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Re:大坂の陣  作者: romane
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第九話:決める越える




慶長十六年、四月。


才蔵が京から戻ってきたのは、桜がすっかり散ったあとだった。


「三月二十八日、二条の城にて、大御所様と秀頼公のご対面がございました」


離れの縁側に、四人が揃っていた。


昌幸。

刑部。

信繁。

そして、庭先に片膝をついた才蔵。


「秀頼公は、御年十九。六尺を超える大柄なお方で、大御所様の前でも臆することなく、堂々たるお振る舞いであったと」


「供は」


刑部が訊いた。


「加藤肥後守様と、浅野紀伊守様。肥後守様は、懐に短刀を忍ばせ、ひとときも秀頼公のお側を離れなかったとの噂にござります」


肥後熊本の加藤清正と、紀州和歌山の浅野幸長。

どちらも、太閤に子飼いとして取り立てられた大名だった。

浅野家は、九度山の流人を見張る役目も負っている。


信繁は、黙って聞いていた。


前回と、同じだった。


秀頼公は立派に会見を務め、無事に大坂へ戻った。

豊臣の家中は、胸を撫で下ろした。


だが、それから三年で、すべてが崩れた。


「大坂へ戻られてからの秀頼公は」


信繁が訊くと、才蔵は少し言い淀んだ。


「また、奥へお籠もりになったと。淀の方様が、二度と城の外へは出さぬと仰せだそうで」


刑部が、布の奥で小さく息を吐いた。


「器はあるのに、籠の鳥か」


昌幸は、ずっと黙っていた。

扇を膝の上で開いたり閉じたりしながら、庭の苔を眺めている。


「才蔵」


やがて、昌幸が口を開いた。


「肥後守の顔色はどうであった」


才蔵が、わずかに目を見開いた。


「……ひどく痩せておられたと。頬がこけ、帰りの道中も、駕籠の中で咳き込んでおられたとか」


「大御所は、秀頼公を見て何と言うた」


「『大きゅうなられた』と。それだけを、何度も」


昌幸は、ぱちりと扇を閉じた。


「決めたな」


「父上」


「大御所は、あの会見で決めたのよ。豊臣は、生かしておけぬ、とな」


刑部が、静かに頷いた。


「大きゅうなられた、か。大御所は七十に手が届く。秀頼公は十九。己が死んだあと、あの若者を秀忠殿が抑えられるか。そう考えたのであろうな」


「されど、すぐには動けぬ」


昌幸が、扇の先で縁を叩いた。


「肥後守がおる。紀伊守がおる。池田の三左衛門もおる。太閤殿下に恩のある大名が、まだ何人も生きておる。そやつらが睨んでおる間は、大御所も手が出せぬ」


三左衛門とは、播磨姫路の池田輝政のことだった。

大御所の娘婿でありながら、太閤殿下にも深い恩を受けた男だ。


「では」


「待つのよ。あの狸は、待つのが一番得意じゃ」


昌幸は、指を一本立てた。


「肥後守は、長うない。あの痩せ方なら、今年のうちじゃ」


信繁は、息を呑んだ。


加藤清正は、この年の六月、熊本で死ぬ。

まだ、誰にも言っていなかった。


昌幸は、二本目の指を立てた。


「紀伊守と三左衛門も、二、三年のうちに死ぬ。あの二人は、伏見でも駿府でも働き詰めじゃ。体がもたぬ」


三本目の指。


「恩顧の大名が三人とも死ねば、大御所は動く。口実はなんでもよい。寺の普請でも、鐘の銘でも、難癖はいくらでもつけられる」


信繁は、言葉を失っていた。


浅野幸長は、慶長十八年に死ぬ。

池田輝政も、同じ年に死ぬ。

そして慶長十九年、方広寺の鐘の銘が、手切れの口実になる。


すべて、父の言う通りだった。


「父上」


信繁の声が、かすれた。


「なぜ、それを」


昌幸は、面白そうに信繁を見た。


「お主が知っておることなど、読めば分かる」


「……」


「お主は答えを知っておるだけじゃ。わしは、答えの出し方を知っておる」


刑部が、布の奥で笑った。


「婿殿。安房守殿に未来を教えるのは、碁の名人に定石を教えるようなものじゃ。教えずとも、いずれ同じところに打ってくる」


「刑部殿こそ」


昌幸が、ふん、と鼻を鳴らした。


「さっきから、わしより先に頷いておったではないか」


二人の老人は、顔を見合わせて笑った。

信繁は、その二人を見ていた。


前回の九度山には、この光景はなかった。


父は一人で、赦免の文を書き続けていた。

話し相手もなく、碁の相手もなく、ただ待っていた。


その父が、いま、刑部と並んで天下の行く末を読み解いている。




その夜から、離れの灯は遅くまで消えなかった。


文机の上に、畿内の絵図が広げられた。

昌幸が筆を取り、刑部がそれを耳で追う。


「戦になれば、まず宇治と瀬田を押さえる」


昌幸が言った。


「京へ入る道を塞ぎ、東から上ってくる軍勢を、川の手前で止める。そのあいだに京を押さえ、秀頼公の名で諸大名に檄を飛ばす」


「豊臣に付く大名など、おらぬぞ」


刑部が、すかさず返した。


「肥後守が死ねば、なおのことじゃ。檄を飛ばして誰も来ねば、かえって豊臣の孤立を天下に知らしめるだけになる」


「ならば、来させる」


「どうやって」


「来ねば損をすると思わせる。島津を使う」


刑部の手が止まった。


「島津を先に動かすのか」


「島津が九州で兵を挙げると噂を流す。実際に挙げずともよい。噂だけで、九州の大名どもは国許を空けられなくなる。西国の兵が東へ来られねば、大御所の手勢は半分に減る」


刑部は、しばらく黙っていた。

それから、布の奥で低く笑った。


「安房守殿。その噂、薩摩の兵庫頭殿が聞いたら、腹を抱えて笑うであろうな」


「笑うて乗ってくれればよい。あの鬼爺は、そういう遊びが好きじゃ」


信繁は、二人のやりとりを黙って聞いていた。


前回、自分は大坂の軍議で、同じような出撃の策を説いた。


宇治と瀬田を押さえ、京を取る策を。

そして、大野修理に一蹴された。


だが、島津を噂で使うなどという手は、思いつきもしなかった。


この二人は、自分の知っている答えの、さらに先を読んでいる。




五月の末、昌幸が熱を出した。


初めは、ただの風邪だと思った。


だが、熱は三日経っても下がらなかった。

四日目には、粥も喉を通らなくなった。


信繁は、父の枕元から離れられなくなった。


前回も、こうだった。


五月の末から床に就き、六月に入るとみるみる衰えた。

医者は首を振るばかりだった。


そして、六月四日。


「……戻ろうとしておるのか」


信繁は、思わず呟いた。


変えたはずのものが、元に戻ろうとしている。

関ヶ原で、毛利がついに動かなかったように。

どれほど手を尽くしても、大きな流れは前回の形に戻っていく。


父の死も、その流れの一つなのか。


「婿殿」


背後で、刑部の声がした。

刑部は、手探りで信繁の隣に座った。


「顔を上げよ」


「義父上……」


「安房守殿は、まだ死んではおらぬ。お主がそのような顔をしておっては、安房守殿の方が気を揉む」


床の中から、かすれた声がした。


「……その通りじゃ」


昌幸が、薄く目を開けていた。

熱で潤んだ目が、信繁を見上げていた。


「源次郎。前回のわしは、最後に何と言うた」


信繁は、答えられなかった。


「言え」


「……」


「言わねば、わしはそれを言うために、また死なねばならぬ」


信繁は、拳を握った。

それから、ゆっくりと口を開いた。


「三年のうちに、豊臣と徳川の戦が起きる、と」


「ふむ」


「そのとき、わしならこう戦う、と。美濃まで打って出て、徳川の軍勢を迎え撃つ策を、細かく語ってくださいました」


「それで」


「……されど、お主の名では、誰もその策を聞くまい、と」


信繁の声が、震えた。


「真田安房守の策なら聞く者もおろうが、源次郎の策では誰も動かぬ。それが、口惜しい、と。それが、最後のお言葉でした」


昌幸は、しばらく天井を見ていた。


「そうか」


やがて、父は小さく笑った。


「前回のわしは、口惜しがってばかりおるな」


「父上」


「ならば、今回はこう言うてやる」


昌幸は、熱い手で、信繁の手首を掴んだ。


「わしの策は、わしが自分で大坂へ持っていく。源次郎の名で聞かぬなら、安房守の名で聞かせてやる」


その手には、驚くほどの力がこもっていた。


「だから、死なぬ」




六月四日。


その夜は、蒸し暑かった。


信繁は、父の枕元に座っていた。


刑部もいた。

妻もいた。

内記と才蔵は、縁側に控えていた。

大助は、隣の部屋で眠っている。


誰も、口をきかなかった。


昌幸の息は、浅かった。

額に浮いた汗を、妻が何度も拭った。


前回の今夜、信繁はこうして父の手を握っていた。


その手は、枯れ枝のように軽かった。

握り返す力も、もう残っていなかった。

夜明けを待たずに、その手は冷たくなった。


信繁は、父の手を握った。


熱かった。

まだ、熱かった。


遠くで、寺の鐘が鳴った。


戌の刻。


亥の刻。


子の刻。


昌幸の唇が、かすかに動いた。


「……お屋形様」


信繁は、身を乗り出した。


「岩櫃へ……なぜ、岩櫃へ……」


熱にうかされた声だった。


三十年前の、あの夜の言葉だった。

盃を二つ並べ、来なかった主君を待っていた夜の。


父は、いま、どこにいるのか。

誰のもとへ行こうとしているのか。


刑部が、手探りで昌幸のもう片方の手を取った。


「安房守殿」


布の奥から、低く、はっきりとした声がした。


「お屋形様のもとへは、まだ早うござる。わしとの碁が、打ちかけのままじゃ」


昌幸の唇の動きが、止まった。

息が、ほんの少しだけ、深くなった。


日付が変わった。


六月五日。


信繁は、父の顔を見た。

息は、まだ続いていた。


丑の刻。


寅の刻。


縁側の外が、白み始めた。


山の端から、細い光が差し込んでくる。

蝉が、一匹、鳴き始めた。


昌幸が、目を開けた。


ゆっくりと首を巡らせ、信繁を見た。

それから、枕元の刑部を見た。

妻を見た。

縁側の内記と才蔵を見た。


そして、かすれた声で言った。


「……腹が、減った」


妻が、両手で口を覆った。

刑部が、布の奥で長い息を吐いた。

縁側の内記が、声を殺して泣き出した。


信繁は、父の手を握ったまま、動けなかった。


手が、汗ばんでいた。

熱が、引き始めていた。


「源次郎」


昌幸が、にやりと笑った。


「越えたぞ」


信繁は、父の手に額を押しつけた。


声が出なかった。

ただ、肩が震えていた。




その日の昼、昌幸は粥を三杯平らげた。


夕刻には、床の上で胡坐をかき、内記に碁盤を運ばせて、離れの刑部を呼びにやった。


「病み上がりにござりますぞ」


信繁が言うと、昌幸はじろりと睨んだ。


「病み上がりじゃから、碁を打つのよ。それと、源次郎」


「はい」


「島津の焼酎を一壺、持ってまいれ」


「父上」


「祝いじゃ。前回のわしが一度も飲めなんだ、慶長十六年の六月五日の酒じゃ」


刑部が、盤の向こうで声を立てて笑った。

信繁は、仕方なく立ち上がった。


台所へ向かう廊下で、こらえていたものが、また目から溢れた。




六月の末、才蔵が報せを持ってきた。


加藤肥後守清正が、熊本で身罷った。

京から帰る船の中で病が重くなり、国に着いてほどなく、息を引き取ったという。


前回と、同じだった。


清正は死に、父は生きた。


変わるものと、変わらないもの。

その境目が、信繁にはまだ見えなかった。


同じ頃、紀州の浅野家から使いが来た。


九度山の流人は、紀州浅野家の預かりになっている。

年に一度か二度、役人が様子を見に来るのが常だった。


だが、その日の使いは、いつもと違うことを言った。


「大御所様より、安房守殿のご容態を確かめよとの仰せにござる」


座敷の空気が、凍りついた。

使いの者は、床の上で粥を啜る昌幸を見て、拍子抜けしたような顔をした。


「……ご快癒、なされたので」


「見ての通りじゃ」


昌幸は、粥の椀を置いた。


「大御所様に、よしなにお伝えくだされ。九度山の年寄りは、しぶとく生きております、とな」


使いが帰ったあと、座敷には重い沈黙が残った。


「大御所が、なぜ父上の病を」


信繁が言った。


「どこぞの役人が、わしが寝込んだと注進したのであろう」


昌幸は、こともなげに答えた。


「流人の年寄りが一人寝込んだところで、大御所の耳に入るものかの」


刑部が、静かに言った。


誰も、答えなかった。


昌幸は、しばらく扇を弄んでいた。

やがて、ぱちりと閉じた。


「まあ、よい」


その目が、鋭く光った。


「どのみち、ここから先は、お主の知らぬ道じゃ、源次郎」


信繁は、頷いた。




七月になって、出浦対馬守が沼田からの包みを届けに来た。


包みの中の兄の文は、いつもより長かった。


『父上がご病気と聞き、肝を冷やした。ご快癒の由、何よりの吉報。源次郎、父上をくれぐれも頼む』


最後の一行だけ、墨が滲んでいた。


信繁は、その文を父に渡した。

昌幸は黙って読み、黙って懐にしまった。


前回、父のいない九度山で過ごした三年があった。


今回は、その三年に、父がいる。


歴史が、少しずつ、前回からずれ始めていた。


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