第拾話:大坂城
慶長十九年、八月。
才蔵が京から駆け戻ってきたのは、蝉の声がいちばんうるさい昼下がりだった。
「方広寺の大仏の開眼供養が、取りやめになりました」
離れの縁側で、昌幸と刑部が碁を打っていた。
昌幸の手が、石を持ったまま止まった。
「理由は」
「新しく鋳た鐘の銘に、大御所様がご立腹とのこと。『国家安康』『君臣豊楽』の文字が、家康の名を二つに裂き、豊臣を君として楽しむ呪いである、と」
昌幸は、石を盤に置いた。
ぱちり、と乾いた音がした。
「鐘の銘、か」
それから、信繁の方を振り返って、にやりと笑った。
「三年前に、わしは何と言うた」
「……寺の普請でも、鐘の銘でも、難癖はいくらでもつけられる、と」
「言うた通りじゃろう」
刑部が、布の奥で低く笑った。
「国家安康。家の字と康の字の間に、安の字を挟んで首を断つ、か。よう思いつくものよ。考えた坊主は、さぞ褒美をもろうたであろうな」
「豊臣方は、誰を駿府へ遣わした」
昌幸が訊いた。
「片桐市正様が、申し開きに」
片桐且元。
賤ヶ岳の七本槍の一人で、いまは豊臣家の家老として、徳川との取り次ぎを一手に担っている男だった。
「市正一人か」
「いえ。後から、淀の方様の使いとして、大蔵卿局様も駿府へ向かわれたとか」
大蔵卿局は、淀殿の乳母だった。
大野修理治長の母でもある。
昌幸と刑部が、同時に顔を上げた。
二人の見えない糸が、空中で一本につながったように見えた。
「割るな」
刑部が言った。
「割る」
昌幸が答えた。
二人の言葉は、まるで符丁のようだった。
傍で聞く者には、何のことかわかるまい。
信繁には、わかった。
前回、それが起きたことを知っているからだ。
だが、二人はまだ何も知らない。
才蔵の短い報せを聞いただけだ。
「大御所は、市正には会わぬ」
昌幸が、扇で盤の端を叩いた。
「会わずに、何日も待たせる。その一方で、大蔵卿局には会うて、にこやかにもてなす。鐘のことなど気にしておらぬ、豊臣を悪いようにはせぬ、とな」
「市正は、手ぶらでは帰れぬ」
刑部が続けた。
「本多上野あたりから、何か条件を持たされて帰る。秀頼公を江戸へ参らせるか、淀殿を人質に出すか、大坂の城を明け渡すか。そのいずれかを呑め、とな」
本多上野介正純。
大御所の懐刀と呼ばれる、本多佐渡守の倅だった。
「大坂に戻った市正は、その条件を口にする」
「大蔵卿局は、大御所は機嫌がよかったと言う」
「二人の話が食い違う」
「城の中は、市正が徳川に寝返ったと騒ぎ出す」
「市正は、大坂を追われる」
「そして大御所は、豊臣が忠臣の市正を追い出したことを口実に、兵を挙げる」
二人の老人は、そこで口を閉じた。
信繁は、背筋が冷たくなるのを感じていた。
すべて、前回の通りだった。
片桐且元は九月の末に大坂を去り、十月一日、家康は諸大名に出陣を命じる。
この二人は、それを才蔵の二言三言から、碁の続きでも打つように読み切った。
「婿殿」
刑部が、信繁の方へ顔を向けた。
「顔が青いぞ」
「……お二人の言う通りにござります」
「であろうな」
昌幸は、何事もなかったように、次の石を盤に置いた。
「刑部殿、そこの石はもう死んでおる」
「わかっておる。わざと生かしておいたのじゃ」
昌幸は盤を睨んだまま、しばらく動かなかった。
どうやら、捨て石に食いついたのは自分の方だったらしい。
九月の半ば、出浦対馬守がやってきた。
いつもの包みの他に、もう一通、厚く封をした文を携えていた。
「伊豆守様より、左衛門佐様へ」
兄の文だった。
信繁は、縁側でそれを開いた。
『大坂より誘いの使いあらば、決して応ずるな。父上をくれぐれもお止め申せ。真田の家を、二度と東西に分けてはならぬ』
短い文だった。
だが、筆の跡が、ところどころ震えていた。
信繁は、文を膝の上に置いたまま、しばらく動けなかった。
兄は、知っているのだ。
戦が始まれば、豊臣は必ず真田を呼ぶ。
父は必ず応じる。
そして自分は、父と共に行く。
兄には、それがわかっている。
わかっていて、それでも止めようとしている。
前回の兄も、同じ文を書いたのだろうか。
前回の自分は、それに返事を書いただろうか。
思い出せなかった。
いや、思い出さないようにしてきたのだ。
九度山の十四年のあいだ、ずっと。
出浦は、信繁が文を読み終えるのを黙って待っていた。
やがて、静かに言った。
「ご返事は」
信繁は、筆を取った。
何度も、書きかけてはやめた。
最後に、一行だけ書けた。
『兄上、御身お大切に。源次郎』
出浦は、その文を受け取ると、懐にしまった。
立ち上がり、去り際に、一度だけ振り返った。
「伊豆守様には、九度山は今日も静かであったと、申し上げておきまする」
前にも、聞いたことのある言い方だった。
十月の初め。
一人の武士が、九度山の屋敷を訪ねてきた。
身なりは粗末な浪人だったが、背負ってきた荷は重かった。
「大坂の大野修理より、真田安房守様へ」
縁側に、黄金と銀の包みが並べられた。
信繁は、その宛名を聞いて、息を止めた。
前回、この使いが来たのは、信繁のもとだった。
父はもう、この世にいなかった。
宛名は、真田左衛門佐。
名の知れぬ流人の倅に、豊臣は藁にもすがる思いで声をかけたのだ。
今回は、違った。
真田安房守。
徳川を二度退けた男の名で、豊臣は真田を呼んでいる。
昌幸は、黄金の包みには目もくれなかった。
使いの武士をじっと見て、ただ一言、言った。
「行く」
使いが、平伏した。
昌幸は、信繁の方を振り返った。
その目は、前回の九度山では一度も見ることのなかった色をしていた。
「源次郎。三年前に言うたな」
「はい」
「わしの策は、わしが自分で大坂へ持っていく、と」
昌幸は、ゆっくりと立ち上がった。
六十八の体が、少しも揺らがなかった。
「持っていくぞ」
その夜、離れで三人が膝を突き合わせた。
「義父上は、九度山にお残りくだされ」
信繁は、刑部に言った。
「戦になれば、城の中も安全とは言えませぬ。お体のこともある」
刑部は、しばらく黙っていた。
「婿殿。わしに、ここで何をせよと言う」
「……」
「目の見えぬ病人が、山の中で戦の報せを待つ。それは、前回の安房守殿と同じではないか」
信繁は、言葉に詰まった。
「わしも行く」
刑部は、布の奥で静かに言った。
「戦の絵図は、目で描くものではない。ここで描くものじゃ」
刑部は、自分の胸を指で叩いた。
昌幸が、隣で頷いた。
「刑部殿が来ぬなら、わしの碁の相手がおらぬ。それは困る」
「安房守殿は、碁の相手がほしいだけか」
「それもある」
二人の老人が、顔を見合わせて笑った。
信繁は、それ以上何も言えなかった。
母屋に戻ると、妻が起きて待っていた。
「行かれるのですね」
「……ああ」
妻は、しばらく信繁の顔を見ていた。
それから、小さく頷いた。
「父も、行くのでしょう」
「止めたが、聞かなんだ」
妻は、少しだけ笑った。
「あの人は、昔からそうでした」
その目に、涙はなかった。
九度山は、紀州浅野家の見張りの中にあった。
村の庄屋も、出入りの商人も、流人の動きを浅野家に知らせる役目を負っている。
六十八の老人と、目の見えぬ病人と、女子どもを連れて、その目をくぐり抜けるのは容易ではない。
「酒じゃ」
昌幸が言った。
「島津の焼酎が、蔵に何壺ある」
「十二壺にござります」
「全部開けよ」
十月九日。
真田の屋敷で、大助の元服の祝いが開かれた。
十四になった大助は、この日から真田大助幸昌と名を改めた。
村の庄屋も、近在の百姓も、浅野家から遣わされた見張りの侍たちも、みな招かれた。
流人の屋敷の祝いに招かれるなど、滅多にあることではない。
しかも、出される酒は、誰も飲んだことのない南国の強い酒だった。
「真田様の倅殿の元服じゃ、めでたい、めでたい」
見張りの侍が、赤い顔で何度も盃を干した。
信繁は、笑顔でその盃に焼酎を注ぎ続けた。
薩摩の焼酎は、上方の酒とは強さが違う。
三杯も飲めば、たいていの者は足腰が立たなくなる。
子の刻を回る頃には、屋敷の座敷も庭も、酔い潰れた者たちで埋まっていた。
「才蔵」
信繁が呼ぶと、闇の中から、若者が音もなく現れた。
「道は」
「紀見峠の手前に、駕籠と馬を隠してございます。高野山の方へは、別の者たちが松明を掲げて登っております。追っ手が出ても、まずはそちらへ向かいましょう」
裏の離れでは、刑部が支度を終えていた。
離れの縁側には、白い頭巾をかぶせた案山子が座らされていた。
「明日の朝、見張りがまずあれを見る」
刑部が、布の奥で笑った。
「白い頭巾の聖は、今日も縁側で日に当たっておる。そう思わせておけば、半日は稼げる」
「義父上のお考えで」
「安房守殿は、案山子ではなく、自分の古い鎧を着せて座らせろと言うておった。それでは目立ちすぎると止めたのよ」
昌幸が、横で鼻を鳴らした。
「鎧の方が、遠目には本物らしゅう見えるわ」
「近目には、もっと本物らしゅうは見えぬ」
信繁は、思わず吹き出しそうになった。
月のない夜だった。
一行は、九度山の屋敷を後にした。
先頭に才蔵。
駕籠に刑部。
馬上に昌幸。
妻と子らを内記が守り、殿に信繁がついた。
峠の中ほどで、才蔵が手を挙げて一行を止めた。
木立の向こうに、松明の火が揺れていた。
一つ。
二つ。
いや、もっと多い。
信繁は、槍の柄を握った。
だが、松明の列は、こちらへは向かってこなかった。
谷を隔てた向こうの尾根を、ゆっくりと高野山の方へ登っていく。
「囮の者たちにござります」
才蔵が、低く言った。
「あの火を見た村の者は、真田は高野山へ逃げたと思いましょう」
昌幸が、馬上で小さく笑った。
「霧隠の名は、伊達ではないの」
紀見峠の上で、信繁は一度だけ振り返った。
九度山の屋敷は、闇の中に沈んで見えなかった。
十四年。
前回は、ここで父の墓を残していった。
今回は、父が隣で馬を進めている。
十月十日の夕刻、一行は大坂に着いた。
河内の野の向こうに、それは聳えていた。
大坂城。
五層の天守が、夕陽を浴びて黒々と光っている。
その下に、幾重にも連なる石垣と、満々と水をたたえた堀。
信繁は、馬の上で手綱を握りしめた。
前回、自分はこの城で死んだ。
いや、この城の外で死んだ。
城を出て、茶臼山から駆け下り、十間の先に手を伸ばして。
その城が、いま、目の前にある。
まだ、堀は埋められていない。
まだ、誰も死んでいない。
後藤又兵衛も、毛利勝永も、木村重成も、みな生きている。
「源次郎」
隣で、昌幸が言った。
「良い城じゃのう」
その声には、どこか懐かしむような響きがあった。
太閤殿下が、天下人の威信をかけて築いた城だった。
昌幸は、若い頃、この城が建つのをその目で見ている。
「されど、城は守る者次第じゃ。どれほどの堅城も、中の者が愚かなら落ちる」
昌幸は、馬の腹を軽く蹴った。
城下は、浪人であふれていた。
錆びた具足を着込んだ者。
槍一本だけを担いだ者。
主家を失って十四年、ようやく死に場所を見つけたという顔の者たち。
その人波の中に、ひときわ大きな背中があった。
六尺近い大男が、仲間の浪人たちと何か言い合い、腹を揺すって笑っている。
日に焼けた顔に、太い眉。
後藤又兵衛基次。
黒田家の重臣として一万六千石の城を預かりながら、主君と袂を分かった男だった。
信繁は、その背中から目を離せなかった。
前回、あの男は道明寺で死んだ。
霧の中で、来るはずの援軍を待ちながら。
その援軍が、自分だった。
大男が、ふとこちらを振り返った。
目が合う。
又兵衛は、見知らぬ馬上の男に、怪訝そうに眉を寄せた。
それから、軽く顎をしゃくって会釈すると、また仲間の方へ向き直った。
向こうにとっては、初めて見る顔だった。
信繁は、そっと頭を下げた。
今度は――間に合わせる。
大手門の前に、出迎えの一団が待っていた。
その先頭に立つ男が、慌てた様子で進み出た。
大野修理亮治長。
淀殿の乳母の子として淀殿の側近くに仕え、いまは豊臣の家中を取り仕切っている男だった。
前回、信繁の策をことごとく退けた男でもある。
「真田安房守様。よう、よう参られました」
治長は、昌幸の前で深々と頭を下げた。
それから、昌幸の後ろに続く駕籠に目をやった。
「して、そちらのお方は」
駕籠の簾が、内側から上がった。
白い頭巾の男が、ゆっくりと外へ出てきた。
五助の代わりに手を引く才蔵に支えられ、地に足をつける。
そして、頭巾の結び目に手をかけた。
「修理殿。久しいの」
布の奥から、くぐもった声がした。
治長の顔から、血の気が引いた。
その声を、知っていたのだ。
十四年前、関ヶ原で死んだはずの男の声を。
「お、大谷……刑部殿……!?」
大手門の前に、どよめきが広がった。
昌幸が、愉快そうに笑った。
「驚くのはまだ早いぞ、修理殿。腰を抜かすのは、これからじゃ」
前回、信繁はこの門を一人でくぐった。
今回は、父と、舅と共にくぐる。
夕陽が沈み、天守の最上層に、ぽつりと灯がともった。
真田丸の戦いまで、あと五十余日だった。




