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Re:大坂の陣  作者: romane
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第伍話:関ヶ原




絵図の上で、刑部の指が止まった。


「裏切る者を討つには、兵が要る」


布越しの声が、低く響いた。


「だが、裏切らせぬためには、言葉ひとつで足りる」


九月四日の夜だった。

陣幕の中には、刑部と信繁、そして湯浅五助の三人しかいない。


「四将は、己の家が残ればよいと考えておる。勝つほうにつきたいのではない。負けるほうにつきたくないだけよ」


刑部の指が、松尾山の麓に並ぶ四つの印を、順になぞった。


「ならば、こう思わせればよい。真っ先に槍を返した者が、真っ先に死ぬ、とな」


信繁は、息を呑んだ。


前回の自分なら、四将の陣に夜討ちをかけることを考えただろう。

寝返る前に、叩き潰せばいい、と。


だが、それをすれば、まだ裏切っていない味方を討つことになる。

西軍の中に、疑いと怒りが広がる。


内府を利するだけだ。


「義父上らしい策にござる」


「褒めるな。安房守殿なら、もっと底意地の悪い手を考えるわ」


刑部は、小さく笑った。


布陣が改められた。

松尾山に面した備えは、前回と同じく、平塚因幡守と戸田武蔵守に任せる。


変わったのは、その脇だった。

四将の陣を斜めに見下ろす小高い丘に、鉄砲二百挺を伏せる。


その指揮を、刑部は信繁に預けた。


「婿殿は客人じゃ。四将も、婿殿の顔は知らぬ」


「承知いたしました」


「撃つのは、四将が動いた時だけじゃ。一発でも早ければ、こちらが裏切り者になる。よいな」


翌朝、信繁は伏せ場所の丘を下見に出た。

松尾山の麓を見渡していると、背後から声がかかった。


「そこもとが、刑部殿の婿殿か」


振り返ると、髭に白いものの混じった武者が立っていた。


平塚因幡守為広。

刑部とは古くからの友で、和歌をよくする人だと聞いていた。


「金吾が下りてきたら、わしと戸田殿で受け止める。横腹は、そこもとに預けたぞ」


「お任せくだされ」


平塚は、松尾山を見上げて目を細めた。


「刑部殿は、良い婿を持たれた」


信繁は、何も言えなかった。


前回、この人は刑部と共に、この場所で死んだ。

最後に敵の首を一つ挙げ、辞世の歌を添えて刑部のもとへ送り、自らは敵の中へ斬り込んでいったと聞いている。


その人が、いま、隣で笑っている。




九月十日。


信繁は、大垣の城に島津を訪ねた。


城下は、西軍の兵でごった返していた。

宇喜多、小西、石田の旗が入り乱れ、どこか浮ついた熱気に満ちている。


その中で、島津の陣だけが、妙に静かだった。


「真田の倅どんか」


床几に座した老将が、信繁を見上げた。


島津兵庫頭義弘。

六十六になるという。

日に焼けた顔に、古い刀傷が幾筋も走っていた。


その隣に、三十がらみの精悍な武者が立っている。

甥の中務大輔豊久だった。


「文は、読んだど」


義弘が言った。


「上方の様子を分け合おう、ち書いてあった。そいと、妙な一文がな」


「……はい」


「治部どんが、おいの献策を容れん日が来る。そん時は真田を思い出せ、ち」


義弘は、豊久をちらりと見た。

豊久の顔が、硬くなった。


「献策を容れんどころじゃなか」


豊久が、吐き捨てるように言った。


「先月、墨俣で、おいどんが敵と睨み合うちょる最中に、治部どんは兵を退かれた。おいどんには一言の知らせもなしにじゃ。置き捨てられたとでごわす」


信繁は、黙っていた。


その話は、知っていた。

前回も、島津と治部の間には、合戦の前から深い溝があった。


「真田どん」


義弘が、静かに言った。


「おはんは、何を知っちょっとか」


父と同じ問いだった。

刑部と同じ問いだった。


信繁は、首を振った。


「何も。ただ、真田は小さな家にござる。大きな家の思惑に振り回される辛さは、よう存じております」


義弘の目が、わずかに細くなった。


「一つだけ、申し上げたきことがございます」


「申してみやい」


「もし、その日、島津殿が退かれることになったなら」


信繁は、まっすぐに老将を見た。


「真田は、島津殿の脇を固めまする。どの道を行かれるにしても」


陣幕の中が、静まった。

豊久が、眉を吊り上げた。


「退くち? 島津が、敵に背を向くっち言うとか」


「豊久」


義弘が、甥を制した。

それから信繁を見て、ゆっくりと口の端を上げた。


「背は向けん。島津が退く時は、前へ退くとじゃ」


「……存じております」


義弘は、一瞬、虚を衝かれたような顔をした。

それから、声を上げて笑った。


「面白か倅じゃ。覚えちょこう、真田左衛門佐」




九月十二日。


信繁は、南宮山に登った。


刑部は止めた。

行っても無駄だ、と。


それでも、行かずにはいられなかった。


毛利が動けば、西軍は勝てる。

南宮山の毛利勢が山を下りて内府の背後を衝けば、東軍は挟み撃ちになる。

前回、それが起きなかったのは、先鋒の吉川広家が山の入り口に陣取り、後ろの本隊の道を塞いだからだ。


吉川広家は、穏やかな顔の男だった。


「真田殿のご高名は、かねがね」


茶を勧めながら、広家は柔らかく笑った。


「して、この山奥まで何用でござる」


「毛利殿の、ご出陣の段取りを伺いに」


広家の手が、茶碗の上で止まった。

ほんの一瞬だった。


「無論、時が来れば、毛利は山を下りまする」


「時とは」


「治部殿の采配次第」


広家は、茶をすすった。


信繁は、その目を見た。


穏やかで、揺らぎのない目だった。

すでに何かを決めてしまった者の目だった。


「吉川殿」


信繁は、声を低くした。


「毛利の御家を守るために、何をなさろうとしておられるか。それがしには、わかるつもりでござる」


広家は、茶碗を置いた。


「ほう」


「されど、内府は約束を守る方ではござりませぬ」


前回、家康は吉川との約束を反故にした。


毛利の所領は、百二十万石から、わずか二か国に削られた。

それも、広家が己の取り分を差し出して、本家に回させた結果だった。


広家は、長いこと黙っていた。

やがて、静かに言った。


「真田殿こそ、御家を東西に分けたと聞きましたぞ」


信繁は、言葉を失った。


「御父君と貴殿は西に。御兄君は東に。どちらが勝っても、真田の家は残る」


広家は、微笑んだ。


「わしも、同じことをしておるだけでござるよ」


返す言葉が、なかった。


山を下りながら、信繁は一度だけ振り返った。


毛利の旗が、山の中腹に、動かぬ雲のように連なっていた。




九月十四日。


朝から、雨模様の空だった。


上田からの文が、草の者の手で届いた。


父の筆だった。


『秀忠め、城の前の田で稲を刈っておる。こちらを誘い出すつもりらしいが、わしは昼寝じゃ。九日に江戸より使いが着いたとかで、慌てて陣を払いおった。三万八千、関ヶ原には間に合うまい。刑部殿によろしく伝えよ』


信繁は、思わず笑った。


前回、自分はあの城で、父の隣にいた。

田を刈る秀忠の兵を、櫓の上から二人で見下ろした。


何もかも、あの時と同じだった。

違うのは、父がいま、この戦の行く末を知っていることだけだ。


知っていてなお、父の筆は楽しげだった。




同じ日の昼、松尾山に違い鎌の旗が立った。


金吾中納言、一万五千。

山の砦に入っていた伊藤盛正を追い出し、山頂に陣を据えたのだった。


夕刻には、内府が美濃赤坂に着陣したという報せが届いた。


そして夜、もう一つの報せがあった。


島津兵庫頭が、治部に夜討ちを献策した。

内府は着陣したばかりで、兵は疲れている。

今夜のうちに討つべし、と。


治部は、それを容れなかった。


信繁は、大垣の方角を見た。

あの老将は、いま、何を思っているだろう。


その夜、西軍は雨の中を大垣から関ヶ原へ移った。

松明を消し、泥に足を取られながら、黙々と西へ進む兵の列。


刑部の陣にも、雨が降りしきっていた。


輿の中から、刑部が信繁を呼んだ。


「婿殿。明日、四将を封じたとして」


雨音に紛れるほどの、低い声だった。


「それでも、治部は負けるのじゃな」


「……はい。毛利が動かぬ限り」


「ならば、負けたあとのことを考えておけ」


刑部は、簾の奥で身じろぎした。


「わしを生かすと言うたな。戦に勝てぬまま生き延びるのは、腹を切るより難しいぞ。退く道を、いまのうちに決めておくことじゃ」


「心得ております」


「島津と、何か約したか」


信繁は、一瞬答えに詰まった。

簾の奥から、くぐもった笑い声が漏れた。


「よい。聞かぬ。安房守殿の倅は、やはり安房守殿の倅よ」


夜明け前、刑部は四将の陣へ、それぞれ使者を出した。


口上は、短かった。


『——黒田、藤堂との往来、すべて承知しておる。槍を返されるなら、返されよ。大谷の鉄砲は、すでに貴殿の陣に向いておる』


返事は、一つも来なかった。




九月十五日。


夜が明けても、何も見えなかった。


霧だった。

乳を流したような濃い霧が、関ヶ原の盆地を底まで埋めていた。


信繁は、鉄砲二百挺とともに、丘の上に伏せていた。


眼下の霧の中に、四将の陣がある。

脇坂、朽木、小川、赤座。

あわせて四千あまり。

旗の先だけが、霧の上にかすかに覗いていた。


その向こうに、松尾山が黒く聳えている。


辰の刻。


東の方で、銃声が弾けた。

霧の奥から、鬨の声が湧き上がる。


井伊か、福島か。

宇喜多の陣に、東軍が攻めかかったのだ。


聞いていた通りだった。


前回、信繁はこの場にいなかった。

関ヶ原のことは、すべて後になって、人づてに聞いた話だ。

その話の中の音が、いま、霧の向こうから聞こえてくる。


信繁は、目を閉じて、音だけを聞いた。


銃声の連なり。

法螺貝。

馬の嘶き。

何もかもが、聞かされた話の通りに進んでいく。


霧が晴れたのは、巳の刻を過ぎてからだった。


盆地いっぱいに、旗が揺れていた。

石田、宇喜多、小西の陣が、押し寄せる東軍を必死に支えている。


笹尾山の治部の陣から、狼煙が上がった。


全軍、かかれ。

その合図だった。


松尾山は、動かなかった。


南宮山も、動かなかった。




正午近く。


松尾山の麓に向けて、東軍の方角から鉄砲が撃ちかけられた。


内府が、金吾の尻を叩いたのだ。


山が、揺れた。


違い鎌の旗が、一斉に動き出した。

山の斜面を、一万五千の兵が駆け下りてくる。


その先は、東ではなかった。


西。

大谷の陣だった。


「来たぞッ!」


平塚因幡守の声が響いた。


刑部の備えは、すでに松尾山を向いていた。

戸田と平塚の兵が槍を揃え、駆け下りてくる小早川勢を正面から受け止める。


槍と槍が噛み合った。


小早川の先鋒が、押し返された。

二度目の突撃も、押し返された。

数で三倍に勝るはずの小早川勢が、山の麓でたたらを踏んでいる。


聞いていた話でも、ここまでは同じだった。


問題は、ここからだ。

信繁は、四将の陣を見下ろした。


脇坂の旗が、揺れていた。

槍の穂先が、少しずつ向きを変えていく。


東から、西へ。

大谷の陣の横腹へ。


前回、ここで舅は死んだ。


「構えッ!」


信繁は、低く叫んだ。


二百の銃口が、一斉に脇坂の陣に向いた。

火縄の煙が、細く立ち昇る。


脇坂の兵が、動き出した。

最前列が、一歩、二歩と踏み出す。


「まだだ」


信繁は、歯を食いしばった。


一発でも早ければ、こちらが裏切り者になる。

刑部の声が、耳の奥で鳴っていた。


三歩。


四歩。


脇坂の槍が、大谷の陣に向けて、はっきりと倒された。


「放てェッ!」


二百の鉄砲が、一斉に火を噴いた。

轟音が、丘を揺るがした。

脇坂の最前列が、薙ぎ倒された。


煙の向こうで、悲鳴と怒号が上がる。


「次ッ!」


二の弾が、脇坂の陣の只中に撃ち込まれた。


脇坂勢が、止まった。


前に出ようとした兵が、後ろの兵とぶつかり合う。

旗が乱れ、馬が棹立ちになる。


信繁は、残る三つの陣を見た。


朽木。

小川。

赤座。


どの陣も、槍の向きを変えかけたまま、凍りついていた。


いや。


小川の陣の端で、一隊がじりじりと前へ出ようとしていた。

脇坂の陰に隠れるようにして、大谷の陣の背後へ回り込む構えだった。


「左へ振れッ!」


信繁の声に、鉄砲足軽たちが銃口を巡らせる。

二百の筒先が、小川の一隊をぴたりと捉えた。


撃たなかった。


ただ、狙いをつけたまま、待った。


小川の一隊の足が、止まった。


先頭の侍大将が、こちらの丘を見上げている。

筒先の列が、陽を受けて鈍く光っていた。


一歩でも出れば、撃つ。


言葉はなくとも、それは伝わった。

一隊は、ゆっくりと元の場所へ下がっていった。


真っ先に槍を返した者が、真っ先に死ぬ。


使者の口上が、いま、目の前で本当になった。

誰も、二番目に撃たれたくはなかった。


四千の兵が、松尾山の麓で立ち尽くしていた。


その向こうで、小早川勢がまた押し返されていた。


山の斜面に、違い鎌の旗が折り重なるように倒れている。

一万五千の大軍が、わずか数千の大谷勢に阻まれ、麓から一歩も進めずにいる。


前回にはなかった光景だった。


「婿殿ッ!」


五助が、丘を駆け上がってきた。


「殿が仰せにござる。『ようやった』と!」


信繁は、すぐには答えられなかった。


ただ、熱くなった銃身の向こうに広がる戦場を、黙って見ていた。


舅は、まだ生きている。

前回、この刻限には、もう輿の上で腹を切っていたはずの舅が。


変えられた。

確かに、変えられたのだ。


信繁は、東を見た。


南宮山。


その中腹に、毛利の旗が、朝と寸分違わぬ形で連なっていた。


動かない。


雲のように、ただそこにある。


未の刻が、近づいていた。


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