第七話:白装束
住吉の浜に、夜の潮が寄せていた。
関ヶ原から、十日が過ぎていた。
伊勢の山を越え、伊賀の谷を抜け、近江の信楽から大坂へ。
島津の一行は、敵の目をかいくぐりながら、ようやくここまで辿り着いた。
沖に、小さな灯が一つ揺れている。
薩摩へ向かう船だった。
「乗っていきやんせ、真田どん」
豊久が言った。
「薩摩なら、内府の手も届かん。おはん一人くらい、どげんでも匿うてみせもんで」
信繁は、首を振った。
「父が、上田で待っておりまする」
「死罪になっど」
「承知の上にござる」
豊久は、何か言いかけて口をつぐんだ。
信繁は、浜に下ろされた輿の前に膝をついた。
簾の奥に、刑部がいた。
関ヶ原で死んだことになっている男だった。
首は、ついに見つからなかった。
湯浅五助が、敵に渡らぬよう、どこかへ埋めたのだと噂されている。
その五助は、烏頭坂の上に残ったきり、戻らなかった。
「婿殿」
簾の奥から、声がした。
「九度山とやらで、待っておれ」
「義父上」
「ほとぼりが冷めたら、わしの方から行く。目は見えずとも、口はまだ動く。安房守殿と二人で、十五年先の絵図を描いてやろうではないか」
信繁は、地に額をつけた。
輿が担ぎ上げられ、小舟へ運ばれていく。
波打ち際で、義弘が振り返った。
「真田左衛門佐」
老将の声は、潮騒の中でもよく通った。
「こん恩は、忘れん。いつの日か、じゃ」
小舟が、闇の沖へ漕ぎ出していった。
信繁は、灯が見えなくなるまで浜に立っていた。
傍らに、高梨内記と、道案内の若者が控えていた。
関ヶ原を生き延びた真田の者は、もうこの二人だけだった。
「殿。これから、いずこへ」
内記が訊いた。
信繁は、東を見た。
「兄上のところへ」
大津の陣は、篝火で昼のように明るかった。
中納言秀忠の軍勢が、ここに陣を張っていた。
関ヶ原に間に合わなかった三万八千。
その陣中に、兄がいる。
信繁は、内記と若者を外に残し、一人で陣の門を叩いた。
「真田伊豆守殿の弟、左衛門佐にござる。兄に、会いに参った」
門番の顔色が変わった。
半刻ほど待たされた。
やがて、陣幕の奥から、足音が駆けてきた。
兄だった。
具足もつけず、小袖の裾を乱したまま、信繁の前で立ち止まった。
二月ぶりの兄の顔は、ひどくやつれていた。
「……源次郎」
兄の手が、信繁の肩を掴んだ。
指が、骨に食い込むほど強かった。
「生きて、おったか」
「はい」
「関ヶ原で、真田の赤い具足が刑部殿と共に島津の脇を駆け、内府様の本陣の前を抜けていったと聞いた。あれは、お主か」
「はい」
兄の手が、震えた。
次の瞬間、平手が飛んだ。
頬が鳴った。
信繁は、避けなかった。
「この、大馬鹿者が……!」
兄の声が、割れていた。
「なぜ、上田におらなんだ。父上と城にこもっておれば、まだ申し開きの道もあった。それを、よりによって内府様の本陣の前を……!」
「申し訳ございませぬ」
「謝って済むことか!」
兄は、信繁の胸ぐらを掴んだ。
そして、そのまま、額を信繁の肩に押し当てた。
「……生きておって、よかった」
かすれた声だった。
信繁は、何も言えなかった。
前回、関ヶ原のあとに兄と顔を合わせたのは、助命が決まってからだった。
その時の兄は、静かだった。
責めもせず、泣きもせず、ただ「達者でな」とだけ言った。
この人は、あの時もこうして泣きたかったのかもしれない。
「兄上」
信繁は、兄の背に手を回した。
「それがしを、兄上の手で、内府の前へ引き立ててくだされ」
兄が、顔を上げた。
「何を申す」
「逃げも隠れもいたしませぬ。兄上が捕らえたとなれば、兄上の手柄になりましょう。真田の家のためにも、それが——」
「黙れ」
兄の目が、怒りで燃えていた。
「弟を差し出して手柄を立てる兄が、どこにおる」
「兄上」
「わしはお主を、捕らえぬ。連れて行くだけじゃ。内府様の御前へ、兄として」
兄は、信繁の胸ぐらを放した。
「そして、兄として、お主の命を乞う」
大坂城、西の丸。
白洲の砂利は、秋の陽を受けて白く光っていた。
信繁は、後ろ手に縄をかけられ、その上に座らされていた。
正面の縁に、床几が一つ置かれている。
やがて、その床几に、一人の老人が腰を下ろした。
肥えた体。
垂れた頬。
重たげな瞼の奥の、小さな目。
徳川内府、家康。
信繁は、顔を上げた。
縁までの距離を、目で測った。
十間ほど。
あと、十間。
縄の下で、拳が握り込まれた。
家康は、しばらく何も言わなかった。
ただ、信繁を見ていた。
値踏みするような目ではなかった。
珍しい虫でも眺めるような、どこか懐かしいものでも見るような、奇妙な目だった。
「お主が、安房守の倅か」
ようやく、家康が口を開いた。
「関ヶ原で、わしの本陣の前を駆けていった赤い具足は、お主じゃな」
「いかにも」
家康の口元が、わずかに動いた。
笑った。
信繁の背筋を、冷たいものが走った。
その笑みを、知っている。
十五年後の五月七日、南の丘の上で、振り返った老人の顔。
「面白い男よ」
家康は、それだけ言って、傍らの近習に目をやった。
近習が、書付を読み上げた。
『真田安房守昌幸、ならびに次男左衛門佐信繁。両名、上方に与して天下に弓を引きし段、重々不届きにつき、死罪申しつくるもの也』
予期していた言葉だった。
前回も、同じ沙汰が下った。
いや、今回の罪は、前回よりはるかに重い。
本陣の前を駆け抜け、刑部と島津を逃がした。
前回と同じなら、この後に何が起きるかを知っていた。
だが、今回の罪は前回とは違う。
同じになるとは、限らなかった。
「お待ちくださりませ」
白洲の端から、声が上がった。
兄だった。
白い小袖。
白い袴。
腰には、脇差一本だけを差している。
死装束だった。
兄は、白洲の砂利の上に膝をつき、両手をついた。
その後ろに、二つの影が続いた。
一人は、小松だった。
夫と同じ白装束に身を包み、薙刀も持たず、静かに夫の斜め後ろに座した。
もう一人は、本多中務大輔忠勝。
徳川随一の猛将が、娘婿の後ろで、黙って頭を垂れていた。
その身なりもまた、白だった。
「伊豆守。何の真似じゃ」
家康の声が、低くなった。
「父と弟の命を、お助けくださりませ」
兄の声は、震えていなかった。
「それが叶わぬなら、この伊豆守の腹をもって、両名の罪を贖わせてくださりませ」
「ならぬ」
家康は、即座に言った。
「安房守には、上田で二度、煮え湯を飲まされた。その倅は、わしの本陣の前を駆けた。許せば、天下に示しがつかぬ」
「示しなら、それがしがつけまする」
兄は、顔を上げた。
「それがしは、父より賜った名の一字、『幸』の字を捨てまする。これより先、真田は徳川の家来として生きる。その証として」
信繁は、目を閉じた。
知っていた。
兄がこの名を捨てることを。
自分と父のために、それを差し出すことを。
前回は、それを後になって聞いた。
今回は、目の前で見ている。
止めることは、できなかった。
止めれば、兄の覚悟を踏みにじることになる。
「……名の一字か」
家康は、扇を弄んだ。
「それだけでは、足りぬな」
その時、小松が膝を進めた。
「内府様」
凛とした声だった。
「沼田の城で、わたくしは舅殿を門から追い返しました。孫の顔を見たいと仰せの舅殿に、薙刀を向けました」
家康の扇が、止まった。
「すべては、徳川への忠義のため。その忠義に、いささかなりともお目をかけていただけるのなら」
小松は、手をついた。
「どうか、夫の願いをお聞き届けくださりませ」
白洲が、静まり返った。
その静けさを破ったのは、忠勝だった。
「殿」
徳川の古強者は、ゆっくりと顔を上げた。
「伊豆守の願い、お聞き届けなきときは」
「なんじゃ」
「この平八郎、婿殿と共に沼田の城にこもり、殿と一戦交えまする」
近習たちが、息を呑んだ。
家康は、忠勝を睨んだ。
忠勝は、目を逸らさなかった。
長い沈黙だった。
家康の指が、口元へ上がった。
かり、と、爪を噛む音がした。
「……平八め」
噛みしめた歯の間から、声が漏れた。
「この家康を、脅しおるか」
忠勝は、黙って頭を下げた。
家康は、扇で膝を叩いた。
「……安房守と左衛門佐。死一等を、減じてやる。紀州高野山へ配流とする」
それから、横目で忠勝を見た。
「これで満足か、平八」
兄の肩が、大きく落ちた。
小松が、そっと夫の背に手を添えた。
信繁は、縄の下で、深く頭を下げた。
顔を上げたとき、家康がこちらを見ていた。
あの、奇妙な目だった。
「左衛門佐」
「……はい」
「山の暮らしは、長いぞ」
それだけ言って、家康は床几を立った。
去っていく背中を、信繁は黙って見送った。
長いぞ。
その言葉が、耳の奥で鳴り続けていた。
なぜ、長いとわかる。
いや、と信繁は首を振った。
配流とは、そういうものだ。
赦しがなければ、一生山の中で終わる。
誰に向けても言える言葉だ。
そう、思おうとした。
縄を解かれたのは、白洲を出てからだった。
廊下の角で、兄が待っていた。
白装束のまま、柱にもたれるようにして立っていた。
近づくと、兄は小さく笑った。
「膝が、まだ震えておるわ」
「兄上」
信繁は、兄の前に膝をついた。
言わねばならなかった。
前回は、言えなかった。
助命が決まったあとも、九度山の十四年も、大坂の城に入るときも。
一度も、言えずに終わった。
「この御恩は、生涯忘れませぬ」
兄が、困ったように眉を下げた。
「恩などと申すな。兄弟ではないか」
「兄弟だからこそにござる」
信繁は、顔を上げなかった。
上げれば、泣いてしまう。
兄の手が、信繁の頭に置かれた。
越後へ発つ前の晩に、父がそうしたように。
「達者でおれ、源次郎」
前回と、同じ言葉だった。
だが、その声は、前回よりもずっと温かかった。
兄の後ろで、小松が静かに頭を下げた。
「舅殿に、お伝えくださいまし」
「何と」
「次においでの折は、門を開けてお迎えいたします、と」
信繁は、思わず笑った。
笑いながら、目頭が熱くなった。
沙汰のあと、信繁は上田へ送り返された。
城はすでに兄の手に渡り、父はその一室に押し込められていた。
四月ぶりに会った父は、刑部と島津の話を聞くと、膝を打って笑った。
慶長五年、十二月。
上田を発つ朝は、雪が舞っていた。
昌幸と信繁、そして付き従う家臣十数名。
高梨内記の姿も、その中にあった。
紀州へ向かう、長い旅の始まりだった。
城門の外に、旅姿の男が一人、待っていた。
鬢に白いものの目立つ、どこにでもいそうな顔立ちの男だった。
この夏、上田の城で、草の者を束ねていた老人。
出浦対馬守昌相。
「伊豆守様より、言伝を預かってまいりました」
出浦は、昌幸の前で膝をつき、一通の文を差し出した。
昌幸が、それを開く。
信繁は、横から覗き込んだ。
兄の筆だった。
『九度山への便りは、すべてこの対馬守に託されよ。銭も、米も、薬も、文も。足りぬものあらば、何なりと。信之』
信之。
もう、その名で書いていた。
「……あやつめ」
昌幸は、文を懐にしまった。
その声が、少しだけ揺れていた。
出浦は、昌幸に一礼すると、信繁の方へ向き直った。
「左衛門佐様。もう一人、お連れいただきたい者がおりまする」
出浦の後ろから、若者が一人、進み出た。
見覚えのある顔だった。
関ヶ原への道を案内し、住吉の浜まで付き従ってきた、あの若者だった。
「この者を、九度山へ」
若者は、何も言わずに頭を下げた。
顔を上げたとき、その口元が、かすかに笑っていた。
雪の道を、一行は西へ進んだ。
峠の上で、昌幸が馬を止めた。
振り返ると、上田の城が、白い野の向こうに小さく見えていた。
「源次郎」
「はい」
「前回のわしは、ここで何と言うた」
信繁は、少し考えてから答えた。
「『さてもさても、口惜しきかな。内府をこそ、このようにしてやろうと思いしに』と」
昌幸は、ふん、と鼻を鳴らした。
「いかにも、わしの言いそうなことよ」
それから、雪の向こうの城を、もう一度だけ見た。
「今度は、言わぬ」
「父上」
「口惜しゅうないわけではない。だが、口惜しがるのは、十五年後にとっておく」
昌幸は、馬首を西へ返した。
「刑部は生きておる。島津には貸しがある。源三郎とも、文が通う。前回とは、もう違う道じゃ」
信繁は、父の背中を見た。
前回、この道を行く父の背は、ひどく小さく見えた。
いまは、違う。
雪の中を、昌幸の馬が進んでいく。
その背は、来た時よりも、大きく見えた。




