第18話 火を渡す手
雨粒が、二つになった。
三つになった。
やがて、洞穴の入り口の向こうで、ざあっ、と音を立てて、本降りになった。
風が、洞穴の中へ吹き込んできた。
炉の火が、大きく傾いた。
炎の先が、千切れるように揺れ、薪の下の赤い熾火が、ふっと暗くなった。
〈ほら〉
サマエルが、ノクティエル自身の声で言った。
〈お前が手を伸ばさなくても、火は弱る。お前が手を伸ばしても、きっと、もっと弱る。どちらでも同じなら、何もしない方がいい〉
ノクティエルの手は、まだ、獣の皮の上で止まっていた。
洞穴の入り口の近くで、ミが、小さく身じろぎした。
吹き込む雨の飛沫が、ミの背中を、少しずつ濡らしていた。
寝息が、浅く、速くなっていた。
――間違えたら。
猿の段で刻まれた傷が、指を縫いとめていた。
北の門の朝が、その上に、重くのしかかっていた。
自分は、火を預かってはいけない者だ。
自分が触れた火は、いつも、誰かを焼く。
〈そうだ〉
サマエルが、優しくさえ聞こえる声で言った。
〈お前は、そういう者だ〉
◇
炉の火が、また、大きく傾いた。
ノクティエルは、目を閉じた。
目を閉じたまま、自分に向かって、口を開いた。
「……そうだ」
声が、洞穴の暗がりに、かすれて落ちた。
言葉を得てから、初めて、自分自身に向けて出した言葉だった。
「僕は、そういう者だ」
サマエルが、黙った。
「北の門で、ハリエルが来るのを見ていた。見ていて、先に灯した。騙されたんじゃない。出し抜きたかった。認められたかった。最後尾に戻されるのが、嫌だった」
「それで、二百十七が消えた。ハリエルは片翼を失った。それなのに、ハリエルは、僕のために嘘をついた。僕は、それを、ずっと見ないふりをしていた」
言葉にするたびに、胸の奥が、裂けるように痛んだ。
霧の中にあった時よりも、ずっと鋭く、ずっと重かった。
言葉は、記憶を照らす灯だった。
照らされた罪は、もう、どこにも隠れられなかった。
「全部、僕がやった。僕は、そういう者だ」
ノクティエルは、目を開けた。
「でも、今、火が消えかけてる」
◇
ノクティエルは、獣の皮を、掴んだ。
手が、震えていた。
震えたまま、立ち上がった。
炉の上に、皮を広げた。
ホがいつもそうしていたように、炉を囲む石の、少し高いところに、皮の端を引っかけた。
風が、皮を、ばさりと煽った。
片方の端が、石から外れた。
皮が、火の上へ、垂れ下がりかけた。
――ほら、失敗した。
サマエルの声ではなかった。
ノクティエル自身の、胸の奥の声だった。
ノクティエルは、垂れ下がった皮の端を、素手で掴んだ。
炎の熱が、手のひらを舐めた。
熱かった。
焼けるように熱かった。
それでも、離さなかった。
皮の端を、もう一度、石に引っかけ直した。
手のひらが、赤く腫れていた。
天界で、灯し棒が焼きついた時と、同じ場所だった。
一人では、足りなかった。
風は、まだ、洞穴の中へ吹き込んできていた。
皮は、ばたばたと鳴り続け、いつ外れてもおかしくなかった。
火は、細く、細く、揺れていた。
ノクティエルは、振り返った。
火のまわりで眠っている、群れの者たちを見た。
北の門の朝、ノクティエルは、ハリエルを待たなかった。
誰の手も借りず、誰の隣にも立たず、ひとりで灯そうとした。
ノクティエルは、震える息を、深く吸った。
そして、洞穴じゅうに響く声で、叫んだ。
「ホ!」
火を指す音。
この群れの誰もが知っている、いちばん大事な音。
「ホ! ホ!」
◇
群れの者たちが、跳ね起きた。
最初に動いたのは、狩りの得意な若い男だった。
炉の火を見て、何が起きているのか、すぐにわかったようだった。
入り口の方へ走り、吹き込む風の前に、自分の体を立てた。
次に起きた女が、それに続いた。
また一人。
また一人。
群れの者たちが、洞穴の入り口に、壁のように並んで、風を遮った。
ホが、咳き込みながら、炉のそばへ這ってきた。
濁った目で、火を見た。
皮を見た。
それから、ノクティエルの腫れた手を見た。
ホは、何も言わなかった。
ただ、震える手で、炉の脇から乾いた細い枝を何本か取り、ノクティエルの手に握らせた。
それから、熾火の、まだ赤く残っているところを、指さした。
自分が、皮を張った。
自分が、群れを呼んだ。
それでも、最後に火を起こし直す方法を知っていたのは、ホだった。
ノクティエルは、それを、恥ずかしいとは思わなかった。
ひとりでは足りないことを、知っているだけだった。
ノクティエルは、細い枝を、熾火にそっと寄せた。
ふう、と、息を吹きかけた。
もう一度。
もう一度。
小さな炎が、ぽっ、と、立ち上がった。
ホが、皺だらけの顔で、うなずいた。
ノクティエルは、少しずつ、太い薪をくべていった。
火は、ゆっくりと、元の大きさを取り戻していった。
洞穴の壁に、また、赤い光が揺れ始めた。
ノクティエルは、その光を、長いあいだ、見つめていた。
ノクティエルは、入り口の近くへ行き、ミを抱き上げた。
ミの体は、冷えきっていた。
炉のいちばん近く、いちばん温かい場所に、ミを寝かせた。
自分の体を、ミと入り口のあいだに置いた。
ミの寝息が、少しずつ、深く、ゆっくりになっていった。
◇
夜明けまで、群れの誰も、眠らなかった。
入り口で風を遮る者は、疲れると、別の者と交代した。
誰が決めたわけでもなかった。
疲れた者が下がれば、休んでいた者が前へ出た。
鳥の段で、くさびの先頭を交代した時と、同じだった。
ノクティエルは、炉のそばで、火を見続けていた。
ときどき、ホが、ノクティエルの腕を、ぽんと叩いた。
薪をくべる頃合い、という合図だった。
そのたびに、ノクティエルは、薪をくべた。
ホが叩かなくても、くべられるようになるまで、何度も。
〈なぜ、呼んだ〉
サマエルの声が、ずっと奥の方から、聞こえた。
さっきまでよりも、少しだけ、小さかった。
〈お前ひとりで、火を守れば、よかった。お前ひとりで、罪を償えばよかった。群れを起こして、他の者の手を借りるなど、償いにならない〉
「償いのために、呼んだんじゃない」
ノクティエルは、炉の火を見ながら、小さく答えた。
「火を消さないために、呼んだ。僕ひとりじゃ、消えていた。それだけだ」
〈……〉
「北の門で、僕はひとりで灯そうとした。ひとりで、誰にも負けないように。だから、焼いた。今度は、ひとりで守ろうとしたら、また、消してた」
サマエルは、それきり、その夜は何も言わなかった。
◇
朝が来た。
雨は上がり、洞穴の入り口の向こうで、濡れた岩が白く光っていた。
風を遮っていた者たちが、ひとり、またひとりと、炉のそばに座り込んだ。
皆、ひどく疲れた顔をしていた。
それでも、炉の火を見ると、少しだけ、顔をほころばせた。
狩りの得意な若い男が、ノクティエルの腫れた手を、黙って取った。
川の水を汲んできた皮袋から、冷たい水を、手のひらに、少しずつ注いだ。
別の女が、何かの葉を噛んで柔らかくし、それを火傷の上に貼りつけた。
ひんやりとした感触が、熱い痛みを、少しだけ鎮めた。
ミが、目を覚ました。
炉のいちばん近くで、温かくなった体を起こし、きょとんとして、まわりを見回した。
それから、ノクティエルの手に貼られた葉を見て、首をかしげた。
「カゾ」
ミは、ノクティエルの手の、葉の上に、小さな手を、そっと重ねた。
何が起きたのか、ミは知らなかった。
知らないまま、重ねてくれた。
◇
ホの咳が、冬の終わりに向けて、日ごとに重くなっていった。
ある日、ホは、ノクティエルを洞穴の奥に呼んだ。
そこには、乾いた木の板と、まっすぐな細い棒が、隠すように置かれていた。
ホは、板の小さなくぼみに棒の先を立て、両手のひらで棒を挟んで、何度も、何度も、こすり合わせた。
ひどく時間がかかった。
ホの手は震え、何度も止まった。
それでも、やがて、くぼみの底から、細い煙が立ちのぼった。
ホは、そこへ乾いた草の綿を寄せ、息を吹きかけた。
小さな火が、生まれた。
ノクティエルは、息を呑んだ。
火は、消えたら終わりだと思っていた。
群れの火は、どこかから借りてきて、ずっと守り続けるしかないものだと。
違った。
火は、自分の手で、もう一度、起こせるのだ。
ホは、板と棒を、ノクティエルの手に渡した。
それから、ミを指さし、群れの子らを指さした。
教えろ、ということだった。
ノクティエルは、その日から、毎日、板と棒をこすった。
火傷の跡が残る手のひらに、新しい豆ができた。
十日目に、初めて、自分の手で煙を立てた。
二十日目に、初めて、自分の手で火を起こした。
天界で、ノクティエルの火は、いつも泉から受け取る火だった。
細く、小さく、震える橙色の火。
自分では、一度も、火を起こしたことがなかった。
この小さな火は、誰からも借りていない火だった。
◇
その冬の終わりに、ホが、死んだ。
咳は、春を待たずに、ホの小さな体を、少しずつ削っていった。
最後の夜、ホは、炉のそばで、ノクティエルの腫れの引いた手を、両手で包んでいた。
何も言わなかった。
ただ、ノクティエルの手のひらの、火傷の跡を、親指で、何度もなぞっていた。
ノクティエルは、ホの手の中で、自分の手を、動かさずにいた。
ホが何を伝えようとしているのか、言葉にしなくても、わかった気がした。
火傷をした手でも、火は、守れる。
火傷をした手だから、火の熱さを、知っている。
夜明け前、ホは、一度だけ、目を開けた。
炉の火を見た。
燃えていることを、確かめるように。
それから、ゆっくりと、目を閉じた。
朝、ホの手は、冷たくなっていた。
二百八十四。
群れは、ホを、崖の下の柔らかい土へ運んだ。
膝を曲げ、眠る形に横たえた。
ミが、川辺で摘んできた白い花を、ホの胸に置いた。
ノクティエルは、炉から取った燃えさしを、ホの手のそばに置いた。
ホが、片足を引きずる男にそうしたように。
土をかけ終えると、群れの者たちは、黙って、ノクティエルの方を見た。
歌う者が、いなかった。
いつもなら、ホが、最初の音を出した。
ノクティエルは、口を開いた。
低く、長い、同じ高さの音を、出した。
ホがそうしていたように、波のように、何度も、何度も。
声が、震えた。
震えたまま、続けた。
ミが、ノクティエルの隣で、小さな声を重ねた。
女たちが、ひとり、またひとりと、重ねていった。
男たちも、低く、重ねていった。
ホのための歌は、ホがいない場所で、皆の声で、続いていった。
歌いながら、ノクティエルは、天界の千の鈴を思い出していた。
朝ごとに、園じゅうに鳴り響いた、あの音。
灯し手たちを起こし、今日灯す魂の数を数えさせる音。
あれも、もしかしたら、歌だったのかもしれない。
失われた者を送り、まだ灯されていない者を迎えるための。
◇
ホを送った夜、ノクティエルは、群れの者たちの前で、壁の石の列の前に立った。
言葉にしようと思った。
自分が、何をしたのかを。
群れの言葉には、天界も、秤も、灯し手も、なかった。
それでも、ノクティエルは、自分の知っている音で、話した。
北の門のことを。
ハリエルという名前のことを。
二百十七のことを。
見ていて、先に灯したことを。
群れの者たちは、黙って聞いていた。
何ひとつ、わからなかっただろう。
それでも、誰も、笑わなかった。
途中で去る者も、いなかった。
ノクティエルが話し終えるまで、火のまわりで、ずっと、聞いていた。
話し終えた時、ミが、壁の石の列のいちばん端へ歩いていった。
そこに、ノクティエルが並べた、一つ目の石があった。
水たまりの、最初の隣の膜の石。
ミは、その石に、小さな手で、そっと触れた。
誰にも、わからない言葉だった。
それでも、言葉にしたことで、ノクティエルの胸の奥で、何かが、少しだけ、ほどけていた。
罪は、軽くはならなかった。
ただ、ひとりで抱えていた罪が、初めて、誰かの前に置かれた。
◇
春になると、ノクティエルは、石の並べ方を、変えた。
洞穴の壁に、ひとりで並べてきた石。
その隣に、群れの者たちを呼んだ。
片足を引きずる男の石を指さした。
それから、男が作っていた石の刃を、その石の隣に置いた。
男の刃を使っていた若い男が、それを見て、しばらく黙っていた。
それから、自分の刃を一つ、そっと、その隣に並べた。
ホの石を、炉にいちばん近い壁に置いた。
その石の前に、燃えさしの炭を、一本、立てた。
群れの女たちが、それを見ていた。
次の朝、炭の隣に、白い花が一輪、置かれていた。
ノクティエルが並べなくても、群れの者たちが、石を置くようになった。
死んだ者の数だけ。
死んだ者が使っていた物と、一緒に。
ひとりで数えるのではなく、皆で覚える。
群れに、それが、残っていった。
それから、ノクティエルは、火の番を、ひとりで続けるのをやめた。
夜を、いくつかに分けた。
月が昇るまで。
月が真上に来るまで。
月が沈むまで。
それぞれの間に、別の者が火の番をする。
交代の時には、炉の縁の石を、とん、とん、と叩く。
ホが、ノクティエルに燃えさしを渡した時の、あの音で。
群れの者たちは、最初は面倒がった。
だが、嵐の夜を知っている者たちは、すぐに覚えた。
ミも、月が昇るまでの短い番を、小さな体で、真剣に務めるようになった。
板と棒で火を起こす方法も、群れの子らに教えた。
ミがいちばん下手で、いちばん熱心だった。
夏の終わり、ミが初めて煙を立てた時、群れじゅうが、ミのまわりに集まって、手を叩いた。
火は、もう、ひとりの手の中には、なかった。
〈善いことをしたな〉
その夜、サマエルが、ノクティエル自身の声で言った。
〈火を守った。火の番を分けた。火の起こし方を教えた。死者を皆で覚える習いを残した。これで、少しは、二百十七の帳尻が合っただろう〉
ノクティエルは、炉の火を見ていた。
帳尻。
その言葉に、胸の奥が、ひどく揺れた。
確かに、そう思いかけていた。
これだけのことをしたのだから、少しは、と。
「……合わない」
ノクティエルは、小さく言った。
「火を守ったのは、ミが冷えていたからだ。北の門の帳尻を合わせるためじゃない。そうしようと思った瞬間に、それはもう、ミのための火じゃなくなる」
〈……〉
「二百十七は、二百十七のままだ。何をしても、消えない。だから、数える」
◇
ある夜、ノクティエルは、壁の石の列の、いちばん端に、新しい石を一つ、置いた。
他の石よりも、少しだけ、白い石だった。
川辺で、何日も探して、ようやく見つけた石だった。
死んだ者の石ではなかった。
ハリエルの石だった。
ハリエルが、裁きの場でついた嘘。
ノクティエルを庇うために、ネメシスの前で、震える声で背負った重さ。
ノクティエルは、それを、一度も数えたことがなかった。
今、初めて、数えた。
〈それも、罰か〉
サマエルが、ノクティエル自身の声で、静かに尋ねた。
もう、責めるような声ではなかった。
「罰じゃない」
ノクティエルは、白い石を、指でそっと撫でた。
「覚えておくためだ。ハリエルが、僕のために何を背負ったか。それを忘れたら、僕はまた、ひとりで灯そうとする」
〈……わたしは、どうなる〉
サマエルの声が、少しだけ、揺れた。
〈お前は、もう、自分を責めるのをやめるのか。わたしは、消えるのか〉
ノクティエルは、しばらく、黙っていた。
それから、火の影の中の、灰色の細い翼を見た。
自分と同じ形をした、影。
「消えなくていい」
ノクティエルは言った。
「お前は、僕の声だ。僕が見ないふりをしてきたものを、ずっと覚えていた声だ。お前がいなかったら、僕は、北の門のことを、一生思い出さなかった」
「お前は、ずっと、僕を責めてきた。でも、責めることしか、できなかった。責める声しか、持たせてもらえなかったんだ。僕が、ずっと、お前を見ないふりをしていたから」
「だから、一緒に数えよう。責めるためじゃなくて、覚えるために。お前が覚えていてくれたら、僕は、同じことを繰り返さずに済む」
「僕が、また、誰かを出し抜こうとしたら。また、ひとりで灯そうとしたら。また、善いことを帳尻合わせに使おうとしたら。その時は、お前の声で、言ってくれ。北の門を忘れるな、と」
火の影の、灰色の翼が、ゆっくりと、たたまれていった。
〈……数える者は、二人いた方がいい、か〉
ノクティエル自身の声が、ほんの少しだけ、笑ったように聞こえた。
〈わかった。忘れるなよ。わたしは、ずっと、ここにいる〉
影は、消えなかった。
ただ、洞穴の壁の、石の列の隣に、静かに、寄り添うように、小さくなった。
◇
白い場所で、大いなる秤が揺れていた。
皿の上には、白い石が一つと、燃えさしの炭が一本、載っていた。
「第九の段の判定を告げる」
ネメシスの声が、白い場所に響いた。
「お前は、罪を思い出した。最も見たくなかった、己の意志による罪を。そして、それを、言葉にした。己に向けて。そして、隠さなかった」
「お前は、自らを罰することに逃げなかった。罪の声に従って、何もしないことを選ばなかった。手を焼きながら火を守り、ひとりで守れぬと知って、群れを呼んだ。そして、二度と同じことが起きぬよう、火の番を分け、死者を皆で覚える習いを残した」
ネメシスは、少しだけ、言葉を区切った。
「そして、お前は、借りていない火を、自分の手で起こした。北の門で、自分のものでない火に手を伸ばした者が」
ヘルメスが、秤の柱の陰で、小さく笑った。
「借り火の反対だな。自分の手のひらに豆を作って、二十日かけて起こした火だ。あの夜の瓶の火より、ずっと小さい。だが、誰も焼かない」
「罪を知る者を、お前は消さなかった。己の一部として、共に数えることを選んだ。あれは、悪魔ではない。お前自身だ。和解とする」
「完全な昇格とする」
ヘルメスが、秤の柱の陰から現れた。
帽子の翼を、ゆっくりと伏せていた。
「九つ目の能力は、言葉と、火と、記録する力。九つ目の心は、自分の罪を言葉にして引き受ける心だ。過去を、振り返る心」
「傷は残る。罪を忘れない記憶。そして、善いことをするたびに、それを罪の帳消しにしたくなる危うさだ。善い行いを、償いの取引に変えそうになる」
ネメシスが、布の奥で言った。
「お前は、ハリエルの嘘を数えたな」
「……はい」
「その嘘は、あれの皿の上に、今も載っている」
ノクティエルの光が、揺れた。
「いつか、お前が、それを、あれの前で言葉にする時が来るだろう。その時まで、その石を忘れるな」
ヘルメスが、杖を、ゆっくりと振り上げた。
これまでよりも、ずっと、ゆっくりと。
「第十の段だ。最後の段」
「次は、人間だ。神の声は、届かない。悪魔も、もう、お前に先回りしない。秤も、お前には見えない。お前は、何も知らない一人の人間として生まれ、何も知らないまま、生きる」
「そして、そこで、あの者が、お前を待っている」
白い場所の底が、ゆっくりと、ほどけていった。
そこから、聞いたことのない音が、立ちのぼってきた。
石の道を行き交う、たくさんの足音。
鐘の音。
人の声。
何千、何万という、言葉の声。
落ちていく前に、ノクティエルは、数を確かめた。
失われた者。
二百八十四。
一つの群れ。
一つの沼。
生きている者。
水たまりの、二つの膜。
石の下の、小さな兄弟。
海の、尾鰭の欠けた一匹。
池の、最初の丸い体。
砂丘の、幼いトカゲ。
平野の空の、羽の折れた若い鳥。
森の縁の向こうの、白い耳の子。
枝の下で手を開いた、年かさの雌。
そして、月が昇るまでの火の番を、小さな体で務めている、ミ。
十。
ひとつひとつが、言葉になって、胸の中で、確かに光っていた。
それから、白い石が一つ。
ハリエルが背負った、嘘の重さ。
ノクティエルは、それを、胸の奥の、サマエルの隣に、そっとしまった。




