第拾壱話:真田の赤備え
大坂城、千畳敷。
広間を埋め尽くすほどの武将が、左右に居並んでいた。
慶長十九年、十月の末。
豊臣の軍議が、開かれている。
上座に、一人の若者が座していた。
豊臣右大臣秀頼。
二十二になる。
噂に聞いた通りの大柄な体を、きらびやかな直垂に包んでいる。
色が白く、目元の涼しい若者だった。
その背後に、御簾が下りていた。
御簾の奥に、人の気配がある。
淀殿。
太閤殿下の側室にして、秀頼の母。
浅井長政の娘として生まれ、二度の落城をくぐり抜けてきた女だった。
信繁は、末席に近いところから、その御簾を見ていた。
前回も、この広間で、この御簾を見た。
そして、この御簾の奥から聞こえる声に、すべてを阻まれた。
「では、安房守殿」
大野治長が、昌幸を促した。
昌幸は、ゆっくりと立ち上がった。
六十八の老人が立つと、広間のざわめきが、すっと引いた。
徳川を二度退けた、真田安房守。
その名に、浪人衆の将たちは身を乗り出し、豊臣譜代の重臣たちは、わずかに顔を強張らせた。
「籠城は、下策にござる」
昌幸は、開口一番そう言った。
広間が、どよめいた。
「この城は堅い。されど、城にこもれば、徳川は天下の大名を集めて囲むだけでよい。外から助けの来ぬ籠城は、いずれ干上がる」
昌幸は、扇で畳を指した。
「打って出るべし。まず宇治と瀬田を押さえ、東から上る軍勢を川の手前で止める。そのあいだに京を取り、秀頼公の名をもって天下に檄を飛ばす。同時に、西国には薩摩の島津が兵を挙げるとの噂を流し、九州の大名どもを国許に縛りつける」
「島津が、まことに動くのか」
誰かが訊いた。
「動かずともよい。動くと思わせれば、それで足りる」
昌幸は、にやりと笑った。
浪人衆の席から、膝を叩く音がした。
後藤又兵衛だった。
「面白い。わしは安房守殿に乗る」
隣の席の、精悍な顔つきの武将も頷いた。
毛利豊前守勝永。
豊前小倉の大名の家に生まれながら、関ヶ原で西軍について所領を失った男だった。
「それがしも」
浪人たちの間に、熱が広がった。
だが、上座に近い席から、冷ややかな声が上がった。
「血気は結構」
声の主は、頭を丸めた初老の男だった。
織田有楽斎長益。
織田信長の弟で、淀殿にとっては叔父にあたる。
茶の湯に通じた数寄者として知られ、豊臣の家中で重んじられていた。
「されど、城を出て京へ攻め上り、もし敗れたら何とする。秀頼様の御身に、万一のことがあれば」
有楽は、ちらりと昌幸を見た。
「それに、安房守殿」
「何かな」
「安房守殿の御嫡男、伊豆守殿は、徳川の御家来。御孫二人も、徳川方として出陣なさるとか」
広間の空気が、冷えた。
「城を出た真田の軍勢が、そのまま徳川に降らぬと、誰が請け合えましょうな」
信繁は、拳を握った。
前回、この男は冬の陣を城の中で過ごし、夏を待たずに城を去った。
城の中の動きを、徳川に流していたとも言われる男だった。
その男が、いま、真田の忠義を疑っている。
昌幸は、何も言わなかった。
ただ、面白そうに有楽を見ていた。
その時、上座で、秀頼が身じろぎした。
「余は」
若い声だった。
広間の視線が、一斉に上座に集まった。
「余は、安房守の策を、もう少し聞いて——」
「秀頼殿」
御簾の奥から、声がした。
柔らかく、それでいて有無を言わせぬ声だった。
「この城を出てはなりませぬ。太閤殿下がお築きになったこの城こそ、あなたをお守りするもの」
秀頼の口が、閉じた。
大きな体が、わずかに縮んだように見えた。
前回と、同じだった。
あの時も、秀頼は何かを言いかけた。
そして、母の声に口をつぐんだ。
治長が、ほっとしたように咳払いをした。
「では、籠城にて」
昌幸は、あっさりと頷いた。
「承知した」
浪人たちが、目を剥いた。
又兵衛が、腰を浮かせかけた。
昌幸は、それを目で制した。
「ただし、修理殿。一つだけ、お願いがござる」
「何でござろう」
「城の南、平野口の外に、出丸を一つ築かせていただきたい。この城の弱みは南にござる。そこを、この老いぼれと倅に守らせてくだされ」
治長は、拍子抜けしたような顔をした。
城を出て京へ攻め上るなどという大それた策に比べれば、出丸一つなど何ほどのこともない。
「……よろしゅうござる。お任せいたしましょう」
有楽が何か言いかけたが、治長はもう頷いていた。
軍議が果てたあと、廊下で又兵衛が昌幸に詰め寄った。
「安房守殿。あれほどの策を、なぜあっさり引っ込められた」
昌幸は、扇で首筋を叩きながら歩いていた。
「通らぬ策じゃ。初めからわかっておった」
「何と」
「大きな策を蹴った者は、すぐ後に出された小さな策を蹴りにくい。一度断った負い目があるからの。修理殿も、出丸一つまで蹴っては、さすがに浪人衆の顔が立たぬと思うたであろう」
又兵衛は、しばらく口を開けたまま昌幸を見ていた。
それから、腹を抱えて笑い出した。
「狸より、たちが悪い」
「褒め言葉と受け取っておこう」
信繁は、その後ろを歩きながら、背中に冷たい汗をかいていた。
前回、信繁は同じ出撃策を説き、退けられ、悔しさのあまり出丸の話を持ち出すまでに三日かかった。
その三日のあいだに、城の南の普請場は別の者に回されかけていた。
父は、それをたった一刻で済ませた。
隣を歩く刑部が、布の奥で低く言った。
「安房守殿の出撃策は、本物の策じゃ。通れば勝てた。通らぬと読み切ったうえで、捨て駒に使うた」
「捨て駒、にござりますか」
「本物の策ほど、捨て駒として値打ちがある」
刑部は、廊下の先を見えぬ目で見ていた。
「それにしても、秀頼公」
「はい」
「何か言いかけておられたな」
「……はい」
「あの若者は、まだ死んではおらぬ。声が出かけた。それだけで、前回とは違うのう」
信繁は、刑部の言葉を胸の内でくり返した。
前回の自分は、それにさえ気づいていなかった。
有楽の言葉は、城中に広がった。
真田は、兄も甥も徳川方。
いざとなれば、徳川に寝返るのではないか。
真田の旗の下に集められた浪人たちの間にも、その噂は忍び込んだ。
浪人たちは、もともと寄せ集めだった。
主家を失った者。
関ヶ原で負けた家の者。
食い詰めて、ただ飯にありつくために城へ来た者。
錆びた具足。
色の褪せた旗指物。
誰一人として、同じ身なりの者はいなかった。
ある朝、昌幸は、真田の陣に集められた五千の浪人を、城の南の野に並ばせた。
昌幸の前に、大きな樽がいくつも運ばれてくる。
樽の中には、どろりとした朱が満ちていた。
「九度山に届いた、大坂の黄金で買うた朱じゃ」
昌幸が言った。
「豊臣の黄金で、真田の色を作った」
浪人たちが、ざわめいた。
「今日より、真田の者は、みな赤を着る。具足も、旗も、槍の柄も、すべてじゃ」
「赤、でござるか」
前列の浪人が、訝しげに声を上げた。
昌幸は、その男を見た。
「お主、武田の赤備えを知っておるか」
「名だけは」
「わしは、この目で見た」
昌幸の声が、低くなった。
「武田のお屋形様の下に、飯富兵部という猛将がおった。その弟の山県三郎兵衛が、兄の跡を継いだ。二人が率いた赤い軍勢は、戦場のどこにおっても一目でわかった。敵は、あの赤を見ただけで逃げ出した」
昌幸は、浪人たちを見回した。
「三方ヶ原を知っておるか」
浪人たちが、顔を見合わせた。
「四十年あまり前、遠江の三方ヶ原で、武田は徳川を散々に打ち破った。わしも、あの戦場におった」
昌幸は、にやりと笑った。
「山県の赤に追い立てられて、徳川の殿様は、命からがら浜松の城へ逃げ帰った。鞍の上で、糞を漏らしながらな」
浪人たちの間から、どっと笑いが起きた。
「城に着いて家来に指さされると、これは焼き味噌じゃと言い張ったそうな。そのうえ、その情けない顔を、わざわざ絵に描かせたと聞く。二度と忘れぬための戒めに、とな」
笑いが、さらに大きくなった。
昌幸の声が、ふっと低くなった。
「笑うてよい。だがな、その男が、いま天下を取っておる」
浪人たちの笑いが、止まった。
「負けた顔を絵に描かせて、四十年忘れなんだ男じゃ。あの赤の恐ろしさを、誰よりも知っておるのは、あの狸よ」
浪人たちは、黙って聞いていた。
「赤はな、戦場で一番目立つ色じゃ」
昌幸は、樽の朱に指を浸した。
「敵に、ここにおると教える色。狙うなら狙え、と言うておる色。逃げも隠れもせぬ者にしか、着られぬ色じゃ」
朱に染まった指を、昌幸は高く掲げた。
「武田が滅びたあと、その赤は、徳川に拾われた。いまは井伊の赤備えと呼ばれておる。武田の赤を、徳川が着ておるのよ」
昌幸の目が、鋭く光った。
「わしは、武田の家臣であった男よ。武田の赤を――徳川に着せたままにしておけるかァッ!」
浪人たちの間に、低いどよめきが走った。
昌幸は、城の方を振り返った。
「城の中には、真田は徳川に寝返ると言う者がおる」
広い野に、昌幸の声が響いた。
「ならば、問う。寝返る者が、敵にも味方にも丸見えの色を着るか。裏切り者は、闇に紛れる色を着るものよ。赤を着た者は、もう逃げられぬ。隠れられぬ。寝返ることも、できぬ」
昌幸は、浪人たちを見渡した。
「お主らが、もとは誰の家来であったかは問わぬ。どこで負けたかも問わぬ。今日、この赤を着た者は、みな真田の者じゃ」
一瞬の静寂があった。
それから、前列の浪人が、黙って自分の錆びた籠手を外した。
樽の前に進み、それを朱の中に浸した。
引き上げた籠手は、血のように赤く光っていた。
一人、また一人と、浪人たちが樽の前に並び始めた。
信繁は、その列を見ていた。
前回も、自分は兵を赤く染めた。
夏の陣を前にして、死に場所を求める者たちの印として。
だが、なぜ赤なのかを、兵たちにこれほど語ったことはなかった。
語れるほどの言葉を、持っていなかった。
父は、持っていた。
その列の後ろに、一人の大男がいつの間にか並んでいた。
又兵衛だった。
「後藤殿」
信繁が声をかけると、又兵衛はにやりと笑った。
「わしは真田の者ではないが、籠手の一つくらいは染めてもよかろう。あの狸爺の話を聞いて、黙っておれる武士はおらん」
列の端で、もう一人、小さな影が籠手を握りしめていた。
大助だった。
十四の少年は、父の視線に気づくと、まっすぐに信繁を見返した。
「父上。それがしも、赤を着とうござります」
信繁は、すぐには答えられなかった。
前回、この子は赤い具足を着て、十五で城と共に死んだ。
赤は、死に場所を求める者の色だった。
少なくとも、前回の自分にとっては。
信繁は、大助の前に膝をついた。
その籠手を受け取り、自分の手で、朱の中に浸した。
「大助。よう聞け」
赤く染まった籠手を、息子の手に戻した。
「赤は、死ぬための色ではない。逃げも隠れもせず、戦い抜いて、生きて帰るための色じゃ」
大助は、きょとんとした顔で父を見ていた。
それから、赤い籠手を両手で抱えて、大きく頷いた。
その夜、真田の陣屋の一室で、昌幸と刑部が絵図を囲んでいた。
城の南の、平野口一帯を描いた絵図だった。
「ここじゃ、刑部殿」
昌幸は、刑部の手を取った。
痩せた指を、絵図の上に導いていく。
信繁は、その光景に見覚えがあった。
十四年前、関ヶ原の山中で、自分も同じように刑部の指を絵図に導いた。
松尾山はここ、四将はここ、と。
いまは、父がそれをしている。
「城の南の、この台地。ここに出丸を築く」
「形は」
「半月じゃ。城を背にして、南へ弓なりに張り出す」
刑部の指が、絵図の上で弧を描いた。
「空堀は」
「三重。柵も三重。土塁には鉄砲狭間を、隙間なく切る」
刑部は、しばらく指を止めて考えていた。
「安房守殿。空堀の底に、もう一段、浅い溝を掘られよ」
「ほう」
「敵は空堀に飛び込んでくる。底が平らなら、そこで態勢を立て直す。だが底に溝があれば、足を取られて転ぶ。転んだところを、上から撃つ」
昌幸は、膝を打った。
「さすがは刑部殿。太閤殿下の奉行を務めただけのことはある」
「見えぬからこそ、足元が気になるのよ」
二人の老人は、顔を寄せ合って笑った。
信繁は、少し離れたところで、それを見ていた。
前回、この出丸を一人で考えた。
父の兵書を思い出しながら、何日もかけて。
今回は、二人の知恵者が、たった一晩で、前回よりも深い絵図を描いている。
刑部が先に休んだあと、昌幸は一人で縁側に出た。
信繁も、その隣に腰を下ろした。
庭先に、朱に染め上がった具足が一つ、干してあった。
月の光を受けて、黒ずんだ赤に光っている。
昌幸は、長いことそれを見ていた。
「源次郎」
「はい」
「あの赤をな、お屋形様にもう一度、見せてやりたかったのよ」
信繁は、父の横顔を見た。
武田四郎勝頼。
武田の最後の当主。
天目山で果てる前に、岩櫃の城へ来てくれなかった主君。
「岩櫃に来ておられたら、わしはあの赤い軍勢を率いて、お屋形様をお守りしたであろう。武田は、まだ終わらなんだかもしれぬ」
昌幸は、ふっと笑った。
「三十年も前の話じゃ。年寄りの繰り言よ」
その声は、少しだけ湿っていた。
信繁は、何も言わずに、父と並んで赤い具足を見ていた。
十一月の初め。
城の南の台地に、半月形の出丸が姿を現し始めた。
その上に、六文銭の赤い旗が、一本、また一本と立ち並んでいった。
天守の最上層の窓から、大きな影が一つ、じっとそれを見下ろしていた。




