第5話 同じ向きに泳ぐ者たち
最初に知ったのは、自分の重さが消えたことだった。
脚がない。
触角もない。
鋏もない。
石の下で、千切れて生え直した細い脚の傾きも、どこにもなかった。
代わりに、体の両脇に、薄い膜のようなものが何枚か生えていて、それがひとりでに、ひらりひらりと揺れている。
体のまわりは、すべて水だった。
水たまりの、ぬるく濃い水ではない。
冷たく、澄んでいて、どこまでも続いている水。
口を開けると、塩の味がした。
――海だ。
天界の西の端から、雲の切れ間に見たことがある。
大地の果てに広がる、暗く、果てのない水。
灯し手たちのもとへ上がってくる魂のうち、いちばん数の多いものは、いつもこの水の中からやって来た。
数が多すぎて、ノクティエルの受け持ちには、ほとんど回ってこなかった。
一度だけ、北の門で、海から上がってくる魂の群れを見たことがある。
何千という小さな光の粒が、ひとかたまりになって、ゆっくりと門をくぐってきた。
粒の一つ一つは暗く、だがその暗さが寄り集まって、一枚の大きな布のように揺れていた。
その群れを受け持っていたのは、ハリエルだった。
ハリエルは、白い炎を灯し棒の先に高く掲げ、群れ全体を、一度に照らした。
何千の粒が、一斉に明るくなった。
ノクティエルは、それを門の陰から見ていた。
すごい、と思った。
同時に、ひどく冷たい、とも思った。
あとで、ノクティエルは、ハリエルに尋ねた。
あの群れの、一つ一つの魂の顔を覚えているか、と。
ハリエルは、少し困ったように笑った。
「覚えてないよ。覚えられるはずがない。あれは、ああやって、群れのまま灯すしかないんだ。一つずつ灯していたら、待っているあいだに、後ろの方から暗さに呑まれていく」
その時のノクティエルは、ハリエルの言葉を、言い訳だと思った。
自分は一つずつしか灯せない。
だから、一つずつ覚えている。
覚えていないハリエルより、自分の方が、ほんの少しだけ、正しいのだと。
そう思うことで、灰色の翼を、慰めていた。
◇
体の両脇に、細い線が一本ずつ走っていた。
頭の後ろから、尾の付け根まで。
そこに、水の揺れが触れる。
触れるたびに、ノクティエルは、まわりで何が起きているのかを知った。
右に、何かがいる。
左にも、上にも、下にも。
自分と同じくらいの大きさのものが、ほとんど体が触れ合うほどの近さで、びっしりと並んでいる。
何百。
いや、何千。
数えようとして、すぐに諦めた。
水の揺れが多すぎて、どこからどこまでが一匹なのかさえ、わからなかった。
そして、その何千が、一斉に、同じ向きへ泳いでいた。
右の一匹がわずかに傾けば、ノクティエルの体も傾く。
前の一匹が速くなれば、ノクティエルの尾も速く振れる。
考えて動いているのではなかった。
体の脇の線が、まわりの揺れを読み、体が勝手に、それに合わせていく。
石の下で、腹が空いた匂いが勝手に漏れたように。
水たまりで、甘い粒へ勝手に寄っていったように。
ノクティエルは、群れの真ん中あたりにいた。
また、真ん中だった。
どの段でも、いつも、真ん中だった。
◇
光が、上から差していた。
水面のずっと上で、太陽が揺れている。
その光が水を通り抜け、群れの背中に落ちる。
群れが向きを変えるたびに、何千もの背中と腹が、一斉に銀色に光った。
ぱっ、と。
まるで、一つの大きな生き物が、身をひるがえしたように。
ノクティエルは、その光の中で、自分の体も同じように光っていることに気づいた。
銀色の腹。
青黒い背中。
どの一匹とも、まったく同じ色をしていた。
もし自分がこの群れから一匹だけ抜け出しても、誰も、それがノクティエルだとは気づかないだろう。
ここでは、自分が誰でもなかった。
ハサミムシの石の下では、真ん中あたりの一匹でも、母の触角が一匹ずつ数えてくれた。
ここには、母がいない。
数える者が、いない。
何千が、ただ同じ向きに泳いでいるだけだった。
体の奥で、何かが疼いた。
見られたい、という欲。
ハサミムシの段で刻まれた、あの傷だった。
この何千の中で、誰か一匹でいいから、自分を自分として見てほしい。
そう思ってしまったことに、ノクティエルは、うんざりした。
◇
群れの前の方に、いつも先頭を泳ぐ一団がいた。
体が少し大きく、泳ぎが速い。
群れが向きを変える時、最初に傾くのは、いつもその一団だった。
残りの何千は、その傾きを脇の線で読み、後に続く。
先頭の一団は、まわりの何千よりも、よく光った。
光を真っ先に浴びるからだ。
遠くからでも、群れの頭がどこにあるのか、すぐにわかる。
――あそこに行けば。
ノクティエルの尾が、勝手に速く振れかけた。
あそこに行けば、自分は群れの頭になれる。
何千が、自分の傾きに続く。
自分が右へ行けば、何千が右へ行く。
その時、前の方の水が、ぐしゃりと乱れた。
何かが、上から落ちてきた。
水面を割って、白く鋭いものが、まっすぐに。
鳥だった。
嘴の長い、大きな海の鳥。
先頭の一団の真ん中に飛び込み、一匹をくわえて、また水面の上へ消えていった。
群れが、一斉に弾けた。
何千が、四方八方へ。
ノクティエルの脇の線に、恐ろしいほどの揺れが一度に押し寄せた。
どっちへ逃げればいい。
右か。
左か。
下か。
わからない。
わからないまま、体はまわりの揺れに引きずられて、ぐるぐると回った。
やがて、揺れが落ち着いていった。
弾けた群れは、また少しずつ寄り集まり、同じ向きへ泳ぎ始めた。
何事もなかったかのように。
先頭の一団は、一匹減ったまま、また群れの頭を泳いでいた。
ノクティエルは、くわえられて消えた一匹のことを考えた。
どんな魚だったのか。
わからない。
どの一匹とも、まったく同じ色をしていたのだから。
数えようとした。
二百二十三。
だが、その数を刻もうとした途端、別の鳥が、群れの後ろの方へ落ちてきた。
また一匹。
二百二十四。
さらに、少し離れたところで、もう一羽。
二百二十五。
◇
群れが、餌の濃い水へ入った。
水の中に、目に見えないほど小さな粒が、霧のように漂っている。
何千が、口を開けたまま、その霧の中を泳いでいく。
泳ぐだけで、口の中に、粒が勝手に流れ込んでくる。
体の奥で、飢えが疼いた。
もっと。
念のために、もう少し。
ノクティエルの体は、群れの揺れから少しだけはみ出して、霧の濃い方へ寄っていこうとした。
その時、脇の線が、ぴりっと震えた。
上だ。
まだ遠い。
水面の上の、空の高いところ。
何かが、こちらを見下ろしながら、ゆっくりと輪を描いている。
水の揺れではなかった。
揺れになる前の、気配だった。
ハサミムシの段で、ヘルメスから渡された力。
危険を、先に察知する力。
まわりの何千は、まだ気づいていなかった。
霧の中で、口を開けて泳ぎ続けている。
ノクティエルは、体をひねった。
考えるより先に、体が動いていた。
脇腹を、ぐいと上へ向ける。
銀色の腹に、水面の光がまともに当たった。
ぱっ、と。
ノクティエル一匹の体が、まわりより一瞬だけ、強く光った。
すぐそばの数匹が、その光に引かれるように、体をひねった。
その数匹の光に、また隣の数匹が続いた。
光が、さざ波のように、群れの中を広がっていく。
何千が、霧の中から、一斉に向きを変えた。
次の瞬間、鳥が落ちてきた。
白い嘴が水を割った時、そこにはもう、群れの半分しか残っていなかった。
一匹が、くわえられて消えた。
残りは、逃げきった。
――伝わった。
ノクティエルは、脇の線の奥で、それを感じた。
ハサミムシの腺から噴き出した、焦げた樹脂の匂いと同じだった。
この体にも、合図はあった。
光だ。
身をひねって、腹を光らせること。
誰も、最初に光ったのがノクティエルだとは気づかなかった。
気づけるはずがなかった。
何千が、一斉に光ったのだから。
見られたい、という傷が、ちくりと痛んだ。
痛んだまま、ノクティエルは、また群れの真ん中あたりへ戻っていった。
◇
その日、鳥は何度も落ちてきた。
夕方には、ノクティエルは、数えることができなくなっていた。
どこで、何匹消えたのか。
群れの揺れが大きすぎて、脇の線がそれを拾いきれない。
一匹消えたのか、二匹消えたのか、それともただ向きを変えただけなのか、わからない。
数えられない。
水たまりでも、石の下でも、消えた者は、一つずつ数えられた。
味が消える。
匂いが細くなる。
とん、と触角が触れていたものが、もう触れない。
それぞれに、それぞれの消え方があった。
ここでは、消え方が、なかった。
何千の中の一匹は、何千の揺れの中に、ただ溶けて消えていく。
ノクティエルは、数えられないことが、恐ろしかった。
水たまりからずっと、数えることだけが、自分にできる唯一のことだった。
謝る口も、返す手も持たない体で、それでも、失われた者を一つずつ覚えておくこと。
それが、二百十七の重さを抱えるための、たった一つのやり方だった。
それが、ここでは、できない。
――数えるべきでないものを数えないのも、数えるということだ。
ネメシスの言葉がよみがえった。
石の下で、母を数えなかった時のことだった。
あれは、数えられなかったのではない。
数えたくなかったのだ。
母を、失われた者の列に並べたくなかった。
だが、今は違う。
数えたいのに、数えられない。
一匹ずつ覚えておきたいのに、どの一匹が消えたのかさえ、わからない。
ハリエルは、海の魂を群れのまま灯した。
覚えていない、と言った。
あれは、冷たさではなかったのかもしれない。
覚えきれないものの前で、それでも灯すことをやめなかった、ということだったのかもしれない。
ノクティエルは、まだ、そこまでは思えなかった。
思えないまま、数えられない数を、ただ脇の線の奥に溜めていった。
◇
夜になると、群れは少し深いところへ沈んだ。
光が届かない。
脇の線だけが頼りだった。
それでも、群れは崩れなかった。
何千が、暗い水の中で、互いの揺れだけを頼りに、同じ向きを保ち続けている。
ノクティエルは、自分のすぐ左の一匹の揺れが、ほかと少し違うことに気づいた。
泳ぎが、わずかに遅れる。
遅れて、慌てて追いつく。
また遅れる。
その一匹の揺れには、いつも、ほんの少しだけ、ぎこちない乱れが混じっていた。
ノクティエルは、その乱れを、どこかで知っている気がした。
石の下で、千切れた脚が生え直したあと。
細く短い脚のせいで、歩くたびに、体がわずかに傾いた。
あの傾きと、似ていた。
ノクティエルは、左の一匹に、少しだけ近づいた。
脇の線が、その一匹の体の形を読む。
尾鰭の片側が、欠けていた。
鳥の嘴か、何か別のものか。
何かに一度噛みつかれ、それでも生き延びた傷だった。
欠けた尾鰭では、まっすぐに泳げない。
だから、遅れる。
遅れるから、群れの端へ、端へと押し出されていく。
群れの端は、いちばん危ない場所だった。
鳥が真っ先に狙うのも、外側を泳ぐ一匹だった。
ノクティエルは、尾鰭の欠けた一匹のすぐ外側へ、自分の体を滑り込ませた。
考えてそうしたのではなかった。
石の下の入り口で、体ひとつ分の隙間を塞いだ時と、同じだった。
体が、勝手に、そこへ行った。
欠けた一匹は、驚いたように一瞬だけ泳ぎを乱したが、すぐにまた、群れの揺れに戻っていった。
ノクティエルが外側にいるぶん、ほんの少しだけ、内側へ寄れたようだった。
◇
何日か、そうして泳いだ。
昼は、光の中で、鳥が落ちてきた。
夜は、暗い水の中で、もっと大きな何かが、群れの下を通り過ぎていった。
そのたびに、群れは弾け、また寄り集まった。
そのたびに、何匹かが消えた。
ノクティエルは、もう、それを一つずつ数えることはできなかった。
数えられないまま、消えた者たちの揺れの名残を、脇の線の奥に、ただ溜めていった。
尾鰭の欠けた一匹は、まだ生きていた。
ノクティエルは、いつもそのすぐ外側を泳いだ。
群れが弾けるたびに、見失いかけた。
見失いかけるたびに、群れが寄り集まる中で、あのぎこちない揺れを探した。
見つけると、また外側へ滑り込んだ。
ある朝、群れの下から、速いものが来た。
鳥ではない。
水の中を、とてつもない速さで突き進んでくる、群れの何十倍もある魚たちだった。
一匹ではない。
何匹もが、群れを下から、横から、取り囲むように泳いでいる。
脇の線が、その鋭い揺れを拾った瞬間、群れは、これまでとは違う動きをした。
弾けなかった。
逆に、ぎゅっと、縮んだ。
何千が、互いの体に触れ合うほどに寄り集まり、一つの大きな球になっていく。
外側の一匹は、内側へ潜り込もうとする。
内側の一匹は、さらに内側へ。
球は、ぐるぐると回りながら、どんどん固く、小さくなっていった。
ノクティエルの体も、内側へ引き込まれかけた。
内側は、安全だった。
何千の体に囲まれて、狩る者の牙は届かない。
届くのは、いつも外側だ。
脇の線が、すぐ近くの、ぎこちない揺れを探した。
尾鰭の欠けた一匹は、球の外側にいた。
内側へ潜り込もうとして、欠けた尾鰭のせいで、うまく潜り込めずにいた。
何度も弾かれ、外側へ押し戻されていた。
ノクティエルは、内側へ引き込まれる流れに、逆らった。
体をひねり、球の外側へ、自分から出ていった。
欠けた一匹のすぐ外側へ。
狩る者たちの揺れが、いちばん近くに迫っている場所へ。
すぐ横を、巨大な口が、ものすごい速さで通り過ぎていった。
ノクティエルの脇の線が、引きちぎられそうなほど震えた。
口は、ノクティエルの隣の一匹をくわえて、深みへ消えた。
ノクティエルは、無事だった。
欠けた一匹も、無事だった。
ただ、それは運がよかっただけだった。
守ったわけではない。
外側に出たノクティエルの体は、巨大な口の前では、薄い紙切れ一枚ほどの盾にもならなかった。
それでも、ノクティエルは、球の外側から、戻らなかった。
やがて、狩る者たちは満ちて去り、球はゆっくりとほどけて、また群れに戻っていった。
一度だけ、欠けた一匹が、ノクティエルの方へ、わずかに体を寄せてきたことがあった。
体の脇と脇が、ほんの一瞬、触れ合った。
それだけだった。
それだけで、ノクティエルは、水たまりの膜が流してきた、あの淡い味を思い出した。
ここにいる。
この体には、味を流す方法も、匂いを出す方法も、たぶんない。
それでも、脇と脇が触れ合ったあの一瞬は、確かに、何かを伝えていた。
その夜、ノクティエルは、欠けた一匹に向けて、身をひねってみた。
腹を光らせる合図を、送ろうとしたのだ。
だが、深い水の底には、光がなかった。
腹をどれだけひねっても、銀色は闇に吸われて、誰の目にも届かなかった。
昼の合図は、夜には使えない。
光のない場所で、遠くの誰かに何かを伝える方法は、この体にはなかった。
だから、ノクティエルは、ただ近くにいた。
欠けた一匹の、すぐ外側に。
脇の線が、互いの揺れを拾える距離に。
遠くへは届かない。
それでも、すぐ隣になら、揺れは届いた。
光で伝えられない夜は、そばにいることでしか、伝えられないのだと知った。
◇
ある夜、水が、変わった。
冷たくなったのではない。
重くなったのだ。
体の脇の線に、これまで感じたことのない、とてつもなく大きな揺れが、下の方から、ゆっくりと押し上げてきた。
鳥ではない。
夜に群れの下を通り過ぎていく、大きな何かとも違う。
もっと、ずっと、大きい。
海の底そのものが、身じろぎしたような揺れだった。
群れが、凍りついた。
何千が、同時に、泳ぐのをやめた。
弾けもしなかった。
逃げる向きさえ、誰にもわからなかったのだ。
揺れは、四方八方から、同時に押し寄せていた。
ノクティエルの体の奥で、何かが、縮み上がった。
怖い。
水たまりでも、石の下でも、怖いと思ったことはあった。
だが、この怖さは、違った。
あれは、自分が消えるかもしれないという怖さだった。
これは、自分だけでなく、まわりの何千ごと、海ごと、すべてが一度に呑み込まれるかもしれないという怖さだった。
数える者も、数えられる者も、何も残らない。
〈怖いか〉
声がした。
腐った果物の声とも、乾いた花の声とも、まるで違った。
低い。
どこまでも低い。
ノクティエルの体の内側からではなく、海の底の、さらに下から、水そのものを震わせて響いてくる声だった。
〈怖いだろう。わたしは、お前たちが生まれるずっと前から、この海の底にいた。お前たちの群れが、何千の、何万の、何億の数で泳ぎ、鳥に食われ、わたしの影に怯え、また寄り集まるのを、ずっと見てきた〉
水の重さが、いっそう増した。
群れの何千が、ぴくりとも動けずにいた。
〈群れは、お前を守らない。群れは、群れを守るだけだ。外側の一匹が食われても、真ん中の何千が生き残れば、群れは群れのままだ。お前は、そのことをもう知っているはずだ。外側を泳いでいるのだから〉
ノクティエルの脇の線が、すぐ内側の、ぎこちない揺れを探した。
尾鰭の欠けた一匹は、まだそこにいた。
凍りついたまま、震えていた。
〈その欠けた一匹は、いずれ食われる。お前が外側にいてもいなくても、いずれ。ならば、お前は真ん中へ戻れ。いや、真ん中でも足りない。わたしが動けば、群れは丸ごと散る。散った群れの中で、生き残るのは、真っ先に逃げた一匹だけだ〉
〈仲間を捨てろ。今すぐ、群れを離れ、ひとりで逃げろ。そうすれば、お前だけは助かる〉
ノクティエルは、動けなかった。
逃げたい、と体のすべてが叫んでいた。
飢えよりも、見られたいという欲よりも、ずっと強く、ずっと古いところから。
〈お前は、数える者だな〉
低い声が、水を震わせた。
〈蠅の王と、冠の囁き手から聞いている。お前は、消えた者を数える。数えることで、自分の罪を抱えているつもりでいる。だが、ここで何ができた。この群れで、お前はいくつ数えられた〉
ノクティエルの脇の線の奥で、溜めこんだ揺れの名残が、ざわりと騒いだ。
〈数えられなかっただろう。わたしの海では、死は数にならない。何千が生まれ、何千が消え、それでも海は少しも変わらない。お前一匹が外側を泳ごうが、欠けた一匹の盾になろうが、海の底から見れば、何一つ変わらない〉
〈数えられない死の前で、お前の数えることに、何の意味がある。意味がないなら、せめて、お前自身を数えろ。お前一匹が生き残れば、少なくとも、一は残る〉
一は、残る。
その言葉は、ひどく理にかなっているように聞こえた。
蠅の王の甘い腐臭も、冠の囁き手の乾いた花の香りもなかった。
ただ、冷たく、重く、事実だけを並べているような声。
だからこそ、言い返す場所が、どこにも見つからなかった。
ノクティエルは、脇の線で、すぐ内側を探った。
欠けた一匹の揺れ。
震えている。
だが、まだ、そこにいる。
逃げていない。
逃げる向きさえわからずに、それでも、群れの揺れの中に留まっている。
この一匹は、群れを捨てられない。
欠けた尾鰭では、ひとりで逃げきれないからだ。
群れの中にいることしか、できない。
ノクティエルには、できた。
まだ、両方の尾鰭が揃っている。
今、群れを離れて全力で泳げば、もしかしたら、本当に、自分一匹だけは。
尾が、震えた。
震えながら、ノクティエルは、留まる理由を探した。
償いでも、昇格でも、誰かに見られることでもない理由を。
見つからなかった。
ただ、すぐ隣の揺れが、まだ止まっていない。
それだけしか、なかった。
それだけのことが、どうしても、手放せなかった。
〈名乗っておこう〉
海の底の声が、ほんの少しだけ、楽しげに揺れた。
〈わたしは、リヴァイアサン。この海で、すべての恐れの、底にいる者だ〉
その瞬間、群れの真下の暗闇が、ゆっくりと、口を開けた。




