第3話 石の下の母
最初に知ったのは、舌の感触だった。
ざらりとした、温かいもの。
それが、ノクティエルの体の表面を、上から下へ、ゆっくりと撫でていく。
一度。
また一度。
丁寧に、何度も。
ノクティエルは、まだ動けなかった。
自分がどこにいるのか、どんな形をしているのかも、わからない。
ただ、自分のまわりを、薄くて柔らかい殻が包んでいることだけはわかった。
そして、その殻の外側を、誰かが舐めている。
殻のすぐ隣にも、同じような殻がいくつも並んでいた。
膜の頃と同じように、見えなくてもわかった。
だが、わかり方が違った。
水の味ではない。
匂いだ。
湿った土の匂いの中に、自分と同じ匂いの粒が、ぎっしりと寄り集まっている。
舌は、ノクティエルの殻を舐め終えると、隣の殻へ移った。
隣を舐め終えると、また隣へ。
一つも飛ばさなかった。
一つも急がなかった。
殻の表面に、ぬるりとした嫌な匂いがつきかけるたびに、舌がそれを拭い取っていく。
黴〈かび〉の匂いだった。
湿った石の下では、放っておけば、殻はすぐに黴に包まれて腐ってしまう。
舌の持ち主は、それを知っていた。
知っていて、毎日、毎晩、一つ残らず舐め続けていた。
――母だ。
誰に教わったわけでもない。
それでも、ノクティエルは、そう思った。
◇
殻が割れたのは、何日目のことだったか。
内側から、体が膨らんでいく。
殻が押し広げられ、ぱり、と細い音を立てて裂けた。
ノクティエルは、殻の外へ転がり出た。
脚があった。
六本。
どれも細く、柔らかく、まだ白っぽい。
頭の先には、二本の糸のようなものが生えていた。
触角だ。
それを揺らすと、まわりの匂いが、膜の頃よりもずっとはっきりと流れ込んできた。
そして、体のいちばん後ろに、奇妙なものがついていた。
二本の、湾曲した、小さな鋏。
まだ柔らかく、何も挟めそうにない。
それでも、体を丸めると、鋏の先が持ち上がって、まわりの空気を探るように開いたり閉じたりした。
目もあった。
だが、ここは暗かった。
石の下だった。
頭の上に、大きな平たい石が覆いかぶさっている。
石と土のあいだの、狭くて湿った隙間。
そこに、ノクティエルと同じ白っぽい体が、何十と並んでうごめいていた。
兄弟たちだった。
その真ん中に、一匹だけ、大きな体があった。
黒褐色の、艶のある背中。
長い触角。
そして、体の後ろに、ノクティエルたちとは比べものにならない、太く鋭い鋏。
母は、生まれたばかりの子らを、鋏の届く範囲にぐるりと囲うように身を伏せていた。
母の触角が、ノクティエルの頭に触れた。
とん、と一度。
それから、隣の兄弟の頭へ。
また隣へ。
卵の殻を舐めていた時と同じように、一匹も飛ばさずに。
――数えている。
ノクティエルは、そう感じた。
母は、子の数を、触角で一匹ずつ確かめている。
ハリエルが言った、数えることとは一つずつ覚えていることだ、という言葉が、触角の先から流れ込んでくるようだった。
◇
石の下の暮らしは、狭く、暗く、温かかった。
夜になると、母は石の外へ出ていく。
そして明け方に戻ってくると、口の中に溜めてきたものを、子らの前に吐き戻した。
枯れ葉の欠片。
小さな虫の残り。
柔らかく噛み砕かれた、名前もわからない何か。
兄弟たちは、それに群がった。
ノクティエルも、群がった。
体の奥で、何かが疼いた。
足りない。
もっと。
念のために、もう一口。
水たまりで刻まれた、あの飢えだった。
腹が満ちているのに、まだ満ちていないと感じる。
気がつくと、ノクティエルは、隣の兄弟を押しのけて、母の口元に頭を突っ込んでいた。
押しのけられた兄弟は、小さな鋏を振り上げかけたが、すぐに諦めて後ろへ下がった。
ノクティエルより、ひと回り小さい体だった。
はっとして、ノクティエルは口を離した。
また、やってしまった。
最初の日に、隣の膜の粒を横から奪ったのと同じだ。
頭ではわかっているのに、体が先に動く。
ノクティエルは、後ろへ下がった。
押しのけた兄弟の方へ、触角を伸ばした。
ここにいる、と伝えたかった。
だが、この体は、もう膜ではない。
味を流す方法が、わからなかった。
小さな兄弟は、ノクティエルの触角を避けるように、隅の方へ潜り込んでいった。
◇
味を流す方法は、わからなかった。
だが、何日か石の下で暮らすうちに、ノクティエルは別のことに気づいた。
母が戻ってくる少し前になると、兄弟たちの体から、ある匂いが立ちのぼる。
かすかに酸っぱい、湿った匂い。
腹が空いた、と告げる匂いだった。
兄弟たちは、自分で出そうとして出しているのではない。
腹が空けば、体が勝手にその匂いを漏らす。
母はその匂いを触角で嗅ぎ分け、匂いの強い子の前から順に、食べ物を吐き戻していく。
膜の頃の「ここにいる」と、同じだった。
この体にも、言葉はあった。
ただ、それは「ここにいる」ではなく、「腹が空いた」という言葉だった。
ノクティエルは、自分の体からも、その匂いが出ていることに気づいた。
しかも、強かった。
満ちているのに、満ちていないと感じる体は、満ちている時でさえ、腹が空いたと叫び続けていた。
水たまりの飢えが、ここでは匂いになって、母を呼んでいたのだ。
隅の小さな兄弟の匂いは、弱かった。
本当に腹が空いているはずなのに、体が小さすぎて、匂いを強く出す力が残っていない。
母の触角は、強い匂いの方へ先に引かれていく。
弱い匂いは、強い匂いにかき消される。
いちばん大きな兄弟の匂いは、いちばん強かった。
ノクティエルの匂いは、その次に強かった。
自分が叫べば叫ぶほど、小さな兄弟の声は届かなくなる。
ノクティエルは、それを知ってしまった。
知ってしまったが、どうすれば匂いを抑えられるのか、わからなかった。
腹を満たせば、匂いは弱まるはずだった。
だが、この体は、どれだけ満たしても、満ちたと思わない。
◇
石の下で暮らし始めて、しばらく経った頃。
ノクティエルの背中が、急に窮屈になった。
体の内側が、外の殻を押し広げようとしている。
息が詰まる。
脚が動かない。
ノクティエルは石の壁に体を押しつけ、背中を丸めた。
ぴしり、と音がして、背中の殻が縦に割れた。
古い殻から、新しい体を引き抜いていく。
頭。
触角。
六本の脚。
最後に、鋏。
古い殻は、ノクティエルの形をそのままに、空っぽになって土の上に残った。
新しい体は、まだ白く、柔らかかった。
だが、ひと回り大きかった。
鋏の先が、前よりも少しだけ、鋭く曲がっていた。
母がやって来て、ノクティエルの脱いだ殻を触角で確かめた。
それから、殻を口にくわえ、ゆっくりと噛み砕いて、飲み込んだ。
何一つ、無駄にしない。
子が脱ぎ捨てたものでさえ、母は自分の体に戻して、また子らへ運ぶ糧に変えるのだ。
ノクティエルは、新しい体のまま、母の背中を見つめていた。
天界で、自分は灯し棒の火を、一度でも、誰かのために残したことがあっただろうか。
◇
兄弟たちは、少しずつ、互いの違いを持ち始めた。
いちばん大きな兄弟は、いつも母の口元のいちばん近くにいた。
体が大きいから、押されても負けない。
負けないから、いちばん多く食べる。
いちばん多く食べるから、さらに大きくなる。
ほかの兄弟たちは、自然とその兄弟を避けるようになった。
いちばん小さい兄弟は、いつも隅にいた。
ノクティエルが押しのけた、あの兄弟だった。
母が食べ物を吐き戻しても、なかなか前へ出られない。
出られないまま、残りかすを、ほかの兄弟たちが去ったあとで、少しだけ口にする。
ノクティエルは、その真ん中あたりにいた。
大きすぎず、小さすぎず。
押せば押せるが、押されれば下がる。
天界の秤の園で、三つ目の鈴で目を覚ましていた頃と、同じ位置だった。
ある夜、母が石の外へ出ていったあと、ノクティエルは触角に、妙な匂いを感じた。
甘い。
だが、甘いだけではない。
どこか、乾いた花のような、古い香油のような匂い。
石の下の湿った空気には、まるで似合わない匂いだった。
〈君は、ずいぶん賢そうな顔をしているね〉
声がした。
水たまりで聞いた、腐った果物の声とは違った。
澄んだ、よく通る、少し笑みを含んだ声。
だが、声の出どころは、やはりノクティエルの内側だった。
〈ほかの子たちとは、目つきが違う。考えている子の目だ。そういう子は、こんな石の下で、真ん中あたりに埋もれているべきじゃない〉
「……誰だ」
問いかけは、触角の先から、ふわりと漏れていった。
〈名乗るほどの者じゃない。ただ、物知りなだけさ〉
石の天井の、ほんの小さな割れ目から、光とも呼べないほど淡い光が差し込んでいた。
その光の中に、何かが浮かんでいた。
虫ではない。
輪郭のはっきりしない、細長い影。
影の頭のあたりに、小さな冠のようなものが、きらりと光った気がした。
〈知りたいことがあるなら、教えてあげよう。たとえば、母親がどこで餌を集めてくるのか〉
ノクティエルの触角が、ぴくりと震えた。
〈石を出て、右へ三つ、枯れ葉の山を越えた先に、倒れた果実の木がある。熟れて落ちた果実が、いくつも土に埋もれている。母親は、毎晩そこへ通っている。でも、全部は運べない。口に入る分だけだ。残りは、そのまま土の中で、ほかの虫たちに食われていく〉
〈君がそこへ行けば、君の分だけでなく、兄弟の分も、母親よりずっと多く運べる。そうすれば、もう誰も君を押しのけない。いちばん大きな兄弟でさえ、君の前に道を開ける。母親だって、君を真っ先に数えるようになる〉
真っ先に。
その言葉が、触角の根元に、甘く絡みついた。
〈三つ目の鈴で起きる天使が、一つ目の鈴で起きるようになる。素敵だと思わないかい〉
ノクティエルの体が、こわばった。
この声も、天界のことを知っている。
「お前も、蠅の王の仲間か」
〈仲間? まさか〉
声は、小さく笑った。
〈蠅の王は、腹の空いた者に囁く。わたしは、認められたい者に囁く。似ているようで、ずいぶん違うよ。わたしの名は――そうだね、アスタロトとでも呼んでくれればいい〉
〈信じられないかい。なら、一つだけ、試しに教えてあげよう〉
アスタロトの声が、軽やかに続いた。
〈明日の夜、母親は戻ってくるのが遅れる。石の外の落ち葉が、雨で重くなるからだ。母親は濡れた体で帰ってきて、真っ先に入り口の近くで体を拭う。その時、いちばん大きな子が、母親の背中に乗ろうとして、払いのけられる〉
そんな細かいことが、わかるはずがない。
ノクティエルは、そう思った。
次の夜、雨が降った。
母は、いつもより遅れて戻ってきた。
濡れた体で、入り口の近くで、体を何度も地面にこすりつけた。
いちばん大きな兄弟が、母の背中へ這い上がろうとした。
母は、鋏の付け根で、それを軽く払いのけた。
全部、言われた通りだった。
〈ほらね〉
乾いた花の匂いが、触角の先で満足げに揺れた。
〈わたしは、嘘はつかないよ。少なくとも、君が確かめられることについてはね〉
◇
その翌日、いちばん大きな兄弟が、ノクティエルの前に立ちはだかった。
母が吐き戻した食べ物の前だった。
ノクティエルが頭を突っ込もうとした瞬間、大きな兄弟の体が横から割り込んできた。
そして、くるりと向きを変えた。
体の後ろの鋏が、高く持ち上がる。
ノクティエルのものより、ひと回り太く、硬そうな鋏だった。
ノクティエルも、とっさに体を回した。
自分の鋏を持ち上げる。
脱皮したばかりの、まだ白っぽい鋏。
二つの鋏が、かちり、とぶつかった。
大きな兄弟の鋏は、重かった。
押し返そうとしても、押し返せない。
ノクティエルの体が、少しずつ後ろへずれていく。
まわりの兄弟たちが、さっと場所を空けた。
誰も止めない。
止める者などいない。
強い方が食べる。
それが、この石の下の、母がいない時の決まりだった。
――負ける。
そう思った瞬間、体の奥の飢えが、かっと熱くなった。
負けたら、食べられない。
食べられなければ、また空っぽになる。
水たまりで、内側が冷えていった、あの感覚。
もう二度と、あれは嫌だ。
ノクティエルは、鋏を引いた。
引いて、大きな兄弟の鋏の付け根、柔らかい関節のあたりを狙って、もう一度突き出そうとした。
そこを挟めば、相手は鋏を下ろすしかない。
この体は、そういうことを知っていた。
その時、隅の方で、何かが動いた。
小さな兄弟だった。
二匹がぶつかり合っている隙に、食べ物の端の方へ、そっと這い寄っていた。
誰も見ていない場所で、ほんの一欠片だけ、口にしていた。
ノクティエルは、鋏を止めた。
止めた瞬間、大きな兄弟の鋏に押され、ころりと横へ転がされた。
大きな兄弟は、勝ち誇るように鋏を揺らし、食べ物の真ん中へ頭を突っ込んだ。
ノクティエルは、転がったまま、隅の兄弟を見ていた。
小さな兄弟は、一欠片を食べ終えると、すぐにまた隅へ戻っていった。
負けた。
それなのに、体の奥の熱は、いつの間にか冷めていた。
〈惜しかったね〉
アスタロトが囁いた。
〈あと一息で、勝てたのに。勝っていれば、みんなが君を見た。あの小さな子なんかに気を取られなければ〉
ノクティエルは、答えなかった。
答える代わりに、二百二十一という数を、触角の奥でもう一度確かめた。
そして、そのすぐ隣にある、もう一つの数も。
二。
◇
その夜、ノクティエルは、石の外へは出なかった。
代わりに、昼のあいだにこっそり残しておいた食べ物の欠片を、鋏でそっと挟んだ。
脱皮したばかりの鋏でも、柔らかい欠片くらいなら挟めた。
ノクティエルは、兄弟たちの体をよけながら、石の下の隅へ這っていった。
小さな兄弟は、土の窪みに体を押し込むようにして、じっとしていた。
ノクティエルが近づくと、触角を引っ込め、鋏をわずかに持ち上げた。
警戒している。
当たり前だ、とノクティエルは思った。
最初に押しのけたのは、自分なのだから。
ノクティエルは、欠片を、小さな兄弟の前の土に置いた。
それから、数歩、後ろへ下がった。
小さな兄弟は、しばらく動かなかった。
触角だけを、欠片の方へ、そろそろと伸ばした。
匂いを確かめ、ノクティエルの方を確かめ、また欠片を確かめた。
やがて、ためらうように、欠片を口にした。
ノクティエルの体の奥で、飢えが疼いた。
あれは、自分の分だった。
念のために残しておいた、明日の分だった。
それでも、膜の頃に、内側の蓄えを押し出した時ほどは、怖くなかった。
小さな兄弟の体から、ほんのかすかに、酸っぱい匂いが薄れていった。
腹が空いた、という声が、ほんの少しだけ、静かになった。
それだけのことだった。
誰も見ていなかった。
兄弟たちは眠っていて、母は石の外にいた。
――見ているのは、秤だけだ。
ヘルメスの言葉が、触角の奥でよみがえった。
出なかったが、眠れもしなかった。
触角の先に、乾いた花の匂いが残っていた。
右へ三つ。
枯れ葉の山。
倒れた果実の木。
その言葉が、何度も、何度も、触角の奥で繰り返された。
明け方、母が戻ってきた。
母は、いつものように子らの前に食べ物を吐き戻した。
いつもより、少なかった。
母の背中の艶が、ほんのわずかに、くすんでいるように見えた。
いちばん大きな兄弟が、真っ先に食べ物へ頭を突っ込んだ。
ほかの兄弟たちが、それに続いた。
隅の小さな兄弟は、今日も前へ出られなかった。
ノクティエルは、少しだけ食べて、それから後ろへ下がった。
隅の兄弟の分が、少しでも残るように。
残りは、ほとんどなかった。
小さな兄弟は、かすをわずかに口にしただけで、また隅へ潜り込んでいった。
〈見ただろう〉
アスタロトの声が、触角の先で囁いた。
〈母親一匹の口では、もう足りないんだ。子は大きくなる。食べる量は増える。でも、母親の口の大きさは変わらない。誰かが、母親の代わりに運ばなければ、いちばん小さい子から順に、飢えて消えていく〉
ノクティエルの体の奥で、水たまりの記憶が疼いた。
味が薄れ、揺れが細くなり、ふっと消えていった膜たち。
二百十九。
二百二十。
二百二十一。
〈君なら、運べる。君だけが、場所を知っている。君が行かなければ、あの小さい子は、次の新月を越えられない〉
それは、正しいことのように聞こえた。
また、正しいことのように聞こえた。
ノクティエルは、触角を伏せた。
蠅の王が囁いた時と、何が違うのか。
あの時は、食えと言われた。
今は、運べと言われている。
奪うのではなく、与えるために行け、と。
違うはずだった。
違うはずなのに、触角の根元に絡みつく甘さは、あの腐った果物の味と、どこかで似ていた。
◇
次の夜、母はなかなか石の外へ出ていかなかった。
入り口のあたりで、長い触角を揺らしている。
何度も、外の空気を探っている。
それから、子らの方を振り返り、鋏を高く持ち上げた。
出るな、という合図だった。
ノクティエルにも、それがわかった。
母の触角が、一匹ずつ子らの頭に触れていく。
とん。
とん。
とん。
いちばん大きな兄弟。
真ん中の兄弟たち。
ノクティエル。
そして、隅の、いちばん小さな兄弟。
最後の一匹に触れたあと、母はしばらく、その触角を離さなかった。
それから、母は石の外へ出ていった。
ノクティエルの触角が、外の匂いを拾った。
湿った土。
落ち葉。
夜露。
そして、そのどれでもない、乾いた、ひどく嫌な匂い。
硬い殻と、無数の脚の匂い。
膜の頃には知らなかった匂いだ。
だが、この体は知っていた。
体の奥のいちばん古いところが、その匂いを嗅いだ瞬間に、縮み上がった。
喰らう者の匂いだった。
〈おや〉
アスタロトの声が、楽しげに揺れた。
〈百の脚を持つ狩人が、この石の近くを歩いている。母親は、それを遠ざけるために出ていったんだね。賢い母親だ。自分を囮にして、狩人の気を子らから逸らすつもりだ〉
ノクティエルの体が、固まった。
〈でも、母親は一匹だ。狩人を遠ざけながら、餌まで運ぶことはできない。今夜は、きっと、何も持って帰ってこない〉
〈さあ、君の出番だよ〉
石の割れ目から差し込む淡い光の中で、細長い影が、冠をきらめかせた。
〈母親が狩人を引きつけている今なら、右の道は空いている。君が果実の木まで行って、兄弟たちの分を運んでくれば、みんな今夜を越えられる。君は、母親と同じことができる子だと、みんなが知る。いちばん大きな兄弟も、君にひれ伏す〉
〈認められたいんだろう? ずっと〉
ノクティエルは、石の入り口の方を見た。
暗い。
その向こうで、乾いた嫌な匂いが、ゆっくりと動いている。
右か、左か、それすらもわからない。
アスタロトは、右の道は空いていると言った。
本当だろうか。
物知りだと言った。
本当だろうか。
――少なくとも、君が確かめられることについてはね。
あの夜の言葉が、触角の奥で引っかかった。
雨のことも、母の帰りが遅れることも、大きな兄弟が払いのけられることも、全部、石の下で確かめられることだった。
だが、右の道が空いているかどうかは、石の外へ出てみなければ確かめられない。
出てしまったら、もう引き返せないかもしれない。
確かめられる小さな本当を重ねて、確かめられない大きな嘘を信じさせる。
天界で借り火を渡されたあの夜も、そうではなかったか。
「君の火は、悪くない。ただ、細いだけだ」
あれは、本当だった。
本当だったから、その後の言葉まで、全部信じてしまった。
それでも、母は一匹で、乾いた匂いの方へ出ていった。
今夜、何も持って帰ってこないかもしれない。
帰ってこないかもしれない。
隅の方で、小さな兄弟が、かすかに身じろぎする気配がした。
ノクティエルは、鋏を持ち上げた。
まだ柔らかい、何も挟めない鋏を。
そして、石の入り口へ向かって、一歩、脚を踏み出した。




