第拾弐話:真田丸
慶長十九年、十二月三日の夜。
城の南に張り出した出丸の中で、灯明が一つ、揺れていた。
出丸は、いつしか『真田丸』と呼ばれるようになっていた。
誰が言い出したのかは、わからない。
赤い旗が立ち並ぶのを見た城の者たちが、自然とそう呼び始めたのだった。
その真田丸の陣屋で、三人が絵図を囲んでいた。
昌幸。
刑部。
信繁。
「前回、明日の朝に何が起きた」
昌幸が訊いた。
信繁は、絵図の一点を指した。
真田丸の南に、小さな丘がある。
篠山と呼ばれる、こんもりとした小山だった。
「前田勢は、この篠山に真田の鉄砲が潜んでいると見て、今夜のうちに攻め寄せます。されど、篠山はもぬけの殻。夜明けにそれと知った前田の兵を、こちらが真田丸の上から罵ります。前田勢は頭に血を上らせ、空堀へなだれ込んでまいる」
前田勢とは、加賀の前田利常の軍勢だった。
百万石の大大名で、真田丸の正面に陣を構えている。
「それを、鉄砲で撃ち崩した」
「はい。そこへ、もう一つのことが起きました」
信繁は、城の方へ指を滑らせた。
「城の中で、火薬が暴発したのです。石川殿の陣で、誤って火が入った。その音を、徳川方は城内の寝返りの合図と取り違えました」
「寝返りの合図?」
刑部が、布の奥で問うた。
「南条中務殿が、藤堂と通じておりました。城の中から火を放ち、それを合図に徳川を引き入れる手はずだったのです」
南条元忠。
伯耆の大名の家に生まれ、関ヶ原で所領を失って城に入った男だった。
「前回、南条殿の内通は事前に露見し、南条殿は腹を切らされました。されど徳川方は、それを知らなかった。火薬の音を合図と思い込んだ井伊と越前の軍勢が、我先にと真田丸へ押し寄せ、屍の山を築いたのです」
井伊の軍勢を率いるのは、井伊直孝。
関ヶ原で、島津の捨て奸に撃たれた井伊直政の子だった。
越前の軍勢は、松平忠直。
家康の孫にあたる。
昌幸は、しばらく黙って絵図を見ていた。
それから、ぽつりと言った。
「前回は、偶然だったのじゃな」
「はい」
「ならば今回は、その火を、こちらで点ける」
信繁は、父の顔を見た。
昌幸は、扇の先で城の中の一点を叩いた。
「偶然に頼る戦は、二度目には起きぬやもしれん。起きるとわかっておることは、起きるようにしておく。それが戦というものじゃ」
刑部が、静かに口を開いた。
「南条は、もう斬ったか」
「まだにござります。前回は、明日の朝までに露見しておりました」
「ならば、斬るな」
刑部は、見えぬ目を信繁に向けた。
「泳がせよ。徳川は、南条の合図を待っておる。待っておる者には、合図をくれてやればよい。ただし、合図を出すのは南条ではない。こちらじゃ」
信繁は、息を呑んだ。
南条の内通を、逆手に取る。
徳川が待ち望む合図を、真田の手で、真田の時に鳴らす。
「南条には、気づかれぬよう見張りをつけよ。手を下すのは戦のあとでよい」
刑部は、布の奥でかすかに笑った。
「裏切る者ほど、使い道のあるものはない」
昌幸が、ふん、と鼻を鳴らした。
「刑部殿の方が、よほどたちが悪いわ」
「安房守殿に言われとうはない」
二人の老人が、灯明の下で顔を見合わせた。
十二月四日。
夜が明ける前、篠山の方角で、鬨の声が上がった。
前田勢が、攻め寄せたのだ。
信繁は、真田丸の土塁の上から、闇の中の篠山を見ていた。
前回も、ここに立っていた。
あの時、隣に父はいなかった。
九度山の墓の下で眠る父の兵書を、何度も読み返して、一人でこの出丸を築いた。
一人で、この朝を迎えた。
いま、背後には父がいる。
陣屋には、刑部がいる。
松明の火が、小山の斜面をわらわらと駆け上がっていく。
やがて頂に達したその火が、戸惑うように揺れ、止まった。
誰もいない。
篠山は、前日のうちに空にしてあった。
東の空が、白み始めた。
霧の向こうに、篠山の上で途方に暮れる前田の兵の姿が、ぼんやりと浮かび上がってきた。
「今じゃ」
昌幸の声が、背後でした。
信繁は、土塁の上の兵たちに手を挙げた。
赤い具足の浪人たちが、一斉に身を乗り出した。
「加賀の衆、兎狩りはいかがでござったか!」
「獲物は一匹もおらなんだか! 百万石が泣いておるぞ!」
「悔しくば、ここまで来てみよ! 真田はここにおるぞォッ!」
罵声が、霧を裂いて篠山に届いた。
篠山の前田勢が、どよめいた。
一人が、刀を振り上げて坂を駆け下りた。
二人、三人と、それに続いた。
制止する将の声は、怒号にかき消された。
前田勢が、雪崩を打って真田丸へ押し寄せてきた。
「まだ撃つな」
信繁は、低く言った。
前田の兵が、空堀の縁に達した。
柵を引き倒し、空堀の中へ飛び込んでいく。
その足が、もつれた。
空堀の底に掘られた、浅い溝。
刑部が絵図の上で足した、あの溝だった。
先頭の兵が、溝に足を取られて前のめりに倒れる。
後ろの兵が、それにつまずく。
空堀の底が、一瞬で人の塊になった。
「放てェッ!」
土塁の鉄砲狭間から、火が噴いた。
轟音。
硝煙。
空堀の底の塊が、ばらばらと崩れていく。
二の弾。
三の弾。
前田の兵は、空堀を這い上がることもできず、ただ撃たれ続けた。
信繁は、硝煙の向こうを睨んでいた。
隣で、大助が火縄銃を構えていた。
十四の少年の手が、かすかに震えていた。
だが、筒先はぶれていなかった。
「大助」
「はい」
「撃ったら、すぐに身を伏せよ。顔を出すのは、撃つ時だけでよい」
「はい」
大助が、引き金を引いた。
反動で肩が跳ねる。
すぐに土塁の陰に身を沈めた。
その赤い籠手が、目の端に映った。
生きて帰るための赤。
信繁は、もう一度、前を見た。
空堀の前田勢が崩れかけた頃、東の方角に、井伊の赤い旗と、越前の旗が動いているのが見えた。
まだ、遠巻きに様子を窺っている。
「父上」
信繁が振り返ると、昌幸は頷いた。
「頃合いじゃな」
昌幸が、扇を高く掲げた。
城の中で、それを見ていた才蔵が、走り出した。
一拍の間があった。
それから、城の中で、腹の底を揺さぶるような音が轟いた。
火薬が、爆ぜたのだ。
城の一角から、黒い煙が空に噴き上がった。
東の方角で、どよめきが起きた。
井伊と越前の陣が、目に見えて動き出した。
合図だ。
城の中で、内通者が火を放った。
城門が開く。
真っ先に乗り込んだ者が、一番手柄を取る。
そう、思い込んだのだ。
赤い旗の井伊勢と、越前の大軍が、我先にと真田丸へ殺到してきた。
「来おったわ」
昌幸が、喉の奥で笑った。
「まことに来おった」
先頭を駆けてくる井伊勢の、赤い具足が朝日に光っていた。
昌幸の笑いが、すっと消えた。
「……あれが、徳川に拾われた武田の赤か」
低い声だった。
真田丸の土塁にも、赤い具足が並んでいる。
空堀を挟んで、赤と赤が向き合っていた。
「よう見ておけ、源次郎。どちらが本物の赤か、今日、ここで決まる」
井伊と越前の兵が、空堀に雪崩れ込む。
倒れた前田の兵の上を踏み越え、溝に足を取られ、また倒れる。
「放てェッ!」
真田丸の三方の鉄砲狭間が、一斉に火を噴いた。
撃っても、撃っても、敵は来た。
功名に目のくらんだ兵が、後ろから後ろから押し寄せ、前の兵を空堀に突き落としていく。
空堀の底が、人で埋まっていった。
空堀の縁まで這い上がってきた井伊の赤備えの武者が、一人、土塁に手をかけた。
その顔の前に、真田の赤い槍が突き出された。
武者は、空堀の底へ転げ落ちていった。
赤が、赤を突き落とした。
その日、真田丸の前に積み上がった徳川方の屍は、数千とも言われた。
昼を過ぎて、徳川勢がようやく兵を引いた。
真田丸の土塁の上で、信繁は兜を脱いだ。
汗と硝煙で、顔がひどく汚れていた。
隣で、大助が火縄銃を抱えたまま座り込んでいた。
戦の間は震えなかった手が、いまになって、がたがたと震えていた。
信繁は、その手を自分の手で包んだ。
「生きて帰ったな」
大助は、こくりと頷いた。
それから、赤い籠手を見下ろして、少しだけ笑った。
ふと、城の方を見上げた。
天守の最上層の窓に、人影があった。
大きな影だった。
朝からずっと、そこに立ち尽くしていたかのように、動かなかった。
夕刻、天守からの使番が、真田丸にやってきた。
「秀頼様が、左衛門佐殿をお召しにござる」
信繁は、昌幸の顔を見た。
召されるなら、父のはずだった。
真田丸の絵図を描いたのも、扇一本で井伊と越前を引き寄せたのも、父だ。
昌幸は、黙って顎をしゃくった。
行け、と。
天守の一室に通されると、秀頼が一人で窓辺に立っていた。
近習も、侍女もいなかった。
大柄な背中が、夕陽に赤く染まっていた。
信繁は、敷居の外で膝をついた。
「真田左衛門佐、参りました」
秀頼は、振り返らなかった。
窓の外の、真田丸を見下ろしたまま、口を開いた。
「朝から、見ておった」
若い声だった。
軍議の時より、少しだけ低かった。
「安房守ではなく、そちを呼んだ。扇を振るう者より、槍を振るう者に訊きたかった」
秀頼は、窓の外に目を向けたまま続けた。
「赤い者たちは、なぜ退かぬ」
信繁は、顔を上げた。
「あれほどの敵が押し寄せて、なぜ一人も退かなんだ。余には、わからぬ」
信繁は、しばらく考えてから答えた。
「退く場所がないからでは、ござりませぬ」
秀頼の背が、わずかに動いた。
「あの者たちは、己で赤を着ると決めました。逃げも隠れもせぬと、己で決めた者は、退きませぬ」
秀頼が、ゆっくりと振り返った。
色の白い、整った顔だった。
その目が、まっすぐに信繁を見ていた。
「己で、決めた」
「はい」
秀頼は、何かを言いかけた。
唇が、開きかけた。
その時、廊下の向こうから、衣擦れの音が近づいてきた。
「秀頼様。お方様がお呼びにござります」
侍女の声だった。
秀頼の口が、閉じた。
大きな体が、ほんの少しだけ縮んだように見えた。
「……下がってよい、左衛門佐」
声だけは、落ち着いていた。
だが、窓の桟を掴んだ秀頼の手は、白くなるほど強く握りしめられていた。
信繁は、深く頭を下げた。
廊下を去っていく秀頼の背中を、信繁は見送った。
前回、自分はこの方と、こうして二人きりで言葉を交わしたことがあっただろうか。
なかった。
あの方の言いかけた言葉を、聞いたこともなかった。
天守を下りる階の途中で、大野治長とすれ違った。
治長は、信繁の姿を認めると、足を止めた。
「左衛門佐殿。今日の働き、見事でござった」
「恐れ入りまする」
治長は、何か言いたげに、天守の上を見上げた。
「秀頼様が、あれほど長く窓辺にお立ちになったのは、初めてのことでござる」
ぽつりと、独り言のような声だった。
「朝から、一度もお座りにならなんだ。お食事も召し上がらず、ずっと、真田丸を」
治長は、そこで口をつぐんだ。
言い過ぎたと思ったのか、軽く会釈をして、階を上っていった。
信繁は、その背中を見送った。
淀殿の側近くに仕え、豊臣の家中を取り仕切る男。
前回、信繁の策をことごとく退けた男。
その男の声に、どこか戸惑いのような響きがあった。
その夜のうちに、南条中務元忠が捕らえられた。
徳川へ宛てた密書が、才蔵の手で南条の陣から見つけ出されたのだった。
南条は、自分が合図を出すはずだった火が、なぜ朝のうちに上がったのかを、最後まで知らなかった。
夜が更けて、真田丸の陣屋に、客が一人訪ねてきた。
毛利勝永だった。
「安房守殿の戦、見せていただいた」
勝永は、昌幸の前に端座して、深く頭を下げる。
「あの火は、城の暴発ではござるまい」
昌幸の眉が、わずかに上がった。
「なぜ、そう思う」
「火が上がる直前に、安房守殿が扇を掲げられた。それがしの陣からも、よう見えましたゆえ」
昌幸は、しばらく勝永の顔を眺めていた。
それから、面白そうに笑った。
「よう見ておる」
「戦は、目でするものと心得ておりますれば」
「お主、退き方を知っておる顔をしておるな」
勝永が、虚を衝かれたように昌幸を見た。
「攻めるのが上手い者は、いくらでもおる。だが、退くのが上手い者は、ほとんどおらん。攻めるときに、もう退く道を見ておる目じゃ」
勝永は、何も言わなかった。
ただ、もう一度、深く頭を下げた。
信繁は、少し離れたところで、二人を見ていた。
前回、自分と勝永は、夏の陣の最後の日まで、こうして膝を突き合わせることはなかった。
いま、父がその男の目を見ている。
真田丸の上に、冬の星が冴え冴えと光っていた。




