第7話 尾が消えていく
最初は、柔らかい何かの中にいた。
透き通った、ぬるりとした粒。
それが、何百と連なって、水の中にゆらゆらと漂っている。
ノクティエルは、その粒の一つの、真ん中にいた。
自分のまわりを、透明な壁が包んでいる。
壁の向こうに、同じような粒の中で、同じように丸まっている小さな影が、いくつも見えた。
ハサミムシの卵は、母が一つずつ舐めて守っていた。
ここには、舐める母がいなかった。
粒は、ただ水の中に置かれたまま、誰にも見守られずに、日の光と水のぬるさだけで、少しずつ育っていった。
ある日、透明な壁が、内側からほどけた。
また、水の中だった。
だが、海ではなかった。
塩の味がしない。
ぬるく、濁っていて、底の泥の匂いがする。
そして、狭かった。
脇の線を伸ばすと、すぐに、どこかの縁に触れる。
ノクティエルは、自分の体を確かめた。
丸い。
頭と胴がひとつながりになった、丸い体。
その後ろに、長い、薄い尾が一本、ゆらゆらと揺れている。
脚は、なかった。
鰭も、なかった。
尾を振れば、前へ進む。
それだけの体だった。
海の小魚の体よりも、ずっと頼りなかった。
速くもない。
群れに合わせて、すばやく向きを変えることもできない。
ただ、尾をくねらせて、泥の上を、もぞもぞと進むだけだった。
まわりにも、同じような丸い体が、たくさんいた。
何百。
海の群れほどではないが、それでも、数えきれないほど。
皆、泥の底をつつき、藻をかじり、尾をくねらせて、狭い水の中を行き来していた。
同じ向きに泳いではいなかった。
それぞれが、ばらばらの向きに、のんびりと漂っていた。
――ここには、群れがない。
ノクティエルは、そう思った。
海では、何千が一つの生き物のように動いていた。
ここでは、何百が、ただ同じ水に、たまたま居合わせているだけだった。
◇
水は、浅い沼だった。
沼のまわりには、背の高い草が生えていた。
その草の根元に、泥の縁がある。
縁の向こうは、水ではなかった。
乾いた土。
石。
空。
ノクティエルは、縁に近づくのが、怖かった。
怖い、という気持ちは、海の段から持ち越した傷だった。
ヘルメスは言った。
知らないもの、見えないものに、必要以上に怯えるようになる。
その通りだった。
縁の向こうの乾いた世界は、知らないものの塊だった。
水がない。
水がなければ、この体は、どうなるのか。
考えるだけで、尾が勝手に縮こまり、沼の真ん中へ戻ろうとした。
沼の真ん中は、安全だった。
深くて、暗くて、ぬるい。
ノクティエルは、そこで、藻をかじって過ごした。
飢えは、ここでも疼いた。
だが、海の段で、満ちていないことに慣れていた。
藻は、沼の底にいくらでもあった。
ほかの丸い体たちと、奪い合う必要もなかった。
久しぶりに、何も奪わずに、腹を満たした。
それが、ひどく不思議なことのように思えた。
◇
何日か経った頃、体の後ろが、むずむずし始めた。
尾の付け根の、左右。
何かが、内側から押し出されてくる。
小さな、小さな、突起だった。
それが、日に日に伸びていく。
先が分かれ、細い指のようなものが生えてくる。
脚だった。
ノクティエルは、驚いて尾を振った。
脚は、泳ぐのに邪魔だった。
水の中で、ぶらぶらと揺れて、まっすぐ進めない。
まるで、海の段の、尾鰭の欠けた一匹のようだった。
まわりの丸い体たちにも、同じように脚が生え始めていた。
皆、ぎこちなく、尾をくねらせていた。
それから、もう一つ、変わったことがあった。
水の中で、息が、苦しくなった。
この体は、最初、水の中で息をしていた。
頭の両脇の、細いひだのようなところから、水の中の何かを取り込んでいた。
そのひだが、少しずつ、小さくなっていく。
代わりに、胸の奥に、空っぽの袋のようなものができていく。
その袋が、何かを欲しがっている。
水ではない何かを。
ノクティエルは、ある朝、たまらなくなって、水面へ浮き上がった。
口を、水の外へ突き出した。
空気が、胸の袋へ、流れ込んできた。
冷たかった。
乾いていた。
水よりもずっと軽く、ずっと薄い。
それなのに、胸の奥が、すうっと楽になった。
――水の外で、息をしている。
ノクティエルは、驚いて、また水の中へ潜った。
潜ると、すぐに、また苦しくなった。
浮き上がる。
息をする。
潜る。
また浮き上がる。
自分の体が、水の生き物でも、陸の生き物でもない何かに、変わりかけていた。
変わっていく自分を、止める方法はなかった。
止めたいのかどうかさえ、ノクティエルには、まだわからなかった。
◇
沼の水が、減り始めたのは、その頃だった。
雨が、降らなかった。
毎日、空は高く晴れ、太陽が、沼の水面をじりじりと焼いた。
縁の泥が、少しずつ、乾いて白くなっていく。
縁が、日ごとに、内側へ寄ってくる。
水たまりと、同じだった。
ノクティエルの体の奥で、いちばん古い記憶が疼いた。
膜の頃。
干上がっていく水たまり。
甘い粒が減り、苦い粒が増え、膜の味が一つ、また一つと消えていった、あの日々。
沼でも、それが始まった。
縁の近くにいた丸い体が、泥に取り残された。
水が引いたあとの、浅いぬかるみ。
尾をくねらせても、もう水がない。
丸い体は、ぬかるみの上で、しばらくぴちぴちと跳ねて、やがて動かなくなった。
二百二十六。
ノクティエルは、数えた。
海の段では、数えられなかった。
ここでは、数えられた。
数えられることが、少しも、救いではなかった。
次の日、縁の近くで、また三つ、動かなくなった。
二百二十七。
二百二十八。
二百二十九。
その次の日には、十を超えた。
ノクティエルは、縁の近くで跳ねている丸い体を見つけるたびに、そこへ泳いでいった。
まだ、自分も尾の長い体だった。
縁の浅いところまで行くと、腹が泥にこすれて、思うように進めない。
それでも、頭で、ぬかるみの上の丸い体を、水の方へ押そうとした。
押せなかった。
この体の頭は、丸くて柔らかくて、何かを押すためにはできていなかった。
押せば押すほど、自分の体の方が、泥の上へずり上がっていく。
水から離れかけて、ノクティエルは慌てて尾を振り、沼の中へ戻った。
戻って、振り返ると、ぬかるみの上の丸い体は、もう、動いていなかった。
次の日も、試した。
その次の日も。
一度も、うまくいかなかった。
うまくいかないまま、数だけが、増えていった。
◇
ある昼、沼の縁に、細長い影が落ちた。
見上げると、背の高い草の上に、首の長い、脚の長い、白い鳥が立っていた。
鷺だった。
鷺は、首を大きく曲げ、浅くなった沼を、じっと見下ろしていた。
変わるのが早く、縁へ這い出しかけていた一匹の小さな蛙が、草の根元で、動きを止めた。
次の瞬間、鷺の首が、槍のように伸びた。
小さな蛙は、草の根元から、消えた。
海の段の、鳥の嘴と同じだった。
ノクティエルの体の奥で、過敏な恐れが、跳ね上がった。
縁の向こうは、怖い。
乾いた土だけではない。
そこには、鷺がいる。
水の中なら、まだ、沼の底の泥に潜って隠れられる。
水の外には、隠れる場所がない。
ノクティエルは、沼のいちばん深いところへ潜り、泥の中に体を押し込んだ。
息が苦しくなるまで、出てこなかった。
◇
〈無駄だよ〉
声がした。
乾いていた。
ひどく、乾いていた。
蠅の王の甘い腐臭も、冠の囁き手の乾いた花の香りもなかった。
リヴァイアサンの、海の底からの低い響きとも違った。
ひび割れた泥が、太陽に焼かれて、ぴしり、と裂ける音。
その音が、そのまま声になったような響きだった。
〈この沼は、干上がる。もう決まっている。雨は、当分、来ない。わたしは、知っている〉
ノクティエルは、沼の真ん中で、身をすくめた。
〈お前が何をしても、無駄だ。数えても、無駄だ。お前が数えた二百と何十かも、ここで干からびる何百も、全部、同じ泥になる〉
「……お前は、誰だ」
〈終わらせる者だよ〉
乾いた声が、ぴしり、と裂けた。
〈アバドン。滅びの淵に立つ者。お前のように、何かを数えながら生き延びようとする者の、最後の頁を閉じる者だ〉
沼の縁で、泥が、大きくひび割れた。
そのひび割れの形が、一瞬だけ、口を開けた笑い顔のように見えた。
〈いいことを教えてやろう。お前の体は、今、変わりかけているね〉
ノクティエルは、自分の脚を見下ろした。
後ろの二本は、もうずいぶん長くなっていた。
前にも、小さな突起が二つ、出始めていた。
〈変わるということは、古い自分が死ぬということだ。お前の尾は、これから、少しずつ、体の中へ溶けて消えていく。お前の頭の脇のひだも、消えていく。水の中で息をしていたお前は、死ぬ。そして、水の中では生きられない、別の何かになる〉
〈でも、それが、どうした〉
乾いた声が、ひどく優しく聞こえた。
〈どうせ沼は干上がる。尾があっても、脚があっても、同じことだ。変わったところで、何も救えない。救えないのに、なぜ、古い自分を殺してまで、変わる必要がある〉
〈変わるのを、やめればいい。尾を残して、沼の真ん中で、最後の水と一緒に、静かに終われ。そうすれば、少なくとも、お前はお前のままで終われる〉
〈お前は、もう何度も、古い自分を殺してきただろう〉
アバドンの声が、ぴしり、ぴしりと、乾いた泥を裂いていく。
〈膜を捨て、鋏を捨て、鰭を捨てた。灰色の翼の天使も、とうに死んだ。今のお前の中に、あの天使は、どれだけ残っている。三つ目の鈴で起きていた、あの細い火の天使は〉
〈変わるたびに、お前は、少しずつ、お前でなくなっていく。十の段を昇りきった時、そこに残っているのは、もう、お前ではない。誰か別の、知らない者だ。それでも、昇るのか〉
お前のままで、終われる。
その言葉が、乾いた泥のように、ノクティエルの胸の袋に、ざらりと詰まった。
◇
天界で、一度だけ、ハリエルに誘われたことがあった。
「群れ灯しを、教えてやろうか」
海の魂の群れを、ハリエルが一度に照らした、あの日のあとのことだった。
「君の火は細いけど、細い火のまま、灯し棒の振り方を変えれば、三つか四つくらいなら、まとめて灯せるかもしれない。最初は難しいけど、慣れれば」
ノクティエルは、断った。
「僕は、一つずつ灯すのが、向いてるから」
本当は、怖かったのだ。
まとめて灯すようになったら、一つずつの顔を、覚えていられなくなる。
一つずつ覚えていることだけが、灰色の翼の自分が持っている、たった一つの取り柄だった。
それを手放したら、自分には、もう何も残らない気がした。
だから、変わらなかった。
変わらないまま、三百年、灰色の翼のままだった。
そして、変わらないまま、ある夜、借り火の瓶に手を伸ばした。
自分を変えずに、結果だけを変えられる近道に。
変わることを拒んだ天使は、結局、自分ではない火に頼って、すべてを焼いた。
◇
その夜も、雨は来なかった。
空には、雲ひとつなかった。
星が、乾いた砂粒のように、びっしりと散らばっていた。
天界の西の端から見下ろした地上の灯と、ちょうど逆さまの景色だった。
ノクティエルは、浅い水の中で、星を見上げていた。
見上げながら、数を確かめた。
二百四十を、とうに越えていた。
二百五十に、近づいていた。
膜の頃は、蓄えを渡せた。
石の下では、入り口を塞げた。
海では、光って、隣にいられた。
この沼では、何もできていなかった。
頭で押しても、押せない。
隣にいても、水が減るのは止まらない。
ただ、数だけが、増えていく。
――無駄だよ。
アバドンの声が、星のない耳の奥で、何度もひび割れた。
無駄なのかもしれない、と、初めて思った。
思ってしまった。
尾を残して、沼の真ん中で、最後の水と一緒に、静かに終われ。
その言葉が、ほんの少しだけ、優しく聞こえた。
そう聞こえた自分が、いちばん、恐ろしかった。
◇
尾が、消え始めた。
アバドンの言った通りだった。
ある朝、ノクティエルは、自分の尾が、昨日よりもわずかに短くなっていることに気づいた。
次の朝には、もっと短くなっていた。
痛みはなかった。
ただ、尾が、内側へ、静かに吸い込まれていく。
海の段の小魚の体を、今のこの体へつないでいた、最後のなごりが、消えていく。
泳ぎにくくなった。
尾が短くなるほど、水の中で前へ進めなくなる。
代わりに、四本の脚が、泥を蹴るようになった。
前の二本も、いつの間にか、すっかり生え揃っていた。
頭の脇のひだは、もう、ほとんどなくなっていた。
水の中に潜っていられる時間が、日ごとに短くなる。
浮き上がって息をする回数が、日ごとに増える。
沼は、減り続けていた。
真ん中の深いところでさえ、もう、ノクティエルの背中が水面から出てしまうほどに浅くなっていた。
まわりの丸い体たちも、変わりかけていた。
変わるのが、早い者と、遅い者がいた。
早い者たちは、尾が消えかけると、一匹、また一匹と、沼の縁へ這っていった。
四本の脚で、泥の上へ。
背の高い草の根元へ。
そして、草むらの奥へ、消えていった。
水のない世界へ。
消えていった者たちが、そのあとどうなったのか、ノクティエルにはわからなかった。
草むらの向こうで、生きているのか。
鷺の首に、さらわれたのか。
乾いた土の上で、干からびたのか。
沼の中からは、何も見えなかった。
数えることも、できなかった。
消えたのか、生きているのか、わからない者を、どちらの数に入れればいいのかも、わからなかった。
わからないまま、ノクティエルは、その者たちの背中を、何度も思い出した。
怖くなかったのだろうか。
怖いまま、這っていったのだろうか。
遅い者たちは、まだ、尾が長いままだった。
脚も、後ろの二本しか生えていなかったり、前の二本がまだ小さな突起のままだったりした。
その者たちは、浅くなっていく沼の真ん中で、ただ尾をくねらせ続けていた。
水の外では、まだ、生きられない体だった。
◇
ノクティエルの尾は、ほとんど消えかけていた。
変わった、と思った。
水の中で息をしていた自分は、もう、いない。
尾をくねらせて泳いでいた自分も、もう、いない。
アバドンの言った通り、古い自分は、静かに死んでいった。
それなのに、ノクティエルは、まだ、沼の縁へ這っていけなかった。
縁の向こうが、怖かった。
乾いた土。
石。
空。
知らないものの塊。
海の段から持ち越した傷が、四本の脚を、泥に縫いつけていた。
〈そうだ。それでいい〉
アバドンの声が、満足げに、ぴしり、と裂けた。
〈怖いだろう。お前は、どちらにもなれない。水の中では、もう息ができない。水の外は、怖くて這い出せない。尾は消えた。でも、陸の生き物にもなれない。お前は、境目に挟まったまま、どちらでもないまま、ここで終わる〉
〈それが、変わるということの、本当の姿だ。古い自分は死ぬ。でも、新しい自分は、生まれない〉
ノクティエルは、浅い水の中で、胸の袋を大きく膨らませた。
苦しかった。
水の中で、もう、長くは息を止めていられない。
浮き上がった。
縁の向こうを、見た。
この体の目は、魚の頃よりも、ずっとよく見えた。
頭の上の方に、飛び出すように並んだ、二つの目。
水面のすぐ上から、ぐるりと、広い景色が見渡せた。
背の高い草。
白く乾いた泥。
その向こうに、なだらかな土の盛り上がり。
そして、その盛り上がりを越えた、さらに向こう。
光っていた。
小さな、小さな光。
太陽の光を跳ね返して、きらきらと揺れている。
水だった。
盛り上がりの向こうに、もう一つ、水があった。
この沼よりも、ずっと低いところに。
ずっと、深そうに。
◇
〈見つけたか〉
アバドンの声が、少しだけ、低くなった。
〈あそこには、水がある。この沼よりも、ずっと長くもつ水だ。でも、それが、どうした〉
〈お前一匹なら、這っていける。尾の消えたお前なら、乾いた土の上を、なんとか越えていけるかもしれない。でも、あれらは、どうする〉
沼の真ん中で、尾の長い丸い体たちが、くねっていた。
まだ、変われない者たち。
水の外へは、出られない者たち。
〈あれらは、自分では、あそこまで行けない。お前が、どうにかしてやれるか? できまい。お前の口は、小さい。お前の脚は、細い。一度に運べるのは、せいぜい、一匹。そして、あの盛り上がりを越えて戻ってくるあいだに、この沼は、また、減っていく〉
〈何百のうち、運べて、十か、二十か。残りは、ここで干からびる。お前は、それを、いちいち数えながら、這い続けるのか〉
〈無駄だよ。最初から、最後まで、全部、無駄だ〉
乾いた声が、沼のまわりの泥を、一斉にひび割れさせた。
ノクティエルは、沼の縁の、浅いぬかるみに、前脚をかけた。
怖かった。
四本の脚が、細かく、細かく、震えていた。
そのとき、ノクティエルの背中に、何かが、こつん、と当たった。
振り返った。
沼の真ん中から、尾の長い丸い体が、一匹だけ、ぎこちなく泳いできていた。
まだ、後ろの脚しか生えていない。
前の脚は、小さな突起のまま。
その丸い体が、ノクティエルの背中のくぼみに、ぴたりと頭を寄せていた。
ここにいる。
声ではなかった。
味でもなかった。
匂いでも、光でも、揺れでもなかった。
それでも、ノクティエルには、そう伝わった気がした。
ノクティエルは、背中を、少しだけ低くした。
丸い体が、そのくぼみに、もぞもぞと這い上がってきた。
ぬるい水が、背中の皮膚を伝って、丸い体を包む。
この体の皮膚は、いつも、しっとりと濡れていた。
その濡れた皮膚の上なら、丸い体は、しばらくのあいだ、乾かずにいられる。
ノクティエルは、そのとき、ようやく気づいた。
尾の長かった頃の自分には、これができなかった。
頭で押すことしかできず、押せば押すほど、自分が水から離れていった。
水の中でしか息のできない体では、水の外へ、誰かを連れていくことはできなかった。
尾が消えたから、這える。
ひだが消えたから、水の外で息ができる。
古い自分が死んだから、この背中がある。
変わるということは、古い自分が死ぬということだと、アバドンは言った。
その通りだった。
だが、アバドンは、半分しか言わなかった。
古い自分が死んだあとの体でしか、運べないものがある。
背中の上で、丸い体が、小さく尾をくねらせた。
この丸い体も、いつか、尾が消える。
消えて、四本の脚で、自分の背中に誰かを乗せる日が来るかもしれない。
〈……一匹だぞ〉
アバドンの声が、ぴしり、と裂けた。
〈何百のうちの、一匹だ。お前がそれを運んで戻ってくるあいだに、この沼で、また十が干からびる。お前は、一匹を救うたびに、十を見殺しにする。それを、何度、繰り返すつもりだ〉
ノクティエルは、答えなかった。
答えられる言葉を、まだ、持っていなかった。
前脚の下の泥は、乾いて、ひどく熱かった。
水の中で冷えていた指先が、じりじりと焼かれていく。
背中の皮膚から、水分が、少しずつ空へ吸い上げられていくのがわかった。
乾いてしまえば、背中の丸い体も、自分も、終わる。
急がなければならない。
でも、急げば、背中の丸い体が、振り落とされるかもしれない。
空が、広すぎた。
どこから鷺が降りてくるのか、わからない。
見えないもの、知らないものが、空いっぱいに満ちているように感じた。
海の段の傷が、四本の脚を、何度も、沼の方へ引き戻そうとした。
水の匂いが、遠かった。
盛り上がりの向こうの、小さな光。
あそこまで、どれくらいかかるのか、この体には、わからなかった。
それでも、ノクティエルは、数えるのをやめなかった。
失われた者の数ではない。
これから運ぶ者の数でもない。
今、背中にいる者の数。
一。
ノクティエルは、怖いまま、前脚を、乾いた泥の上へ、もう一歩、踏み出した。




