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第20話 三つ目の鈴

ノクティエルの指が、硝子の瓶に触れた。


 冷たかった。

 中の火は、あんなに赤く揺れているのに、瓶は、少しも温かくなかった。


 ノクティエルは、瓶を、持ち上げた。

 サタンの目が、わずかに細くなった。


 それから、ノクティエルは、瓶を、サタンの手のひらの上に、そっと置いた。


「取らない」


 サタンは、何も言わなかった。


「でも、取らないことを、正しかったとは言わない」


 ノクティエルは、井戸の縁から立ち上がった。

 二百十七の灯が、狭い路地の上で、静かに揺れていた。


「明日から、ここは暗くなる。僕が瓶を取らなかったせいで、暗くなる。誰かが、暗い中で死ぬかもしれない。それは、僕が選んだことだ。仕方がなかったとは、言わない。もっと大きな善のためだとも、言わない」


「数える。暗くなったせいで死んだ人を。全部、僕が選んだこととして、数える」


〈では、どうする〉


 サタンの声は、少しも揺れなかった。


〈取らなければ、闇だ。お前は、闇を選んだ〉


「選んでない」


 ノクティエルは、梯子を、肩に担いだ。


「まだ、選んでる途中だ」


 その夜、ノクティエルは、部屋に戻っても眠れなかった。


 腹が、空いていた。

 何かが足りない、と、体じゅうが叫んでいた。

 瓶を返した手が、まだ冷たかった。

 あの火があれば、と、どこかで思っている自分がいた。

 明日、暗い路地を見たら、きっと、もっと強く思うだろう。


〈思っていい〉


 胸の奥で、自分と同じ声が、静かに言った。


〈あの火を欲しいと思ったことも、数えておけ。忘れたふりをするな。北の門の朝も、お前は欲しかった〉


 ノクティエルは、帳面を開いた。

 その日の頁に、短く、書いた。


 ――瓶を返した。欲しかった。


 それから、ようやく、眠った。


 ◇


 次の日、橋と門が閉じられた。


 ノクティエルは、門の内側にいた。

 旧市街を、出なかった。


 組合からの油は、届かなかった。

 ノクティエルは、自分の部屋に残っていた油を、全部、集めた。

 三晩分しかなかった。


 その夜、ノクティエルは、二百十七本の灯のうち、七十本だけを灯した。


 どれを灯すかは、帳面が決めた。

 三冊の帳面に、ノクティエルは、旧市街のすべてを書きつけてきた。

 どの家に病人がいるか。

 どの路地が、夜、いちばん暗いか。

 どの角の窓から、子どもが灯を待っているか。


 病人のいる家の戸口の灯。

 井戸へ続く道の灯。

 路地の角の、リラの窓の灯。


 灯さなかった百四十七本の柱の下を通るたびに、ノクティエルは、立ち止まった。

 暗い柱を、見上げた。

 灯の顔が、見えなかった。


「……ごめん」


 声に出して、言った。

 言い訳は、しなかった。


 ◇


 三日目の夜、門の外から、何かが投げ込まれた。


 油の壺だった。

 縄で縛った壺が、三つ、四つ、塀を越えて、ゆっくりと降りてきた。


 塀の上に、見覚えのある影があった。


「……手伝えねえって、言ったろ」


 ティオだった。


「だから、灯すのは手伝わねえ。油を運ぶだけだ。それは、灯すのとは違う」


 ティオは、塀の上から、ぶっきらぼうに言った。

 その後ろに、もう二人、仲間の点灯夫の影があった。

 新市街の灯を、一本ずつ、少しずつ間引いて、浮いた油を、こっそり集めてきたのだという。


「新市街の灯がちょっと暗くなったって、誰も死にゃしねえよ。参事会の連中が、夜道でつまずくくらいだ」


 ノクティエルは、壺を、両手で抱えた。

 北の門の朝、誰の手も借りずに灯そうとした自分を、思い出した。

 洞穴の嵐の夜、群れを呼んだ自分を、思い出した。


「ありがとう」


「礼なんかいらねえ。……数えとけよ、あの帳面に。俺たちの分も」


 ◇


 ノクティエルは、旧市街の者たちにも、頼んだ。


 まだ動ける者たちを、井戸のまわりに集めた。

 梯子の登り方を教えた。

 芯の切り方を教えた。

 油が尽きた時のために、板と棒で火を起こす方法を教えた。

 ホから受け継いだやり方だった。

 誰も、そんな方法は知らなかった。


 夜を、三つに分けた。

 月が昇るまで。

 月が真上に来るまで。

 月が沈むまで。

 交代の時には、灯の柱を、とん、とん、と叩く。


 初めて自分の手で火を入れたのは、川沿いの長屋の、十歳ほどの男の子だった。

 両親を、病で亡くしていた。

 震える手で、梯子の上で、芯に火を近づけた。

 火が、ともった。

 男の子は、梯子にしがみついたまま、自分が灯した火を、長いあいだ見つめていた。

 それから、下で梯子を支えていたノクティエルを見下ろして、小さく言った。


「……おれの灯だ」


 洞穴で、ミが初めて煙を立てた日のことを、ノクティエルは思い出した。


 灯は、一本ずつ、増えていった。

 七十本から、九十本へ。

 百本へ。

 旧市街の者たちが、自分たちの手で、自分たちの路地を灯していった。


 それでも、病は止まらなかった。


 戸口の白い布は、増え続けた。

 ノクティエルは、毎晩、帳面に名前を書いた。

 灯した数と、灯せなかった数と、死んだ人の名前を。


 ある朝、灯さなかった柱の下で、一人の老人が倒れていた。

 夜のうちに、薬をもらいに出て、暗い路地で、足を取られたのだという。

 そのまま、朝まで、誰にも見つけられなかった。


 ノクティエルは、その柱を見上げた。

 帳面では、灯す順番の、ずっと後ろにあった柱だった。

 油が足りなかった。

 だから、後ろに回した。


 ノクティエルは、その夜、帳面に、老人の名前を書いた。

 その横に、もう一行、書き足した。


 ――この柱を灯さないと決めたのは、僕だ。


 仕方がなかった、とは、書かなかった。


 ◇


 リラの母親が倒れたのは、病の峠の夜だった。


 ノクティエルは、リラの窓の灯を、その夜だけは、一晩じゅう、消さなかった。

 油が尽きかけると、板と棒で火を起こし、獣脂を溶かして、灯をつないだ。

 窓の向こうで、リラが、母親の手を握っていた。

 ノクティエルは、梯子の上から、それを見ていた。


 朝、リラの家の戸口に、白い布が下がった。


 ノクティエルは、梯子を降り、戸口に座り込んだリラの隣に、腰を下ろした。

 何も言わなかった。

 言えることが、何もなかった。

 ただ、リラが泣き止むまで、隣にいた。

 海の段で、怖いまま、尾鰭の欠けた一匹の隣にいたように。


 リラも、熱を出していた。

 ノクティエルは、リラを背負って、井戸のそばの、皆で看病している家へ運んだ。

 蛙の段で、背中に丸い体を乗せて、坂を這ったように。


 ◇


 ある夜、井戸の縁に、サタンが座っていた。


 白い外套ではなかった。

 白い翼の縁だけが煤けた、天使の姿のままだった。

 旧市街の者たちには、見えていないようだった。


〈まだ、続けるのか〉


「続ける」


〈では、最後の試しをしよう〉


 サタンは、夜空を指さした。

 雲の切れ間の、ずっと上。

 そこに、ノクティエルは、白い庭の底を見た。

 秤の園だった。

 その底に、細い光の扉が、開いていた。


〈今、ここで、扉を開けてやる。君は天界へ戻れる。灯し手として。いや、十の段を越えた者として、金色の翼で〉


〈条件は、一つだけだ〉


〈この病で、次に死ぬ一人を、君が選べ。誰でもいい。名前を一つ、言えばいい。その者の命と引き換えに、扉は開く〉


〈どうせ、誰かは死ぬのだ。君が選ばなくても、病が選ぶ。だったら、君が選んだところで、何も変わらない。変わるのは、君が天界へ帰れるかどうかだけだ〉


 ノクティエルは、帳面を、胸に抱えた。


 三冊の帳面。

 その中に、旧市街の者たちの名前が、全部、あった。

 まだ生きている者の名前も。

 リラの名前も。


「選ばない」


〈なぜだ。誰かは死ぬ〉


「誰かは死ぬ。でも、それを僕が選んだら、その人は、病で死んだんじゃなくて、僕が天界へ帰るために死んだことになる」


「北の門で、僕は、二百十七を、自分が認められるために焼いた。もう、誰の命も、僕の翼のために使わない」


 ◇


 サタンは、長いあいだ、黙っていた。


〈……君は、昇りきれると思うか〉


「わからない」


 ノクティエルは、正直に答えた。


「たぶん、昇りきれない。僕は、今も、飢えてる。見られたがってる。怖がってる。握りたがってる。高く飛びたがってる。誰かを縛りたくなる。決められない。善いことを、帳尻合わせに使いたくなる。全部、まだ、ここにある」


「でも、言い張らない。間違えたら、間違えたと言う。暗くなった場所も、冷えた場所も、全部、数える。昇りきれるかどうかじゃなくて、数えるのをやめないことだけは、できる」


 サタンの手の中で、硝子の瓶が、かすかに揺れた。


〈……わたしは〉


 サタンの声が、初めて、少しだけ、揺れた。


〈わたしは、言い張った。見捨てた者を、仕方がなかったと。傷つけた者を、大きな善のためだったと。一人も、数えなかった。数えたら、重さに潰れると思った〉


〈秤の仕組みが、誰も通さないようにできていると、思いたかった。そうでなければ、わたしが落ちたのは、わたしのせいになる〉


〈……わたしのせいだった〉


 ぱりん、と、小さな音がした。


 サタンの手の中で、硝子の瓶が、割れていた。

 黒みがかった赤い火が、こぼれた。

 こぼれた火は、地面には落ちなかった。

 ふわりと浮かび上がり、夜空の、ずっと東の方へ、細い糸のように昇っていった。

 夜明け前の空に、ひとつだけ残る、明けの星の方へ。


〈あの者に、返しておく〉


 サタンは、立ち上がった。

 煤けた翼の縁を、少しだけ、見下ろした。


〈数えてみるよ。わたしが、数えなかった者たちを。何千年かかるか、わからないが〉


 白い翼の天使は、それきり、旧市街の夜から、消えた。


 ◇


 病は、冬の初めに、収まった。


 旧市街で死んだ者は、百十二人だった。

 ノクティエルは、その全員の名前を、帳面に書いた。

 灯さなかった柱の下で死んだ者には、その柱の場所と、灯さないと決めたのが自分であることを、一行ずつ書き添えた。


 帳面の最後の頁に、ノクティエルは、もう一つ、書いた。


 ――ティオたちが運んだ油の壺、十九。


 灯せた灯は、旧市街の者たちの手で、二百十七本のうち、百八十本まで増えていた。

 残りの三十七本は、最後まで、灯せなかった。

 その三十七本の柱の場所も、一本ずつ、書いた。


 リラは、生きていた。

 熱が下がった朝、リラは、窓を開けて、ノクティエルに手を振った。

 その手は、細く、まだ震えていた。

 それでも、振っていた。


 ここにいる。


 門が開いた日、ティオが、旧市街に入ってきた。

 何も言わずに、ノクティエルの肩を、強く叩いた。


 それから、ノクティエルは、長く生きた。


 旧市街の点灯夫を、ずっと続けた。

 梯子で、一本ずつ。

 二百十七本。

 リラが初めて灯をともしたのは、十二の春だった。

 自分の家の窓の前の、角の灯。

 毎晩、窓から見上げていた灯。

 梯子の上で、リラは、火を入れる前に、灯の柱に、とん、とん、と、二度、触れた。

 ノクティエルが教えたわけではなかった。

 病の冬、交代の合図の音を、窓の向こうで、何度も聞いていたのだ。


 リラは、大きくなって、点灯夫になった。

 ノクティエルの梯子の、二本目を担いで、隣の路地を灯すようになった。


 ティオは、ノクティエルより先に、年を取って死んだ。

 最期まで、竿の扱いは街でいちばんだった。

 ノクティエルは、ティオの名前を、帳面に書いた。

 その横に、油の壺の絵を、一つ、描き足した。


 帳面は、何十冊にもなった。

 死んだ者の名前と、生まれた者の名前と、灯した数と、灯せなかった数。

 旧市街の誰もが、その帳面のことを知っていた。

 誰かが死ぬと、家族が、名前を書きに来るようになった。

 子どもが生まれると、親が、名前を書きに来るようになった。


 年を取っても、ノクティエルは、毎夕、三つ目の鐘で家を出た。

 一つ目でも、二つ目でもなく。

 若い点灯夫たちは、それを、のろいとは言わなかった。

 三つ目の鐘が鳴ると、旧市街の窓という窓から、子どもたちが顔を出した。

 灯の顔を、見るために。


 ある年の九月七日、年老いたノクティエルは、旧市街の真ん中の井戸の縁で、目を閉じた。

 その夜も、二百十七本の灯は、リラと、リラの教えた若い点灯夫たちの手で、一本ずつ、灯されていた。


 ◇


 白い庭の朝は、音から始まる。


 星のない空の底で、千の鈴が一度に鳴る。


 北の門に、魂の列が並んでいた。

 ノクティエルは、その列の、いちばん最後尾にいた。


 体はなかった。

 翼もなかった。

 ただ、暗かった。

 生きていた頃の記憶と、死んだ瞬間の静けさで、自分の形が、ぼんやりとしか見えなかった。


 列の先で、誰かが、灯をともしていた。


 片翼の天使だった。

 片方の翼は、金色に光っていた。

 もう片方は、根元から、黒く焦げたままだった。

 その天使は、群れのまま灯すのではなく、一つずつ、魂の胸に、火を入れていた。

 白い炎ではなかった。

 小さく、細く、震える、橙色の火だった。


 ノクティエルの番が来た。


 片翼の天使は、灯し棒を、ノクティエルの胸に近づけた。

 それから、手を止めた。


「……ノクティエル」


 ハリエルの声だった。


 ノクティエルの胸に、火が入った。

 自分の形が、はっきりと、見えるようになった。


「ハリエル」


 ノクティエルは、言った。

 白い石を、胸の奥から取り出すように。


「あの朝、僕は、君が来るのを見ていた。見ていて、先に灯した。君は、遅れていなかった。君は、僕のために、嘘をついた」


 ハリエルは、長いあいだ、黙っていた。


「……知ってたのか」


「思い出した。ずいぶん、遅くなった」


 ハリエルは、焦げた方の翼を、少しだけ揺らした。


「あれから、僕は、一つずつ灯すようにしたんだ。群れ灯しはやめた。片翼じゃ、群れを一度に照らせない。だから、君のやり方を、真似した」


「顔を、覚えるようになったよ。一つずつ。君が、そうしていたみたいに」


 ノクティエルは、ハリエルの焦げた翼を見た。


「その翼は」


「戻らなかった」


 ハリエルは、あっさりと言った。


「ネメシス様は、嘘をついた僕にも、秤を傾けた。片翼のまま、一つずつ灯すこと。それが、僕の皿の上のことだった。悪くなかったよ。一つずつ灯すようになって、初めて、灯した魂の顔が見えるようになったんだ」


「……ごめん」


「謝らなくていい」


 ハリエルは、首を振った。


「君は、ずっと、二百十七を数えてたんだろう。水たまりから、ずっと。僕は、知ってたよ。ネメシス様が、ときどき、教えてくれたから。今日、あいつは、また一つ数えたって」


「だから、謝らなくていい。もう、十分に、数えてくれた」


 ハリエルは、少しだけ、笑った。


「扉の前で、君が下へ落ちていくのを見た時、ああ、こいつは、ちゃんと自分の翼で来るつもりなんだって、わかった。だから、待てた」


 ◇


 秤の柱の下に、ネメシスが立っていた。

 その隣に、ヘルメスがいた。


「十の段の判定を告げる」


 大いなる秤の片方の皿に、何十冊もの、油と煤で黒ずんだ帳面が載っていた。

 もう片方の皿には、割れた硝子の瓶のかけらが、一つ。


 秤は、どちらにも、傾かなかった。

 重さが釣り合ったのではなかった。

 どちらの皿も、ただ、静かに、そこにあった。


「お前は、昇りきってはいない。傷は、すべて残っている。だが、お前は、命令もなく、褒美もなく、秤も見えぬ場所で、善を選んだ。そして、選んだものの重さを、一度も言い張らずに数えた」


 ネメシスは、布を、外した。

 初めて見る目だった。

 ひどく静かで、ひどく、疲れた目だった。


「お前に、白の翼を与えることもできる。金の翼も」


「……灰色のままで、いいです」


 ノクティエルは言った。


「火は、細いままで。最後尾の、小さな魂を、受け持たせてください」


 ネメシスは、しばらく、ノクティエルを見ていた。

 それから、短く、うなずいた。


 ノクティエルの背中に、何かが、生えた。

 翼だった。

 灰色の、細い翼。

 三百年、背負っていたのと、同じ色の翼。

 だが、今度の翼は、重くなかった。


「あの者たちは、どうなったのですか」


 ノクティエルは、尋ねた。


「蠅の王も、冠の囁き手も、海の底の者も、閉じる者も、蓄える者も、明けの星も、愛を縛った者も、責任から逃げた者も」


「それぞれの皿の上だ」


 ネメシスは言った。


「閉じる者は、いくつかの季節の終わりに、また戸口に立つようになった。愛を縛った者は、空っぽを抱えて、まだ歩いている。明けの星は、今も夜明けの空に残って、渡る鳥の道を照らしている。数えることを始めた者もいる。あの、白い翼の縁が煤けた者も」


「救われたとは言わぬ。だが、一度、自分の皿を見た者は、もう、見なかったふりはできない」


「白い翼の縁が煤けた者は、旧市街の夜を去ったあと、命の一番下へ、自分から降りていった。今は、どこかの水たまりで、膜の体で、甘い粒を探している。今度は、隣の膜から奪わずにいられるかどうか。それは、あれの皿の上のことだ」


 ノクティエルは、目を閉じた。

 水たまりの、ぬるく濁った水を、思い出した。

 あの暗さの中で、ひとりで、もう一度始めることの、途方もなさを。


「……数えてくれる者が、いるといいですね」


「いる」


 ネメシスは、短く言った。


「お前の帳面に、あれの名前も、書いてあっただろう」


 ノクティエルは、うなずいた。

 旧市街の最後の帳面の、最後の行。

 セオドア・グレイ。

 その横に、ノクティエルは、こう書いていた。

 ――瓶を割った人。


「そして、お前の中の、罪を知る声は」


〈ここにいる〉


 ノクティエルの胸の奥で、自分と同じ声が、静かに答えた。


「……連れていけ」


 ネメシスは、ほんのわずかに、目を細めた。


 ヘルメスが、帽子を脱いだ。


「見せたいものがある」


 ヘルメスが杖を振ると、北の門の外に、新しい列が現れた。


 小さな魂の列だった。

 手のひらに載るほどの。

 膜の形をした光。

 鋏を持つ光。

 鰭の欠けた光。

 尾の消えかけた光。

 短い尾の光。

 羽の折れた光。

 白い耳の光。

 片足を引きずる光。

 小さな手の光。

 背を丸めた、火の匂いのする光。

 梯子を担いだような形の、細長い光。

 触角で、とん、と何かを数えるような仕草の光。


 ノクティエルは、それぞれが誰なのか、すぐにわかった。

 一つずつ、顔が見えた。


 二百十七の魂だった。

 そして、ノクティエルが数えてきた、すべての者たちだった。


「昇り直して、ようやく、ここまで来た」


 ヘルメスが言った。


「お前が十の段を昇るあいだ、この者たちも、お前のそばで、生まれては消え、また生まれて昇ってきた。お前が数えるたびに、この者たちは、自分がそこにいたことを、誰かに覚えてもらえた。それが、昇るための灯になった」


「進化を、逆さまに降りた天使がいた。一番下から、もう一度。その先に、何があるか、誰も知らなかった。わたしもだ」


 ヘルメスは、少しだけ、笑った。


「その先にあったのは、天界じゃなかった。一つずつ灯す、手だったな」


「秤に載るには、灯が要る。誰に灯してほしいかと聞いたら、皆、同じことを言った」


 列の先頭の、小さな膜の光が、ふるりと震えた。


 ここにいる。


 ◇


 ノクティエルの手に、灯し棒があった。

 先に、小さな、震える、橙色の火が立っていた。


 ハリエルが、隣に立った。

 片翼で。

 灯し棒を握って。


 ノクティエルは、最初の膜の光に、火を近づけた。


「怖くない。もう、怖くないよ」


 膜の光が、明るくなった。


 一。


 ハリエルが、隣の光に、火を入れた。


 二。


 千の鈴が、鳴った。

 一つ目。

 二つ目。

 三つ目。


 鋏を持つ小さな光に、火を入れた。

 三。

 鰭の欠けた光に。

 四。

 尾の消えかけた光に。

 五。


 列は、まだ、ずっと続いていた。

 門の外の、そのまた外まで。

 灯されるのを待つ、小さな、暗い光たち。


 ノクティエルの火は、細かった。

 一つ灯すのに、時間がかかった。

 ハリエルの片翼では、群れを一度に照らすことはできなかった。


 それでよかった。

 一つずつなら、顔が見える。

 一つずつなら、覚えていられる。


 三つ目の鈴の中で、灰色の翼の灯し手と、片翼の灯し手は、並んで、一つずつ、数え続けた。


 ここにいる。

 ここにいる。

 ここにいる。


 ――完――


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