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第1話 秤の園から落ちた灯

天界の朝は、音から始まる。

 星のない空の底で、千の鈴が一度に鳴る。それが合図だった。

 秤の園〈はかりのその〉に仕える天使たちは、その音で目を開け、翼を伸ばし、今日灯すべき魂の数を数える。


 ノクティエルは、いつも三つ目の鈴で目を覚ました。

 一つ目でも二つ目でもなく、三つ目。

 それが彼の、天界での立ち位置そのものだった。


「また最後か、ノクティエル」


 寝床の脇を、白い翼が通り過ぎる。

 同じ灯し手の天使、ハリエルだった。

 淡い金の髪を後ろで束ね、腰には磨き上げた灯し棒を下げている。


「最後じゃない。三番目だ」

「三つしか鳴らない鈴の、三番目だろう」


 ハリエルは笑って去っていった。

 悪意はない。ハリエルはいつもそうだ。

 だからこそ、言い返す言葉が見つからなかった。


 ノクティエルは寝床を抜け、自分の翼を確かめた。

 灰色だった。

 天界の天使の翼は、生まれた時は皆灰色をしている。灯した魂の数だけ光を吸い、やがて白く、さらに上の位に進めば金色に変わっていく。

 ノクティエルの翼は、生まれて三百年が経っても、灰色のままだった。


 秤の園は、雲の上に浮かぶ巨大な庭だ。

 中央に一本の柱が立ち、その頂に、天秤が掛かっている。

 大いなる秤。

 地上で生まれ、地上で死んでいくすべての命は、最後にこの秤の皿に載せられる。善と悪、与えたものと奪ったもの、その重さを量られて、次にどこへ行くかが決まる。


 灯し手の仕事は、秤に載る前の魂に、灯をともすことだった。

 地上から上がってきたばかりの魂は、暗い。

 生きていた頃の記憶と、死んだ瞬間の恐れで、自分の形さえ見えなくなっている。

 灯し手はその胸に小さな火を入れ、魂が自分の重さを自分で量れるようにする。

 そうでなければ、秤は正しく傾かない。


 園の東の端に、灯の泉がある。

 灯し手たちはそこで灯し棒の先に火を受け、園を巡る。

 ハリエルの棒には、真っ白な炎が立った。

 他の天使たちの棒にも、白や金の炎が次々と立った。

 ノクティエルの棒には、小さな、震える橙色の火が灯った。


「今日も小さいな」


 泉の番をする年老いた天使が、ぼそりと言った。

 ノクティエルは頭を下げて、泉を離れた。


 魂の列は、園の外縁に沿って長く伸びていた。

 ノクティエルが受け持つのは、列の最後尾だ。

 大きな魂、強い魂、重い魂は、先に優れた灯し手たちが受け持つ。最後尾に残るのは、名もない小さな魂ばかりだった。

 生まれてすぐ死んだ赤子の魂。

 飢えて倒れた旅人の魂。

 踏まれて潰れた、小さな虫の魂。


 ノクティエルは、それが嫌いではなかった。

 嫌いではないが、誰にも見られない仕事だった。


 虫の魂は、手のひらに載るほど小さい。

 灯し棒の火を近づけると、ふるりと震えて、すぐに明るくなる。

「怖くない。もう、怖くないよ」

 そう声をかけると、魂はかすかに羽音のようなものを立てて、秤の方へ昇っていく。

 ノクティエルが一日に灯せる魂は、他の天使の十分の一にも満たなかった。

 火が小さいから、一つ灯すのに時間がかかる。

 時間がかかるから、数が少ない。

 数が少ないから、翼は白くならない。


 昼の鈴が鳴る頃、園の中央に灯し手たちが集められた。

 月に一度の、位の見直しの日だった。

 秤の柱の下に、一人の女神が立っている。

 ネメシス。

 報いと均衡を司る、監視の女神。

 灰色の衣をまとい、目には布を巻いている。だが布越しでも、彼女は誰が何を灯し、何を灯さなかったかを、すべて見通していた。


「ハリエル。白の位から、金の位へ」


 ネメシスの声で、ハリエルの翼の先が金色に変わった。

 周囲の天使たちが、小さく拍手をする。

 ハリエルは照れくさそうに頭をかいた。


「ノクティエル」


 名を呼ばれ、ノクティエルは一歩前に出た。


「灰の位に、留める」


 拍手はなかった。

 誰も笑わなかった。

 それが、かえって胸に刺さった。


「……理由を、聞いてもいいですか」


 思わず口から出ていた。

 ネメシスは布の奥で、わずかに首を傾げた。


「お前の灯は正しい。だが、少ない。秤は数を責めぬ。責めるのは、お前自身だ」


 意味が、わからなかった。

 責めているのは、自分ではなく、この園の仕組みの方ではないのか。

 そう言い返したかったが、言葉は喉の奥で固まった。


 ◇


 その夜、ノクティエルは園の西の端に座っていた。

 ここからは、雲の切れ間に地上が見える。

 暗い大地に、ところどころ人の灯がまたたいていた。


「立派な灯だ」


 背後から声がした。

 振り返ると、一人の天使が立っていた。

 見たことのない顔だった。

 翼は白く、だが縁だけが煤けたように灰色をしている。

 背が高く、声は低くて穏やかだった。


「どこの園の方ですか」

「東の外れの、記録の園だ。名乗るほどの者ではない」


 天使はノクティエルの隣に腰を下ろした。

 手には、小さな硝子の瓶を持っていた。

 瓶の中で、黒みがかった赤い火が揺れている。


「君の火は、悪くない。ただ、細いだけだ」

「……慰めはいりません」

「慰めではない。事実だ。細い火は、強い火を一度借りれば、太くなる」


 天使は瓶を軽く振った。

 中の火が、ぼう、と膨らむ。


「借り火という。古い灯し手の技だ。今はもう、誰も使わない。使い方を知る者がいなくなったからね」

「借り火……」

「これを灯し棒の先に一滴垂らすだけでいい。一度だけでいい。一度、大きな魂をまとめて灯せば、ネメシスも君を見直す。翼も白くなる。そうなれば、もう借りる必要はない」


 ノクティエルは瓶を見つめた。

 赤い火は、泉の火よりもずっと温かそうに見えた。


「どうして、僕に」

「君が、最後の鈴で起きる天使だからだ」


 天使は微笑んだ。


「最後に起きる者の気持ちは、最後に起きた者にしかわからない。私も、昔はそうだった」


 その言葉に、ノクティエルは心を許した。

 許してしまった。


「明日、北の門から、大きな魂の群れが上がってくる。地上の大きな町で、疫病が出たそうだ。灯し手は皆、出払う。中でもいちばん大きな群れは、ハリエルが受け持つことになっている」

「ハリエルが」

「その群れを、君が先に灯せばいい。ハリエルは金の位に上がったばかりだ。一つくらい譲っても、何も失わない」


 ノクティエルの胸の奥で、何かが小さく軋んだ。

 それはいけないことだと、わかっていた。

 他の天使の受け持ちを奪うことは、園の掟で禁じられている。

 まして、知らない火を灯し棒に垂らすなど。


「嫌なら、返してくれていい」


 天使は瓶を差し出したまま、待っていた。

 ノクティエルは、長いあいだ黙っていた。

 それから、手を伸ばした。


 ◇


 翌朝、ノクティエルは一つ目の鈴で目を覚ました。

 生まれて初めてのことだった。


 北の門には、すでに魂の群れが押し寄せていた。

 疫病で死んだ人々の魂は、暗く、重く、互いに絡み合って、一つの大きな影のようになっていた。

 ハリエルはまだ来ていない。


 ノクティエルは灯し棒を握りしめ、瓶の栓を抜いた。

 一滴。

 黒みがかった赤い雫が、棒の先の橙色の火に落ちた。


 火が、跳ねた。

 小さかった火が、一瞬で腕ほどの太さに膨れ上がる。

 熱い。

 手のひらが焼けるように熱い。

 だが、ノクティエルは棒を離さなかった。


「怖くない。もう、怖くない」


 いつものように声をかけて、魂の群れに火を近づけた。

 群れが、一斉に明るくなった。

 何十、何百という魂が、同時に灯った。

 見ていた門番の天使たちが、どよめいた。


 やった、と思った。

 これで、灰の位から抜けられる。

 ハリエルにも、ネメシスにも、見せてやれる。


 その時、灯った魂の一つが、悲鳴を上げた。


 声ではなかった。

 灯されたはずの魂の胸の中で、赤い火が、内側から魂を食い始めていた。

 一つが崩れると、隣の魂へ火が移った。

 隣から、また隣へ。

 群れ全体が、赤黒い炎に包まれていく。


「消えろ、消えろ!」


 ノクティエルは灯し棒を振ったが、火は棒から離れようとしない。

 むしろ棒を伝って、群れへ、群れから門へ、門から園の中へと、赤い火が走っていく。

 園の東、眠りの花畑に火が届いた。

 そこには、秤に載る順番を待つ、まだ灯される前の魂たちが眠っていた。


「ノクティエル!」


 ハリエルの声がした。

 金色に変わったばかりの翼を広げて、ハリエルが飛び込んでくる。

 白い灯し棒を、赤い炎の中心に突き立てた。

 白い火と赤い火がぶつかり、園全体が揺れた。


 どれくらいの時間が経ったのか、わからない。

 気づいた時には、赤い火は消えていた。

 眠りの花畑は、半分が灰になっていた。

 ハリエルの金色の翼は、片方が根元から黒く焦げていた。


 ノクティエルは、自分の手を見た。

 灯し棒は、手のひらに焼きついて、もう離れなかった。

 硝子の瓶は、割れて足元に落ちていた。

 割れた瓶の底に、小さな文字が刻まれているのが見えた。

 天界の文字ではなかった。


 あの天使の姿は、どこにもなかった。


 ◇


 裁きは、その日の夕刻に行われた。

 秤の柱の下に、ノクティエルは膝をついていた。

 周りを、園中の天使たちが取り囲んでいる。

 誰も、口をきかなかった。


 ネメシスが布越しに、ノクティエルを見下ろしていた。

 その隣には、もう一柱の神が立っていた。

 翼のついた帽子をかぶり、杖を持った、若い男の姿をした神だった。

 ヘルメス。

 境界を越え、魂を運ぶ神。


「ノクティエル」


 ネメシスが言った。


「お前は、他の者の受け持ちを奪った。出所の知れぬ火を、秤の園へ持ち込んだ。灯されるはずだった魂のうち、二百十七が焼け、灯されぬまま失われた。ハリエルは片翼を失った」


 二百十七。

 その数字が、ノクティエルの耳の奥で何度も鳴った。


「火を渡した者がいます」


 ノクティエルは顔を上げた。


「記録の園から来たという天使が、借り火だと言って」

「記録の園という場所は、天界にはない」


 ネメシスの声は、少しも揺れなかった。


「そして、誰が渡そうと、受け取ったのはお前だ」


 言い返す言葉は、もう残っていなかった。

 受け取ったのは、自分だった。

 ハリエルの受け持ちを奪おうと決めたのも、自分だった。

 認められたかった。

 ただ、それだけのために。


 ネメシスは、大いなる秤を見上げた。

 秤の皿の片方に、ノクティエルの焼けついた灯し棒が載せられる。

 もう片方の皿には、何も載っていない。

 それなのに、秤は棒の方へ傾かなかった。

 空の皿の方へ、ゆっくりと沈んでいった。


 その時、天使たちの輪の後ろから、足音がした。

 片方の翼を引きずるようにして、ハリエルが前へ出てきた。

 焦げた翼の根元には、白い布が幾重にも巻かれていた。

 布の下から、まだかすかに煙のような匂いが立っていた。


「ネメシス様。一つだけ、言わせてください」


 ネメシスは答えなかった。

 答えないことが、許しの合図だった。


「僕は、北の門へ行くのが遅れました。金の位に上がったばかりで、浮かれていたんです。いつもより三つ遅い鈴で起きた。もし僕が先に門にいたら、ノクティエルは棒を振る前に、僕に止められていたと思います」


 ノクティエルは、ハリエルの顔を見られなかった。

 自分を庇っているのだと、わかった。

 わかったからこそ、余計に顔を上げられなかった。


「それでも、受け取ったのはこの者だ」

「わかっています。だから、罰を軽くしてくれとは言いません」


 ハリエルは、焦げていない方の翼をわずかに揺らした。


「ただ、この者が二百十七の数を、自分で数えられるようにしてやってください。僕たちは、数えるのが仕事でしたから」


 ハリエルはそれだけ言うと、輪の後ろへ下がっていった。

 一度も、ノクティエルの方を振り返らなかった。

 振り返らないでくれたことが、ありがたかった。

 そして、ありがたいと思ってしまった自分が、ひどく卑しく思えた。


「天界に置くには、重すぎる」


 ネメシスが告げた。


「お前を、天界から落とす」


 天使たちのあいだに、ざわめきが走った。

 天界から落とされた天使は、二度と戻らない。それが掟だった。


「待て」


 ヘルメスが、杖で床を一度打った。


「落とすのは構わない。だが、どこへ落とすかは、まだ決めていないはずだ」


 ネメシスが、布の奥でヘルメスの方を向いた。


「この者は、自分が灯した魂がどうなったかを知らない。灯される前の魂が、どこから来たのかも知らない。知らぬまま落とせば、ただ消えるだけだ。それでは、焼けた二百十七の魂の重さも、どこにも行き場がない」

「では、どうする」

「下から、昇らせる」


 ヘルメスは杖の先で、秤の柱を指した。

 柱の表面に、十の刻み目が刻まれている。

 いちばん下の刻み目は、針の先ほどの小さな点だった。

 いちばん上の刻み目は、人の形をしていた。


「命の一番下から、一段ずつ。器を借りて生き、その器でしか為せぬ善を為せ。為せたなら、次の魂と器を与える。為せぬなら、同じ器で、もう一度だ」


 ネメシスは、しばらく黙っていた。

 やがて、短く言った。


「ただし、善の重さは私が量る。見返りを求めた善は、善として量らぬ」

「それでいい」


 ヘルメスが、ノクティエルの前にしゃがみ込んだ。

 帽子の翼が、かすかに揺れる。


「聞いたな。十段だ。いちばん下から始める」

「……いちばん下は、何ですか」

「目も、耳も、口もない。考えることはできても、それを伝える手段がない。ただ、生きるか、消えるかだけの命だ」


 ヘルメスは、ノクティエルの焼けついた手を取った。

 灯し棒が、手のひらから剥がれ落ちる。

 痛みはなかった。

 ただ、手の中が急に空っぽになった。


「一つだけ教えておく。下では、誰もお前を見ていない。見ているのは、秤だけだ」


 ヘルメスは立ち上がり、杖を振り下ろした。


 足元の雲が、割れた。


 ◇


 落ちていく。

 翼を広げようとした。

 広がらなかった。

 背中に、もう翼がなかった。


 風が耳を裂く。

 雲を抜け、夜の空を抜け、地上の灯が近づいてくる。

 手を伸ばしたが、何も掴めない。

 指が、ほどけていく。

 腕が、ほどけていく。

 自分の輪郭が、落ちる速さに追いつけずに、後ろへ置き去りにされていく。


 最後に見えたのは、雨上がりの、小さな水たまりだった。


 ◇


 暗い。


 暗いのに、怖くはなかった。

 怖いという気持ちを入れておく場所が、どこにもなかったからだ。


 目がない。

 耳がない。

 手も足も、口もない。

 それなのに、考えることだけはできた。

 自分は、ノクティエルだ。

 天界から落とされた、灰色の翼の天使だ。

 そのことだけは、覚えていた。


 何かが、触れた。

 触れた、と思った。

 肌がないのに、どうして触れたとわかるのだろう。

 わからないまま、その感覚だけが、全身に広がっていった。

 全身、と言っても、自分がどこからどこまでなのかもわからない。

 ただ、自分を包む何かと、自分の境目が、薄い膜のようにあることだけがわかった。


 膜の外側に、ぬるい水がある。

 水の中に、小さな粒がたくさん漂っている。

 粒の一つが膜に触れると、甘い、と感じた。

 舌がないのに、甘い。

 別の粒が触れると、苦い、と感じた。

 苦い方からは、膜がわずかに縮んで、勝手に離れていく。

 甘い方へは、勝手に寄っていく。


 自分で動いているのではなかった。

 膜が、ひとりでに、甘いものを求め、苦いものを避けている。


 これが、自分の新しい体なのだと、ノクティエルはようやく理解した。


 まわりにも、同じような膜がいくつも漂っていた。

 見えるわけではない。

 だが、近くに来ると、水の味がわずかに変わる。

 それぞれが、甘いものの方へ寄っていこうとしている。


 ノクティエルの膜が、一つの甘い粒にたどり着いた。

 膜が粒を包み込む。

 粒が、膜の内側に溶けていく。

 温かかった。

 生まれて初めて、腹が満ちる、ということを知った。

 腹など、どこにもないのに。


 同じ粒を目指していた、すぐ隣の膜が、ぶつかってきた。

 粒はもう、ノクティエルの内側にある。

 隣の膜は、しばらく押しつけるように触れていたが、やがてゆっくりと離れていった。

 離れていった膜の味が、ほんの少しだけ、薄くなっていた。


 ノクティエルは、その薄さが何を意味するのか、まだわからなかった。


 それでも、膜の内側で溶けていく甘さの奥に、かすかな引っかかりが残った。

 あの粒は、隣の膜の方が先に近づいていたのではなかったか。

 自分の膜は、ただ後から、するりと割り込んだだけではなかったか。


 北の門の光景が、暗い水の中に浮かんだ。

 まだハリエルが来ていない門。

 ハリエルの受け持ちだった、大きな魂の群れ。

 自分は、あの時も、こうして後ろから割り込んだのだ。

 割り込んで、包み込んで、自分のものにした。

 そして、甘いと思った。


 膜が、ひとりでに縮んだ。

 苦い粒に触れた時と、同じ縮み方だった。

 外から苦いものが来たのではない。

 内側にあるものが、苦かった。


 この体には、謝るための口がない。

 返すための手もない。

 溶けてしまった粒は、もう二度と元の形には戻らない。

 ノクティエルにできるのは、隣の膜がまだそこにいるかどうかを、薄い味の変化で確かめ続けることだけだった。

 隣の膜は、しばらくのあいだ、ノクティエルの近くを漂っていた。

 離れていくでもなく、近づくでもなく。

 まるで、次の甘い粒が流れてくるのを、二つで待っているかのように。


 ◇


 水たまりは、少しずつ小さくなっていった。

 見えなくても、わかった。

 膜の外の水が、日に日にぬるくなり、濃くなり、甘い粒が減っていく。

 苦い粒ばかりが増えていく。

 まわりの膜たちの味も、日に日に薄くなっていく。


 ある時、隣の膜の味が、ふっと消えた。

 消えた、としか言いようがなかった。

 さっきまでそこにあった膜の境目が、水に溶けて、ただの苦い粒の一つになった。


 ノクティエルの膜が、震えた。

 震えたのは、膜だったのか、自分だったのか、わからなかった。


 天界で、虫の魂に火を灯したことを思い出した。

 手のひらに載るほど小さな魂。

 ふるりと震えて、明るくなる魂。

 あの魂たちも、生きていた頃は、こうして何もない暗い水の中で、甘いものを探していたのだろうか。

 そして、ある日ふっと消えて、自分の手のひらに上がってきたのだろうか。


 自分は、一度でも、そのことを考えたことがあっただろうか。


 ――数えられるようにしてやってください。

 ハリエルの声が、膜の奥でよみがえった。

 二百十七。

 そこに、いま消えた一つを、ノクティエルは黙って足した。

 二百十八。

 誰にも見られない場所で、誰にも聞こえない数を、ひとつ。


 ◇


 その夜――夜だとわかったのは、水がひどく冷えたからだ――ノクティエルの膜の外で、何かが鳴った。


 音ではなかった。

 水の味が、急に濃くなったのだ。

 甘い、のとは違う。

 腐った果物のような、重く、べたつく、喉の奥に絡みつくような味。

 その味の中心に、声があった。


〈腹が、空いているだろう〉


 耳がないのに、聞こえた。

 膜の内側に、直接、言葉が滲み込んでくる。


〈この水たまりには、もう甘いものはほとんど残っていない。残っているのは、お前と、お前のまわりの膜たちだけだ〉


 ノクティエルの膜が、こわばった。


〈まわりの膜を、食えばいい。あれらは弱っている。お前が包み込めば、抵抗もできずに溶ける。溶ければ、甘い。お前一つが生き残れば、水たまりが干上がっても、次の雨まで持ちこたえられる〉


 声は、楽しそうだった。

 あの夜、園の西の端で聞いた声に、どこか似ていた。

 低く、穏やかで、何もかもを知っているような声。


〈天界では、お前は灯せなかった。ここでは、食えばいい。食った分だけ、お前は大きくなる。大きくなれば、もう誰にも、最後の鈴だとは言わせない〉


「……お前は、誰だ」


 声は出なかった。

 だが、問いは膜の外へ、確かに滲み出ていった。


 腐った果物の味が、ひときわ濃くなった。

 水たまりの縁で、何千、何万という小さな羽音が、一斉に立ち上がった気がした。


〈蠅の王と呼ぶ者もいる〉


 声は、笑っていた。


〈ベルゼブブ。この下の世界で、最初にお前を待っていた者だ〉


 水たまりのどこかで、また一つ、膜の味が消えた。


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