↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Re:大坂の陣  作者: romane
7/16

第七話:白装束




住吉の浜に、夜の潮が寄せていた。


関ヶ原から、十日が過ぎていた。


伊勢の山を越え、伊賀の谷を抜け、近江の信楽から大坂へ。

島津の一行は、敵の目をかいくぐりながら、ようやくここまで辿り着いた。


沖に、小さな灯が一つ揺れている。

薩摩へ向かう船だった。


「乗っていきやんせ、真田どん」


豊久が言った。


「薩摩なら、内府の手も届かん。おはん一人くらい、どげんでも匿うてみせもんで」


信繁は、首を振った。


「父が、上田で待っておりまする」


「死罪になっど」


「承知の上にござる」


豊久は、何か言いかけて口をつぐんだ。


信繁は、浜に下ろされた輿の前に膝をついた。


簾の奥に、刑部がいた。

関ヶ原で死んだことになっている男だった。


首は、ついに見つからなかった。

湯浅五助が、敵に渡らぬよう、どこかへ埋めたのだと噂されている。


その五助は、烏頭坂の上に残ったきり、戻らなかった。


「婿殿」


簾の奥から、声がした。


「九度山とやらで、待っておれ」


「義父上」


「ほとぼりが冷めたら、わしの方から行く。目は見えずとも、口はまだ動く。安房守殿と二人で、十五年先の絵図を描いてやろうではないか」


信繁は、地に額をつけた。


輿が担ぎ上げられ、小舟へ運ばれていく。

波打ち際で、義弘が振り返った。


「真田左衛門佐」


老将の声は、潮騒の中でもよく通った。


「こん恩は、忘れん。いつの日か、じゃ」


小舟が、闇の沖へ漕ぎ出していった。


信繁は、灯が見えなくなるまで浜に立っていた。


傍らに、高梨内記と、道案内の若者が控えていた。

関ヶ原を生き延びた真田の者は、もうこの二人だけだった。


「殿。これから、いずこへ」


内記が訊いた。

信繁は、東を見た。


「兄上のところへ」




大津の陣は、篝火で昼のように明るかった。


中納言秀忠の軍勢が、ここに陣を張っていた。

関ヶ原に間に合わなかった三万八千。


その陣中に、兄がいる。


信繁は、内記と若者を外に残し、一人で陣の門を叩いた。


「真田伊豆守殿の弟、左衛門佐にござる。兄に、会いに参った」


門番の顔色が変わった。


半刻ほど待たされた。

やがて、陣幕の奥から、足音が駆けてきた。


兄だった。

具足もつけず、小袖の裾を乱したまま、信繁の前で立ち止まった。


二月ぶりの兄の顔は、ひどくやつれていた。


「……源次郎」


兄の手が、信繁の肩を掴んだ。

指が、骨に食い込むほど強かった。


「生きて、おったか」


「はい」


「関ヶ原で、真田の赤い具足が刑部殿と共に島津の脇を駆け、内府様の本陣の前を抜けていったと聞いた。あれは、お主か」


「はい」


兄の手が、震えた。

次の瞬間、平手が飛んだ。


頬が鳴った。


信繁は、避けなかった。


「この、大馬鹿者が……!」


兄の声が、割れていた。


「なぜ、上田におらなんだ。父上と城にこもっておれば、まだ申し開きの道もあった。それを、よりによって内府様の本陣の前を……!」


「申し訳ございませぬ」


「謝って済むことか!」


兄は、信繁の胸ぐらを掴んだ。

そして、そのまま、額を信繁の肩に押し当てた。


「……生きておって、よかった」


かすれた声だった。


信繁は、何も言えなかった。

前回、関ヶ原のあとに兄と顔を合わせたのは、助命が決まってからだった。


その時の兄は、静かだった。

責めもせず、泣きもせず、ただ「達者でな」とだけ言った。


この人は、あの時もこうして泣きたかったのかもしれない。


「兄上」


信繁は、兄の背に手を回した。


「それがしを、兄上の手で、内府の前へ引き立ててくだされ」


兄が、顔を上げた。


「何を申す」


「逃げも隠れもいたしませぬ。兄上が捕らえたとなれば、兄上の手柄になりましょう。真田の家のためにも、それが——」


「黙れ」


兄の目が、怒りで燃えていた。


「弟を差し出して手柄を立てる兄が、どこにおる」


「兄上」


「わしはお主を、捕らえぬ。連れて行くだけじゃ。内府様の御前へ、兄として」


兄は、信繁の胸ぐらを放した。


「そして、兄として、お主の命を乞う」




大坂城、西の丸。


白洲の砂利は、秋の陽を受けて白く光っていた。


信繁は、後ろ手に縄をかけられ、その上に座らされていた。

正面の縁に、床几が一つ置かれている。


やがて、その床几に、一人の老人が腰を下ろした。


肥えた体。

垂れた頬。

重たげな瞼の奥の、小さな目。


徳川内府、家康。


信繁は、顔を上げた。

縁までの距離を、目で測った。


十間ほど。

あと、十間。


縄の下で、拳が握り込まれた。


家康は、しばらく何も言わなかった。


ただ、信繁を見ていた。


値踏みするような目ではなかった。

珍しい虫でも眺めるような、どこか懐かしいものでも見るような、奇妙な目だった。


「お主が、安房守の倅か」


ようやく、家康が口を開いた。


「関ヶ原で、わしの本陣の前を駆けていった赤い具足は、お主じゃな」


「いかにも」


家康の口元が、わずかに動いた。


笑った。


信繁の背筋を、冷たいものが走った。


その笑みを、知っている。

十五年後の五月七日、南の丘の上で、振り返った老人の顔。


「面白い男よ」


家康は、それだけ言って、傍らの近習に目をやった。


近習が、書付を読み上げた。


『真田安房守昌幸、ならびに次男左衛門佐信繁。両名、上方に与して天下に弓を引きし段、重々不届きにつき、死罪申しつくるもの也』


予期していた言葉だった。


前回も、同じ沙汰が下った。

いや、今回の罪は、前回よりはるかに重い。

本陣の前を駆け抜け、刑部と島津を逃がした。


前回と同じなら、この後に何が起きるかを知っていた。


だが、今回の罪は前回とは違う。

同じになるとは、限らなかった。


「お待ちくださりませ」


白洲の端から、声が上がった。


兄だった。


白い小袖。

白い袴。

腰には、脇差一本だけを差している。


死装束だった。


兄は、白洲の砂利の上に膝をつき、両手をついた。


その後ろに、二つの影が続いた。


一人は、小松だった。

夫と同じ白装束に身を包み、薙刀も持たず、静かに夫の斜め後ろに座した。


もう一人は、本多中務大輔忠勝。

徳川随一の猛将が、娘婿の後ろで、黙って頭を垂れていた。


その身なりもまた、白だった。


「伊豆守。何の真似じゃ」


家康の声が、低くなった。


「父と弟の命を、お助けくださりませ」


兄の声は、震えていなかった。


「それが叶わぬなら、この伊豆守の腹をもって、両名の罪を贖わせてくださりませ」


「ならぬ」


家康は、即座に言った。


「安房守には、上田で二度、煮え湯を飲まされた。その倅は、わしの本陣の前を駆けた。許せば、天下に示しがつかぬ」


「示しなら、それがしがつけまする」


兄は、顔を上げた。


「それがしは、父より賜った名の一字、『幸』の字を捨てまする。これより先、真田は徳川の家来として生きる。その証として」


信繁は、目を閉じた。


知っていた。


兄がこの名を捨てることを。

自分と父のために、それを差し出すことを。


前回は、それを後になって聞いた。


今回は、目の前で見ている。


止めることは、できなかった。

止めれば、兄の覚悟を踏みにじることになる。


「……名の一字か」


家康は、扇を弄んだ。


「それだけでは、足りぬな」


その時、小松が膝を進めた。


「内府様」


凛とした声だった。


「沼田の城で、わたくしは舅殿を門から追い返しました。孫の顔を見たいと仰せの舅殿に、薙刀を向けました」


家康の扇が、止まった。


「すべては、徳川への忠義のため。その忠義に、いささかなりともお目をかけていただけるのなら」


小松は、手をついた。


「どうか、夫の願いをお聞き届けくださりませ」


白洲が、静まり返った。

その静けさを破ったのは、忠勝だった。


「殿」


徳川の古強者は、ゆっくりと顔を上げた。


「伊豆守の願い、お聞き届けなきときは」


「なんじゃ」


「この平八郎、婿殿と共に沼田の城にこもり、殿と一戦交えまする」


近習たちが、息を呑んだ。


家康は、忠勝を睨んだ。

忠勝は、目を逸らさなかった。


長い沈黙だった。


家康の指が、口元へ上がった。

かり、と、爪を噛む音がした。


「……平八め」


噛みしめた歯の間から、声が漏れた。


「この家康を、脅しおるか」


忠勝は、黙って頭を下げた。

家康は、扇で膝を叩いた。


「……安房守と左衛門佐。死一等を、減じてやる。紀州高野山へ配流とする」


それから、横目で忠勝を見た。


「これで満足か、平八」


兄の肩が、大きく落ちた。

小松が、そっと夫の背に手を添えた。


信繁は、縄の下で、深く頭を下げた。


顔を上げたとき、家康がこちらを見ていた。


あの、奇妙な目だった。


「左衛門佐」


「……はい」


「山の暮らしは、長いぞ」


それだけ言って、家康は床几を立った。

去っていく背中を、信繁は黙って見送った。


長いぞ。


その言葉が、耳の奥で鳴り続けていた。


なぜ、長いとわかる。


いや、と信繁は首を振った。

配流とは、そういうものだ。

赦しがなければ、一生山の中で終わる。

誰に向けても言える言葉だ。


そう、思おうとした。


縄を解かれたのは、白洲を出てからだった。


廊下の角で、兄が待っていた。

白装束のまま、柱にもたれるようにして立っていた。


近づくと、兄は小さく笑った。


「膝が、まだ震えておるわ」


「兄上」


信繁は、兄の前に膝をついた。


言わねばならなかった。


前回は、言えなかった。

助命が決まったあとも、九度山の十四年も、大坂の城に入るときも。


一度も、言えずに終わった。


「この御恩は、生涯忘れませぬ」


兄が、困ったように眉を下げた。


「恩などと申すな。兄弟ではないか」


「兄弟だからこそにござる」


信繁は、顔を上げなかった。


上げれば、泣いてしまう。


兄の手が、信繁の頭に置かれた。

越後へ発つ前の晩に、父がそうしたように。


「達者でおれ、源次郎」


前回と、同じ言葉だった。

だが、その声は、前回よりもずっと温かかった。


兄の後ろで、小松が静かに頭を下げた。


「舅殿に、お伝えくださいまし」


「何と」


「次においでの折は、門を開けてお迎えいたします、と」


信繁は、思わず笑った。


笑いながら、目頭が熱くなった。




沙汰のあと、信繁は上田へ送り返された。


城はすでに兄の手に渡り、父はその一室に押し込められていた。

四月ぶりに会った父は、刑部と島津の話を聞くと、膝を打って笑った。




慶長五年、十二月。


上田を発つ朝は、雪が舞っていた。


昌幸と信繁、そして付き従う家臣十数名。

高梨内記の姿も、その中にあった。

紀州へ向かう、長い旅の始まりだった。


城門の外に、旅姿の男が一人、待っていた。


鬢に白いものの目立つ、どこにでもいそうな顔立ちの男だった。

この夏、上田の城で、草の者を束ねていた老人。


出浦対馬守昌相。


「伊豆守様より、言伝を預かってまいりました」


出浦は、昌幸の前で膝をつき、一通の文を差し出した。


昌幸が、それを開く。

信繁は、横から覗き込んだ。


兄の筆だった。


『九度山への便りは、すべてこの対馬守に託されよ。銭も、米も、薬も、文も。足りぬものあらば、何なりと。信之』


信之。


もう、その名で書いていた。


「……あやつめ」


昌幸は、文を懐にしまった。

その声が、少しだけ揺れていた。


出浦は、昌幸に一礼すると、信繁の方へ向き直った。


「左衛門佐様。もう一人、お連れいただきたい者がおりまする」


出浦の後ろから、若者が一人、進み出た。


見覚えのある顔だった。

関ヶ原への道を案内し、住吉の浜まで付き従ってきた、あの若者だった。


「この者を、九度山へ」


若者は、何も言わずに頭を下げた。


顔を上げたとき、その口元が、かすかに笑っていた。




雪の道を、一行は西へ進んだ。


峠の上で、昌幸が馬を止めた。

振り返ると、上田の城が、白い野の向こうに小さく見えていた。


「源次郎」


「はい」


「前回のわしは、ここで何と言うた」


信繁は、少し考えてから答えた。


「『さてもさても、口惜しきかな。内府をこそ、このようにしてやろうと思いしに』と」


昌幸は、ふん、と鼻を鳴らした。


「いかにも、わしの言いそうなことよ」


それから、雪の向こうの城を、もう一度だけ見た。


「今度は、言わぬ」


「父上」


「口惜しゅうないわけではない。だが、口惜しがるのは、十五年後にとっておく」


昌幸は、馬首を西へ返した。


「刑部は生きておる。島津には貸しがある。源三郎とも、文が通う。前回とは、もう違う道じゃ」


信繁は、父の背中を見た。

前回、この道を行く父の背は、ひどく小さく見えた。


いまは、違う。


雪の中を、昌幸の馬が進んでいく。


その背は、来た時よりも、大きく見えた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。