↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
18/20

第18話 火を渡す手

雨粒が、二つになった。

 三つになった。

 やがて、洞穴の入り口の向こうで、ざあっ、と音を立てて、本降りになった。


 風が、洞穴の中へ吹き込んできた。

 炉の火が、大きく傾いた。

 炎の先が、千切れるように揺れ、薪の下の赤い熾火が、ふっと暗くなった。


〈ほら〉


 サマエルが、ノクティエル自身の声で言った。


〈お前が手を伸ばさなくても、火は弱る。お前が手を伸ばしても、きっと、もっと弱る。どちらでも同じなら、何もしない方がいい〉


 ノクティエルの手は、まだ、獣の皮の上で止まっていた。


 洞穴の入り口の近くで、ミが、小さく身じろぎした。

 吹き込む雨の飛沫が、ミの背中を、少しずつ濡らしていた。

 寝息が、浅く、速くなっていた。


 ――間違えたら。


 猿の段で刻まれた傷が、指を縫いとめていた。

 北の門の朝が、その上に、重くのしかかっていた。

 自分は、火を預かってはいけない者だ。

 自分が触れた火は、いつも、誰かを焼く。


〈そうだ〉


 サマエルが、優しくさえ聞こえる声で言った。


〈お前は、そういう者だ〉


 ◇


 炉の火が、また、大きく傾いた。


 ノクティエルは、目を閉じた。

 目を閉じたまま、自分に向かって、口を開いた。


「……そうだ」


 声が、洞穴の暗がりに、かすれて落ちた。

 言葉を得てから、初めて、自分自身に向けて出した言葉だった。


「僕は、そういう者だ」


 サマエルが、黙った。


「北の門で、ハリエルが来るのを見ていた。見ていて、先に灯した。騙されたんじゃない。出し抜きたかった。認められたかった。最後尾に戻されるのが、嫌だった」


「それで、二百十七が消えた。ハリエルは片翼を失った。それなのに、ハリエルは、僕のために嘘をついた。僕は、それを、ずっと見ないふりをしていた」


 言葉にするたびに、胸の奥が、裂けるように痛んだ。

 霧の中にあった時よりも、ずっと鋭く、ずっと重かった。

 言葉は、記憶を照らす灯だった。

 照らされた罪は、もう、どこにも隠れられなかった。


「全部、僕がやった。僕は、そういう者だ」


 ノクティエルは、目を開けた。


「でも、今、火が消えかけてる」


 ◇


 ノクティエルは、獣の皮を、掴んだ。


 手が、震えていた。

 震えたまま、立ち上がった。

 炉の上に、皮を広げた。

 ホがいつもそうしていたように、炉を囲む石の、少し高いところに、皮の端を引っかけた。


 風が、皮を、ばさりと煽った。

 片方の端が、石から外れた。

 皮が、火の上へ、垂れ下がりかけた。


 ――ほら、失敗した。


 サマエルの声ではなかった。

 ノクティエル自身の、胸の奥の声だった。


 ノクティエルは、垂れ下がった皮の端を、素手で掴んだ。

 炎の熱が、手のひらを舐めた。

 熱かった。

 焼けるように熱かった。

 それでも、離さなかった。

 皮の端を、もう一度、石に引っかけ直した。


 手のひらが、赤く腫れていた。

 天界で、灯し棒が焼きついた時と、同じ場所だった。


 一人では、足りなかった。

 風は、まだ、洞穴の中へ吹き込んできていた。

 皮は、ばたばたと鳴り続け、いつ外れてもおかしくなかった。

 火は、細く、細く、揺れていた。


 ノクティエルは、振り返った。

 火のまわりで眠っている、群れの者たちを見た。


 北の門の朝、ノクティエルは、ハリエルを待たなかった。

 誰の手も借りず、誰の隣にも立たず、ひとりで灯そうとした。


 ノクティエルは、震える息を、深く吸った。

 そして、洞穴じゅうに響く声で、叫んだ。


「ホ!」


 火を指す音。

 この群れの誰もが知っている、いちばん大事な音。


「ホ! ホ!」


 ◇


 群れの者たちが、跳ね起きた。


 最初に動いたのは、狩りの得意な若い男だった。

 炉の火を見て、何が起きているのか、すぐにわかったようだった。

 入り口の方へ走り、吹き込む風の前に、自分の体を立てた。

 次に起きた女が、それに続いた。

 また一人。

 また一人。

 群れの者たちが、洞穴の入り口に、壁のように並んで、風を遮った。


 ホが、咳き込みながら、炉のそばへ這ってきた。

 濁った目で、火を見た。

 皮を見た。

 それから、ノクティエルの腫れた手を見た。


 ホは、何も言わなかった。

 ただ、震える手で、炉の脇から乾いた細い枝を何本か取り、ノクティエルの手に握らせた。

 それから、熾火の、まだ赤く残っているところを、指さした。


 自分が、皮を張った。

 自分が、群れを呼んだ。

 それでも、最後に火を起こし直す方法を知っていたのは、ホだった。

 ノクティエルは、それを、恥ずかしいとは思わなかった。

 ひとりでは足りないことを、知っているだけだった。


 ノクティエルは、細い枝を、熾火にそっと寄せた。

 ふう、と、息を吹きかけた。

 もう一度。

 もう一度。


 小さな炎が、ぽっ、と、立ち上がった。


 ホが、皺だらけの顔で、うなずいた。

 ノクティエルは、少しずつ、太い薪をくべていった。

 火は、ゆっくりと、元の大きさを取り戻していった。

 洞穴の壁に、また、赤い光が揺れ始めた。

 ノクティエルは、その光を、長いあいだ、見つめていた。


 ノクティエルは、入り口の近くへ行き、ミを抱き上げた。

 ミの体は、冷えきっていた。

 炉のいちばん近く、いちばん温かい場所に、ミを寝かせた。

 自分の体を、ミと入り口のあいだに置いた。


 ミの寝息が、少しずつ、深く、ゆっくりになっていった。


 ◇


 夜明けまで、群れの誰も、眠らなかった。


 入り口で風を遮る者は、疲れると、別の者と交代した。

 誰が決めたわけでもなかった。

 疲れた者が下がれば、休んでいた者が前へ出た。

 鳥の段で、くさびの先頭を交代した時と、同じだった。


 ノクティエルは、炉のそばで、火を見続けていた。

 ときどき、ホが、ノクティエルの腕を、ぽんと叩いた。

 薪をくべる頃合い、という合図だった。

 そのたびに、ノクティエルは、薪をくべた。

 ホが叩かなくても、くべられるようになるまで、何度も。


〈なぜ、呼んだ〉


 サマエルの声が、ずっと奥の方から、聞こえた。

 さっきまでよりも、少しだけ、小さかった。


〈お前ひとりで、火を守れば、よかった。お前ひとりで、罪を償えばよかった。群れを起こして、他の者の手を借りるなど、償いにならない〉


「償いのために、呼んだんじゃない」


 ノクティエルは、炉の火を見ながら、小さく答えた。


「火を消さないために、呼んだ。僕ひとりじゃ、消えていた。それだけだ」


〈……〉


「北の門で、僕はひとりで灯そうとした。ひとりで、誰にも負けないように。だから、焼いた。今度は、ひとりで守ろうとしたら、また、消してた」


 サマエルは、それきり、その夜は何も言わなかった。


 ◇


 朝が来た。


 雨は上がり、洞穴の入り口の向こうで、濡れた岩が白く光っていた。

 風を遮っていた者たちが、ひとり、またひとりと、炉のそばに座り込んだ。

 皆、ひどく疲れた顔をしていた。

 それでも、炉の火を見ると、少しだけ、顔をほころばせた。


 狩りの得意な若い男が、ノクティエルの腫れた手を、黙って取った。

 川の水を汲んできた皮袋から、冷たい水を、手のひらに、少しずつ注いだ。

 別の女が、何かの葉を噛んで柔らかくし、それを火傷の上に貼りつけた。

 ひんやりとした感触が、熱い痛みを、少しだけ鎮めた。


 ミが、目を覚ました。

 炉のいちばん近くで、温かくなった体を起こし、きょとんとして、まわりを見回した。

 それから、ノクティエルの手に貼られた葉を見て、首をかしげた。


「カゾ」


 ミは、ノクティエルの手の、葉の上に、小さな手を、そっと重ねた。

 何が起きたのか、ミは知らなかった。

 知らないまま、重ねてくれた。


 ◇


 ホの咳が、冬の終わりに向けて、日ごとに重くなっていった。


 ある日、ホは、ノクティエルを洞穴の奥に呼んだ。

 そこには、乾いた木の板と、まっすぐな細い棒が、隠すように置かれていた。

 ホは、板の小さなくぼみに棒の先を立て、両手のひらで棒を挟んで、何度も、何度も、こすり合わせた。

 ひどく時間がかかった。

 ホの手は震え、何度も止まった。

 それでも、やがて、くぼみの底から、細い煙が立ちのぼった。

 ホは、そこへ乾いた草の綿を寄せ、息を吹きかけた。


 小さな火が、生まれた。


 ノクティエルは、息を呑んだ。

 火は、消えたら終わりだと思っていた。

 群れの火は、どこかから借りてきて、ずっと守り続けるしかないものだと。


 違った。

 火は、自分の手で、もう一度、起こせるのだ。


 ホは、板と棒を、ノクティエルの手に渡した。

 それから、ミを指さし、群れの子らを指さした。

 教えろ、ということだった。


 ノクティエルは、その日から、毎日、板と棒をこすった。

 火傷の跡が残る手のひらに、新しい豆ができた。

 十日目に、初めて、自分の手で煙を立てた。

 二十日目に、初めて、自分の手で火を起こした。


 天界で、ノクティエルの火は、いつも泉から受け取る火だった。

 細く、小さく、震える橙色の火。

 自分では、一度も、火を起こしたことがなかった。


 この小さな火は、誰からも借りていない火だった。


 ◇


 その冬の終わりに、ホが、死んだ。


 咳は、春を待たずに、ホの小さな体を、少しずつ削っていった。

 最後の夜、ホは、炉のそばで、ノクティエルの腫れの引いた手を、両手で包んでいた。

 何も言わなかった。

 ただ、ノクティエルの手のひらの、火傷の跡を、親指で、何度もなぞっていた。


 ノクティエルは、ホの手の中で、自分の手を、動かさずにいた。

 ホが何を伝えようとしているのか、言葉にしなくても、わかった気がした。

 火傷をした手でも、火は、守れる。

 火傷をした手だから、火の熱さを、知っている。


 夜明け前、ホは、一度だけ、目を開けた。

 炉の火を見た。

 燃えていることを、確かめるように。

 それから、ゆっくりと、目を閉じた。


 朝、ホの手は、冷たくなっていた。


 二百八十四。


 群れは、ホを、崖の下の柔らかい土へ運んだ。

 膝を曲げ、眠る形に横たえた。

 ミが、川辺で摘んできた白い花を、ホの胸に置いた。

 ノクティエルは、炉から取った燃えさしを、ホの手のそばに置いた。

 ホが、片足を引きずる男にそうしたように。


 土をかけ終えると、群れの者たちは、黙って、ノクティエルの方を見た。


 歌う者が、いなかった。

 いつもなら、ホが、最初の音を出した。


 ノクティエルは、口を開いた。

 低く、長い、同じ高さの音を、出した。

 ホがそうしていたように、波のように、何度も、何度も。

 声が、震えた。

 震えたまま、続けた。


 ミが、ノクティエルの隣で、小さな声を重ねた。

 女たちが、ひとり、またひとりと、重ねていった。

 男たちも、低く、重ねていった。


 ホのための歌は、ホがいない場所で、皆の声で、続いていった。


 歌いながら、ノクティエルは、天界の千の鈴を思い出していた。

 朝ごとに、園じゅうに鳴り響いた、あの音。

 灯し手たちを起こし、今日灯す魂の数を数えさせる音。

 あれも、もしかしたら、歌だったのかもしれない。

 失われた者を送り、まだ灯されていない者を迎えるための。


 ◇


 ホを送った夜、ノクティエルは、群れの者たちの前で、壁の石の列の前に立った。


 言葉にしようと思った。

 自分が、何をしたのかを。


 群れの言葉には、天界も、秤も、灯し手も、なかった。

 それでも、ノクティエルは、自分の知っている音で、話した。

 北の門のことを。

 ハリエルという名前のことを。

 二百十七のことを。

 見ていて、先に灯したことを。


 群れの者たちは、黙って聞いていた。

 何ひとつ、わからなかっただろう。

 それでも、誰も、笑わなかった。

 途中で去る者も、いなかった。

 ノクティエルが話し終えるまで、火のまわりで、ずっと、聞いていた。


 話し終えた時、ミが、壁の石の列のいちばん端へ歩いていった。

 そこに、ノクティエルが並べた、一つ目の石があった。

 水たまりの、最初の隣の膜の石。

 ミは、その石に、小さな手で、そっと触れた。


 誰にも、わからない言葉だった。

 それでも、言葉にしたことで、ノクティエルの胸の奥で、何かが、少しだけ、ほどけていた。

 罪は、軽くはならなかった。

 ただ、ひとりで抱えていた罪が、初めて、誰かの前に置かれた。


 ◇


 春になると、ノクティエルは、石の並べ方を、変えた。


 洞穴の壁に、ひとりで並べてきた石。

 その隣に、群れの者たちを呼んだ。


 片足を引きずる男の石を指さした。

 それから、男が作っていた石の刃を、その石の隣に置いた。

 男の刃を使っていた若い男が、それを見て、しばらく黙っていた。

 それから、自分の刃を一つ、そっと、その隣に並べた。


 ホの石を、炉にいちばん近い壁に置いた。

 その石の前に、燃えさしの炭を、一本、立てた。

 群れの女たちが、それを見ていた。

 次の朝、炭の隣に、白い花が一輪、置かれていた。


 ノクティエルが並べなくても、群れの者たちが、石を置くようになった。

 死んだ者の数だけ。

 死んだ者が使っていた物と、一緒に。


 ひとりで数えるのではなく、皆で覚える。

 群れに、それが、残っていった。


 それから、ノクティエルは、火の番を、ひとりで続けるのをやめた。


 夜を、いくつかに分けた。

 月が昇るまで。

 月が真上に来るまで。

 月が沈むまで。

 それぞれの間に、別の者が火の番をする。

 交代の時には、炉の縁の石を、とん、とん、と叩く。

 ホが、ノクティエルに燃えさしを渡した時の、あの音で。


 群れの者たちは、最初は面倒がった。

 だが、嵐の夜を知っている者たちは、すぐに覚えた。

 ミも、月が昇るまでの短い番を、小さな体で、真剣に務めるようになった。


 板と棒で火を起こす方法も、群れの子らに教えた。

 ミがいちばん下手で、いちばん熱心だった。

 夏の終わり、ミが初めて煙を立てた時、群れじゅうが、ミのまわりに集まって、手を叩いた。


 火は、もう、ひとりの手の中には、なかった。


〈善いことをしたな〉


 その夜、サマエルが、ノクティエル自身の声で言った。


〈火を守った。火の番を分けた。火の起こし方を教えた。死者を皆で覚える習いを残した。これで、少しは、二百十七の帳尻が合っただろう〉


 ノクティエルは、炉の火を見ていた。


 帳尻。

 その言葉に、胸の奥が、ひどく揺れた。

 確かに、そう思いかけていた。

 これだけのことをしたのだから、少しは、と。


「……合わない」


 ノクティエルは、小さく言った。


「火を守ったのは、ミが冷えていたからだ。北の門の帳尻を合わせるためじゃない。そうしようと思った瞬間に、それはもう、ミのための火じゃなくなる」


〈……〉


「二百十七は、二百十七のままだ。何をしても、消えない。だから、数える」


 ◇


 ある夜、ノクティエルは、壁の石の列の、いちばん端に、新しい石を一つ、置いた。


 他の石よりも、少しだけ、白い石だった。

 川辺で、何日も探して、ようやく見つけた石だった。


 死んだ者の石ではなかった。


 ハリエルの石だった。


 ハリエルが、裁きの場でついた嘘。

 ノクティエルを庇うために、ネメシスの前で、震える声で背負った重さ。

 ノクティエルは、それを、一度も数えたことがなかった。

 今、初めて、数えた。


〈それも、罰か〉


 サマエルが、ノクティエル自身の声で、静かに尋ねた。

 もう、責めるような声ではなかった。


「罰じゃない」


 ノクティエルは、白い石を、指でそっと撫でた。


「覚えておくためだ。ハリエルが、僕のために何を背負ったか。それを忘れたら、僕はまた、ひとりで灯そうとする」


〈……わたしは、どうなる〉


 サマエルの声が、少しだけ、揺れた。


〈お前は、もう、自分を責めるのをやめるのか。わたしは、消えるのか〉


 ノクティエルは、しばらく、黙っていた。


 それから、火の影の中の、灰色の細い翼を見た。

 自分と同じ形をした、影。


「消えなくていい」


 ノクティエルは言った。


「お前は、僕の声だ。僕が見ないふりをしてきたものを、ずっと覚えていた声だ。お前がいなかったら、僕は、北の門のことを、一生思い出さなかった」


「お前は、ずっと、僕を責めてきた。でも、責めることしか、できなかった。責める声しか、持たせてもらえなかったんだ。僕が、ずっと、お前を見ないふりをしていたから」


「だから、一緒に数えよう。責めるためじゃなくて、覚えるために。お前が覚えていてくれたら、僕は、同じことを繰り返さずに済む」


「僕が、また、誰かを出し抜こうとしたら。また、ひとりで灯そうとしたら。また、善いことを帳尻合わせに使おうとしたら。その時は、お前の声で、言ってくれ。北の門を忘れるな、と」


 火の影の、灰色の翼が、ゆっくりと、たたまれていった。


〈……数える者は、二人いた方がいい、か〉


 ノクティエル自身の声が、ほんの少しだけ、笑ったように聞こえた。


〈わかった。忘れるなよ。わたしは、ずっと、ここにいる〉


 影は、消えなかった。

 ただ、洞穴の壁の、石の列の隣に、静かに、寄り添うように、小さくなった。


 ◇


 白い場所で、大いなる秤が揺れていた。


 皿の上には、白い石が一つと、燃えさしの炭が一本、載っていた。


「第九の段の判定を告げる」


 ネメシスの声が、白い場所に響いた。


「お前は、罪を思い出した。最も見たくなかった、己の意志による罪を。そして、それを、言葉にした。己に向けて。そして、隠さなかった」


「お前は、自らを罰することに逃げなかった。罪の声に従って、何もしないことを選ばなかった。手を焼きながら火を守り、ひとりで守れぬと知って、群れを呼んだ。そして、二度と同じことが起きぬよう、火の番を分け、死者を皆で覚える習いを残した」


 ネメシスは、少しだけ、言葉を区切った。


「そして、お前は、借りていない火を、自分の手で起こした。北の門で、自分のものでない火に手を伸ばした者が」


 ヘルメスが、秤の柱の陰で、小さく笑った。


「借り火の反対だな。自分の手のひらに豆を作って、二十日かけて起こした火だ。あの夜の瓶の火より、ずっと小さい。だが、誰も焼かない」


「罪を知る者を、お前は消さなかった。己の一部として、共に数えることを選んだ。あれは、悪魔ではない。お前自身だ。和解とする」


「完全な昇格とする」


 ヘルメスが、秤の柱の陰から現れた。

 帽子の翼を、ゆっくりと伏せていた。


「九つ目の能力は、言葉と、火と、記録する力。九つ目の心は、自分の罪を言葉にして引き受ける心だ。過去を、振り返る心」


「傷は残る。罪を忘れない記憶。そして、善いことをするたびに、それを罪の帳消しにしたくなる危うさだ。善い行いを、償いの取引に変えそうになる」


 ネメシスが、布の奥で言った。


「お前は、ハリエルの嘘を数えたな」


「……はい」


「その嘘は、あれの皿の上に、今も載っている」


 ノクティエルの光が、揺れた。


「いつか、お前が、それを、あれの前で言葉にする時が来るだろう。その時まで、その石を忘れるな」


 ヘルメスが、杖を、ゆっくりと振り上げた。

 これまでよりも、ずっと、ゆっくりと。


「第十の段だ。最後の段」


「次は、人間だ。神の声は、届かない。悪魔も、もう、お前に先回りしない。秤も、お前には見えない。お前は、何も知らない一人の人間として生まれ、何も知らないまま、生きる」


「そして、そこで、あの者が、お前を待っている」


 白い場所の底が、ゆっくりと、ほどけていった。

 そこから、聞いたことのない音が、立ちのぼってきた。

 石の道を行き交う、たくさんの足音。

 鐘の音。

 人の声。

 何千、何万という、言葉の声。


 落ちていく前に、ノクティエルは、数を確かめた。


 失われた者。

 二百八十四。

 一つの群れ。

 一つの沼。


 生きている者。

 水たまりの、二つの膜。

 石の下の、小さな兄弟。

 海の、尾鰭の欠けた一匹。

 池の、最初の丸い体。

 砂丘の、幼いトカゲ。

 平野の空の、羽の折れた若い鳥。

 森の縁の向こうの、白い耳の子。

 枝の下で手を開いた、年かさの雌。

 そして、月が昇るまでの火の番を、小さな体で務めている、ミ。


 十。

 ひとつひとつが、言葉になって、胸の中で、確かに光っていた。


 それから、白い石が一つ。

 ハリエルが背負った、嘘の重さ。


 ノクティエルは、それを、胸の奥の、サマエルの隣に、そっとしまった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。