↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/20

第3話 石の下の母

最初に知ったのは、舌の感触だった。


 ざらりとした、温かいもの。

 それが、ノクティエルの体の表面を、上から下へ、ゆっくりと撫でていく。

 一度。

 また一度。

 丁寧に、何度も。


 ノクティエルは、まだ動けなかった。

 自分がどこにいるのか、どんな形をしているのかも、わからない。

 ただ、自分のまわりを、薄くて柔らかい殻が包んでいることだけはわかった。

 そして、その殻の外側を、誰かが舐めている。


 殻のすぐ隣にも、同じような殻がいくつも並んでいた。

 膜の頃と同じように、見えなくてもわかった。

 だが、わかり方が違った。

 水の味ではない。

 匂いだ。

 湿った土の匂いの中に、自分と同じ匂いの粒が、ぎっしりと寄り集まっている。


 舌は、ノクティエルの殻を舐め終えると、隣の殻へ移った。

 隣を舐め終えると、また隣へ。

 一つも飛ばさなかった。

 一つも急がなかった。


 殻の表面に、ぬるりとした嫌な匂いがつきかけるたびに、舌がそれを拭い取っていく。

 黴〈かび〉の匂いだった。

 湿った石の下では、放っておけば、殻はすぐに黴に包まれて腐ってしまう。

 舌の持ち主は、それを知っていた。

 知っていて、毎日、毎晩、一つ残らず舐め続けていた。


 ――母だ。


 誰に教わったわけでもない。

 それでも、ノクティエルは、そう思った。


 ◇


 殻が割れたのは、何日目のことだったか。


 内側から、体が膨らんでいく。

 殻が押し広げられ、ぱり、と細い音を立てて裂けた。

 ノクティエルは、殻の外へ転がり出た。


 脚があった。

 六本。

 どれも細く、柔らかく、まだ白っぽい。

 頭の先には、二本の糸のようなものが生えていた。

 触角だ。

 それを揺らすと、まわりの匂いが、膜の頃よりもずっとはっきりと流れ込んできた。


 そして、体のいちばん後ろに、奇妙なものがついていた。

 二本の、湾曲した、小さな鋏。

 まだ柔らかく、何も挟めそうにない。

 それでも、体を丸めると、鋏の先が持ち上がって、まわりの空気を探るように開いたり閉じたりした。


 目もあった。

 だが、ここは暗かった。

 石の下だった。

 頭の上に、大きな平たい石が覆いかぶさっている。

 石と土のあいだの、狭くて湿った隙間。

 そこに、ノクティエルと同じ白っぽい体が、何十と並んでうごめいていた。


 兄弟たちだった。


 その真ん中に、一匹だけ、大きな体があった。

 黒褐色の、艶のある背中。

 長い触角。

 そして、体の後ろに、ノクティエルたちとは比べものにならない、太く鋭い鋏。

 母は、生まれたばかりの子らを、鋏の届く範囲にぐるりと囲うように身を伏せていた。


 母の触角が、ノクティエルの頭に触れた。

 とん、と一度。

 それから、隣の兄弟の頭へ。

 また隣へ。

 卵の殻を舐めていた時と同じように、一匹も飛ばさずに。


 ――数えている。


 ノクティエルは、そう感じた。

 母は、子の数を、触角で一匹ずつ確かめている。

 ハリエルが言った、数えることとは一つずつ覚えていることだ、という言葉が、触角の先から流れ込んでくるようだった。


 ◇


 石の下の暮らしは、狭く、暗く、温かかった。


 夜になると、母は石の外へ出ていく。

 そして明け方に戻ってくると、口の中に溜めてきたものを、子らの前に吐き戻した。

 枯れ葉の欠片。

 小さな虫の残り。

 柔らかく噛み砕かれた、名前もわからない何か。


 兄弟たちは、それに群がった。

 ノクティエルも、群がった。


 体の奥で、何かが疼いた。

 足りない。

 もっと。

 念のために、もう一口。

 水たまりで刻まれた、あの飢えだった。

 腹が満ちているのに、まだ満ちていないと感じる。

 気がつくと、ノクティエルは、隣の兄弟を押しのけて、母の口元に頭を突っ込んでいた。


 押しのけられた兄弟は、小さな鋏を振り上げかけたが、すぐに諦めて後ろへ下がった。

 ノクティエルより、ひと回り小さい体だった。


 はっとして、ノクティエルは口を離した。

 また、やってしまった。

 最初の日に、隣の膜の粒を横から奪ったのと同じだ。

 頭ではわかっているのに、体が先に動く。


 ノクティエルは、後ろへ下がった。

 押しのけた兄弟の方へ、触角を伸ばした。

 ここにいる、と伝えたかった。

 だが、この体は、もう膜ではない。

 味を流す方法が、わからなかった。


 小さな兄弟は、ノクティエルの触角を避けるように、隅の方へ潜り込んでいった。


 ◇


 味を流す方法は、わからなかった。

 だが、何日か石の下で暮らすうちに、ノクティエルは別のことに気づいた。


 母が戻ってくる少し前になると、兄弟たちの体から、ある匂いが立ちのぼる。

 かすかに酸っぱい、湿った匂い。

 腹が空いた、と告げる匂いだった。

 兄弟たちは、自分で出そうとして出しているのではない。

 腹が空けば、体が勝手にその匂いを漏らす。

 母はその匂いを触角で嗅ぎ分け、匂いの強い子の前から順に、食べ物を吐き戻していく。


 膜の頃の「ここにいる」と、同じだった。

 この体にも、言葉はあった。

 ただ、それは「ここにいる」ではなく、「腹が空いた」という言葉だった。


 ノクティエルは、自分の体からも、その匂いが出ていることに気づいた。

 しかも、強かった。

 満ちているのに、満ちていないと感じる体は、満ちている時でさえ、腹が空いたと叫び続けていた。

 水たまりの飢えが、ここでは匂いになって、母を呼んでいたのだ。


 隅の小さな兄弟の匂いは、弱かった。

 本当に腹が空いているはずなのに、体が小さすぎて、匂いを強く出す力が残っていない。

 母の触角は、強い匂いの方へ先に引かれていく。

 弱い匂いは、強い匂いにかき消される。


 いちばん大きな兄弟の匂いは、いちばん強かった。

 ノクティエルの匂いは、その次に強かった。


 自分が叫べば叫ぶほど、小さな兄弟の声は届かなくなる。

 ノクティエルは、それを知ってしまった。


 知ってしまったが、どうすれば匂いを抑えられるのか、わからなかった。

 腹を満たせば、匂いは弱まるはずだった。

 だが、この体は、どれだけ満たしても、満ちたと思わない。


 ◇


 石の下で暮らし始めて、しばらく経った頃。

 ノクティエルの背中が、急に窮屈になった。


 体の内側が、外の殻を押し広げようとしている。

 息が詰まる。

 脚が動かない。

 ノクティエルは石の壁に体を押しつけ、背中を丸めた。

 ぴしり、と音がして、背中の殻が縦に割れた。


 古い殻から、新しい体を引き抜いていく。

 頭。

 触角。

 六本の脚。

 最後に、鋏。

 古い殻は、ノクティエルの形をそのままに、空っぽになって土の上に残った。


 新しい体は、まだ白く、柔らかかった。

 だが、ひと回り大きかった。

 鋏の先が、前よりも少しだけ、鋭く曲がっていた。


 母がやって来て、ノクティエルの脱いだ殻を触角で確かめた。

 それから、殻を口にくわえ、ゆっくりと噛み砕いて、飲み込んだ。

 何一つ、無駄にしない。

 子が脱ぎ捨てたものでさえ、母は自分の体に戻して、また子らへ運ぶ糧に変えるのだ。


 ノクティエルは、新しい体のまま、母の背中を見つめていた。

 天界で、自分は灯し棒の火を、一度でも、誰かのために残したことがあっただろうか。


 ◇


 兄弟たちは、少しずつ、互いの違いを持ち始めた。


 いちばん大きな兄弟は、いつも母の口元のいちばん近くにいた。

 体が大きいから、押されても負けない。

 負けないから、いちばん多く食べる。

 いちばん多く食べるから、さらに大きくなる。

 ほかの兄弟たちは、自然とその兄弟を避けるようになった。


 いちばん小さい兄弟は、いつも隅にいた。

 ノクティエルが押しのけた、あの兄弟だった。

 母が食べ物を吐き戻しても、なかなか前へ出られない。

 出られないまま、残りかすを、ほかの兄弟たちが去ったあとで、少しだけ口にする。


 ノクティエルは、その真ん中あたりにいた。

 大きすぎず、小さすぎず。

 押せば押せるが、押されれば下がる。

 天界の秤の園で、三つ目の鈴で目を覚ましていた頃と、同じ位置だった。


 ある夜、母が石の外へ出ていったあと、ノクティエルは触角に、妙な匂いを感じた。


 甘い。

 だが、甘いだけではない。

 どこか、乾いた花のような、古い香油のような匂い。

 石の下の湿った空気には、まるで似合わない匂いだった。


〈君は、ずいぶん賢そうな顔をしているね〉


 声がした。

 水たまりで聞いた、腐った果物の声とは違った。

 澄んだ、よく通る、少し笑みを含んだ声。

 だが、声の出どころは、やはりノクティエルの内側だった。


〈ほかの子たちとは、目つきが違う。考えている子の目だ。そういう子は、こんな石の下で、真ん中あたりに埋もれているべきじゃない〉


「……誰だ」


 問いかけは、触角の先から、ふわりと漏れていった。


〈名乗るほどの者じゃない。ただ、物知りなだけさ〉


 石の天井の、ほんの小さな割れ目から、光とも呼べないほど淡い光が差し込んでいた。

 その光の中に、何かが浮かんでいた。

 虫ではない。

 輪郭のはっきりしない、細長い影。

 影の頭のあたりに、小さな冠のようなものが、きらりと光った気がした。


〈知りたいことがあるなら、教えてあげよう。たとえば、母親がどこで餌を集めてくるのか〉


 ノクティエルの触角が、ぴくりと震えた。


〈石を出て、右へ三つ、枯れ葉の山を越えた先に、倒れた果実の木がある。熟れて落ちた果実が、いくつも土に埋もれている。母親は、毎晩そこへ通っている。でも、全部は運べない。口に入る分だけだ。残りは、そのまま土の中で、ほかの虫たちに食われていく〉


〈君がそこへ行けば、君の分だけでなく、兄弟の分も、母親よりずっと多く運べる。そうすれば、もう誰も君を押しのけない。いちばん大きな兄弟でさえ、君の前に道を開ける。母親だって、君を真っ先に数えるようになる〉


 真っ先に。

 その言葉が、触角の根元に、甘く絡みついた。


〈三つ目の鈴で起きる天使が、一つ目の鈴で起きるようになる。素敵だと思わないかい〉


 ノクティエルの体が、こわばった。

 この声も、天界のことを知っている。


「お前も、蠅の王の仲間か」


〈仲間? まさか〉


 声は、小さく笑った。


〈蠅の王は、腹の空いた者に囁く。わたしは、認められたい者に囁く。似ているようで、ずいぶん違うよ。わたしの名は――そうだね、アスタロトとでも呼んでくれればいい〉


〈信じられないかい。なら、一つだけ、試しに教えてあげよう〉


 アスタロトの声が、軽やかに続いた。


〈明日の夜、母親は戻ってくるのが遅れる。石の外の落ち葉が、雨で重くなるからだ。母親は濡れた体で帰ってきて、真っ先に入り口の近くで体を拭う。その時、いちばん大きな子が、母親の背中に乗ろうとして、払いのけられる〉


 そんな細かいことが、わかるはずがない。

 ノクティエルは、そう思った。


 次の夜、雨が降った。

 母は、いつもより遅れて戻ってきた。

 濡れた体で、入り口の近くで、体を何度も地面にこすりつけた。

 いちばん大きな兄弟が、母の背中へ這い上がろうとした。

 母は、鋏の付け根で、それを軽く払いのけた。


 全部、言われた通りだった。


〈ほらね〉


 乾いた花の匂いが、触角の先で満足げに揺れた。


〈わたしは、嘘はつかないよ。少なくとも、君が確かめられることについてはね〉


 ◇


 その翌日、いちばん大きな兄弟が、ノクティエルの前に立ちはだかった。


 母が吐き戻した食べ物の前だった。

 ノクティエルが頭を突っ込もうとした瞬間、大きな兄弟の体が横から割り込んできた。

 そして、くるりと向きを変えた。

 体の後ろの鋏が、高く持ち上がる。

 ノクティエルのものより、ひと回り太く、硬そうな鋏だった。


 ノクティエルも、とっさに体を回した。

 自分の鋏を持ち上げる。

 脱皮したばかりの、まだ白っぽい鋏。


 二つの鋏が、かちり、とぶつかった。


 大きな兄弟の鋏は、重かった。

 押し返そうとしても、押し返せない。

 ノクティエルの体が、少しずつ後ろへずれていく。

 まわりの兄弟たちが、さっと場所を空けた。

 誰も止めない。

 止める者などいない。

 強い方が食べる。

 それが、この石の下の、母がいない時の決まりだった。


 ――負ける。


 そう思った瞬間、体の奥の飢えが、かっと熱くなった。

 負けたら、食べられない。

 食べられなければ、また空っぽになる。

 水たまりで、内側が冷えていった、あの感覚。

 もう二度と、あれは嫌だ。


 ノクティエルは、鋏を引いた。

 引いて、大きな兄弟の鋏の付け根、柔らかい関節のあたりを狙って、もう一度突き出そうとした。

 そこを挟めば、相手は鋏を下ろすしかない。

 この体は、そういうことを知っていた。


 その時、隅の方で、何かが動いた。

 小さな兄弟だった。

 二匹がぶつかり合っている隙に、食べ物の端の方へ、そっと這い寄っていた。

 誰も見ていない場所で、ほんの一欠片だけ、口にしていた。


 ノクティエルは、鋏を止めた。

 止めた瞬間、大きな兄弟の鋏に押され、ころりと横へ転がされた。

 大きな兄弟は、勝ち誇るように鋏を揺らし、食べ物の真ん中へ頭を突っ込んだ。


 ノクティエルは、転がったまま、隅の兄弟を見ていた。

 小さな兄弟は、一欠片を食べ終えると、すぐにまた隅へ戻っていった。


 負けた。

 それなのに、体の奥の熱は、いつの間にか冷めていた。


〈惜しかったね〉


 アスタロトが囁いた。


〈あと一息で、勝てたのに。勝っていれば、みんなが君を見た。あの小さな子なんかに気を取られなければ〉


 ノクティエルは、答えなかった。

 答える代わりに、二百二十一という数を、触角の奥でもう一度確かめた。

 そして、そのすぐ隣にある、もう一つの数も。

 二。


 ◇


 その夜、ノクティエルは、石の外へは出なかった。


 代わりに、昼のあいだにこっそり残しておいた食べ物の欠片を、鋏でそっと挟んだ。

 脱皮したばかりの鋏でも、柔らかい欠片くらいなら挟めた。

 ノクティエルは、兄弟たちの体をよけながら、石の下の隅へ這っていった。


 小さな兄弟は、土の窪みに体を押し込むようにして、じっとしていた。

 ノクティエルが近づくと、触角を引っ込め、鋏をわずかに持ち上げた。

 警戒している。

 当たり前だ、とノクティエルは思った。

 最初に押しのけたのは、自分なのだから。


 ノクティエルは、欠片を、小さな兄弟の前の土に置いた。

 それから、数歩、後ろへ下がった。


 小さな兄弟は、しばらく動かなかった。

 触角だけを、欠片の方へ、そろそろと伸ばした。

 匂いを確かめ、ノクティエルの方を確かめ、また欠片を確かめた。

 やがて、ためらうように、欠片を口にした。


 ノクティエルの体の奥で、飢えが疼いた。

 あれは、自分の分だった。

 念のために残しておいた、明日の分だった。

 それでも、膜の頃に、内側の蓄えを押し出した時ほどは、怖くなかった。


 小さな兄弟の体から、ほんのかすかに、酸っぱい匂いが薄れていった。

 腹が空いた、という声が、ほんの少しだけ、静かになった。


 それだけのことだった。

 誰も見ていなかった。

 兄弟たちは眠っていて、母は石の外にいた。


 ――見ているのは、秤だけだ。


 ヘルメスの言葉が、触角の奥でよみがえった。


 出なかったが、眠れもしなかった。

 触角の先に、乾いた花の匂いが残っていた。

 右へ三つ。

 枯れ葉の山。

 倒れた果実の木。

 その言葉が、何度も、何度も、触角の奥で繰り返された。


 明け方、母が戻ってきた。

 母は、いつものように子らの前に食べ物を吐き戻した。

 いつもより、少なかった。

 母の背中の艶が、ほんのわずかに、くすんでいるように見えた。


 いちばん大きな兄弟が、真っ先に食べ物へ頭を突っ込んだ。

 ほかの兄弟たちが、それに続いた。

 隅の小さな兄弟は、今日も前へ出られなかった。

 ノクティエルは、少しだけ食べて、それから後ろへ下がった。

 隅の兄弟の分が、少しでも残るように。


 残りは、ほとんどなかった。

 小さな兄弟は、かすをわずかに口にしただけで、また隅へ潜り込んでいった。


〈見ただろう〉


 アスタロトの声が、触角の先で囁いた。


〈母親一匹の口では、もう足りないんだ。子は大きくなる。食べる量は増える。でも、母親の口の大きさは変わらない。誰かが、母親の代わりに運ばなければ、いちばん小さい子から順に、飢えて消えていく〉


 ノクティエルの体の奥で、水たまりの記憶が疼いた。

 味が薄れ、揺れが細くなり、ふっと消えていった膜たち。

 二百十九。

 二百二十。

 二百二十一。


〈君なら、運べる。君だけが、場所を知っている。君が行かなければ、あの小さい子は、次の新月を越えられない〉


 それは、正しいことのように聞こえた。

 また、正しいことのように聞こえた。


 ノクティエルは、触角を伏せた。

 蠅の王が囁いた時と、何が違うのか。

 あの時は、食えと言われた。

 今は、運べと言われている。

 奪うのではなく、与えるために行け、と。


 違うはずだった。

 違うはずなのに、触角の根元に絡みつく甘さは、あの腐った果物の味と、どこかで似ていた。


 ◇


 次の夜、母はなかなか石の外へ出ていかなかった。


 入り口のあたりで、長い触角を揺らしている。

 何度も、外の空気を探っている。

 それから、子らの方を振り返り、鋏を高く持ち上げた。

 出るな、という合図だった。

 ノクティエルにも、それがわかった。


 母の触角が、一匹ずつ子らの頭に触れていく。

 とん。

 とん。

 とん。

 いちばん大きな兄弟。

 真ん中の兄弟たち。

 ノクティエル。

 そして、隅の、いちばん小さな兄弟。


 最後の一匹に触れたあと、母はしばらく、その触角を離さなかった。


 それから、母は石の外へ出ていった。


 ノクティエルの触角が、外の匂いを拾った。

 湿った土。

 落ち葉。

 夜露。

 そして、そのどれでもない、乾いた、ひどく嫌な匂い。

 硬い殻と、無数の脚の匂い。

 膜の頃には知らなかった匂いだ。

 だが、この体は知っていた。

 体の奥のいちばん古いところが、その匂いを嗅いだ瞬間に、縮み上がった。


 喰らう者の匂いだった。


〈おや〉


 アスタロトの声が、楽しげに揺れた。


〈百の脚を持つ狩人が、この石の近くを歩いている。母親は、それを遠ざけるために出ていったんだね。賢い母親だ。自分を囮にして、狩人の気を子らから逸らすつもりだ〉


 ノクティエルの体が、固まった。


〈でも、母親は一匹だ。狩人を遠ざけながら、餌まで運ぶことはできない。今夜は、きっと、何も持って帰ってこない〉


〈さあ、君の出番だよ〉


 石の割れ目から差し込む淡い光の中で、細長い影が、冠をきらめかせた。


〈母親が狩人を引きつけている今なら、右の道は空いている。君が果実の木まで行って、兄弟たちの分を運んでくれば、みんな今夜を越えられる。君は、母親と同じことができる子だと、みんなが知る。いちばん大きな兄弟も、君にひれ伏す〉


〈認められたいんだろう? ずっと〉


 ノクティエルは、石の入り口の方を見た。

 暗い。

 その向こうで、乾いた嫌な匂いが、ゆっくりと動いている。

 右か、左か、それすらもわからない。


 アスタロトは、右の道は空いていると言った。

 本当だろうか。

 物知りだと言った。

 本当だろうか。


 ――少なくとも、君が確かめられることについてはね。


 あの夜の言葉が、触角の奥で引っかかった。

 雨のことも、母の帰りが遅れることも、大きな兄弟が払いのけられることも、全部、石の下で確かめられることだった。

 だが、右の道が空いているかどうかは、石の外へ出てみなければ確かめられない。

 出てしまったら、もう引き返せないかもしれない。


 確かめられる小さな本当を重ねて、確かめられない大きな嘘を信じさせる。

 天界で借り火を渡されたあの夜も、そうではなかったか。

 「君の火は、悪くない。ただ、細いだけだ」

 あれは、本当だった。

 本当だったから、その後の言葉まで、全部信じてしまった。


 それでも、母は一匹で、乾いた匂いの方へ出ていった。

 今夜、何も持って帰ってこないかもしれない。

 帰ってこないかもしれない。


 隅の方で、小さな兄弟が、かすかに身じろぎする気配がした。


 ノクティエルは、鋏を持ち上げた。

 まだ柔らかい、何も挟めない鋏を。


 そして、石の入り口へ向かって、一歩、脚を踏み出した。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。