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Re:大坂の陣  作者: romane
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第六話:捨て奸




未の刻。


崩れは、大谷の陣からではなかった。


四将は凍りついたまま動かず、小早川勢は松尾山の麓で足踏みを続けている。

刑部の備えは、一歩も退いていない。


崩れたのは、小西の陣だった。


朝から東軍の猛攻を受け続けた小西勢が、ついに支えきれなくなったのだ。

旗が倒れ、兵が背を向けて北西の山へ逃げ出していく。

その穴に、東軍がなだれ込んだ。


宇喜多の陣が、横腹を衝かれた。

一万七千の大軍が、波に洗われる砂の城のように崩れていく。


信繁は、丘の上からそれを見ていた。


前回とは、崩れる順が違う。

だが、崩れることに変わりはない。


南宮山の毛利は、ついに一兵も動かさなかった。


宇喜多が崩れた穴から、藤堂と京極の旗が、大谷の陣へ向かってくる。

正面に小早川、横に四将、そして東から藤堂と京極。


三方を、囲まれようとしていた。


「真田様ッ、藤堂勢が!」


鉄砲足軽の一人が、東を指して叫んだ。


蔦の紋の旗が、宇喜多の敗兵を蹴散らしながら迫ってくる。

その後ろに、京極の四つ目結。

新手だった。


朝から一度も戦っていない兵が、槍先を揃えて押し寄せてくる。


「藤堂へ向けよッ!」


信繁は、筒先を東へ巡らせた。


二百の鉄砲が火を噴く。

藤堂の先鋒が、ばたばたと倒れる。


だが、止まらない。

倒れた者を踏み越えて、次の列が来る。

そして、筒先が東を向いた途端、四将の陣がざわめき始めた。


撃たれる心配が、消えたのだ。


脇坂の旗が、再び揺れた。

朽木も、小川も、赤座も、槍の向きを変えようとしている。


信繁は、歯噛みした。


二百挺では、東と西を同時には押さえられない。

四将を封じていたのは、言葉と筒先の脅しだけだった。

その脅しが、崩れかけている。


ここまでだった。


「鉄砲隊、退けッ! 本陣へ戻るぞ!」


信繁は、丘を駆け下りて刑部の本陣へ走った。




輿の前に、刑部が座していた。


白い布の奥の目は、相変わらずどこも見ていない。

だが、戦の音だけで、すべてを悟っているようだった。


「負けたな」


刑部の声は、静かだった。


「はい」


「治部は」


「笹尾山を捨て、伊吹の山へ落ちられたと」


「ならば、よい。あれは生き延びる」


信繁は、何も言わなかった。


治部は、六日後に捕らえられる。

それを、いま告げる気にはなれなかった。


「婿殿。わしは、ここに残る」


信繁は、息を止めた。


「平塚も戸田も、まだ戦っておる。友を置いて退くわけにはいかぬ。それに、目の見えぬわしを連れては、退く者の足手まといじゃ」


「義父上」


「ここが、わしの死に場所よ。前回もそうだったのであろう」


刑部は、穏やかに笑った。

信繁は、地に膝をついた。


「娘を泣かせるのは、ちと困る」


刑部の笑いが、止まった。


「十二日前、そう仰せになったのは、どなたにござりますか」


長い沈黙があった。

戦の音が、すぐそこまで迫っていた。


「……婿殿は、ずるいのう」


やがて、刑部は溜息をついた。


「安房守殿の倅らしゅうなってきたわ」


刑部は、五助を呼んだ。


「平塚と戸田に伝えよ。退け、と。わしは婿殿と島津へ向かう。二人とも、後から来い」


五助が走り去った。


信繁は、松尾山の方角を見た。


麓の乱戦の中に、平塚と戸田の旗がまだ見えていた。

小早川勢と藤堂勢に挟まれ、それでも踏みとどまっている。


戻ってきた五助の顔は、強張っていた。


「御両名とも、退かぬ、と」


「……そうか」


「戸田様は、刑部殿が退く間の時を稼ぐ、と。平塚様は、ただ笑っておられました」


刑部は、しばらく黙っていた。


「あの二人らしい」


その時、一人の使番が転がり込んできた。


平塚因幡守からだった。

使番は、血に濡れた首級と、一枚の短冊を差し出した。


小早川の侍大将を討ち取った首だった。

短冊には、平塚の手で、歌が一首したためられていた。


五助が、それを読み上げた。


『——名のために 棄つる命は 惜しからじ 終にとまらぬ 浮世と思へば』


刑部は、黙ってそれを聞いていた。


前回、刑部はこの歌に返しを詠んだ。

六道の辻で、しばし待っていよ。

遅れるか先立つかの違いはあっても、すぐに後を追う、と。


今日の刑部は、返しを詠まなかった。


ただ、短冊を胸に押し当てて、長いこと動かなかった。


「……行くぞ、婿殿」


刑部を馬に乗せ、その手綱を五助が取った。


大谷の兵は、もう五百も残っていなかった。


信繁は、東を見た。

戦場の真ん中に、ひとつだけ崩れていない陣があった。


丸に十の字の旗。

朝から一度も動かなかったその陣は、敗走する西軍の濁流の中で、岩のように踏みとどまっていた。


「島津へ!」


信繁が叫ぶと、五百に満たない大谷勢が、崩れゆく戦場を東へ駆けだした。


逃げる西軍の流れに逆らい、丸に十の字の旗を目指して。




義弘は、馬上で信繁を待っていた。


「来たか、真田の倅どん」


「脇を固めると、お約束いたしました」


義弘は、信繁の後ろに続く大谷の兵と、馬上の白い頭巾を見た。

その目が、わずかに見開かれた。


「刑部殿か」


「兵庫頭殿。足手まといになり申す」


刑部が言った。


「なんの」


義弘は笑い、刀を抜いて東を指した。

その先に、金の扇が翻っていた。


「前へ、退くど」


島津の兵が、一斉に駆け出した。


逃げる西軍とは逆の方角へ。

東軍の真っ只中へ。


福島の陣が、何事かと振り返る。


その横腹を、島津の鉄砲が撃ち抜いた。

槍を構えて向かってくる者には、さらに鉄砲を浴びせる。


止まらない。

島津の兵は、一塊の火の玉になって東軍の中を突き進んでいった。


信繁は、その左の脇を駆けた。


大谷の鉄砲五十挺が、横から襲いかかる敵を撃ち払う。

刑部の馬を、五助が必死に引いている。


横合いから、一騎の武者が飛び出してきた。


狙いは、白い頭巾だった。

敵の大将首と見たのだろう。

槍を構え、刑部の馬に向かって一直線に突っ込んでくる。


「させるかッ!」


信繁は馬を寄せ、十文字槍を横に払った。


鎌が、相手の槍を絡め取る。

手首を返す。

槍が宙に舞い、武者の体が鞍から転げ落ちた。


振り返らずに駆けた。


刑部の馬は、無事だった。

五助が、蒼白な顔で手綱を握りしめている。


「婿殿……」


「前だけ見ておれ、五助!」


島津の兵たちは、口々に何かを叫びながら走っていた。


薩摩の言葉で、信繁には半分も聞き取れない。

だが、それが笑い声であることだけはわかった。


死地の真ん中で、島津の兵は笑っていた。


十五年後、茶臼山から駆け下りた赤備えの兵たちも、同じように笑っていた。


前方に、徳川の本陣が見えた。


金の扇。

葵の幔幕。


二町。


いや、もっと近い。


信繁の手が、槍の柄を握りしめた。


あそこに、家康がいる。

今なら、届くかもしれない。

十五年後ではなく、いま。


馬首を、ほんのわずかに左へ傾けかけた。


「婿殿」


背後で、刑部の声がした。

見えぬはずの目が、まっすぐにこちらを向いていた。


「今日ではない」


信繁は、手綱を引き戻した。


本陣の幔幕の陰で、肥えた老人が床几から立ち上がるのが見えた。


こちらを見ている。


いや、島津を見ているのだ。

戦場を横切っていく、命知らずの一団を。


そのはずだった。


島津勢は、本陣の鼻先をかすめるようにして、南へ駆け抜けた。




伊勢街道へ入ったところで、追っ手がかかった。


井伊直政。

松平忠吉。

本多忠勝。


赤備えの騎馬が、土煙を上げて迫ってくる。


島津の殿から、数人の兵が列を離れた。


道の脇に座り込み、鉄砲を構える。

誰も、立ち上がろうとはしなかった。


捨て奸。


すてがまり、と島津の者は呼ぶ。


殿の兵が数人ずつ道に残り、死ぬまで撃ち続けて追っ手を止める。

その者たちが討たれれば、また次の数人が座り込む。

命を少しずつ切り捨てながら、退く。


それが、島津の退き方だった。


信繁のすぐ横を走っていた若い兵が、列を離れた。


まだ十五、六の顔だった。

前髪を落としたばかりなのか、月代の青さが目に痛い。


若者は、道端の松の根元に腰を下ろし、鉄砲に弾を込めた。

それから、通り過ぎていく信繁を見上げて、にこりと笑った。


「お先に」


それだけだった。


信繁は、声をかけられなかった。


大坂の城で、息子の大助を城へ帰した朝を思い出した。

父上と共に死にとうござる、と袖を掴んだ、あの手を。


背後で、銃声が弾けた。


追っ手の先頭を駆けていた赤備えの将が、馬上で大きくのけぞった。


「井伊兵部が撃たれたぞッ!」


叫び声とともに、追っ手の足が鈍った。


続けて、松平下野守も手傷を負ったという声が上がった。

本多中務の馬が撃ち倒されたという声も。


一つの捨て奸が討たれるたびに、追っ手の足が止まる。

止まった隙に、島津はまた一町、また一町と遠ざかる。


道の脇に、座り込んだまま動かなくなった島津の兵が、点々と残されていった。


牧田の手前で、一人の老臣が義弘の馬に寄った。


長寿院盛淳。

島津の家老だった。


「殿、陣羽織をお借りしもす」


義弘が何か言う前に、盛淳はその陣羽織を受け取り、自らの肩に羽織った。


「我こそは、島津兵庫頭なりッ!」


盛淳はそう叫んで、数十騎とともに追っ手の中へ駆け戻っていった。


信繁は、その背中を見送るしかなかった。

この人を救う手立ては、最初からなかった。


前回も、今回も。




烏頭坂。


街道が、なだらかな上りに差しかかった。


信繁の胸が、早鐘を打った。


ここだ。

前回、豊久はこの坂で殿に残り、討たれた。


坂の途中で、豊久が馬を止めた。


「叔父上を、頼んみゃげもす」


振り返った豊久の顔は、晴れやかだった。


「ここは、おいが」


「なりませぬ」


信繁は、豊久の馬の轡を掴んだ。


「何を——」


「中務殿の死に場所は、ここではござらぬ」


豊久の目が、怒りに燃えた。


「真田どん、放しやんせ! 島津の殿を、よそん者に指図さるっ謂れはなか!」


「指図ではござらぬ。約束にござる」


信繁は、轡を離さなかった。


「兵庫頭殿の脇を固めると、お約束いたした。中務殿は、兵庫頭殿の脇そのものにござろう」


豊久が、言葉に詰まった。


その時、五助が馬を寄せてきた。

刑部の手綱を、真田の家臣に渡す。


「婿殿。ここは、大谷の者が引き受け申す」


「五助」


刑部が、見えぬ目を五助に向けた。

五助は、主の前で一礼した。


「殿は、生きてくだされ。娘御を泣かせてはなりませぬ」


刑部は、何も言わなかった。

言えなかったのかもしれない。


五助は、大谷の兵三十人ほどを連れて、坂の上に陣取った。

鉄砲を構え、膝をつく。

島津の兵が十人ほど、何も言わずにその隣に座り込んだ。


島津と大谷の捨て奸が、坂の上に並んだ。


豊久は、それを見て唇を噛んだ。


「……真田殿。この借りは、必ず返す」


「行かれよ」


一行は、坂を駆け上がった。


背後で、銃声が鳴り始めた。


一度。


二度。


三度。


やがて、それは途絶えた。

馬上の刑部が、小さく呟いた。


「……五助め」


それきり、刑部は峠に着くまで、一言も口をきかなかった。

白い頭巾が、揺れる馬の背で、ずっと後ろを向いていた。


見えぬ目で、坂の上を見ていた。




駒野の峠に辿り着いたのは、日が落ちてからだった。


篝火も焚けない山中で、島津の者が兵の数を数えた。


三百と、十二。


朝、千五百いた島津勢のうち、生きてここまで辿り着いたのは、それだけだった。

大谷の兵は、二十人に満たなかった。


闇の中から、足音が近づいてきた。


義弘だった。


老将は、信繁の前で足を止め、しばらく黙って立っていた。


「豊久を、止めてくいやったそうじゃな」


「……出過ぎた真似を、いたしました」


「出過ぎた真似か」


義弘は、低く笑った。


「あいは、島津の明日を背負う男じゃっど。あいを失のうちょったら、島津は今日、千五百の兵より大けかもんを失うとこいじゃった」


義弘は、信繁の前に膝をついた。

六十六の老将が、三十四の若者に、頭を下げた。


「島津は、この恩を忘れぬ。真田左衛門佐。いつの日か、必ず返す」


信繁は、慌てて手をついた。


「兵庫頭殿、お手を」


「いつの日か、じゃ」


義弘は、念を押すように言って立ち上がった。

そして、闇の向こうへ戻っていった。


信繁は、闇の中で膝を抱えた。


前回、島津は八十余りしか国に帰れなかった。

豊久も、盛淳も死んだ。


今回、豊久は生きている。


刑部も生きている。


だが、盛淳は死んだ。

平塚も、戸田も死んだ。

五助も、坂の上に残った。


そして、西軍は負けた。


前回と同じように。


変わったのは、誰が生き残ったか。


それだけだった。


暗がりの向こうで、刑部の声がした。


「婿殿」


「はい」


「内府の本陣の前を駆け抜けた時、お主の馬の足音が一瞬乱れた。左へ行きかけたであろう」


信繁は、答えなかった。


「よう、堪えた」


それだけ言って、刑部は口を閉じた。


信繁は、空を見上げた。

木々の間に、星が見えた。


あの本陣まで、何間あっただろう。

二町か、それとも百間か。


前回は、十五年かけて、その距離を十間まで詰めた。


そして、詰めきれなかった。


信繁は、闇の中で拳を握った。


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