第6話 怖いまま泳ぐ
口は、どこにもなかった。
開いたのは、口ではなかった。
海そのものだった。
群れの真下の暗闇が、ゆっくりと、すり鉢の形にえぐれていく。
水が、落ちていく。
上から下へ、外から内へ、ぐるぐると回りながら、底のない底へ吸い込まれていく。
渦だった。
見渡すかぎりの海を、まるごと飲み干そうとするような、途方もなく大きな渦。
ノクティエルの脇の線が、悲鳴のように震えた。
四方八方から、同時に、引っ張られている。
右の水が下へ落ち、左の水が内へ回り、上の水が後ろから押し寄せる。
どの揺れに合わせればいいのか、わからない。
群れの揺れも、もう揺れではなかった。
何千が、ばらばらの向きに、ばらばらの速さで、渦の縁へ引きずられていく。
〈見ろ〉
低い声が、渦の底から響いた。
〈群れは、もう群れではない。何千が、それぞれの恐れで、それぞれの向きへ逃げている。誰も、誰の揺れにも合わせていない。これが、群れの本当の姿だ。恐れの前では、誰もが一匹になる〉
その通りだった。
ノクティエルのまわりで、銀色の体が、次々と渦の内側へ吸い込まれていった。
吸い込まれた体の揺れが、渦の回る音の中に、たちまち溶けていく。
一匹。
二匹。
数えられない。
数えようとした瞬間に、次の何匹かが消えていく。
脇の線の、すぐ内側。
あのぎこちない揺れが、まだ、そこにあった。
尾鰭の欠けた一匹が、渦に引かれながら、必死に体をくねらせている。
まっすぐに泳げない体が、渦の回る向きに、ぐるぐると振り回されていた。
〈離れろ〉
リヴァイアサンの声が、水を押し潰すように重くなった。
〈その一匹は、もう渦の内側にいる。お前がそばにいれば、お前も引き込まれる。今なら、まだ外へ抜けられる。渦の外は、ほんの少し先だ。全力で泳げば、お前一匹だけは〉
ノクティエルの尾が、勝手に動きかけた。
外へ。
渦の外へ。
体のすべてが、そう叫んでいた。
怖い。
怖い。
怖い。
水たまりで飢えた時も、石の下で牙に噛まれた時も、こんなふうには怖くなかった。
あの時の怖さには、まだどこかに、底があった。
この怖さには、底がない。
渦の底と同じで、どこまでも、どこまでも、落ちていく。
◇
ノクティエルは、尾を止めた。
止めた、と言えるほど、しっかりしたものではなかった。
ただ、外へ向かいかけた尾が、一度だけ、迷うように揺れた。
その一度の揺れのあいだに、ノクティエルの体は、渦に引かれて、欠けた一匹の方へ、わずかに寄った。
脇と脇が、触れた。
あの夜と同じだった。
ほんの一瞬。
それだけで、欠けた一匹の揺れが、ノクティエルの脇の線に、はっきりと流れ込んできた。
震えている。
どうしようもなく、震えている。
自分と、同じように。
――怖いのは、自分だけではない。
当たり前のことだった。
当たり前のことなのに、ノクティエルは、そのとき初めて、それを知った気がした。
何千の群れの中で、誰とも同じ色をして泳いでいた。
自分が誰でもないことが、寂しかった。
だが、誰とも同じだということは、怖さもまた、誰とも同じだということだった。
裁きの日のことを思い出した。
秤の柱の下で膝をついた時、ノクティエルは、自分ひとりが怖いのだと思っていた。
取り囲む天使たちは、誰も口をきかなかった。
冷たい目で見下ろされていると思った。
だが、あの輪の中に、本当に冷たい目をした天使は、どれほどいたのだろう。
眠りの花畑の半分が灰になった。
二百十七の魂が失われた。
自分たちの園で、それが起きたのだ。
次は自分の受け持ちが燃えるかもしれない。
次は自分の翼が焼けるかもしれない。
あの沈黙は、もしかしたら、怒りではなく、怖さだったのかもしれない。
片翼を引きずって前へ出てきたハリエルも。
あの時、ハリエルの声は、ほんのわずかに震えていた。
ノクティエルは、それに気づかなかった。
自分の怖さだけで、いっぱいだったから。
ノクティエルは、渦の外を見なかった。
見ないまま、欠けた一匹のすぐ外側に、体を滑り込ませた。
〈愚かな〉
リヴァイアサンの声に、初めて、苛立ちのようなものが混じった。
〈蠅の王から聞いた。冠の囁き手からも聞いた。お前は、そうやって、誰かのすぐ外側にばかり体を置く。それが善だと思っているのか。違う。それは、お前が、自分一匹では立っていられないからだ。誰かの外側にいれば、自分が何者かを考えずに済む。それは、恐れから逃げているだけだ〉
ノクティエルは、言い返さなかった。
言い返せなかった。
半分は、本当かもしれないと思ったからだ。
〈恐れを捨てられない者は、何も救えない〉
――そうかもしれない。
ノクティエルは、怖いまま、そう思った。
そう思いながら、欠けた一匹から離れなかった。
◇
渦の中で、ノクティエルは、一つだけ気づいたことがあった。
渦は、すべての水を同じ速さで回しているわけではない。
内側ほど速く、外側ほど遅い。
そして、渦の回る向きにそって泳げば、引き込む力は、ほんのわずかに弱まる。
逆らえば、逆らった分だけ、内側へ押し戻される。
脇の線が、それを教えていた。
何千が、ばらばらの恐れで、ばらばらの向きに逃げようとした。
渦の外へ、まっすぐに。
まっすぐに逃げた者ほど、渦の流れに真横から叩かれ、体をひねられ、内側へ吸い込まれていった。
まっすぐでは、抜けられない。
渦と同じ向きに回りながら、少しずつ、少しずつ、外へずれていくしかない。
――流れを読む。
ノクティエルは、欠けた一匹の外側にぴたりとつき、渦の回る向きに体を傾けた。
逆らわない。
押し返さない。
ただ、流れの中で、ほんの少しだけ、外へ。
欠けた一匹の体が、ノクティエルの傾きに、ぎこちなく続いた。
脇と脇が触れ合っていたから、揺れが届いたのだ。
光の届かない深い水の中で、遠くへは何も伝えられない。
それでも、すぐ隣になら、届いた。
一回り。
また一回り。
渦の内側の、悲鳴のような速さが、少しずつ、遠のいていく。
そのとき、脇の線に、別の揺れが触れた。
後ろだった。
ノクティエルと欠けた一匹のすぐ後ろに、もう一匹、銀色の体が、ぴたりとついてきていた。
その後ろに、また一匹。
さらに、その後ろに。
渦の中で、ばらばらになっていた何千の中から、何匹かが、ノクティエルたちの揺れに気づいて、同じ傾きで続いてきていたのだ。
誰も、ノクティエルが先頭だとは知らなかった。
知る必要もなかった。
ただ、すぐ前の揺れに、合わせただけだった。
群れとは、もともと、そういうものだった。
群れの頭になりたいと、願ったことがあった。
何千が、自分の傾きに続く。
自分が右へ行けば、何千が右へ行く。
今、それが、ほんの数匹ぶんだけ、起きていた。
なのに、少しも、誇らしくはなかった。
怖かった。
自分の傾きが間違っていたら、後ろの何匹も、まとめて渦の底へ落ちていく。
先頭とは、見られる場所ではなかった。
後ろの何匹ぶんの恐れを、まとめて背負う場所だった。
その時、脇の線から、ぎこちない揺れが消えた。
ノクティエルの体が、凍りついた。
すぐ内側にいたはずの、欠けた一匹がいない。
渦の流れが、一瞬、強く巻き返したのだ。
欠けた尾鰭では、その巻き返しに耐えきれなかった。
ほんの一匹分だけ、内側へ、さらわれていた。
脇の線を、必死に内側へ伸ばした。
速い水。
悲鳴のような水。
その奥の奥に、かすかに、ぎこちない揺れがあった。
遅れて、慌てて追いつこうとして、また遅れる、あの揺れ。
〈行くな〉
リヴァイアサンの声が、渦の底から迫ってきた。
〈今、内側へ戻れば、お前も二度と抜けられない。せっかく、ここまで外へ来たのだろう。後ろには、お前の揺れに続いてきた者たちもいる。その者たちを捨てて、一匹のために戻るのか〉
後ろの揺れ。
十数匹の揺れが、ノクティエルの傾きを待っていた。
ノクティエルが止まれば、彼らも止まる。
ノクティエルが内側へ戻れば、彼らも引きずられるかもしれない。
ノクティエルは、体を、ほんの少しだけ、渦の流れに逆らう向きへ傾けた。
大きく逆らえば、後ろが乱れる。
だから、ほんの少しだけ。
流れに身を任せながら、一回りのあいだに、体ひとつ分だけ、内側へ下がる。
後ろの揺れは、ノクティエルの傾きを読み、自分たちの位置を保ったまま、外へ向かい続けた。
ノクティエルだけが、少しずつ、内側へ沈んでいった。
ぎこちない揺れが、近づいてくる。
あと少し。
あと、体ひとつ分。
脇が、触れた。
ノクティエルは、すぐに欠けた一匹の内側へ回り込み、自分の体を、渦の巻き返しの盾にした。
内側から押し出すように。
外へ。
ほんの少しずつ、外へ。
どれほどの時間がかかったのか、わからない。
もう一度、後ろの十数匹の揺れの最後尾に追いついた時、ノクティエルの脇の線は、焼けつくように痛んでいた。
◇
どれくらい回ったのか、わからない。
やがて、脇の線を押し潰していた重さが、ふっと、軽くなった。
水の回る音が、遠ざかる。
ノクティエルの体は、渦の縁を越え、静かな水の中へ、ゆっくりと押し出されていた。
欠けた一匹は、すぐ内側にいた。
その後ろに、十数匹。
ノクティエルたちの揺れに続いて、渦を抜けた者たちだった。
後ろを振り返った。
振り返る、という感覚が、この体にもあった。
渦は、まだ回っていた。
途方もなく大きなすり鉢が、海の底へ向かって、何千を飲み込み続けていた。
〈それで、満足か〉
リヴァイアサンの声が、渦の底から響いた。
怒ってはいなかった。
ただ、どこまでも低く、どこまでも冷たかった。
〈何千のうち、十数匹。お前が連れ出したのは、それだけだ。残りは、わたしの底へ落ちていく。お前は、それを数えられもしない〉
「……数えられない」
ノクティエルの問いが、初めて、水の中へ滲み出ていった。
膜の頃も、石の下でも、こんなふうに言葉が外へ出たことはなかった。
「でも、覚えている」
〈何を〉
「あの群れが、一斉に光ったことを。鳥が来るたびに、弾けて、また寄り集まったことを。何千が、同じ向きに泳いでいたことを」
ノクティエルは、渦の方へ、体を向けた。
まだ回り続けている、底のない底。
その中へ、銀色の体が、次々と吸い込まれていく。
ハリエルは、海の魂を、群れのまま灯した。
一つ一つの顔は、覚えていないと言った。
それは、冷たさではなかった。
一つずつ覚えきれないものを、それでも一つの群れとして、まるごと抱えるやり方だったのだ。
「一匹ずつは、数えられない。だから、群れのまま、覚えておく」
ノクティエルは、二百二十五という数の隣に、新しいものを刻んだ。
数ではなかった。
ぱっと、一斉に光った、あの銀色の群れの形。
何千が、同じ向きに泳いでいた、あの揺れのすべて。
一つの群れ。
〈……それが、何になる〉
「わからない」
ノクティエルは、正直に答えた。
「怖いままだ。今も、怖い。あなたの声が、怖い。この先も、きっとずっと怖い。でも、怖いまま、泳いだ。泳げた。それだけだ」
渦の底で、何かが、長いあいだ、黙っていた。
〈恐れを捨てぬ者に、わたしは勝てぬ〉
低い声が、ゆっくりと、遠のいていく。
〈恐れを捨てた者は、わたしに呑まれる。恐れを捨てられぬ者は、いずれわたしに呑まれる。だが、恐れを抱えたまま泳ぐ者は……わたしの底より、少しだけ、浅いところを泳いでいく〉
〈お前の中に、わたしは残る。この先も、ずっと〉
〈一つだけ、教えておいてやろう〉
遠のきかけた声が、ふいに、もう一度、低く響いた。
〈お前に借り火を渡した者を、わたしは知っている。蠅の王も、冠の囁き手も、知っている。わたしたちは皆、あの者に呼ばれて、お前の通る段に先回りしている〉
ノクティエルの脇の線が、ぴくりと震えた。
記録の園から来たという、白い翼の縁だけが煤けた天使。
あの低く、穏やかな声。
〈あの者は、お前が十の段を昇りきることを、望んでいる。望んでいるからこそ、わたしたちを置いた。なぜかは、知らぬ。知ろうとも思わぬ。わたしは、海の底で、恐れの底にいるだけだ〉
「……名は」
〈名を知りたければ、昇れ。昇るほど、あの者は近くなる〉
渦の回る速さが、少しずつ、ゆるんでいった。
すり鉢の形が、ほどけていく。
海が、ゆっくりと、平らな水に戻っていった。
リヴァイアサンは、去ったのではなかった。
ただ、底へ、戻っただけだった。
ノクティエルは、それを、脇の線の奥で知っていた。
◇
夜が明けた。
光が、水面から差し込んできた。
渦を抜けた十数匹は、互いの揺れを探り合い、少しずつ寄り集まっていった。
そこへ、別の方角からも、散り散りになっていた銀色の体が、一匹、また一匹と集まってきた。
渦の縁で、別の流れに乗って、たまたま抜け出した者たち。
百匹ほどの、小さな群れになった。
誰も、誰の名も知らない群れだった。
何千あった群れの、ほんの一部だった。
それでも、群れは、また同じ向きに泳ぎ始めた。
欠けた一匹は、今度は、群れの真ん中にいた。
小さな群れでは、端と真ん中の区別が、さほどなかったからかもしれない。
あるいは、渦を抜けた何匹かが、自然と、その一匹のまわりを囲むように泳いでいたからかもしれない。
昼が近づく頃、小さな群れは、餌の霧の中へ入った。
目に見えないほど小さな粒が、水の中に濃く漂っている。
百匹が、口を開けて、霧の中を泳いでいく。
体の奥で、飢えが疼いた。
もっと。
念のために、もう少し。
水たまりで刻まれた傷は、海の底の渦を越えても、少しも薄れていなかった。
ノクティエルは、霧のいちばん濃いところを、少しだけ避けた。
避けたところを、欠けた一匹が、ぎこちなく泳いでいった。
欠けた一匹は、まっすぐに泳げないぶん、霧の濃いところへ入るのが、いつも遅れた。
遅れて着いた頃には、ほかの何匹かが、たいてい食べ尽くしていた。
今日は、ほんの少しだけ、残っていた。
欠けた一匹が、口を開けたまま、その濃い霧の中を、ゆっくりと通り抜けていった。
ノクティエルの腹は、満ちてはいなかった。
満ちていないと、体は叫び続けていた。
それでも、叫ぶ体を抱えたまま、霧の薄いところを泳いだ。
満ちていないことには、もう慣れていた。
慣れていることに、少しだけ、驚いた。
ノクティエルは、群れの外側を泳いでいた。
自分から、そこを選んだ。
外側は、いちばん危ない場所だった。
だが、いちばん遠くまで、気配を感じ取れる場所でもあった。
脇の線が、ぴりっと震えた。
上だ。
空の高いところで、何かが輪を描いている。
一羽ではなかった。
何羽もの、嘴の長い海の鳥。
百匹の小さな群れを、上から、じっと見下ろしていた。
まわりの誰も、まだ気づいていない。
ノクティエルは、身をひねった。
腹を、ぐいと上へ向ける。
朝の光が、銀色の腹に、まともに当たった。
ぱっ、と。
隣が、続いた。
その隣が、また続いた。
光が、小さな群れの中を、さざ波のように広がっていく。
百匹が、一斉に、向きを変えた。
鳥が、落ちてきた。
白い嘴が、水を割った。
いちばん強く光った場所へ。
いちばん外側で、いちばん最初に、身をひねった一匹のところへ。
ノクティエルは、それを、避けようとはしなかった。
避けられなかったのかもしれない。
身をひねって腹を光らせた体は、その一瞬だけ、泳ぐ向きを失っていたからだ。
光が合図になるということは、光った者が、いちばん見つかりやすいということだった。
最初からわかっていた。
石の下の入り口で、体ひとつ分の隙間を塞いだ時と、同じだった。
嘴の先が、体を挟んだ。
水が遠のいていく。
塩の味が遠のいていく。
脇の線に触れていた、百匹ぶんの揺れが、遠のいていく。
最後に、脇の線の奥に、たった一つだけ、揺れが残った。
ぎこちない、少しだけ遅れる揺れ。
群れの真ん中で、ほかの何十匹と一緒に、向きを変えて泳いでいく揺れ。
ここにいる。
声ではなかった。
光でもなかった。
それでも、ノクティエルには、そう伝わった気がした。
そして、何も聞こえなくなった。
暗かった。
水たまりで目覚めた時の暗さに、似ていた。
目も、耳も、口もない。
ただ、自分がノクティエルであるということだけが、残っている。
怖かった。
体がなくなっても、怖さだけは、なくならなかった。
リヴァイアサンが言った通りだった。
お前の中に、わたしは残る。
それでも、暗闇の中で、ノクティエルは、群れの形を思い出していた。
一斉に光った、あの銀色。
すぐ隣の、ぎこちない揺れ。
怖さの隣に、それが並んでいた。
怖さだけが、ひとりで、暗闇を埋めているのではなかった。
◇
白い場所で、大いなる秤が揺れていた。
皿の上には、何も載っていなかった。
いや、よく見ると、皿の底に、ごく薄い銀色の光が、膜のように広がっていた。
一つの粒ではない。
何千の粒が、溶け合って、一枚の布のように揺れていた。
「第三の段の判定を告げる」
ネメシスの声は、いつもと同じだった。
「お前は、海の底の者を倒していない。退けてもいない。恐れを捨ててもいない。恐れを抱えたまま、泳いだ。そして、最後に、その恐れごと、光った」
ノクティエルは、何も答えなかった。
体がなかったからではない。
答えるべきことが、何もなかったからだ。
「恐れは、捨てるものではない。抱えて泳ぐものだ。お前は、それを、海の底の者から学んだ」
ネメシスは、秤の皿を見上げた。
薄い銀色の布が、わずかに皿を沈めていた。
「お前は、数えられないものを、群れのまま覚えた。灯し手が、群れのまま灯すように」
秤の柱の陰から、ヘルメスが現れた。
いつもの軽い調子ではなかった。
帽子の翼を、少しだけ伏せていた。
「条件付きの昇格だ」
ヘルメスが言った。
「今回は、お前の体が、そのまま終わった。それは、罰じゃない。光った者が見つかる。それだけのことだ。だが、傷は残る。危ないものへの過敏さだ。次の器では、知らないもの、見えないものに、必要以上に怯えるようになる。そのせいで、本当は近づくべきものからも、離れたくなる」
ヘルメスが、杖の先でノクティエルの光に触れた。
「三つ目の能力は、群れに合わせる力と、流れを読む力。三つ目の心は――」
ヘルメスは、少しだけ言葉を探した。
「怖いまま、誰かを信じて、隣にいる心だ」
ネメシスが、布の奥で短く言った。
「それは、天界にいた頃のお前には、なかった心だ」
ノクティエルは、天界の北の門を思い出した。
ハリエルが、まだ来ていない門。
あの時、ハリエルを待てばよかった。
ハリエルを信じて、隣に立てばよかった。
怖かったのだ。
灰色の翼のまま、置いていかれることが。
ハリエルと並んで門に立てば、自分の小さな橙色の火は、ハリエルの白い炎の横で、きっと笑われるほど細く見えただろう。
それが、怖かった。
だから、ハリエルが来る前に、ひとりで灯そうとした。
ひとりで灯せば、誰とも比べられずに済む。
誰の隣にも、立たずに済む。
怖いまま、隣に立つ。
それができていれば、二百十七は、きっと、灯されぬまま失われはしなかった。
ヘルメスが、杖を振り上げた。
「第四の段。次は、水と土の境目だ。水の中でも、陸の上でも生きられる。だが、どちらにも、完全には属せない器だ」
白い場所の底が、ゆっくりと、湿っていく。
泥の匂い。
干上がりかけた沼の匂い。
そして、その泥の奥から、ひどく乾いた、ひび割れるような声が、かすかに聞こえた気がした。
落ちていく前に、ノクティエルは、もう一度、数を確かめた。
失われた者。
二百二十五。
そして、その隣に、一つの群れ。
生きている者。
水たまりの、二つの膜。
石の下の、いちばん小さな兄弟。
そして、群れの真ん中を、少しだけ遅れて泳いでいく、尾鰭の欠けた一匹。
四。




