第2話 干上がる水たまり
〈どうした。食わないのか〉
腐った果物の味が、膜のまわりに絡みついてくる。
ベルゼブブの声は、急かしもしなければ、怒りもしなかった。
ただ、待っていた。
ノクティエルが自分から手を伸ばすのを、待っていた。
〈考える時間なら、いくらでもやろう。だが、水たまりは待たない〉
その通りだった。
膜の外の水は、昨日よりもまた少し、濃くなっている。
甘い粒は、もうほとんど流れてこない。
流れてくるのは、苦い粒と、溶けて消えた膜たちの名残ばかりだった。
ノクティエルは、自分の内側を探った。
探る、という感覚が、この体にもあることを知った。
膜の奥に、小さな塊がある。
最初の日に包み込んだ、あの甘い粒の残りだった。
溶けきらずに、ひっそりと蓄えられている。
体が、勝手に、明日のためにとっておいたのだ。
〈それがお前の蓄えだ。だが、それでは足りない。次の雨まで持たせるには、あと三つ、いや、五つは要る〉
ベルゼブブは、ノクティエルの内側まで見えているかのように言った。
〈まわりを見ろ。お前のすぐそばに、膜が六つ漂っている。どれも弱っている。いちばん小さいのは、もう境目が半分ほどけかけている。あれを食っても、誰も困らない。どうせ、明日には消えるのだから〉
ノクティエルは、膜の外の味を確かめた。
確かに、六つあった。
右の方に、少し大きめのものが二つ。
上の方に、ほとんど味のしないものが一つ。
そして、すぐそば、膜と膜が触れ合いそうなほど近くに、とても小さな膜が一つあった。
その膜の味は、薄く、揺れていた。
消えかけた灯のような揺れ方だった。
天界で、最後尾の列に並んでいた小さな魂たちを思い出した。
灯し棒の火を近づけると、ふるりと震えて明るくなった、あの魂たち。
あの魂たちも、こんなふうに揺れていたのだろうか。
揺れながら、誰かが近づいてくるのを待っていたのだろうか。
〈迷うのは、お前が天使だった頃の癖だ〉
ベルゼブブの声が、ほんの少しだけ低くなった。
〈天使は、迷ってもいい。上には秤があり、神がいて、誰かが代わりに決めてくれる。だが、ここは違う。ここでは、迷った者から消える。お前の隣にいたあの膜も、迷っていたから消えたのだ〉
ノクティエルの膜が、ひやりと冷えた。
あの膜は、迷っていたのではない。
自分が、あの膜の甘い粒を、横から奪ったのだ。
そう言い返したかった。
だが、言葉にする口がない。
言葉にできない思いは、膜の内側でぐるぐると回り、やがて苦い味になって沈んでいった。
◇
次の日、上の方にいた、ほとんど味のしない膜が消えた。
ノクティエルは、それを数えた。
二百十九。
その次の日、右の方にいた二つのうち、一つの味が濃く変わった。
まわりの苦い粒を、無理に取り込み始めたのだ。
苦い粒は、膜を傷める。
傷めながらでも、生き延びようとしている。
その膜は、少しずつ他の膜の方へ寄っていった。
寄っていって、残ったもう一つの膜に、ぴたりと張りついた。
ノクティエルには、その意味がわかった。
張りつかれた方の膜の味が、みるみる薄くなっていったからだ。
〈見たか〉
ベルゼブブが、楽しそうに言った。
〈あれは、わかっている。生き残るのは、食った方だ。お前もそうだったはずだ。最初の日、お前は迷わずに食った。あの時のお前は、正しかった〉
正しかった。
その言葉が、膜の奥に刺さった。
天界で、借り火の瓶に手を伸ばした時、自分はそれを正しいと思っていただろうか。
思っていなかった。
思っていなかったのに、手を伸ばした。
正しいかどうかより、欲しいかどうかの方が、ずっと大きかったからだ。
張りつかれた膜が、消えた。
二百二十。
張りついた方の膜は、少しだけ大きくなった。
だが、味は濁っていた。
苦い粒と、溶かした仲間の名残とが、膜の中でうまく混ざり合わず、どろりと沈んでいるような味だった。
◇
数えることを教えてくれたのは、ハリエルだった。
まだ二人とも、生まれて百年にも満たない頃のことだ。
灯の泉の前で、ノクティエルは自分の火の小ささに泣いていた。
泣いていたのを見られたくなくて、泉の裏の岩陰に隠れていた。
そこへ、ハリエルがやって来た。
「なにしてるんだ、こんなところで」
「……数えてる」
とっさに出た嘘だった。
ハリエルは岩陰を覗き込み、ノクティエルの濡れた頬を見て、何も言わずに隣に座った。
「じゃあ、一緒に数えよう。今日、僕らが灯した魂の数」
ハリエルは指を折った。
ノクティエルも、仕方なく指を折った。
ハリエルの指は、両手を三回往復しても足りなかった。
ノクティエルの指は、片手の半分で止まった。
「三つ」
「三つか。じゃあ、その三つは、どんな魂だった」
ノクティエルは、驚いて顔を上げた。
どんな魂だったか。
そんなことを、誰かに聞かれたのは初めてだった。
「……ひとつは、生まれてすぐの赤子だった。もうひとつは、川で溺れた犬。最後のは、名前もわからない、小さな羽虫」
「覚えてるんだな」
「一つずつしか、灯せないから」
ハリエルは、笑わなかった。
ただ、自分の折った指を見下ろして、少しだけ悔しそうな顔をした。
「僕は、今日灯した魂の顔を、一つも覚えてない」
あの時のハリエルの横顔を、ノクティエルは長いあいだ忘れていた。
金の位に上がり、白い火を灯し、誰よりも多くの魂を秤へ送り出すハリエル。
その背中ばかりを見上げて、羨んで、いつの間にか、あの夜のことを思い出さなくなっていた。
数える、というのは、数を増やすことではなかった。
一つずつ、覚えていることだった。
◇
〈懐かしい顔を思い出したか〉
腐った果物の味が、またノクティエルの膜を撫でた。
〈ハリエル。金の翼の天使。お前が片翼を焼いた天使〉
ノクティエルの膜が、こわばった。
ベルゼブブは、そこまで知っている。
〈あれは、お前を庇った。お前は、それをありがたいと思った。ありがたいと思った自分を、卑しいと思った。ならば、こう考えてみろ〉
声が、ひどく優しくなった。
あの夜、園の西の端で聞いた声と、そっくりの優しさだった。
〈ここで生き残れ。十の段を、誰よりも早く昇りきれ。天界へ戻り、灰色ではなく金色の翼で、ハリエルの前に立て。そうすれば、あれの片翼の借りも返せる。そのためには、ここで飢えて消えている暇はない。わかるだろう。小さいのを一つ食うことは、ハリエルへの償いの第一歩なのだ〉
ノクティエルの膜の奥で、何かが大きく揺れた。
それは、正しいことのように聞こえた。
正しいことのように聞こえるから、恐ろしかった。
――借り火は、一度でいい。一度、大きな魂をまとめて灯せば。
あの夜も、同じだった。
認められるための近道を差し出され、それを償いのように、正しいことのように思い込んで、手を伸ばした。
ノクティエルは、膜を固く閉じた。
閉じても、腐った果物の味は、境目の外にまとわりついて離れなかった。
◇
残ったのは、ノクティエルと、あの大きくなった濁った膜と、すぐそばの小さな膜の三つだけだった。
その夜、水がひどく冷えた。
水たまりの縁が、さらに内側へ寄ってきた。
膜の外の水が、粘りを帯び始めている。
動こうとしても、うまく流れていかない。
濁った膜が、ゆっくりとこちらへ寄ってきた。
狙っているのは、ノクティエルではなかった。
ノクティエルのすぐ隣の、あの小さな膜だった。
〈さあ、どうする〉
ベルゼブブの声が、膜の内側いっぱいに広がった。
〈あの濁った膜に、小さいのを食わせるか。それとも、お前が先に食うか。どちらにしても、小さいのは今夜消える。ならば、お前の糧になった方が、まだ意味がある〉
ノクティエルは、動けなかった。
動けないまま、小さな膜の揺れを感じていた。
揺れは、さっきよりも細くなっていた。
それでも、まだ、そこにあった。
その時、ノクティエルは気づいた。
自分の膜の外側に、かすかに、何かが滲み出していることに。
味だった。
自分の味だ。
甘くも苦くもない、ただ「ここにいる」とだけ告げるような、淡い味。
体が、勝手に、それを外へ漏らしていた。
そして、すぐ隣の小さな膜からも、同じような淡い味が、細く細く滲み出していた。
ここにいる。
ここにいる。
ここにいる。
声ではない。
言葉でもない。
それでも、それは確かに、呼びかけだった。
ノクティエルは、ようやく理解した。
この体には、口がない。
だが、味がある。
自分の味を外へ流せば、まわりの膜に届く。
まわりの膜の味が流れてくれば、自分に届く。
この水たまりの中では、それが言葉なのだ。
最初の日、隣の膜はノクティエルに張りつくように触れてきた。
あれは、奪おうとしていたのではなかったのかもしれない。
ここにいる、と伝えていただけだったのかもしれない。
それを、自分は聞きもせずに、粒を奪って離れていった。
〈よけいなことに気づいたな〉
ベルゼブブの声が、初めて、わずかに苛立った。
◇
濁った膜が、小さな膜に触れた。
小さな膜の味が、震えた。
ノクティエルは、自分の膜を、小さな膜の方へ押し出した。
押し出そうと思ったわけではなかった。
そうしようと思った時には、もう膜が動いていた。
自分の膜と、小さな膜と、濁った膜とが、三つで押し合う形になった。
濁った膜は、押し返してきた。
苦い粒を取り込んで大きくなったその膜は、ノクティエルよりも重かった。
膜の境目が、きしむように軋んだ。
〈愚かだ〉
ベルゼブブが言った。
〈守ったところで、何になる。その小さいのは、どうせ朝まで持たない。お前の蓄えを分けたところで、一晩の命が二晩に延びるだけだ。その代わり、お前は確実に飢える。二つまとめて消えるだけだ〉
蓄え。
ノクティエルは、自分の内側の、あの小さな塊を思い出した。
明日のために、体が勝手にとっておいた、最初の日の甘い粒。
隣の膜から奪った、あの粒。
――あれは、自分のものではない。
そう思った瞬間、膜の奥で、何かがほどけた。
ほどけたのは、膜ではなかった。
ずっと固く握りしめていた、自分の中の何かだった。
ノクティエルは、塊を、膜の外へ押し出した。
どうすればそうできるのか、誰にも教わっていない。
それでも、体のどこかが知っていた。
膜の一部がやわらかく開き、内側の甘いものが、ゆっくりと外へ滲み出していく。
小さな膜の方へ。
甘い味が、小さな膜を包んだ。
小さな膜の揺れが、わずかに太くなった。
ここにいる。
ここにいる。
さっきよりも、はっきりと。
同時に、ノクティエルの内側が、すうっと冷えていった。
空っぽになっていく感覚。
天界で、焼けついた灯し棒を剥がされた時と、同じ感覚だった。
手の中が、急に、何もなくなる。
怖い、と思った。
この体には、怖さを入れておく場所がないはずだった。
それなのに、膜の境目が細かく震え、もう一度閉じようとする。
まだ間に合う。
今なら、半分だけ戻せる。
体のどこかが、必死にそう訴えていた。
ノクティエルは、その訴えを聞きながら、それでも膜を開いたままにした。
怖いままで、開いたままにした。
濁った膜の動きが、止まった。
甘い味が、濁った膜の方にも、わずかに流れていったのだ。
濁った膜は、一瞬、ためらうように揺れた。
それから、苦い粒の方へ、ゆっくりと離れていった。
小さな膜を食うよりも、流れてきた甘さを受け取る方が、楽だったのだろう。
〈……くだらない〉
ベルゼブブの声が、遠のいていく。
〈分けた分だけ、お前は減る。減った分だけ、お前は弱る。弱った者は、次の段で必ず食われる。覚えておけ。お前の中には、もう、飢えが刻まれた〉
腐った果物の味が、薄れていった。
羽音が、一つ、また一つと、水たまりの縁から離れていく。
消えたのではない。
ただ、ここにはもう用がないとでもいうように、去っていっただけだった。
ノクティエルは、勝ったとは思わなかった。
ベルゼブブを退けたのではない。
ベルゼブブが、退いただけだ。
それくらいのことは、空っぽになった体でも、わかった。
◇
夜が明けても、雨は降らなかった。
水たまりは、ほとんど泥になっていた。
膜の外は、もう水ではなく、湿った土のような重さで満ちている。
ノクティエルの膜は、ひどく薄くなっていた。
内側に、何も残っていない。
それでも、まだ境目はあった。
すぐ隣に、あの小さな膜がいた。
ぴたりと、ノクティエルに張りつくように。
ここにいる。
淡い味が、流れてきた。
ノクティエルも、残ったわずかな力で、同じ味を返した。
ここにいる。
二つの膜は、張りついたまま、泥の中で動かなくなった。
動かなくなったのではない。
動かずに、水を逃さないように、二つで一つの形になったのだ。
片方が乾けば、もう片方の湿り気が、境目越しに流れていく。
片方が冷えれば、もう片方の温かさが、わずかに伝わっていく。
少し離れたところで、濁った膜の味が、ふっと消えた。
苦い粒を取り込みすぎたのか、乾きに耐えられなかったのか、ノクティエルにはわからなかった。
二百二十一。
数えながら、ノクティエルは、自分が誰の死を数えているのかを考えた。
天界で焼けた二百十七の魂。
自分が粒を奪った、最初の隣の膜。
迷ったまま消えた膜。
仲間に食われた膜。
そして、仲間を食って、それでも消えた膜。
どれも、ノクティエルが直接奪ったわけではない。
それでも、数えずにはいられなかった。
数えるのをやめたら、それぞれの味を、もう二度と思い出せなくなる気がした。
◇
どれくらいの時間が経ったのか、わからない。
ある時、膜の外に、冷たいものが落ちてきた。
一粒。
二粒。
やがて、数えきれないほど。
雨だった。
泥が、ゆっくりと水に戻っていく。
膜の外に、新しい粒が流れ込んでくる。
甘い粒も、苦い粒も、まだ味を知らない粒も。
ノクティエルの膜は、張りついたままの小さな膜と一緒に、水の中へほどけ出した。
ほどけ出して、それから、そっと離れた。
小さな膜は、新しい甘い粒の方へ、ゆっくりと流れていった。
振り返ることも、礼を言うこともない。
それができる体ではないのだから。
ただ、去り際に、一度だけ。
ここにいる、と、淡い味が流れてきた。
ノクティエルは、その味を、膜の奥に大切にしまった。
甘い粒ではない。
蓄えにもならない。
それでも、それは、最初の日に奪った甘い粒よりも、ずっと重かった。
雨はしばらく降り続いた。
水たまりは、前よりも大きくなった。
ノクティエルの膜にも、新しい甘い粒がいくつか流れ込んできた。
空っぽだった内側が、少しずつ満ちていく。
満ちていくのに、どこかでまだ、足りないと感じていた。
もっと、もう一つ、念のためにもう一つ。
体が勝手に粒を探して寄っていくのを、ノクティエルは止められなかった。
ベルゼブブの言った「飢え」とは、このことなのだと思った。
離れたところで、あの小さな膜の味が、ふいに揺れた。
消える時の揺れ方ではなかった。
膜の境目が、真ん中から、ゆっくりとくびれていく。
くびれて、くびれて、やがて、二つに分かれた。
ここにいる。
ここにいる。
淡い味が、二つ、流れてきた。
ノクティエルは、この体の命が、こうして増えていくのだと、そのとき初めて知った。
食って大きくなるのではない。
満ちたら、分かれる。
自分の中身を、半分ずつ、次へ渡していく。
天界にいた頃、自分はずっと、増やすことばかり考えていた。
灯す数を。
翼の白さを。
位を。
だが、この小さな体は、増えるために、自分を分けていた。
◇
水の中で、膜の境目が、すうっと遠のいていった。
消えていくのではなかった。
どこか、もっと上の方へ、引き上げられていく。
気がつくと、ノクティエルは、何もない白い場所にいた。
体はなかった。
膜もなかった。
ただ、自分がノクティエルであるという、そのことだけが、白い場所にぽつんと浮かんでいた。
目の前に、大いなる秤があった。
皿の片方に、小さな光の粒が載っている。
粒の中で、淡い味が揺れていた。
ここにいる。
あの小さな膜が、最後に流してきた味だった。
秤の柱の下に、ネメシスが立っていた。
灰色の衣。
目に巻いた布。
「第一の段の判定を告げる」
ネメシスの声は、天界で聞いた時と同じように、少しも揺れなかった。
「お前は、蠅の王を倒していない。蠅の王は、退いただけだ。お前の中には、蠅の王の残した飢えが、まだ刻まれている」
ノクティエルは、何も言えなかった。
その通りだったからだ。
「だが、お前は、奪ったものを返した。誰に褒められることもない場所で、誰に知られることもない者のために、蓄えを手放した。そして、それを返したとも、救ったとも、自分で数えなかった」
ネメシスは、秤の皿を見上げた。
光の粒が載った皿が、わずかに沈んでいた。
「数えたのは、失われた者の方だけだった。それは、見返りではない」
秤の柱の陰から、ヘルメスが現れた。
翼の帽子をかぶり、杖を手にしている。
どこか、ほっとしたような顔をしていた。
ノクティエルは、声にならない声で問いかけた。
この白い場所では、膜の味ではなく、思ったことがそのまま外へ滲み出ていくようだった。
「……ハリエルの翼は、どうなりましたか」
ネメシスは、すぐには答えなかった。
秤の皿が、ほんのわずかに揺れた。
「それは、お前の秤には載らない」
「でも、僕が焼いた」
「焼いたことは、お前の皿に載っている。だが、あれの翼がこれからどうなるかは、あれ自身の皿の上のことだ。お前が勝手に載せたり下ろしたりしてよいものではない」
ノクティエルは、黙った。
償いたい、と思っていた。
ハリエルの翼を元に戻せるなら、何でも差し出すつもりでいた。
だがそれは、ハリエルの皿に、自分の手を勝手に伸ばすことなのだと、ネメシスは言っている。
「蠅の王が、お前に何を囁いたかは知っている」
ネメシスの声が、少しだけ低くなった。
「償いの形をした近道は、いつも、お前の弱いところへ差し出される。この先も、何度でも」
ノクティエルは、あの優しい声を思い出した。
金色の翼で、ハリエルの前に立て。
あれは、償いではなかった。
認められたいという、天界にいた頃と同じ欲が、償いの衣を着ていただけだった。
「条件付きの昇格だ」
ヘルメスが言った。
「勝ちではないから、傷が残る。飢えの記憶だ。次の器でも、お前は足りないことを恐れ続ける。満ちていても、満ちていないと感じる。それを抱えたまま、次の段へ行け」
ヘルメスは杖の先で、ノクティエルの光に触れた。
「第一の段で、お前が得たものを渡す。一つ目の能力は、生き残る力と、まわりの気配を感じ取る力。一つ目の心は――」
ヘルメスは、少しだけ言葉を選んだ。
「誰かが生きていることを、自分が生きていることと、同じ重さで感じる心だ」
ネメシスが、布の奥で短く言った。
「その心は、次の段で、お前を苦しめる」
「わかってるさ。だから渡すんだろう」
ヘルメスは肩をすくめ、杖を振り上げた。
「第二の段だ。次は、体がある。足がある。目もある。ただし、お前一つでは何もできない。一匹の母と、何十もの兄弟と、一つの石の下で生きる器だ」
白い場所の底が、ひび割れていく。
その割れ目の奥から、土の匂いがした。
湿った落ち葉の匂い。
そして、すぐ近くで、たくさんの小さな足音が、狭い場所にひしめき合うように動いている音。
「行ってこい、ノクティエル」
ヘルメスの声が、遠ざかる。
「そこでは、お前は、誰でもない一匹から始まる」
割れ目が開き、ノクティエルは、土の匂いの中へ落ちていった。
落ちながら、最後にもう一度だけ、数を確かめた。
二百二十一。
そして、その数のすぐ隣に、もう一つ、別の数があることに気づいた。
消えた者の数ではない。
自分が救った数でもない。
ただ、いまもどこかで「ここにいる」と流しているはずの者の数。
二。
それは、ノクティエルが初めて、誰にも見せるためではなく覚えておいた、もう一つの数だった。




