第8話 ひび割れの川
乾いた泥は、思っていたよりも、ずっと熱かった。
前脚を下ろすたびに、指の腹が、じゅっと焼ける気がした。
後ろ脚で蹴ると、表面の薄い殻がぱりぱりと割れ、その下の、まだ少しだけ湿った土に、足先が沈む。
ノクティエルは、跳ねなかった。
跳ねれば、背中の丸い体が振り落とされる。
四本の脚で、一歩ずつ、這っていった。
背中の上で、丸い体が、小さく尾をくねらせていた。
くねらせるたびに、背中の皮膚から、水が少しずつ減っていくのがわかった。
この体の皮膚は、水を蓄えていられる。
だが、無限にではない。
太陽は、容赦なく、背中の水を空へ吸い上げていく。
盛り上がりは、なだらかに見えた。
だが、這って登る体には、果てしなく続く坂だった。
草の根が、行く手を塞ぐ。
石が、転がっている。
そのたびに、回り道をした。
回り道をするたびに、背中の水が、また減っていった。
空の高いところに、細長い影が、ゆっくりと輪を描いていた。
鷺だった。
ノクティエルの四本の脚が、勝手に縮こまる。
見られている。
隠れる場所が、どこにもない。
ノクティエルは、草の根元に体を押しつけ、じっと動かなかった。
鷺の影が、行き過ぎるまで。
それまで、背中の丸い体は、少しずつ、少しずつ、乾いていった。
影が遠ざかってから、また這い始めた。
◇
盛り上がりを越えた時、背中の丸い体は、ほとんど動いていなかった。
坂の下に、水が見えた。
ノクティエルが沼の中から見た、あの小さな光。
近くで見ると、それは、思っていたよりも大きな池だった。
岩のくぼみに溜まった、深く、暗く、冷たそうな水。
まわりには、湿った苔が生えていた。
ノクティエルは、坂を這い下りた。
這い下りながら、何度も、背中の丸い体の揺れを確かめた。
まだ、かすかに、動いている。
池の縁にたどり着いた。
ノクティエルは、体を低くし、背中を水に浸けた。
丸い体が、背中のくぼみから、するりと水の中へ滑り落ちた。
しばらく、動かなかった。
ノクティエルは、水の縁で、じっと待った。
やがて、丸い体が、小さく尾を振った。
一度。
また一度。
そして、池の暗い深みの方へ、ゆっくりと泳いでいった。
――生きている。
池の縁の苔の上に、小さな蛙が、何匹か、うずくまっていた。
ノクティエルと同じくらいの大きさ。
尾は、もう、すっかり消えている。
沼で、変わるのが早く、草むらの奥へ消えていった者たちだった。
この体の目は、それがわかった。
背中の模様が、沼の泥の色を、まだ、ほんの少しだけ残していたから。
あの者たちは、干からびてはいなかった。
鷺に、すべてさらわれたわけでもなかった。
怖いまま、草むらを這い、この池を、自分たちで見つけていた。
消えたのか、生きているのか、わからなかった者たち。
どちらの数に入れればいいのか、わからなかった者たち。
その者たちが、苔の上で、ノクティエルを、じっと見ていた。
ノクティエルは、自分の背中を、水に浸けたまま、しばらく動けなかった。
皮膚が、冷たい水を吸い込んでいく。
焼けるようだった背中が、少しずつ、ほどけていく。
それから、振り返った。
盛り上がりの向こうに、沼がある。
何百の丸い体が、まだ、浅い水の中に残っている。
〈一匹だ〉
アバドンの声が、背後の坂の上から、ぴしり、と裂けた。
〈おめでとう。お前は、一匹、救った。その間に、沼では、八つが干からびた。お前は、それを数えていない。見ていないから、数えられない〉
ノクティエルは、答えなかった。
答えずに、池の水を、背中に、たっぷりと吸わせた。
それから、また、坂を登り始めた。
◇
二匹目は、坂の途中で、動かなくなった。
太陽が、一匹目の時よりも高く昇っていた。
背中の水が、一匹目の時よりも早く減っていった。
ノクティエルは、急いだ。
急いで、草の根に脚を取られ、転んだ。
背中の丸い体が、乾いた泥の上へ、ころりと転がり落ちた。
拾い上げようとした。
この体の口は、小さく、柔らかい丸い体をくわえるには向いていなかった。
前脚で、背中へ押し戻そうとした。
うまくいかなかった。
何度も、何度も、試した。
そのあいだに、丸い体は、泥の上で、動かなくなった。
二百五十三。
ノクティエルは、坂の途中で、しばらくうずくまっていた。
転んだのは、自分だった。
急いだのも、自分だった。
鷺を恐れて、一匹目の時に、長く隠れすぎた。
そのぶん、今度は急がなければと思った。
自分の恐れが、二匹目を殺した。
〈ほら〉
アバドンの声が、ひどく優しかった。
〈言っただろう。無駄だと。お前が這うたびに、沼でも、坂でも、死が増える。お前は、救っているつもりで、死を運んでいるだけだ〉
ノクティエルは、動かなくなった丸い体を、前脚で、そっと押した。
池の方へ。
せめて、水のそばへ。
それから、坂を下り、池で背中を濡らし、また、坂を登り始めた。
◇
その夜、ノクティエルは、池の縁で動けなくなった。
月が出ていた。
盛り上がりの上に、白く、細い月が、傾いて浮かんでいた。
背中の皮膚が、何か所もひび割れていた。
割れ目から、じくじくと何かが滲んで、痛んだ。
ノクティエルは、池の浅いところに体を沈め、目だけを水面から出していた。
池の水が、ひび割れた皮膚に、ゆっくりとしみこんでいく。
しみこむたびに、痛みが、少しずつ、鈍くなっていく。
朝が近づく頃、ノクティエルは、自分の背中のひび割れが、いくつか、ふさがりかけていることに気づいた。
――治っている。
石の下で千切れた脚は、脱皮のあとに、細く短く生え直した。
この体は、それよりも、ずっと早く、傷を閉じていく。
水さえあれば。
夜のあいだ、冷たい水の中にいさえすれば。
ノクティエルは、月を見上げた。
天界から見下ろした地上の灯を、思い出した。
あの頃、自分は、地上の命が、どれほどの痛みの上で生きているのかを、知らなかった。
灯される前の魂の暗さを、ただの暗さだと思っていた。
あの暗さの中には、乾いた坂も、転げ落ちた背中の重さも、ひび割れた皮膚の痛みも、全部、入っていたのかもしれない。
月が沈む前に、ノクティエルは、池から這い上がった。
まだ、背中のひび割れは、全部はふさがっていなかった。
それでも、また、坂を登り始めた。
◇
三匹目は、池まで届いた。
四匹目も、届いた。
五匹目は、坂の頂上で、鷺の影に見つかり、草むらに隠れたまま、背中の上で乾いた。
五匹目が乾いていくあいだ、ノクティエルは、草むらの中で、ずっと鷺の影を見上げていた。
影が遠ざかるまで、動かなかった。
動けば、二匹とも見つかるかもしれない。
そう思って、動かなかった。
影が去ったとき、背中の丸い体は、もう、尾を振らなかった。
二匹とも見つかるかもしれない、と思った。
本当は、自分が見つかるのが、怖かっただけではないのか。
海の段で、光った者が見つかると知った。
見つかって、体が終わった。
あの終わりを、この体は、まだ覚えていた。
覚えているから、隠れすぎた。
二百五十四。
六匹目は、届いた。
七匹目は、届いた。
ノクティエルの体は、往復するたびに、重くなっていった。
脚が、思うように動かない。
背中の皮膚が、ひび割れかけていた。
池で濡らしても、すぐにまた乾いてしまう。
沼に戻るたびに、水は、また浅くなっていた。
残っている丸い体も、減っていた。
何百いたものが、もう、百を切っていた。
尾が消えかけ、自分で這い出していった者もいた。
だが、ほとんどは、浅い泥の上で、動かなくなっていった。
ノクティエルは、数えた。
戻るたびに、泥の上の、動かなくなった丸い体を、一つずつ数えた。
坂の上で失った二つも、数えた。
二百六十を越えた。
二百七十を越えた。
〈まだ、続けるのか〉
アバドンの声が、沼のまわりの泥を、一斉にひび割れさせた。
〈お前が運んだのは、五つだ。沼で干からびたのは、四十を越える。お前が一匹運ぶあいだに、八つが死ぬ。五つ運べば、四十が死ぬ。それでも、続けるのか〉
「……続ける」
初めて、声が、乾いた空気の中へ滲み出ていった。
海の段の時のように。
〈なぜだ〉
「わからない」
ノクティエルは、正直に答えた。
「無駄かもしれない。あなたの言う通りかもしれない。でも、池の中で、五つが泳いでいる。それは、無駄じゃない」
〈五つのために、四十を見殺しにしてもか〉
「見殺しにしたいわけじゃない。運べないだけだ」
ノクティエルは、沼の縁に、うずくまった。
脚が、もう、震えていた。
「運べない。だから、運べる分だけ、運ぶ。それしか、ないんだ」
◇
〈……ふん〉
アバドンの声が、少しだけ、黙った。
沼の縁の、大きなひび割れ。
その割れ目の形が、また、笑い顔のように歪んでいた。
だが、その笑い顔は、どこか、疲れているように見えた。
〈お前は、変だな〉
〈わたしは、終わらせる者だ。沼を干上がらせ、森を枯らし、町を崩し、国を滅ぼしてきた。終わりの前で、者どもは皆、二つのどちらかを選ぶ。最後まで抗って、わたしを呪いながら終わるか。諦めて、わたしにひれ伏して終わるか〉
〈お前は、どちらでもない。抗ってもいない。諦めてもいない。ただ、無駄だとわかったまま、這っている〉
ノクティエルは、ひび割れの笑い顔を見つめた。
「……あなたは、なぜ、終わらせるんだ」
〈なぜ?〉
「蠅の王は、腹が空いていた。冠の囁き手は、認められたかった。海の底の者は、怖れていた。あなたは、何がほしいんだ」
乾いた声が、長いあいだ、黙っていた。
太陽が、少しずつ、傾いていった。
〈……終わりは、誰も覚えていない〉
やがて、アバドンが言った。
ぴしり、という裂ける音が、どこか、遠くで鳴ったように聞こえた。
〈始まりは、覚えられる。生まれた日は、祝われる。だが、終わりは、ただ過ぎていく。干上がった沼のことを、誰が覚えている。崩れた町の最後の一日を、誰が数える。わたしは、終わらせる者だ。終わらせるたびに、わたしのしたことは、誰の記憶にも残らない〉
〈わたしは、もともと、閉じる者だった〉
乾いた声が、遠い昔を探るように、ゆっくりと続いた。
〈季節の終わりに、扉を閉じる。夏が去る時、その戸口に立って、最後の暑さを、静かに送り出す。秋の実が落ちきった時、枝に残った最後の葉を、そっと払う。そういう役目だった。終わったものを、次へ渡すための、最後の手だった〉
〈だが、誰も、閉じる手を見なかった。人も、獣も、神々でさえ。皆、扉が開く方ばかりを見ていた。新しい季節。新しい芽。新しい命。わたしが閉じた扉のことは、誰も、振り返らなかった〉
〈だから、閉じるのを、やめた。代わりに、壊すことにした。壊せば、少なくとも、恐れられる。恐れられれば、覚えられる〉
〈だから、せめて、全部を終わらせたかった。全部が終われば、終わりそのものが、最後に残る唯一のものになる〉
ノクティエルは、その言葉を、乾いた皮膚で受け止めた。
――終わりは、誰も覚えていない。
それは、天界で、二百十七の魂について、ノクティエルが恐れていたことと、同じだった。
灯されぬまま失われた魂。
誰にも数えられず、ただ消えていった魂。
だから、数えた。
水たまりから、ずっと。
終わりを、覚えておくために。
「僕は、数えている」
ノクティエルは言った。
「この沼で、干からびた者を。坂の上で、乾いた者を。数えられなかった海の群れも、群れのまま覚えている。……あなたが終わらせたものも、僕は、数えている」
〈……〉
「終わりは、誰も覚えていないわけじゃない。少なくとも、ひとりは、覚えている」
◇
ひび割れの笑い顔が、ゆっくりと、形を変えた。
笑ってはいなかった。
泣いても、いなかった。
ただ、割れ目が、深くなっていった。
〈……数える者に、何がわかる〉
声が、低く、ひび割れた。
〈だが、いいだろう。一度だけ、試してやる〉
〈お前は、わたしに、何をしてほしい〉
ノクティエルは、すぐには答えられなかった。
悪魔に、何かを頼むなど、考えたこともなかった。
だが、沼の縁にうずくまったまま、坂の上を見た。
盛り上がり。
その向こうの、低い池。
「……この沼を、終わらせてくれ」
〈何?〉
「終わらせる者なら、終わらせてくれ。でも、干からびる形じゃなく。あの盛り上がりを、割ってくれ。この沼の水が、全部、あの池へ流れ落ちるように」
ひび割れの奥で、何かが、ぴたりと止まった。
「この沼は、どうせ干上がる。あなたの言う通りだ。だったら、干上がる前に、水ごと、あっちへ流してほしい。残っている者たちが、水と一緒に、向こうへ行けるように」
長い、長い沈黙があった。
〈……それは、終わりではない〉
アバドンの声が、かすかに震えた。
〈それは、移ることだ〉
「終わりだよ。この沼は、終わる。でも、何かが、どこかへ続く」
〈……〉
「あなたが終わらせたこの沼を、僕は、数える。最後の一日まで、覚えておく」
◇
大地が、裂けた。
ぴしり、という音ではなかった。
どおん、と、腹の底から響くような音だった。
沼の縁から、盛り上がりへ向かって、一本の太いひび割れが、まっすぐに走っていった。
盛り上がりのいちばん高いところで、ひび割れは、さらに大きく口を開けた。
土が崩れ、石が転がり落ち、乾いた泥の壁が、ゆっくりと、二つに割れていった。
沼の水が、動いた。
浅く残っていた水が、ひび割れの方へ、ずるずると引かれていく。
最初は、ゆっくりと。
やがて、勢いを増して。
ひび割れは、溝になり、溝は、細い川になった。
盛り上がりの割れ目を抜けて、坂を下り、低い池へ。
沼に残っていた丸い体たちが、水と一緒に、流されていった。
泥の上に取り残されかけていた者も、流れに拾われた。
ノクティエルは、沼の縁から、それを見ていた。
流れの中で、何十もの小さな尾が、くねっていた。
ノクティエルも、流れに飛び込んだ。
四本の脚で、水を掻いた。
尾はもうない。
それでも、この体は、水の中でも、まだ泳げた。
坂を下る流れは、速かった。
石に何度もぶつかった。
だが、ノクティエルは、丸い体たちの最後尾を、ずっと泳ぎ続けた。
海の段で、群れの最後尾についたのと同じように。
坂の中ほどで、流れが、大きな石にぶつかって二つに割れていた。
その石の手前の、水の淀んだところに、丸い体が一匹、引っかかっていた。
流れに押しつけられ、石と泥のあいだに挟まれて、尾をくねらせても抜け出せない。
水は、どんどん先へ流れていく。
淀みの水も、少しずつ、減っていく。
ノクティエルは、流れに逆らって、石の手前へ泳ぎ寄った。
尾の長かった頃、何度も試して、一度も成功しなかったこと。
頭で押す。
水の方へ。
今度は、頭ではなく、前脚を使った。
石と泥のあいだに、前脚を差し込む。
後ろ脚で、流れの底の泥を、ぐいと蹴る。
四本の脚の体は、押すための力を、ちゃんと持っていた。
丸い体が、石と泥のあいだから、ぽろりと外れた。
外れた途端、流れに拾われて、坂の下へ運ばれていった。
ノクティエルは、石にしがみついたまま、それを見送った。
沼の縁で、何日も、何十回も、うまくいかなかったこと。
変わった体なら、できた。
それから、石を離し、また流れに身を任せた。
流れが、池に落ちた。
冷たく、深い水が、ノクティエルの全身を包んだ。
◇
池の水面に浮かび上がると、空が、赤く染まっていた。
夕暮れだった。
池の中で、何十もの丸い体が、泳ぎ回っていた。
先に運んだ五つも、その中にいるはずだった。
どれがどれなのか、もう、わからなかった。
わからなくて、よかった。
苔の上の小さな蛙たちが、水際まで降りてきて、泳ぎ回る丸い体たちを、じっと見下ろしていた。
いつか、あの丸い体たちも、尾が消えて、あの苔の上へ這い上がっていく。
そして、また、どこかの干上がりかけた沼で、誰かを背中に乗せるのかもしれない。
振り返ると、盛り上がりに、一本の深い溝が刻まれていた。
その溝の底を、まだ細く、水が流れ続けている。
沼の、最後の水だった。
溝の両側の泥に、ひび割れが、細かく走っていた。
その形が、笑い顔にも、泣き顔にも見えなかった。
ただの、乾いた土のひびだった。
〈……一度だけだ〉
かすかな声が、溝の底から聞こえた。
〈わたしは、変わったわけではない。また、どこかで、何かを終わらせる。干からびる形で。誰にも覚えられない形で〉
「それでも、今日のことは、僕が覚えている」
〈……数える者め〉
声は、それきり、聞こえなくなった。
乾いた土のひび割れだけが、夕暮れの光の中に残っていた。
ノクティエルは、沼の最後の数を、心の中で確かめた。
二百七十八。
そして、その隣に、一つの沼。
終わったものとして、覚えておくべきもの。
◇
白い場所で、大いなる秤が揺れていた。
片方の皿に、乾いた土の欠片が一つ、載っていた。
欠片には、細いひび割れが、一本だけ走っていた。
ひび割れの底を、ほんのわずかに、水が光っていた。
「第四の段の判定を告げる」
ネメシスの声が、白い場所に響いた。
「お前は、滅びの淵の者を倒していない。退けてもいない。だが、あれに、自ら、一度だけ、別の終わりを選ばせた」
ネメシスは、少しだけ、言葉を区切った。
「あれは、罪を認めてはいない。罰も受け入れてはいない。見返りを求めなかったかどうかも、わからぬ。だが、攻撃を止め、己の力を、反対の向きに、一度だけ使った」
「仮の救済とする」
ノクティエルは、白い場所で、問いを滲ませた。
「……あれは、これから、どうなるのですか」
「わからぬ」
ネメシスは、はっきりと言った。
「仮の救済とは、まだ何も決まっていないということだ。あれは、また、干からびる形で何かを終わらせるかもしれぬ。あるいは、いつか、閉じる手に戻るかもしれぬ。それを選ぶのは、あれ自身だ。お前ではない」
「僕は、何もできないのですか」
「できることは、もうした。お前は、あれの終わりを数えた。それを、あれは知った。知ったことは、消えぬ」
ヘルメスが、秤の柱の陰で、短く息を吐いた。
「悪魔に、頼みごとをした天使なんて、初めて見たよ」
「……救ったつもりは、ありません」
「わかってる。だから、仮なんだ」
ヘルメスは、杖の先で、ノクティエルの光に触れた。
「お前自身の判定は、昇格だ。だが、傷は残る。救えなかった命の記憶だ。坂の上で乾いた二つ。お前が転んだせいで、隠れすぎたせいで、失った二つ。それを、お前はずっと抱えていく。次の段でも、誰かを救うたびに、救えなかった方を先に思い出す」
「四つ目の能力は、違う場所に体を合わせて生きる力と、傷を負っても、また立て直す力。四つ目の心は――」
ヘルメスは、池の中の、何十もの小さな尾を思い浮かべるように、目を細めた。
「変わることを、受け入れる心。失敗のあとでも、もう一度、這い始められる心だ」
ネメシスが、布の奥で言った。
「お前は、悪魔の終わりを数えた。それは、悪魔にとって、初めてのことだったかもしれぬ」
ヘルメスが、杖を振り上げた。
「第五の段。次は、乾いた土地だ。水は、もう、お前の皮膚を守ってくれない。硬い鱗と、長い忍耐の器だ。そして、そこには、蓄えたものを決して手放さない者が待っている」
白い場所の底が、熱く、乾いていく。
砂の匂い。
焼けた岩の匂い。
そして、その熱の奥から、何かを数える音が聞こえた。
金貨を、一枚、一枚、積み上げていくような音。
落ちていく前に、ノクティエルは、もう一つの数を確かめた。
生きている者。
水たまりの、二つの膜。
石の下の、小さな兄弟。
群れの真ん中の、尾鰭の欠けた一匹。
そして、最初に背中に這い上がってきた、あの丸い体。
今は、池の深みのどこかを、何十もの仲間と一緒に泳いでいる。
五。




