第八話:九度山
慶長六年、春。
紀ノ川の水が、雪解けで濁っている。
高野山の麓、九度山の村はずれに、真田の屋敷がある。
屋敷といっても、板葺きの母屋に小さな離れが一つ。
垣根の向こうは、すぐに山。
その離れで、赤子が産声を上げた。
男の子だった。
信繁は、産婆から赤子を受け取った。
小さい。
驚くほど軽く、驚くほど温かい。
皺だらけの顔で、何かに怒ったように泣いている。
「大助、と名づけよう」
そう言うと、床の上の妻が、疲れた顔で微笑んだ。
信繁は、赤子の顔を見つめた。
知っている。
この子の行く末を。
十五になったこの子は、茶臼山の陣で父の袖を掴む。
父上と共に死にとうござる、と。
その指を、自分は一本ずつほどいて、城へ帰した。
そして、この子は秀頼公と共に、炎の中で死んだ。
信繁は、赤子の小さな手に、自分の指を握らせた。
赤子の指が、思いがけない強さで、それを握り返してくる。
今度は、ほどかぬ。
信繁は、胸の内でそう誓った。
縁側で、昌幸が孫の泣き声を聞いている。
「よう泣く。真田の子じゃ」
父の声は、明るかった。
前回の父は、この頃から文ばかり書いていた。
宛先は、内府の側近、本多佐渡守。
赦免を願う文だった。
いつ赦されるか、いつ山を下りられるか。
返事が来ない日が続くたびに、父の背中は少しずつ丸くなっていった。
今回、父は一通も書かなかった。
「赦しなど、要らぬ」
文机の前で、父はそう言って笑った。
その文机に広げられているのは、赦免の嘆願ではない。
大坂の城の、絵図だった。
慶長七年、秋。
一艘の川舟が、紀ノ川を遡ってきた。
舟から降りてきたのは、白い頭巾をかぶった高野聖。
杖をつき、供の者に手を引かれ、ゆっくりと岸に上がる。
供の者たちは、商人の身なりをしている。
だが、その日に焼けた顔と、腰の据わり方は、どう見ても薩摩の兵だった。
信繁は、岸辺でその高野聖を迎えた。
「義父上」
頭巾の奥から、くぐもった声が返ってくる。
「待たせたの、婿殿」
刑部だった。
関ヶ原から、二年。
薩摩で匿われていた刑部は、島津が内府と和睦を結んだのを機に、ひそかに海を渡ってきたのだった。
屋敷に着くと、刑部は杖を止めた。
庭先に、女が一人立っている。
信繁の妻だった。
妻は、この日のことを何も知らされていない。
父は関ヶ原で死んだ。
首も見つからなかった。
そう信じて、二年を過ごしてきた。
信繁は、妻に何も告げていない。
九度山には、徳川の目がある。
知る者が一人増えれば、それだけ漏れる道が増える。
妻は、白い頭巾の高野聖を、不思議そうに見ている。
刑部が、声のする方へ顔を向けた。
「……その足音は」
妻の顔から、血の気が引いた。
「父、上……?」
刑部は、杖を取り落とした。
見えぬ目で、手探りで、一歩、二歩と前へ出る。
妻が、駆け寄った。
その肩を、刑部の痩せた手が掴んだ。
頬を探り、髪を探り、確かめるように何度も撫でる。
「泣くな」
刑部の声が、震えていた。
「泣くなと言うに。わしは、お主を泣かせぬために生き延びたのじゃ」
妻は、声を上げて泣いた。
刑部の頭巾も、濡れている。
信繁は、少し離れたところで、それを見ていた。
前回、妻は父の死を聞いて、一晩中仏間から出てこなかった。
その妻が、いま、父の胸で泣いている。
隣に、いつの間にか昌幸が立っていた。
「刑部め。泣かせぬために生き延びたと言いながら、早速泣かせておるではないか」
そう言う父の目も、赤い。
屋敷の裏の離れが、刑部の住まいになった。
村の者たちには、病を得た高野聖が養生していると伝えた。
白い頭巾の病人に、好んで近づく者はいない。
刑部の病が、そのまま隠れ蓑になった。
刑部が落ち着いて間もない夜、信繁は離れに呼ばれた。
「婿殿。大坂の戦の話を、もう一度聞かせよ」
刑部は、床の上に端座している。
「前回、お主はなぜ負けた」
信繁は、指を折って数えた。
「一つ。冬の陣の講和で、城の堀を埋められたこと」
「うむ」
「二つ。夏の陣の道明寺で、霧に阻まれて遅れ、後藤又兵衛を死なせたこと」
信繁の指が、三本目で止まった。
「三つ」
刑部が、静かに促した。
「……秀頼公が、ついに城をお出にならなかったこと」
「四つ」
「最後の日、合図を待たずに戦が始まってしまったこと」
刑部は、黙って聞いている。
やがて、布の奥で小さく息を吐いた。
「四つか」
「はい」
「ならば、十年かけて、四つの手を打て」
刑部は、見えぬ目を信繁に向けた。
「一年で一つ考え、二年で一つ確かめる。それでもまだ二年余る。余った二年で、己が思いもよらぬ五つ目に備えよ」
「五つ目、にござりますか」
「前回にはなかったことが、必ず起きる。わしが生きておること、安房守殿が生きておること。それだけで、もう道は前回と違うのじゃ」
信繁は、深く頭を下げた。
信繁の暮らしは、表向きは前回と変わらない。
真田紐を編み、それを行商の者に託して売る。
流人の身の、ささやかな稼ぎ。
違うのは、その行商の者たちだった。
あの若者が、彼らを束ねている。
上田からの道を案内し、関ヶ原を駆け、住吉の浜まで付き従ってきた若者。
出浦対馬守が九度山へ送り込んできた、草の者だった。
若者は、紐を背負って京へ、大坂へ、駿府へ、江戸へと出かけていく。
そして、ひと月もすると、紐の代わりに噂を背負って帰ってくる。
どこの大名が城を普請している。
大坂の城で、誰が誰と揉めている。
内府の機嫌はどうか。
「この者、名は何という」
ある日、昌幸が訊いた。
「才蔵と申します」
若者は、短く答える。
「才蔵か。して、在所は」
「伊賀の山奥にて」
昌幸は、ふむ、と顎を撫でた。
「お主、いつも気づけばそこにおり、気づけばおらぬ。霧のような男よな」
才蔵は、何も言わずに頭を下げる。
「霧隠才蔵。今日からそう名乗れ」
昌幸は、面白そうに笑った。
その日から、才蔵は霧隠と呼ばれるようになった。
紐の行商には、もう一つの役目がある。
上田からの便りを運ぶことだ。
出浦対馬守が沼田から託す包みには、銭と米と、兄の文が入っている。
兄の文は、いつも短い。
達者か。
足りぬものはないか。
子らは息災か。
それだけの文を、信繁は何度も読み返す。
前回も、兄は九度山に仕送りを続けてくれた。
だが、その文に返事を書くたび、信繁の筆は重かった。
申し訳なさばかりが先に立った。
今回は、違う。
信繁は、紐の編み方を一つ、文に書き添えた。
大助が初めて立った日のことも。
刑部のことだけは、書けなかった。
それでも、書けることを、書けるだけ書いた。
慶長八年の夏、出浦対馬守が自ら九度山を訪ねてきた。
沼田からの包みを届けたあと、出浦は縁側で茶を一杯だけ飲んだ。
「伊豆守様が、仰せにござりました」
「兄上が、何と」
「近頃は、源次郎の文が届くのが楽しみじゃ、と」
信繁は、湯呑みを持つ手を止めた。
「前は、もっと堅苦しい文であったのに、とも」
出浦は、表情を変えずに言った。
前回の自分の文を、兄はそう読んでいたのか。
信繁は、湯呑みの中の茶を見つめる。
出浦は茶を飲み干すと、立ち上がった。
帰り際、裏の離れの方へ、ちらりと目をやった。
白い頭巾の高野聖が、縁側で日に当たっている。
信繁の背が、強張った。
出浦は、何事もなかったように視線を戻した。
「あちらの聖殿のことは、何もお尋ねいたしませぬ」
「……対馬守殿」
「この年寄りの目は、近頃とんと衰えましてな。見えぬものは、伊豆守様にも申し上げようがございませぬ」
出浦は、一礼して去っていった。
草の者を束ねてきた男の目が、衰えているはずはない。
島津からの荷は、年に二度、堺の商人を通じて届く。
荷の中身は、決まって壺。
壺の中身は、薩摩の焼酎。
そして、壺の底の油紙には、決まって文が貼りつけてある。
『真田どん。焼酎ば送っど。飲みすぎっと、刑部どんに叱らるっど。豊久』
信繁は、その文を読んで笑った。
前回、九度山で焼酎を飲むのが、数少ない楽しみだった。
人に宛てて、焼酎を送ってくれと文をしたためたこともある。
今回は、頼まずとも届く。
壺の底の文には、ときおり別の手の文も混じっている。
義弘の筆だった。
『いつの日か、じゃ』
それだけが、毎回、同じように書かれている。
慶長十年の春、才蔵が江戸から戻ってきた。
「徳川様は、将軍の職を江戸の大納言様にお譲りになりました」
信繁は、紐を編む手を止めた。
前回と、同じ。
徳川は、天下は徳川のものと世に示した。
豊臣の天下は、もう戻らぬと。
「これより先は、大御所様と呼ばれるそうにござります」
大御所。
その呼び名を、信繁は十年後の戦場で、何度耳にしたことだろう。
――大御所はご無事ぞォッ!
あの日の声が、耳の奥でよみがえる。
「大坂の秀頼公は」
信繁が訊くと、才蔵は少し考えてから答えた。
「御年十三。すでに大人ほどの背丈がおありとか。されど、城の外へはほとんどお出ましにならぬそうにござります」
信繁は、目を閉じた。
前回、あの方は最後まで城を出なかった。
出られなかったのか、出させてもらえなかったのか。
あの朝、茶臼山でどれだけ待っても、金の瓢箪の馬印は現れなかった。
あと九年。
あの方の心を動かすのに、九年あれば足りるのか。
それとも、九年では足りないのか。
「才蔵。大坂の城の奥向きのことを、もっと詳しく探れるか」
才蔵は、黙って頷いた。
その夜、離れの縁側で、昌幸と刑部が碁を打っている。
刑部は目が見えない。
昌幸が石を置くたびに、その場所を声で告げる。
刑部はそれを頭の中の盤に並べ、自分の手を告げる。
「十六の四」
「ほう。そこへ来るか」
「安房守殿は、相変わらず意地の悪い手を打たれる」
「刑部殿こそ、見えぬくせに、よう読む」
二人とも、楽しそうに見える。
信繁は、その声を聞きながら、縁の端に腰を下ろした。
「大御所、だそうな」
昌幸が、石を置きながら言った。
「はい」
「源次郎。前回と、同じか」
「同じにござります」
「ならば、よい」
昌幸は、刑部の石を一つ取り上げた。
「同じ道を来ておる間は、お主の知っておることが役に立つ。道が変わるのは、まだ先でよい」
「父上は、いつ道を変えるおつもりで」
昌幸は、すぐには答えなかった。
刑部が、見えぬ目を昌幸に向ける。
「安房守殿が、生きておられる限り、道はもう変わっておりましょう」
昌幸は、ふん、と鼻を鳴らした。
それから、黒い石を盤に打ちつけた。
「三の十七。刑部殿、その大石は死んだぞ」
「……やられた」
刑部が、布の奥で笑った。
慶長十五年、暮れ。
九度山に、雪が降っている。
信繁は、四十四になった。
前回の今頃、この体はもう重かった。
膝は朝ごとに軋み、鬢には白いものが目立ち始めていた。
赦しを待つ父の、日に日に細っていく背中を見るのがつらかった。
今は、違う。
朝は才蔵と山を駆け、昼は紐を編み、夜は父と刑部の碁を眺める。
大助は十になり、木刀を振り回して内記を困らせている。
先日、その大助が、真顔で訊いてきた。
「父上。戦とは、どのようなものにござりますか」
信繁は、しばらく答えられなかった。
赤い具足の群れ。
槍の林。
十間の向こうで揺れる金の扇。
袖を掴む、十五の我が子の指。
「……生きて帰るのが、一番難しいものじゃ」
ようやく、そう答えた。
大助は、不思議そうに首を傾げていた。
父は、六十四とは思えぬ足取りで、雪の山道を歩いていく。
その夜、囲炉裏の前で、昌幸が言った。
「来年じゃな」
信繁は、顔を上げた。
「前回、わしが死んだのは」
「……慶長十六年の、六月にござります」
昌幸は、囲炉裏の火を火箸でつついた。
ぱち、と火の粉が爆ぜる。
「楽しみじゃのう」
「父上」
「わしが、その年を越えられるかどうか。お主の知らぬ道に、わしが最初の一歩を踏み出せるかどうか」
昌幸は、にやりと笑った。
その目は、十年前、上田の城で見たのと同じ火を宿している。
外では、雪が降り続いている。
十年。
九度山の十年は、前回とはまるで違う十年だった。




