第4話 誰も見ていない入り口
石の外は、思っていたよりも広かった。
広い、というのは、見えたからではない。
触角の先に触れる空気が、石の下とはまるで違っていたのだ。
狭い隙間では、匂いはいつも壁に跳ね返り、こもって、混ざり合っていた。
外では、匂いは流れていく。
どこまでも、薄く、遠く。
その流れの中から、自分に必要なものだけを、触角で選び取らなければならなかった。
湿った落ち葉。
夜露を含んだ苔。
腐りかけた木の皮。
そして、乾いた、硬い殻と、無数の脚の匂い。
ノクティエルは、入り口の縁で身を低くした。
柔らかい鋏を、体の上へ反らせる。
石の下で生まれた体は、外へ出た瞬間から、どこかで恐れていた。
〈さあ、右だよ〉
乾いた花の匂いが、触角の根元に絡みついた。
〈右へ三つ、枯れ葉の山を越える。道は空いている。母親は、狩人を左へ引きつけている〉
ノクティエルは、触角をゆっくりと右へ向けた。
匂いが、濃くなった。
乾いた殻の匂い。
無数の脚の匂い。
喰らう者の匂い。
右だった。
狩人は、右にいた。
ノクティエルの体が、石のように固まった。
アスタロトは、道は空いていると言った。
空いていなかった。
空いているどころか、狩人はまさに、その道の上にいる。
〈おや〉
アスタロトの声が、ほんの少しだけ、意外そうに揺れた。
〈気づいたのかい。賢い子だ〉
「……嘘だったのか」
〈嘘? とんでもない。わたしは、道が空いていると言っただけだよ。君が通る頃には、空いているはずだった。狩人は、先に通った子を食べて、満足して去るはずだったからね〉
先に通った子。
ノクティエルの触角が、右の匂いの奥を探った。
乾いた殻の匂いの中に、別の匂いが混じっていた。
知っている匂いだった。
石の下で、いつも母の口元のいちばん近くにあった匂い。
いちばん大きな兄弟の匂いだった。
◇
〈あの子にも、教えてあげたんだよ〉
アスタロトは、悪びれもせずに言った。
〈君と同じことをね。右へ三つ、果実の木、母親より多く運べば、皆が君を認める。あの子は、君よりずっと素直だった。迷わなかった。君が石の下で触角を伏せているあいだに、とっくに出ていったよ〉
ノクティエルは、右へ一歩、脚を出しかけた。
出しかけて、止まった。
右の匂いが、変わっていた。
大きな兄弟の匂いが、細くなっていく。
細く、細く。
そして、乾いた殻の匂いの中に、溶けるように消えていった。
水たまりで、膜の味がふっと消えた時と、同じだった。
二百二十二。
ノクティエルは、その数を、触角の奥に刻んだ。
大きな兄弟は、ノクティエルを押しのけた。
鋏で転がした。
いつも母の口元を独り占めにしていた。
それでも、数えた。
数えないで済ませる理由など、どこにもなかった。
一つだけ、覚えていることがあった。
孵ったばかりの頃、まだ誰も殻の外の暮らしに慣れていなかった夜。
石の天井から、細い土の塊が、ぱらりと崩れ落ちてきたことがあった。
真下にいた兄弟たちが、悲鳴のような匂いを上げて散った。
その時、いちばん大きな兄弟だけが、散らずに残った。
残って、崩れた土の塊を、まだ柔らかい背中で、ぐいと押し返したのだ。
誰に頼まれたわけでもなかった。
母は外にいて、見ていなかった。
次の日から、あの兄弟は母の口元のいちばん近くを独り占めにするようになった。
強いから、そうしてよいのだと思ったのかもしれない。
あの夜、土を押し返したことを、誰も覚えていないから、せめて腹で取り返そうとしたのかもしれない。
わからない。
わからないまま、あの兄弟は右へ行った。
認められたい、という同じ声に導かれて。
ノクティエルは、自分が、あの兄弟と何も違わないことを知っていた。
ただ、少しだけ、迷う時間が長かっただけだ。
〈かわいそうに〉
アスタロトの声は、少しもかわいそうには聞こえなかった。
〈でも、これで道は空いた。狩人は満足した。今なら、君は果実の木まで行ける。あの子の代わりに、君が兄弟たちの分を運べばいい。あの子が得るはずだったものを、君が得ればいい。誰も君を責めない。誰も、あの子が先に出たことさえ知らないのだから〉
それは、北の門と同じだった。
ハリエルの受け持ちだった魂の群れ。
まだ誰も来ていない門。
あの子が得るはずだったものを、君が得ればいい。
〈いちばん大きな子は、もういない。明日から、母親の口元のいちばん近くにいるのは、君だ〉
ノクティエルの体の奥で、飢えが、かすかに疼いた。
一つ目の鈴。
いちばん近く。
真っ先に数えられる子。
疼きを感じたことが、恐ろしかった。
兄弟が一匹消えたばかりなのに、自分の体は、その空いた場所を数えている。
◇
右の匂いが、また動いた。
乾いた殻の匂いが、ゆっくりと、こちらへ向きを変えていた。
満足して去るはずではなかったのか。
ノクティエルは、触角を震わせた。
狩人の匂いには、まだ飢えが残っていた。
一匹では足りなかったのだ。
この体は、飢えの匂いを知っている。
自分の中にも、同じ匂いがあるから。
狩人が向かっているのは、ノクティエルではなかった。
ノクティエルの背後。
平たい石の下。
兄弟たちが、身を寄せ合って眠っている、あの狭い隙間だった。
石の下には、匂いがこもる。
何十匹もの子の、腹が空いたという匂いが、こもって、混ざり合って、外へ漏れ出している。
狩人は、その匂いを嗅ぎつけたのだ。
〈ああ、まずいね〉
アスタロトが、まるで天気の話でもするように言った。
〈母親は左だ。狩人を引きつけたつもりで、引きつけ損ねた。急いで戻っても、間に合わない。……でも、君は違う。今なら、まだ右の道は空いている。狩人が石の下へ向かっているあいだに、君だけは、果実の木まで逃げられる〉
〈石の下の子たちは、どうせ助からない。なら、君一匹だけでも生き残った方がいい。生き残って、大きくなって、次の段へ昇ればいい。それが、賢い選び方だよ〉
賢い選び方。
ノクティエルは、その言葉を、触角の奥で何度も転がした。
水たまりで、蠅の王は「食え」と言った。
石の下で、この声は「運べ」と言った。
そして今、同じ声が「逃げろ」と言っている。
言葉は、いつも変わる。
変わらないのは、その言葉が、いつもノクティエル一匹のためにだけ用意されていることだった。
ノクティエルが認められるために。
ノクティエルが生き残るために。
ノクティエルが昇るために。
そこには、石の下の兄弟たちが、一匹もいなかった。
◇
ノクティエルは、体の向きを変えた。
右ではなく。
左でもなく。
背後へ。
平たい石の、入り口へ。
〈……何をするつもりだい〉
アスタロトの声から、笑みが消えた。
ノクティエルは、答えなかった。
答える代わりに、入り口の隙間へ、後ろ向きに体を押し込んだ。
頭を外へ向け、鋏のある尾を、石の内側へ。
いや、違う。
ノクティエルは、もう一度向きを変えた。
頭を内側へ。
鋏を、外へ。
この体の鋏は、尾にある。
後ろへ反らせて、迫ってくるものへ向ける武器だ。
入り口を塞ぐなら、外へ向けるのは鋏でなければならなかった。
隙間は、ちょうど自分の体ひとつ分の幅だった。
ここを塞げば、狩人は中へ入れない。
少なくとも、ノクティエルがここにいるあいだは。
次に、ノクティエルは、石の奥へ向かって、何かを伝えようとした。
膜の頃は、味を流した。
石の下では、腹が空いたという匂いが、勝手に体から漏れた。
ならば、別の匂いも出せるはずだった。
危ない。
奥へ。
もっと奥へ。
そう思った瞬間、体のどこかが、きゅっと縮んだ。
腹のあたりの、小さな腺のようなところから、鼻を刺すような鋭い匂いが噴き出した。
自分でも驚くほど、ひどい匂いだった。
腐った果物とも、乾いた花とも違う、焦げた樹脂のような、喉を焼く匂い。
石の奥で、兄弟たちの足音が、一斉に乱れた。
眠っていた何十もの体が、跳ね起きる。
それから、その足音が、ばらばらと、奥へ、もっと奥へと、土の隙間へ潜り込んでいった。
伝わった。
ノクティエルは、それを足の裏で感じた。
言葉ではない。
だが、確かに、伝わった。
◇
乾いた殻の匂いが、入り口のすぐ外まで来ていた。
ノクティエルの鋏の先に、何かが触れた。
硬い。
冷たい。
節くれだった、長い、長い体。
その体のいちばん前で、二本の牙が、かちかちと鳴っていた。
百の脚の狩人。
ノクティエルの体の何十倍もある、とてつもなく長い生き物だった。
見えるわけではない。
それでも、触角が、鋏が、脚の裏が、その大きさを伝えてくる。
石の下の世界が、丸ごと飲み込まれてしまいそうな大きさだった。
牙が、ノクティエルの鋏に噛みついた。
痛みが、尾から背中へ、背中から頭へ、一直線に走った。
膜の頃には知らなかった痛みだった。
体がある、ということは、こんなにも痛いということだった。
ノクティエルは、鋏を閉じた。
閉じようとした。
脱皮したばかりの柔らかい鋏は、狩人の殻を挟んでも、傷一つつけられなかった。
それでも、閉じた。
閉じたまま、離さなかった。
大きな兄弟と鋏をぶつけ合った時のことを思い出した。
関節の柔らかいところを挟めば、相手は鋏を下ろすしかない。
この体は、そういう戦い方を知っていた。
ノクティエルは、狩人の牙の付け根を探った。
節と節のあいだ。
柔らかいところ。
見つからなかった。
狩人の体は、どこもかしこも硬い殻に覆われていて、ノクティエルの鋏が入り込める隙間など、一つもなかった。
兄弟同士で押し合うための鋏は、この相手には、何の役にも立たなかった。
勝てない。
最初から、わかっていたことだった。
わかっていて、ノクティエルは鋏を緩めなかった。
勝つために挟んでいるのではなかった。
ここにいるために、挟んでいた。
自分の体が隙間を埋めているあいだは、狩人の頭は、奥へ入れない。
それだけのために。
狩人が、体を引いた。
ノクティエルの体が、入り口の隙間から引きずり出されそうになる。
ノクティエルは、六本の脚で石の縁にしがみついた。
一本の脚が、ぶつりと、根元から千切れた。
それでも、離さなかった。
〈やめなさい〉
アスタロトの声が、初めて、焦りを帯びた。
〈何の意味がある。誰も見ていないよ。兄弟たちは奥に潜ってしまった。母親は遠くにいる。君がここで千切れても、誰も知らない。誰も、君がここを塞いだことを、覚えていない〉
〈君の名は、どこにも残らないんだよ〉
ノクティエルは、千切れた脚の痛みの中で、その言葉を聞いていた。
名。
この体には、名がない。
ハサミムシの子に、名などない。
何十匹もいる兄弟の、真ん中あたりの、一匹。
母の触角が、とん、と頭に触れる、その一瞬だけ、数えられる一匹。
それで、よかった。
天界で、自分はずっと、名を呼ばれたかった。
灰の位に留める、ではなく、白の位へ、と呼ばれたかった。
ハリエルのように、拍手の中で名を呼ばれたかった。
そのために、借り火に手を伸ばした。
ここでは、誰も名を呼ばない。
呼ばれないまま、入り口を塞いでいる。
それでも、石の奥の何十もの足音が、今もまだ動いている。
生きている。
ここにいる。
それで、よかった。
◇
狩人の牙が、もう一度、ノクティエルの体に食い込もうとした。
その時、左の方から、別の匂いが飛び込んできた。
黒褐色の、艶のある、知っている匂い。
母だった。
母は、狩人の長い体の横腹へ、まっすぐに突っ込んできた。
体を翻し、尾を跳ね上げる。
太く、鋭く湾曲した鋏が、狩人の節と節のあいだを、がちりと挟んだ。
ノクティエルの柔らかい鋏とは、まるで違う音がした。
狩人の体が、大きくのたうった。
牙がノクティエルから離れ、母の方へ向かう。
母は、離さなかった。
何度体を振り回されても、鋏を緩めなかった。
ノクティエルが入り口を塞いでいたのと、同じように。
どれくらいの時間が経ったのか、わからない。
やがて、乾いた殻の匂いが、ずるずると遠ざかっていった。
右へ。
大きな兄弟の匂いが消えた方へ。
狩人は、ようやく去っていった。
一匹を食べ、二匹に挟まれ、それ以上の獲物を諦めて。
母が、入り口へ戻ってきた。
その背中の艶が、ひどく傷ついているのが、触角でわかった。
殻の一部が欠け、そこから、苦い匂いが漏れていた。
母の触角が、ノクティエルの頭に触れた。
とん。
それから、千切れた脚の付け根に、そっと触れた。
長いあいだ、触れていた。
それから、母は、ノクティエルの体をまたいで、石の奥へ入っていった。
一匹ずつ、子らの頭に触れていく音がした。
とん。
とん。
とん。
母は、ノクティエルを、真っ先には数えなかった。
入り口にいたから、最初に触れただけだった。
そのあとは、いつもと同じように、一匹ずつ、順番に。
隅の、いちばん小さな兄弟の頭にも、とん、と。
ノクティエルの体の奥で、何かが、かすかに痛んだ。
千切れた脚の痛みではなかった。
真っ先に。
その言葉が、まだ、どこかに引っかかっていた。
母が「よくやった」と言ってくれたら。
兄弟たちが、入り口を塞いだのは誰かを知ってくれたら。
その痛みに気づいて、ノクティエルは、自分を恥じた。
恥じながら、それでも、痛みは消えなかった。
◇
〈ほらね〉
乾いた花の匂いが、ずいぶん遠くから届いた。
石の割れ目の淡い光の中で、細長い影が揺れている。
だが、その影の頭のあたりで、小さな冠が、ひびの入った硝子のように、きらきらと欠けて落ちていくのが見えた。
〈君は、まだ認められたいと思っている。それは消えない。わたしが去っても、君の中に残る〉
影は、少しずつ薄れていった。
〈名を求めない者には、わたしの声は、よく届かない。……今は、ね〉
その言葉を最後に、乾いた花の匂いは、石の外の夜風に溶けて消えた。
ノクティエルは、入り口に体を横たえたまま、動かなかった。
動けなかったのかもしれない。
五本になった脚は、どれも力が抜けて、小刻みに震えていた。
石の奥から、小さな足音が近づいてきた。
隅の、いちばん小さな兄弟だった。
小さな兄弟は、ノクティエルの体のすぐそばまで来ると、触角を伸ばし、千切れた脚の付け根に、そっと触れた。
母がしたのと、同じ場所に。
それから、小さな兄弟は、口にくわえていた何かを、ノクティエルの前の土に置いた。
小さな、小さな、食べ物の欠片だった。
ノクティエルが、石の下で運んだ欠片と、同じくらいの大きさだった。
小さな兄弟は、数歩、後ろへ下がった。
ノクティエルが、あの夜にそうしたように。
ノクティエルは、その欠片を、長いあいだ見つめていた。
食べたい、と体が言った。
飢えはまだ、そこにあった。
それでも、すぐには口をつけなかった。
この欠片がどこから来たのかを、ちゃんと覚えておきたかったからだ。
◇
それから、石の下では、いくつもの夜が過ぎた。
母の背中の傷は、ふさがらなかった。
それでも母は、夜ごと外へ出て、明け方には食べ物を吐き戻した。
量は、少しずつ減っていった。
子らが大きくなるにつれ、母の口だけでは足りなくなっていった。
やがて、兄弟たちは、自分で外へ出るようになった。
最初は入り口のすぐそばまで。
次は、枯れ葉の山の一つ目まで。
出るたびに、ノクティエルは入り口の縁に体を伏せ、触角で外の匂いを探った。
乾いた殻の匂いがすれば、腹の腺から、あの焦げた樹脂のような匂いを噴き出した。
兄弟たちは、その匂いを嗅ぐと、すぐに石の下へ戻ってきた。
誰も、それがノクティエルの匂いだとは気づかなかった。
ただ、危ない匂いがしたら戻る、ということだけを、兄弟たちは覚えていった。
それで、よかった。
何度目かの脱皮で、千切れた脚の付け根から、新しい脚が生えてきた。
ほかの五本よりも細く、短い脚だった。
歩くたびに、わずかに体が傾いた。
ノクティエルは、その傾きを直そうとはしなかった。
あの夜に、入り口にいたことを、自分の体だけが覚えている印だった。
季節が変わりかけた頃、兄弟たちは、一匹、また一匹と、石の下から出ていって、戻らなくなった。
自分の石を探しに行くのだ。
いちばん小さな兄弟が出ていく朝、ノクティエルは入り口の縁にいた。
小さな兄弟は、もう小さくなかった。
ノクティエルの触角に、自分の触角を、一度だけ、とん、と触れさせた。
それから、振り返らずに、枯れ葉の山の向こうへ消えていった。
最後に残ったのは、ノクティエルと、母だけだった。
母は、石の下のいちばん奥で、じっとしていた。
もう、外へは出なかった。
ノクティエルが近づくと、長い触角を伸ばし、頭に、とん、と触れた。
一度だけ。
その触角は、それきり、もう動かなかった。
ノクティエルは、母の体の隣に、長いあいだ伏せていた。
数えなかった。
この数を、二百二十二の隣に並べることは、どうしてもできなかった。
母は、失われたのではない気がした。
残った子らを、一匹ずつ、最後まで数え終えて、それから、静かに数えるのをやめただけだった。
◇
白い場所で、大いなる秤が揺れていた。
皿の上には、小さな欠片が一つと、千切れた脚が一本、載っていた。
「第二の段の判定を告げる」
ネメシスが言った。
「お前は、虚飾の囁き手の道を選ばなかった。名の残らぬ場所で、名の残らぬ役を果たした。入り口を塞いだことを、誰にも告げなかった。告げる口を持たなかったからではない。告げたいと思ったことを、自分で恥じたからだ」
ネメシスは、少しだけ間を置いた。
「だが、その恥じたという思いさえ、まだ半分は、見られたいという欲から出ている。お前は、それも知っている」
ノクティエルは、答えなかった。
その通りだったからだ。
ノクティエルは、白い場所で、一つだけ問いを滲ませた。
「……母は、どこへ行きましたか」
ネメシスは、布の奥で、ほんのわずかに顔を上げた。
「あれの皿は、お前が生まれるずっと前から、重かった」
それだけだった。
どこへ行ったのかは、言わなかった。
だが、その声は、天界でノクティエルに裁きを告げた時よりも、ほんの少しだけ、柔らかかった。
「お前は、あれを数えなかったな」
「……数えられませんでした」
「それでいい。数えるべきでないものを数えないのも、数えるということだ」
ノクティエルには、その意味が、まだ半分しかわからなかった。
半分わかったことを、触角の奥に、大切にしまった。
「完全な昇格とする」
秤の柱の陰で、ヘルメスが、ひゅう、と短く口笛を吹いた。
「囁き手の冠に、ひびが入ったのを見たよ。言っておくが、お前が倒したわけじゃない。お前の中に、あいつが囁ける場所が、少しだけ減った。それだけのことだ。それだけのことが、いちばん難しい」
「ただし、傷は残る。誰かに見られたいという欲は、消えない。次の段でも、お前はそれを抱えていく」
ヘルメスが、杖の先でノクティエルの光に触れた。
「二つ目の能力は、危険を察知する力と、仲間に合図する力。二つ目の心は、誰にも数えられない役目を、それでも果たす心だ」
それから、ヘルメスは少しだけ声を落とした。
「大きな兄弟のことは、残念だった」
「……二百二十二です」
「そうか」
ヘルメスは、それ以上は何も言わず、杖を振り上げた。
「第三の段。次は、水だ。広い、広い水。お前一匹ではなく、無数の仲間と、同じ向きに泳ぐ器だ」
白い場所の底から、冷たい水の匂いが立ちのぼってきた。
塩の匂い。
そして、その底の、ずっと深いところから、何か途方もなく大きなものが、ゆっくりと身じろぎする気配がした。
落ちていく前に、ノクティエルは、もう一つの数を確かめた。
生きている者の数。
自分に「ここにいる」と、言葉ではない何かで伝えてくれた者の数。
水たまりの小さな膜が、二つ。
そして、石の下の、いちばん小さな兄弟。
三。




