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第19話 二百十七の街灯

ヴェルンの街では、夕暮れになると、鐘が三つ鳴る。


 一つ目で、市場の店が戸を閉める。

 二つ目で、子どもたちが家へ帰る。

 三つ目で、点灯夫たちが、梯子を担いで、街へ出ていく。


 ノエルは、いつも、三つ目の鐘で家を出た。

 一つ目でも、二つ目でもなく。


 十九歳だった。

 九月七日に、街外れの救貧院の前で拾われた。

 拾ったのは、年老いた女の点灯夫だった。

 名前を、エルマといった。


 エルマは、ノエルに、梯子の担ぎ方を教えた。

 油の注ぎ方を教えた。

 芯の切り方を教えた。

 火を、ひとつずつ、灯していくやり方を教えた。


 そのエルマが、去年の冬に死んだ。

 ひどい咳だった。

 最後の夜、エルマは、ノエルの手のひらの古い火傷の跡を、親指で何度もなぞっていた。

 ノエルの手には、物心ついた時から、なぜか、火傷の跡があった。

 エルマは、それを、いつも不思議そうに撫でた。


 死ぬ前の晩、エルマは、かすれた声で、こう言った。


「あんたの灯はね、細いよ。誰の灯よりも、細い。でも、あたしは、あんたの灯が消えてるのを、一度も見たことがない」


 それが、エルマの、最後の言葉だった。

 ノエルは、その言葉を、帳面の一冊目の、最初の頁に書きつけた。


 ノエルは、エルマの梯子を、そのまま受け継いだ。


 エルマは、口癖のように言っていた。


「灯はね、点ける者の手で、一つずつ、灯すもんだよ」


 他の点灯夫たちが竿を使い始めても、エルマだけは、最後まで梯子を使った。

 年を取って、膝が悪くなっても。


「竿で灯すと、灯の顔が見えないだろう。顔の見えない灯は、灯した気がしないのさ」


 灯に、顔があるのか。

 幼いノエルがそう尋ねると、エルマは笑った。


「あるともさ。傾いた柱の灯は、いつも少し寂しそうだし、角の家の前の灯は、子どもに見られて得意そうだ。一つずつ、違う顔をしてる。それを覚えておくのが、点灯夫の仕事だよ」


 ノエルは、その言葉を、ずっと覚えていた。

 なぜか、ひどく懐かしい言葉だった。

 初めて聞いたはずなのに、ずっと昔から知っていた言葉のような気がした。


 ◇


 夜ごと、ノエルは、同じ夢を見た。


 白い庭。

 千の鈴の音。

 片方の翼だけが金色に光る、誰かの背中。

 もう片方の翼は、根元から、黒く焦げていた。


 その誰かは、いつも、ノエルに背を向けていた。

 門のようなものの前に立ち、何かを待っていた。

 ノエルは、声をかけようとして、いつも、声が出なかった。

 名前を、知らなかったからだ。


 目を覚ますと、いつも、手のひらの火傷の跡が、うずいていた。


 ◇


 ヴェルンの街には、ガス灯がなかった。

 石畳の道の両脇に、鉄の柱に吊られた油の灯が並んでいる。

 それを、夕暮れごとに、点灯夫たちが一つずつ灯して回る。


 ノエルの受け持ちは、南の旧市街だった。

 川沿いの、古く、狭く、貧しい区画。

 誰もやりたがらない区画だった。

 道が入り組んでいて、柱の高さもまちまちで、手間ばかりかかる。


 旧市街には、街灯が、二百十七本あった。

 ノエルは、その数を初めて数えた日、理由もわからず、しばらく、その場から動けなかった。


 ノエルは、それを、全部、覚えていた。

 どの柱が少し傾いているか。

 どの灯の芯が湿りやすいか。

 どの角で、どの家の子どもが、灯がともるのを窓から待っているか。


 他の点灯夫たちは、長い竿の先に火をつけて、下から灯を灯していった。

 速かった。

 一晩で、三百本も四百本も灯せた。


 ノエルは、竿を使わなかった。

 一本ずつ、梯子をかけて登り、ガラスの覆いを外し、芯を整え、油を確かめ、自分の手で火を入れた。

 遅かった。

 一晩で、二百十七本を灯し終えるのが、やっとだった。


「相変わらず、のろいな」


 仲間の点灯夫たちは、ノエルをそう呼んだ。


 中でも、ティオという同い年の点灯夫は、毎晩のように、ノエルをからかった。

 竿の扱いが街でいちばんうまく、ノエルの倍の速さで灯して回る男だった。

 それでも、ティオは、ノエルの受け持ちの旧市街で灯が一本でも消えていると、黙って、自分の竿で灯してから帰っていった。

 翌朝、何も言わずに。

 ノエル自身も、自分がなぜそうするのか、わからなかった。

 竿で灯せば、もっと早く終わる。

 わかっていても、手が、梯子を掴んでしまう。

 一つずつ、近くで灯さないと、何かを取りこぼしてしまう気がした。


 灯を一つ灯すたびに、ノエルは、小さく数を数えた。

 一。

 二。

 三。

 それが、二百十七に届くと、なぜか、胸の奥が、すっと静かになった。


 ◇


 ノエルには、他にも、自分でも説明のつかない癖があった。


 パンを買うと、必ず、半分を残した。

 腹が減っていても、明日のために、と、体が勝手に残してしまう。

 残したパンは、たいてい、旧市街の路地で座り込んでいる子どもに渡してしまった。

 渡しながら、自分は、なぜ、それを誰かに見ていてほしいと思うのだろう、と、不思議に思った。


 川には、近づけなかった。

 橋を渡る時、欄干の向こうの水面を見ると、足がすくんだ。

 高いところも、苦手だった。

 点灯夫のくせに、梯子の最上段に立つと、膝が震えた。

 それでも、登った。

 震えたまま、灯を灯した。


 仲間の点灯夫が足を滑らせた時、ノエルは、誰よりも早く梯子を支えた。

 支えたあとで、ありがとうと言われると、どういう顔をしていいかわからなかった。

 何かを決めなければならない時、ノエルの手は、いつも、少しだけ遅れた。

 間違えたらどうしよう、と、何も起きていないうちから、怯えた。


 そして、夜、灯を灯し終えて部屋に戻ると、ノエルは、古い帳面に、その日のことを書きつけた。

 灯した数。

 消えていた灯の数。

 旧市街で、誰かが死んだ時は、その名前。


 帳面は、もう、三冊目になっていた。

 表紙は、どれも、油と煤で黒ずんでいた。


 なぜ、そんなことをするのか。

 ノエルにも、わからなかった。

 ただ、書かずに眠ると、胸の奥で、誰かが、ずっと何かを数え続けているような気がした。

 自分と同じ声で。

 責めるのでもなく、急かすのでもなく、ただ、静かに。


 ◇


 その秋、ヴェルンに、病が来た。


 最初に倒れたのは、旧市街の、川沿いの長屋の者たちだった。

 高い熱が出て、咳が止まらず、三日もしないうちに、何人もが死んだ。

 病は、川沿いから、旧市街の奥へ、少しずつ広がっていった。


 ノエルは、毎晩、二百十七本の灯を灯し続けた。

 灯を灯しながら、窓の向こうで咳き込む声を、何度も聞いた。

 戸口に、白い布が下がる家が、日ごとに増えていった。

 白い布は、その家で誰かが死んだ印だった。


 帳面に書きつける名前が、毎晩、増えていった。


 ノエルは、灯を灯して回る途中で、パンと水を、白い布の下がっていない家の戸口に置いていくようになった。

 自分の分の半分を。

 足りなかった。

 点灯夫の給金では、とても足りなかった。


 路地の角の家には、リラという小さな女の子と、母親が住んでいた。

 リラは、毎晩、窓から、ノエルが灯を灯すのを見ていた。

 ノエルが角の灯に梯子をかけると、窓の向こうで、小さな手を振った。

 灯がともると、ぱっと、顔を輝かせた。

 エルマの言った、子どもに見られて得意そうな灯、というのは、きっと、この灯のことだった。


 ある夜、リラの母親が、戸口に出てきた。

 顔色が、ひどく悪かった。

 母親は、ノエルが置いたパンを拾い上げ、深く頭を下げた。


「あの子が、言うんです。灯がともると、今日も夜が来たって、わかるって。夜が来たら、朝も来るって」


 ノエルは、何も言えなかった。

 ただ、頭を下げ返し、次の灯へ向かった。


 ◇


 ある夕方、点灯夫組合の詰め所に、ノエルは呼び出された。


 詰め所の奥には、組合の帳簿を納めた、記録室があった。

 何十年分もの、点灯の記録。

 どの通りに何本の灯があり、何本が灯され、何本が消えていたか。

 誰が、いつ、どの区画を受け持ったか。


 その記録室の、窓辺の机に、一人の男が座っていた。


 見たことのない男だった。

 背が高く、上等な白い外套を着ていた。

 外套の襟の縁だけが、煤けたように、灰色にくすんでいた。

 声は、低く、穏やかだった。


「君が、ノエルだね」


 男は、立ち上がって、手を差し出した。


「セオドア・グレイ。今月から、この組合の監督を任された者だ。市の参事会から来た」


 ノエルは、差し出された手を、握った。

 握った瞬間、なぜか、胸の奥が、ひやりと冷えた。

 初めて会う男だった。

 それなのに、どこかで、この手を、知っている気がした。


「旧市街の灯のことで、話がある」


 セオドアは、机の上の帳簿を開いた。

 そこには、旧市街の二百十七本の灯の位置が、細かく書き込まれていた。


「市の参事会は、明日から、旧市街を封鎖することに決めた。病が、新市街へ広がるのを防ぐためだ。橋を閉じ、門を閉じる。旧市街の者は、病が収まるまで、外へは出られない」


 ノエルは、息を呑んだ。


「それに伴って、旧市街の灯も、明日から、灯さない」


「……え」


「油が、足りないんだ。病のせいで、川の船が止まった。限られた油は、新市街と、病院と、参事会の建物に回す。封鎖した区画に灯をともしても、誰も通らない。無駄だ」


 セオドアは、穏やかに、言った。


「それに、灯を消せば、旧市街の者たちも、夜は家にこもる。外を出歩かなければ、病も広がりにくい。灯を消すことは、彼らのためでもある」


 ◇


「……灯を消したら」


 ノエルの声が、震えた。


「夜に、医者が来られません。薬を運ぶ者も、道がわからなくなる。子どもが、窓から外を見て、怖がります。死んだ人を運び出す時も、暗い中では」


「医者は、もう、旧市街には入らない」


 セオドアの声は、少しも変わらなかった。


「封鎖とは、そういうことだ。旧市街の中で、病が尽きるのを待つ。そうしなければ、新市街の何万という人々が、同じ病で死ぬ」


「何万と、数千だ。君なら、どちらを選ぶ」


 ノエルは、答えられなかった。


 手が、震えた。

 何かを決めなければならない時、いつも、そうだった。

 間違えたら。

 この判断で、誰かが死んだら。


「君に、決めろとは言っていない」


 セオドアが、少しだけ、声を和らげた。


「決めたのは、参事会だ。わたしは、それを伝えに来ただけだ。君は、ただ、明日から、旧市街へ行かなければいい。灯さなくていい。それは、君の罪ではない」


「君の罪ではない」


 その言葉が、ノエルの胸の奥に、ずしりと沈んだ。


 知っている気がした。

 この言葉を。

 この、低く、穏やかな、何もかもを許してくれるような声を。


 ――君の火は、悪くない。ただ、細いだけだ。


 どこかで、聞いた。

 いつか、どこかで。


 ◇


 詰め所を出ると、仲間の点灯夫たちが、廊下で待っていた。

 皆、もう、話を聞いていた。


「仕方ねえよ」


 年かさの点灯夫が、ノエルの肩を叩いた。


「お偉方が決めたことだ。俺たちに、何ができる」


「旧市街に入って、病をもらってくるよりはましだろ」


「お前、まさか、それでも灯しに行くつもりじゃないだろうな」


 ノエルは、答えなかった。

 答えられなかった。

 皆の言うことは、正しかった。

 正しいのに、胸の奥で、誰かが、ずっと首を横に振っていた。


 廊下の端で、ティオだけが、黙って、ノエルを見ていた。

 何か言いかけて、口を閉じた。

 それから、自分の竿を肩に担ぎ直し、ノエルの横をすれ違いざまに、小さく言った。


「……今夜は、手伝えねえぞ」


 ノエルは、うなずいた。

 ティオの声は、責めているようには聞こえなかった。


 その夜、ノエルは、旧市街の二百十七本の灯を、いつもどおりに灯した。


 明日からは、灯せない。

 だから、今夜だけは、と思った。


 一本ずつ、梯子をかけた。

 登った。

 膝が震えた。

 ガラスの覆いを外し、芯を整え、火を入れた。


 路地の角の家の窓に、小さな顔が見えた。

 いつも、灯がともるのを待っている女の子だった。

 名前を、リラといった。

 熱で赤くなった顔で、それでも、窓に額を押しつけて、ノエルが灯す火を見ていた。


 ノエルが手を振ると、リラは、弱々しく、手を振り返した。


 その家の戸口には、まだ、白い布は下がっていなかった。


 ノエルは、窓の下で、しばらく立ち止まった。

 明日から、この窓の外は、真っ暗になる。

 灯がともらなければ、リラは、夜が来たことが、わからない。

 夜が来たことがわからなければ、朝が来ることも、信じられなくなるかもしれない。


 ノエルは、梯子を担ぎ直し、次の灯へ向かった。

 足が、ひどく重かった。


 二百十七本目の灯を灯し終えた時、ノエルは、旧市街の真ん中の、古い井戸の縁に、座り込んだ。

 見上げると、二百十七の小さな火が、狭い路地の上に、星のように並んでいた。


 明日から、ここは、真っ暗になる。

 この二百十七の火は、明日の夕暮れ、もう誰にも灯されない。

 ノエルは、それを、ただ見上げていた。


 ◇


「美しいね」


 背後から、声がした。


 振り返ると、セオドアが立っていた。

 白い外套の、煤けた襟が、灯の光を受けて、鈍く光っていた。


「君は、本当に、一つずつ灯すんだね。竿を使えば、もっと早く終わるのに。わざわざ、梯子をかけて、自分の手で」


 セオドアは、ノエルの隣に、腰を下ろした。

 なぜか、ノエルは、その仕草を、知っている気がした。

 夜の、どこかの端に座っていた自分の隣に、こうして、誰かが腰を下ろしたことがあった。


「昔、君によく似た者を知っていた」


 セオドアは、灯の列を見上げながら、言った。


「火が細くて、灯すのが遅くて、いつも最後尾の小さなものばかり受け持たされていた。それでも、一つずつ灯していた。そして、一つずつ灯したものの顔を、全部、覚えていた」


 ノエルの胸の奥で、何かが、ざわりと動いた。


「その者は、認められたがっていた。だから、わたしは、少しだけ、手を貸した」


 セオドアは、外套の内側から、小さな硝子の瓶を取り出した。


 中で、黒みがかった赤い火が、揺れていた。


 ノエルの手のひらの、古い火傷の跡が、焼けるように痛んだ。


「明日から、旧市街は、真っ暗になる」


 セオドアが、穏やかに言った。


「だが、この火を一滴、君の灯に垂らせば、二百十七本の灯は、油がなくても、ひと月は消えない。旧市街の夜は、明るいままだ。医者が来なくても、道は見える。子どもは、怖がらずに済む」


「代わりに」


 セオドアは、瓶を、ノエルの方へ、そっと差し出した。


「この火は、新市街の油から、熱を借りる。新市街の灯が、少しずつ、暗くなる。何万の人々の夜が、少しずつ、冷えていく。病は、寒さで、広がりやすくなるだろう」


「数千を照らすために、何万を冷やす。それとも、何万を守るために、数千を闇に置く。どちらにしても、誰かが、君のせいで、苦しむ」


「どちらを選んでも、君は、正しいことをしたと言える。わたしが、そう言わせてあげよう」


 ◇


 ノエルの体の奥で、いくつもの何かが、一斉に、ざわめいた。


 腹が空いていた。

 あの火があれば、何かが満ちる、と、体のどこかが叫んでいた。

 皆に見てほしい、と、別のどこかが疼いた。

 あの火を使えば、旧市街の者たちは、ノエルが灯を守ったと知るだろう。

 手を伸ばすのが、怖かった。

 手を伸ばさないのも、怖かった。


 理由のわからない飢えと、理由のわからない怯えと、理由のわからない、誰かに認められたいという渇き。

 それらが、全部、あの小さな瓶に向かって、手を伸ばそうとしていた。


 ノエルは、瓶を、見つめていた。


 黒みがかった、赤い火。

 見たことがある。

 確かに、見たことがある。


 どこで。

 いつ。


 頭の奥が、ひどく痛んだ。

 胸の奥で、自分と同じ声が、静かに、何かを数えていた。


 二百十七。

 一つの群れ。

 一つの沼。


 ――北の門を、忘れるな。


 その声が、はっきりと、聞こえた。


「……あなたは」


 ノエルは、かすれた声で言った。


「あなたは、どこから来たんですか」


 セオドアは、少しだけ、目を細めた。

 それから、ひどく懐かしそうに、笑った。


「記録の園から」


 その瞬間、二百十七の灯が、一斉に、大きく揺らいだ。


 ノエルの頭の中で、千の鈴が、鳴った。


 一つ目。

 二つ目。

 三つ目。


 三つ目の鈴で目を覚ます、灰色の翼の天使。

 灯の泉。

 秤の柱。

 北の門。

 水たまり。

 石の下の母。

 海の群れ。

 沼の丸い体。

 岩の裂け目の水。

 嵐の空。

 雪原の白い耳。

 森の濁った川。

 洞穴の火と、ホの手。


 全部が、一度に、戻ってきた。


 ノエルは、いや、ノクティエルは、井戸の縁で、両手で顔を覆った。


「思い出したかい、ノクティエル」


 セオドアの姿が、ゆっくりと、変わっていった。

 白い外套が、白い翼に。

 煤けた襟が、灰色にくすんだ、翼の縁に。


「十の段を、よく昇ってきた。最後の段で、ようやく、また会えた」


 白い翼の縁だけが煤けた天使は、穏やかに、名乗った。


「わたしの名は、サタン。かつて、君と同じように、十の段を昇ろうとして、昇りきれなかった者だ」


 ノクティエルは、顔を上げられなかった。


「遠い昔、わたしも、灯し手だった」


 サタンは、二百十七の灯を見上げたまま、静かに語った。


「君よりも、ずっと火の太い灯し手だった。だが、一度だけ、過ちを犯した。小さな過ちだった。秤は、わたしを、命の一番下へ落とした。君と同じように」


「わたしは、昇った。膜から、虫から、魚から。九つの段を、君と同じように、苦しんで、越えた。そして、十番目の段で、人間になった」


「人間の段には、神の声も、悪魔の囁きも、届かない。秤も見えない。何も知らない一人の人間として、ただ、生きる。そこで、わたしは、自分の選んだことを、全部、正しいと言い張った」


「誰かを見捨てた時も、仕方がなかったと言った。誰かを傷つけた時も、もっと大きな善のためだと言った。言い張るたびに、わたしの皿は、少しずつ、重くなった。最後まで、わたしは、自分の過ちを、ひとつも認めなかった」


「秤は、わたしを、天界へは戻さなかった。どこにも、戻さなかった。わたしは、十の段の、どこにも属さない者になった」


 サタンの声は、少しも、震えていなかった。

 それが、かえって、ひどく寂しく聞こえた。


「だから、確かめたかった」


「十の段を、本当に昇りきれる者が、いるのかどうか。いるのなら、わたしが落ちたのは、わたしのせいだ。いないのなら、わたしが落ちたのは、秤の仕組みが、最初から誰も通さないようにできていたせいだ」


「わたしは、君を選んだ。三つ目の鈴で起きる、火の細い、認められたがりの灯し手を。いちばん昇れそうにない者を。そして、明けの星に頼んで、火を分けてもらい、瓶に詰めた。蠅の王を、冠の囁き手を、海の底の者を、皆、君の通る段に先回りさせた」


「君が、どこかで、わたしと同じように、言い張って落ちるのを、見届けるために」


 サタンは、硝子の瓶を、井戸の縁に、そっと置いた。

 ノクティエルの手の、すぐ届くところに。


「さあ、最後の段だ、ノクティエル」


「君は今、全部を思い出した。十の段で得たものも、刻まれた傷も、二百十七も、ハリエルの嘘も。全部を持ったまま、人間として、ここにいる」


「瓶を取るか、取らないか。取れば、旧市街は明るいまま、新市街が冷える。取らなければ、明日から、旧市街は闇に沈む。どちらを選んでも、誰かが苦しむ。どちらを選んでも、君は、わたしと同じように、正しかったと言い張れる」


「わたしは、それを、見届けに来た」


 ノクティエルは、両手を、顔から離した。


 目の前に、硝子の瓶があった。

 黒みがかった、赤い火。

 北の門の朝、灯し棒の先に垂らした、あの一滴と、同じ色の火。


 路地の角の家の窓で、リラが、まだ、こちらを見ていた。

 熱で赤い顔を、窓に押しつけて。

 二百十七本目の灯の光が、その小さな額を、ぼんやりと照らしていた。


 胸の奥で、サマエルの声が、静かに言った。


〈北の門を、忘れるな〉


 ノクティエルは、瓶に向かって、ゆっくりと、手を伸ばした。


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