群れは昼になると川辺へ降りて、魚を突き、木の実を集め、獣を追った。
夜になると洞穴に戻り、火のまわりで眠った。
火を守るのは、ひとりの年老いた女だった。
背は丸く、髪は白く、目は半分濁っていた。
それでも、火の様子だけは、誰よりもよく見えているようだった。
薪をくべる時を知っていた。
風向きが変わる時を知っていた。
雨の匂いがする夜には、炉の上に、獣の皮を張り渡した。
群れの者たちは、その女を「ホ」と呼んだ。
短い、温かい音だった。
火を指す音と、同じ音だった。
ノクティエルは、ホのそばにいることが多かった。
母はいなかった。
ノクティエルが生まれてすぐ、川で溺れたのだと、ホが身振りで教えてくれた。
両手で水をすくう形を作り、それから、その手を、ゆっくりと下へ沈めて見せた。
ノクティエルは、母を知らなかった。
知らないまま、ホのそばで、火を見て育った。
群れには、ノクティエルより三つほど幼い子がいた。
まだうまく歩けず、すぐに転ぶ女の子だった。
群れの者たちは、その子を「ミ」と呼んだ。
ミは、どういうわけか、ノクティエルの後ばかりついてきた。
川辺で石を拾えば、ミも石を拾った。
火のそばに座れば、ミも隣に座り、ノクティエルの腕に頬を押しつけて眠った。
ノクティエルは、ミの重さを、腕に感じながら、狼の段の白い耳の子を思い出した。
そばにいてほしい、と思う気持ちが、また、胸の奥で動いた。
だが、今度は、それを握りしめようとはしなかった。
ミが川辺で別の子らと遊び始めると、ノクティエルは、黙って、少し離れたところで石を拾い続けた。
◇
春から夏にかけて、群れは川辺で魚を突いた。
先を尖らせた木の棒を持ち、浅瀬に立って、水の中の影を待つ。
ノクティエルは、それが下手だった。
影が近づいてくるのは、誰よりも早く見えた。
鳥の段で得た、遠くを見る目がまだ、体のどこかに残っているようだった。
それなのに、棒を突き出す瞬間に、いつも、腕が止まった。
――外したら。
――隣の誰かの足を突いたら。
――この判断が、間違っていたら。
猿の段で刻まれた、判断のためらいだった。
止まった腕の前を、魚は、すいと泳ぎ去っていった。
群れの男たちは、ノクティエルを笑った。
見えているのに、なぜ突かない、と、身振りで呆れた。
ノクティエルにも、わからなかった。
わかっているのは、間違えた時の重さを、この体がもう知ってしまっている、ということだけだった。
◇
ある冬の夜、群れの年寄りのひとりが、動かなくなった。
片足を引きずる、無口な男だった。
狩りには出ず、洞穴の奥で、石を打ち欠いて刃を作っていた。
ノクティエルにも、何度か、石の割り方を見せてくれた男だった。
朝になると、群れの者たちが、男のまわりに集まった。
誰も、大きな声を出さなかった。
低い、短い音を、ぽつり、ぽつりと、交わしていた。
それから、群れは、男の体を、洞穴の外へ運んだ。
崖の下の、柔らかい土のところまで。
男たちが、平たい石で、土を掘った。
女たちが、川辺で摘んできた、小さな白い花を、手に持っていた。
男の体は、穴の中に、横たえられた。
膝を曲げ、眠る時と同じ形にされた。
女たちが、花を、男の胸の上に置いた。
ホが、炉から持ってきた小さな燃えさしを、男の手のそばに置いた。
それから、土が、かけられた。
土をかけ終えると、ホが、低く、長い音を出した。
言葉ではなかった。
鳴き声でもなかった。
同じ高さの音を、何度も、何度も、波のように繰り返す。
群れの女たちが、ひとり、またひとりと、その音に重ねていった。
男たちは、黙って、土の上を見下ろしていた。
歌だった。
まだ、歌という名前のない、歌だった。
ノクティエルは、それを、群れの後ろから見ていた。
二百八十三。
心の中で、数えた。
数えてから、驚いた。
この群れは、死んだ者を、ただそこに置いていかなかった。
土に埋め、花を置き、火を持たせた。
水たまりの膜は、ただ味が消えていった。
石の下の母は、ノクティエルが隣に伏せているだけだった。
海の群れは、何千が、ただ揺れの中に溶けていった。
ここでは、死んだ者を、皆で、送っていた。
ひとりで数えるのではなかった。
群れの全員で、ひとりの終わりを、覚えようとしていた。
ノクティエルは、それを見て、胸の奥が、ひどく、痛んだ。
自分は、ずっと、ひとりで数えてきたのだと、初めて気づいたからだ。
◇
その日から、ノクティエルは、石を拾うようになった。
川辺の、丸くて小さな石。
ひとつ拾うたびに、それを、洞穴の奥の、岩のくぼみに並べた。
ひとつめは、片足を引きずる男の石だった。
ふたつめは、自分を産んですぐ川に沈んだ、知らない母の石。
みっつめは、ずっと前に、何かに襲われて帰ってこなかったという、群れの若い男の石。
ホから身振りで聞いた、死んだ者たちの数だけ、ノクティエルは石を並べた。
それだけでは、終わらなかった。
ノクティエルの手は、勝手に、石を拾い続けた。
洞穴の奥のくぼみに、ひとつ、またひとつと。
群れの誰も知らない死者の石を。
水たまりの、最初の隣の膜。
迷ったまま消えた膜。
仲間に食われた膜。
石の下の、いちばん大きな兄弟。
海の、数えきれない群れ。
沼の、干からびた丸い体。
坂の上で乾いた、二匹。
砂漠の、日陰で動かなくなった、幼いトカゲ。
雪原の巣穴で、静かに痩せていった兄弟。
濁った川に落ちた、小さな手。
石は、くぼみに収まりきらなくなった。
ノクティエルは、洞穴の壁に沿って、石を並べ続けた。
何日も、何日も。
群れの者たちは、最初、不思議そうに見ていた。
やがて、それを、遊びだと思ったのか、気にしなくなった。
ホだけが、ときどき、ノクティエルの並べた石の列を、濁った目で、じっと見ていた。
ミは、石の列のそばに座り込んで、小さな手で、石をひとつ持ち上げた。
それから、首をかしげて、ノクティエルを見上げた。
これは、なに、と、その目が聞いていた。
ノクティエルは、答えられなかった。
この群れの言葉では、膜も、ハサミムシも、海の群れも、言い表せなかった。
ただ、ミの手から石をそっと受け取り、元の場所に戻した。
それから、自分の胸に手を当て、また石を指さした。
ミは、しばらく考えるように石の列を見ていた。
それから、川辺で拾ってきた小さな石を、列のいちばん端に、ちょこんと置いた。
ノクティエルが並べたのではない、初めての石だった。
次の日、ミは、昨日の朝に巣から落ちて死んでいた小鳥の分だと、身振りで教えてくれた。
ある夜、ホが、ノクティエルの隣に座った。
石の列を指さし、それから、ノクティエルを指さした。
そして、ひとつの音を、口にした。
「カゾ」
数える、という意味の音ではなかった。
この群れに、数という言葉は、まだなかった。
それでも、ホは、石を並べる子を指して、その音を出した。
それが、ノクティエルの、この段での名前になった。
◇
その冬、ホの咳が、ひどくなった。
夜中に、何度も、背を丸めて咳き込んだ。
薪をくべる手が、震えるようになった。
ある夜、ホは、炉のそばにノクティエルを呼んだ。
ホは、燃えさしを一本取り、炉の縁の石を、とん、とん、と叩いた。
それから、その燃えさしを、ノクティエルの手に握らせた。
次に、洞穴の入り口を指さし、外の空の、雲の流れを指さした。
鼻をひくつかせ、雨の匂いを嗅ぐ仕草をした。
最後に、炉の上に張る獣の皮を、ノクティエルの膝の上に置いた。
火の番を、頼む、ということだった。
ノクティエルは、燃えさしを握ったまま、動けなかった。
天界で、灯し棒を握っていた手の感触が、よみがえった。
あの時、自分は、火を、正しく扱えなかった。
自分の火ではない火に手を伸ばし、園の半分を灰にした。
その手に、ホは、群れの火を、渡そうとしていた。
断ろうとした。
だが、ホの濁った目は、ノクティエルを、まっすぐに見ていた。
何も疑っていない目だった。
ノクティエルは、燃えさしを、握りしめた。
◇
名前を呼ばれた時、ノクティエルの頭の奥で、何かが、ぱちりと音を立てた。
名前。
音で、自分が、自分だと示されること。
天界では、名前を呼ばれることが、何よりも欲しかった。
灰の位に留める、ではなく、白の位へ、と。
ハリエルのように、拍手の中で。
そして、それから、ずっと、名前のない体で生きてきた。
膜にも、ハサミムシにも、魚にも、蛙にも、トカゲにも、鳥にも、狼にも、猿にも、名前はなかった。
誰かに、ここにいる、と伝えられることはあっても、名前で呼ばれることは、一度もなかった。
カゾ。
その音が、喉の奥の、言葉になりたがっていた何かと、ぴたりと重なった。
ノクティエルは、口を開いた。
ホの顔を見て、自分の喉から、音を出した。
「……ホ」
ホの濁った目が、わずかに見開かれた。
それから、皺だらけの顔が、ゆっくりと、ほどけた。
言葉があった。
この体には、言葉があった。
次の朝、ノクティエルは、川辺でミを呼んだ。
「ミ」
ミは、きょとんとして振り返った。
それから、自分の名前が、ノクティエルの口から出たことに気づいて、ぱっと顔を輝かせた。
ノクティエルの方へ駆けてきて、転んで、起き上がって、また駆けてきた。
「カゾ」
ミが、たどたどしく、そう言った。
ノクティエルは、胸の奥が、熱くなった。
名前を呼ぶことも、呼ばれることも、こんなにも温かいのだと、初めて知った。
そしてその夜から、ノクティエルの中で、言葉にできなかったものたちが、次々と形を持ち始めた。
◇
言葉は、記憶の入れ物だった。
そして、記憶を照らす灯でもあった。
これまで、ノクティエルの記憶は、霧のようだった。
天界のことも、秤の園のことも、ハリエルのことも、思い出すたびに輪郭が揺れ、細部が溶けていた。
膜の体には、記憶を入れておく場所がなかった。
ハサミムシにも、魚にも。
段を昇るたびに、少しずつ、思い出せることは増えていった。
それでも、まだ、霧の中だった。
言葉は、霧に、名前をつけた。
秤。
灯。
泉。
門。
鈴。
翼。
この群れの言葉にはない音を、ノクティエルは、夜ごと、火の番をしながら、小さく口にした。
ホの代わりに薪をくべ、風向きを見て、雨の匂いを嗅ぎながら。
音にするたびに、その音が指すものが、霧の中から、はっきりと浮かび上がってきた。
秤の柱の、冷たい石の手触り。
灯の泉の、橙色の火が棒の先に立つ時の、かすかな重み。
北の門の、白い石畳。
三つ目の鈴の音。
泉の裏の岩陰で、「その三つは、どんな魂だった」と尋ねた声。
「群れ灯しを、教えてやろうか」と笑った顔。
「白の連中と、灯し棒でも磨いてればいいだろ」と言った自分に、黙って背を向けた背中。
次の日、また岩陰へやって来た足音。
それらは、霧の中に浮かんでいた時よりも、ずっと鋭かった。
言葉になった記憶は、もう、ぼやけてはくれなかった。
思い出したくないところまで、くっきりと、照らし出してしまう。
そして、ある夜、ノクティエルは、ひとつの名前を、口にした。
「ハリエル」
その瞬間、霧が、すべて、晴れた。
◇
北の門の朝だった。
一つ目の鈴で、目を覚ました朝。
生まれて初めて、誰よりも早く起きた朝。
北の門には、疫病で死んだ人々の魂が、暗く、重く、絡み合って、押し寄せていた。
ノクティエルは、灯し棒を握り、借り火の瓶の栓を抜こうとしていた。
その時、門の向こう、園の東の小道に、白い光が見えた。
ハリエルだった。
金の位に上がったばかりの翼を広げて、北の門へ、まっすぐに飛んできていた。
まだ遠かった。
だが、確かに、こちらへ向かっていた。
遅れてなど、いなかった。
いつもより三つ遅い鈴で起きた、などということは、なかった。
ノクティエルは、それを、見ていた。
見ていて、急いだ。
ハリエルが来る前に。
ハリエルが門に着く前に。
瓶の栓を抜き、一滴を、灯し棒の先に垂らした。
ハリエルが来たら、止められる。
ハリエルが来たら、この群れは、ハリエルの受け持ちに戻る。
ハリエルが来たら、自分は、また、最後尾の小さな魂の列へ戻される。
だから、ハリエルの姿が見えた、その瞬間に、ノクティエルは、灯した。
◇
ノクティエルは、洞穴の火のそばで、膝を抱えて震えていた。
覚えていなかった。
いや、覚えていた。
覚えていて、どこかへ、しまい込んでいた。
裁きの日、ハリエルが「遅れました」と言った時、ノクティエルは、それを信じた。
信じることにした。
信じれば、自分は、ハリエルが来る前に、ひとりで間違えてしまった天使でいられたから。
本当は、違った。
ハリエルが来るのを、見ていた。
見ていて、それより先に、と、急いだのだ。
ハリエルは、遅れていなかった。
ハリエルは、裁きの場で、自分が遅れたのだと、嘘をついた。
片翼を焼かれたまま。
ノクティエルを、庇うために。
――二百十七の数を、自分で数えられるようにしてやってください。
あの時のハリエルの声が、震えていた理由が、ようやく、わかった気がした。
嘘をつくのが、怖かったのだ。
ネメシスの前で。
布越しにすべてを見通す、報いと均衡の女神の前で。
ハリエルは、焦げた片翼に白い布を幾重にも巻いたまま、自分が遅れたのだと言った。
見抜かれていたかもしれない。
見抜かれていたとしたら、ハリエルの皿にも、その嘘が載ったはずだった。
ノクティエルは、自分の二百十七の重さばかりを、数えてきた。
ハリエルが、自分のために背負った嘘の重さは、一度も、数えたことがなかった。
海の段で、怖いまま隣にいる心を得た。
狼の段で、ハリエルが自由なまま毎日会いに来てくれていたと気づいた。
その全部が、今、ひっくり返るように、胸の中で重くなった。
ハリエルは、ノクティエルの隣に、ずっと、立とうとしていたのだ。
北の門の、あの朝も。
〈思い出したか〉
声がした。
これまでのどの悪魔の声とも、違った。
低くもなく、高くもなく、甘くもなく、乾いてもいなかった。
それは、ノクティエル自身の声だった。
灰色の翼の天使だった頃の、少し細くて、少し震えた、ノクティエル自身の声。
〈お前は、見ていた。ハリエルが来るのを、見ていた。見ていて、灯した〉
〈お前は、騙されたのではない。借り火を渡されたのは、きっかけにすぎない。お前は、ハリエルを出し抜くために、自分の意志で灯したのだ〉
洞穴の壁で、火の影が、ゆらりと揺れた。
その影が、翼を持った人の形をしていた。
灰色の、細い翼。
〈わたしは、サマエル〉
ノクティエル自身の声で、影が名乗った。
〈お前が、ずっと見ないふりをしてきたものだ。罪を、知っている者だよ〉
〈蠅の王も、冠の囁き手も、海の底の者も、外からお前に囁いた。わたしは違う。わたしは、最初から、お前の中にいた。水たまりで、隣の膜の粒を奪った時も。石の下で、兄弟を押しのけた時も。お前が数えるたびに、わたしは、お前の胸の底で、黙って一緒に数えていた〉
〈ただ、お前には、聞こえなかった。言葉が、なかったからだ〉
〈今は、ある〉
◇
洞穴の外で、遠く、雷が鳴った。
群れの者たちは、皆、火のまわりで眠っていた。
誰も、サマエルの声を聞いてはいなかった。
この声は、ノクティエルにしか、聞こえない。
ノクティエルの声なのだから。
ノクティエルは、壁に並べた石の列を、見た。
二百八十三の石。
いや、もっとあった。
海の群れの分は、一つの大きな石にした。
沼の分も、一つの大きな石にした。
それでも、壁の端から端まで、石は、びっしりと並んでいた。
〈数えて、どうなる〉
サマエルが、ノクティエルの声で囁いた。
〈お前は、ずっと数えてきた。数えることで、罪を背負っているつもりだった。だが、お前が数えていたのは、騙されて犯した罪だった。哀れな、落ちこぼれの天使の、不運な過ちだった〉
〈本当の罪は、数えていなかった。ハリエルを出し抜こうとした、その一瞬を。ハリエルに嘘をつかせた、その重さを〉
〈お前は、何も変わっていない。膜の頃から、ずっと。奪い、見られたがり、怯え、諦めかけ、握りしめ、高く昇りたがり、縛りたがり、責任から逃げたがった。全部、あの北の門の朝と、同じだ。お前は、最初から、こういう者だったのだ〉
火の影の、灰色の翼が、大きく広がった。
〈それに、今のお前は、何を握っている〉
ノクティエルの手の中で、燃えさしが、熱かった。
〈火だ。群れの火だ。あの年寄りが、お前に預けた火だ。北の門で、自分のものでない火に手を伸ばして、園の半分を焼いたお前に、また火が預けられた〉
〈お前は、また、焼く。必ず。お前は、そういう者なのだから〉
〈だから、もう、昇るな〉
〈お前のような者が、昇る資格は、ない。この洞穴で、この石の前で、一生、自分を責め続けろ。それが、お前に許された、たった一つの償いだ〉
ノクティエルは、膝を抱えたまま、動けなかった。
サマエルの言葉を、否定できなかった。
否定する言葉が、どこにも見つからなかった。
言葉を手に入れたばかりなのに。
炉の火が、ぱちり、と爆ぜた。
ホが、眠ったまま、小さく咳をした。
洞穴の外で、冬の風が、ひどく強く、鳴っていた。
火の上に、獣の皮が、張られていなかった。
雨の匂いが、していた。
ノクティエルの膝の上に、ホから渡された獣の皮が、置かれたままだった。
張らなければならない。
ホが、そう教えてくれた。
手を伸ばそうとした。
手が、止まった。
〈触るな〉
サマエルが、ノクティエル自身の声で言った。
〈お前が触れば、きっと失敗する。皮が火に落ちるかもしれない。煙が洞穴に満ちるかもしれない。お前は、また、間違える。だったら、何もしない方がいい。何もしなければ、少なくとも、お前のせいではなくなる〉
ベリアルの声と、似ていた。
だが、ずっと、近かった。
外から囁かれるのではなく、自分の内側から、聞こえていた。
洞穴の入り口の近くで、ミが、丸くなって眠っていた。
炉からいちばん遠い場所だった。
寝返りを打って、そこまで転がっていったのだ。
小さな背中が、冬の風に、かすかに震えていた。
最初の雨粒が、洞穴の入り口に、ぽつり、と落ちた。
ノクティエルの手は、獣の皮の上で、止まったままだった。




