第四話:傷
「上田は、わし一人で足りる」
八月半ばの朝だった。
本丸の縁側で、昌幸は庭の松を眺めながら言った。
蝉の声が、降るように響いていた。
「お主は、刑部のもとへ行け」
信繁は、父の横顔を見た。
「秀忠の軍は、三万八千にござります」
「知っておる。お主が言うたのじゃ」
「前回は、父上とそれがしの二人で——」
「前回、勝ったのであろう」
昌幸は、ふんと鼻を鳴らした。
「勝つとわかっておる戦に、二人も要らぬ。それに、秀忠めはお主が城におると思うて攻めてくる。おらぬと知れば、かえって油断しよう」
父は、扇で松を指した。
「わしがここで秀忠を止める。お主は関ヶ原で、刑部と島津を生かす。それが、真田の戦じゃ」
信繁は、しばらく黙っていた。
それから、深く頭を下げた。
「……承知いたしました」
「一つだけ言うておく」
昌幸は、扇を閉じた。
「刑部は、わしとは違う。理屈を並べても無駄じゃ。あれは、人の腹の底を見る男よ」
「では、どうすれば」
「腹を割って話せ」
父は、にやりと笑った。
「それしかあるまい」
出立は、その二日後だった。
供は、わずかに五騎。
草の者の頭がつけてくれた道案内の若者と、手練れの家臣が三人。
そして、高梨内記。
「殿のお供、この内記が務めずして誰が務めまするか」
白髪交じりの老臣は、そう言って胸を張った。
信繁は、その顔をまともに見られなかった。
十五年後の五月七日。
この男は、血を吐きながら敵の槍を掴み、信繁の背に向かって叫んだ。
『——殿ッ……お行きなされィッ!』
その内記が、いま、目の前で笑っている。
「どうなされた、殿。わしの顔に何かついておりますかな」
「……いや」
信繁は、手綱を握り直した。
「頼りにしておる」
大手門を出て、千曲川の渡しまで来たとき、信繁は一度だけ振り返った。
上田の城の櫓に、小さな人影が見えた。
見送りには出ぬ、と父は言っていた。
出れば、名残が惜しくなる、と。
その人影は、手を振りもせず、ただじっとこちらを見下ろしていた。
信繁は、櫓に向かって深く頭を下げた。
それから馬首を返し、二度と振り返らなかった。
中山道を、西へ。
一行は、真田紐を売り歩く行商人に身をやつした。
馬は荷駄馬に見せかけ、槍は菰に巻いて荷の底に沈めた。
和田峠を越え、諏訪の湖を横目に、木曽の谷へ入る。
沿道の城は、どこも静まり返っていた。
城主たちは秀忠の軍に加わり、東へ出払っている。
残っているのは、わずかな留守居だけだった。
それでも、関はあった。
木曽の谷を半ばまで下ったところで、街道を塞ぐ柵が見えた。
槍を持った足軽が十人ほど、行き交う者を一人ずつ改めている。
木曽の者たちは、この夏、内府方についていた。
「止まれ」
組頭らしい男が、信繁の前に立った。
「どこへ行く」
「美濃の方へ、紐を売りに参ります」
信繁は、腰を低くして答えた。
組頭は、荷を解かせた。
色とりどりの真田紐が、筵の上に広げられる。
足軽たちが、その底を槍の柄で探った。
菰に巻いた槍まで、あと一尺。
信繁の背中を、汗が伝った。
「おい」
組頭が、信繁の手を掴んだ。
掌を返し、じっと見る。
指の付け根に、硬い槍だこがあった。
三十年、槍を握り続けてきた者の手だった。
「紐売りの手ではないな」
足軽たちの目が、一斉にこちらを向いた。
その時、横から内記が割って入った。
「お目が高い!」
内記は、組頭の手から信繁の手をひったくり、自分の掌と並べて見せた。
「この手は、紐を編む台を三十年も握ってきた手でございます。手前の手もご覧くださいまし。ほれ、同じところに同じたこが」
内記の手にも、確かにたこがあった。
もちろん、槍だこである。
「紐を編むには、こう、台を握って、ぐいぐいと締め上げねばなりません。腕の悪い職人ほどたこは薄い。つまり、このたこの厚さこそが、品の良さの証というわけで」
内記は筵から一本の紐を取り上げ、組頭の目の前でぴんと張ってみせた。
「お役目ご苦労さまでございます。お近づきのしるしに、一本お持ちくださいまし」
組頭は、呆気に取られた顔で紐を受け取った。
しばらく紐と内記の顔を見比べていたが、やがて手を振った。
「……行け」
柵を抜けて、半里ほど進んでから、信繁は小さく息を吐いた。
「内記」
「はい」
「紐を編むのに、台など握らぬぞ」
「存じておりまする」
内記は、涼しい顔で答えた。
「されど、あの組頭も知りますまい」
九月三日の夕刻。
信繁の一行は、美濃の関ヶ原に入った。
西の山中村に、大谷の陣があった。
越前から兵を返してきたばかりの軍勢が、慌ただしく陣を構えている。
陣へ向かう道すがら、信繁は南の空を見上げた。
夕陽を背に、こんもりとした山が黒く沈んでいた。
松尾山。
いまはまだ、大坂方の兵がわずかに籠もるだけの古い砦だ。
だが十一日後、あの山の上には、違い鎌の旗が林のように立ち並ぶ。
金吾中納言、一万五千。
前回、自分はこの景色を見ていない。
上田の城で、すべてが終わったという報せを聞いただけだった。
いま、それが目の前にある。
信繁は、馬の腹を軽く蹴った。
名を告げると、すぐに奥へ通された。
陣幕の内は、薄暗かった。
床几の上に、男がひとり座していた。
頭から顔までを、白い絹で包んでいる。
わずかに覗いているのは、目だけだった。
その目も、焦点がどこか遠くに合っていた。
大谷刑部少輔吉継。
傍らには、家臣の湯浅五助が控えている。
「婿殿か」
刑部の声は、布越しにくぐもっていた。
「はい。源次郎にござります」
「遠路、よう来た。安房守殿の文は読んだ」
刑部は、ゆっくりと首を巡らせた。
目ではなく、耳でこちらを捉えようとしているのがわかった。
「金吾の家老のもとに、黒田の使いが出入りしておる。脇坂は藤堂と通じておる。朽木も、小川も、赤座も、腹の内はわからぬ」
「はい」
「よう調べたものよ」
刑部は、そこで言葉を切った。
「だがな、婿殿。真田の草の者が、そこまで掴めるものか」
陣幕の中が、静まった。
「わしも、草の者は使う。金吾の陣にも、脇坂の陣にも、人を入れておる。それでも、そこまでは掴めなんだ。それを、信濃の山奥におる安房守殿が、なぜ掴める」
信繁は、答えなかった。
「何を隠しておる」
父と同じ問いだった。
信繁は、息を吸った。
腹を割って話せ、と父は言った。
「義父上。これから申し上げることは、狂人の戯言と聞こえましょう」
信繁は、語った。
慶長二十年の五月七日から、犬伏の夜に戻ってきたこと。
九月十五日、この関ヶ原で、西軍が一日で敗れること。
小早川の寝返りと、それに続く四将の裏切り。
そして、目の前のこの人が、輿の上で腹を切ること。
刑部は、最後まで黙って聞いていた。
語り終えたとき、陣幕の外では、日がすっかり暮れていた。
「……それで、わしに何を信じよと」
刑部の声は、静かだった。
「婿殿の言葉に、嘘の響きはない。わしは目が見えぬ分、耳は確かじゃ。お主は、己の話をまことと思うておる」
「では」
「だが、それは狂うた者も同じことよ」
刑部は、ゆっくりと首を振った。
「雷に打たれて頭がおかしゅうなった者は、己の夢をまことと信じて疑わぬ。嘘をつく者と違うて、声に濁りがない。わしには、その二つを聞き分けることができぬ」
信繁は、拳を握った。
父には、証があった。
小山の評定、伏見の落城、沼田の城門。
一つずつ確かめることができた。
だが、関ヶ原まで、あと十二日しかない。
刑部に差し出せる証は、何もなかった。
いや。
一つだけ、あった。
「ならば」
信繁は、床几から降りて、地に膝をついた。
「この命で」
肩衣を外す。
衣擦れの音が、陣幕の中に響いた。
刑部の顔が、わずかに動いた。
信繁は、小袖の前をくつろげた。
懐紙を取り出し、腰の脇差を抜いた。
鞘走りの音が、鋭く鳴った。
「婿殿」
刑部の声に、初めて硬いものが混じった。
「……安房守殿の倅らしい芝居よな」
信繁は答えず、懐紙で刃の中ほどを巻いた。
切っ先を、左の脇腹に当てる。
冷たい。
十五年後に、何本もの槍が貫いた場所だった。
「殿」
湯浅五助が、腰を浮かせた。
「婿殿が、まことに……」
「芝居じゃ」
刑部は、動かなかった。
「真田の者が、そう容易く腹を切るものか。止めに入るのを待っておるのよ」
信繁は、目を閉じた。
止めに入るのを、待ってはいなかった。
前回、この人は輿の上で腹を切った。
病で崩れた顔を、最後まで布で包んだまま。
婿の自分は、それを遠い上田で聞いた。
この人を、もう一度あんなふうに死なせるくらいなら。
柄を握る手に、力を込めた。
切っ先が、皮に沈んだ。
ぷつり、と小さな感触があった。
熱いものが、脇腹を伝って流れ落ちた。
「殿ッ! 婿殿がまことに腹を——血が!」
五助が、悲鳴のような声を上げた。
刑部の体が、床几の上で跳ねた。
「まて!」
布越しの声が、裂けるように響いた。
「わかった!わかったゆえ、五助、止めよ!」
五助が飛びつき、信繁の手首を掴んだ。
脇差が、地に落ちた。
陣幕の中に、荒い息遣いだけが残った。
信繁は、脇腹を押さえた。
指の間から、血が滲んでいた。
深くはない。
皮一枚と、その下をわずかに。
その傷は、のちのちまで消えなかった。
九度山でも、大坂の城でも、着替えのたびに目に入るその細い跡を、信繁は『刑部の傷』と呼ぶことになる。
「……五助」
刑部が、低い声で言った。
「婿殿の傷を、手当てしてやれ」
「は、はい」
五助が、慌てて晒しを取りに走った。
刑部は、しばらく何も言わなかった。
やがて、布の奥から、長い溜息が漏れた。
「安房守殿の倅とは思えぬ」
「……」
「あの御仁なら、腹を切るふりで済ませるわ。いや、腹を切ると見せかけて、こちらの懐から何か一つ掠め取っていくであろうよ」
刑部は、首を振った。
「わしの娘は、とんでもない男に嫁いだものじゃ」
その声が、かすかに笑っていた。
晒しを巻き終えると、五助は下がっていった。
陣幕の内には、二人だけが残った。
「聞かせよ」
刑部が言った。
「九月十五日のことを。わしが、どう負けたのかを」
信繁は、すべてを話した。
前回の布陣。
松尾山の小早川。
その麓に並んだ脇坂、朽木、小川、赤座。
刑部が松尾山に備えて兵を置き、寝返った小早川を一度は押し返したこと。
その横腹を、四将が衝いたこと。
刑部は、ときおり短く問いを挟むだけだった。
自らの最期を聞いたときも、声は揺れなかった。
「そうか。輿の上で腹を切るか」
刑部は、布の上から自分の顔に触れた。
「悪くない死に様じゃ。この顔を、敵に晒さずに済む」
「義父上」
「だが、娘を泣かせるのは、ちと困るのう」
その一言だけが、わずかに柔らかかった。
「治部は」
最後に、刑部が訊いた。
信繁は、一瞬ためらった。
「……捕らえられ、六条河原で斬られます」
刑部は、黙った。
長い沈黙だった。
「勝てぬ戦なのじゃな」
「はい。毛利が動かぬ限り」
「それでも、わしは治部の側に立つ」
迷いのない声だった。
「わしが病で人に厭われたとき、治部だけが変わらなんだ。勝てぬからと、あれを一人にはできぬ」
信繁は、頷いた。
前回も、この人はそう言って西についた。
それを、変えるつもりはなかった。
変えられるとも、思っていなかった。
「勝たせることは、できませぬ」
信繁は言った。
「されど、負け方は変えられます」
「負け方、か」
刑部は、布の奥で笑った。
「面白いことを言う」
刑部は、手探りで床几の脇の文箱を引き寄せた。
中から、一枚の絵図を取り出す。
関ヶ原一帯の地形を、墨で描いたものだった。
「わしには、もうこれがよう見えぬ」
刑部は、絵図を膝の上に広げた。
「婿殿。教えてくれ。松尾山は、どこにある」
信繁は、刑部の手を取った。
痩せて、骨ばった手だった。
その指を、絵図の上に導く。
「ここが、松尾山にござる」
指が、墨の線をなぞる。
「その麓、ここに脇坂。その隣に朽木。ここに小川、赤座」
刑部の指が、一つ一つの場所を確かめるように、ゆっくりと動いた。
「そして、ここが義父上の陣」
「……近いな」
「はい。四将の陣とは、目と鼻の先にござる」
刑部は、指を絵図の上に置いたまま、しばらく動かなかった。
灯明の火が、白い布に揺れる影を落としていた。
「よかろう」
やがて、刑部は顔を上げた。
その目は、相変わらずどこも見ていなかった。
だが、その奥に、何かが灯っていた。
父の目に灯ったものと、同じ火だった。
「婿殿。この絵図、描き直すぞ」
九月十五日まで、あと十二日だった。




